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深谷盛朝の探索の結果を将軍・家治に伝えるルートとして、石寺伊織は伯母にして田安館の老女である廣瀬を使うことを思いつく
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「さればその場には…、寶蓮院殿が高嶋朔庵へと毒の鑑定を命ぜしその場には、石寺伊織と、それに老女の廣瀬がおったのだ…」
石寺伊織が陪席しているのは当然としても、何ゆえに老女までが陪席を許されたのか、それが意知には分からず、意知は思わず、「老女までが?」と首を傾げさせながら聞き返した。
「然様…、されば毒の正体をも含めて探索の結果を…、治済は果たして如何なる手品を用いて倫子や萬壽、そして家基が命を奪うたのか、そのことを余に伝えるためであったのだ…」
つまりはこういうことである。
深谷式部盛朝はこうして松平正淳や水上興正の死を受けて、倫子や萬壽姫、そして家基の相次ぐ死の真相、いや、治済による連続殺人の探索に乗り出したわけだが、しかし、このことは、この時までは将軍・家治もまだ知らないことであった。この時はまだ、深谷式部盛朝が家治に報告していなかったからだ。
深谷式部盛朝としてはある程度、探索が煮詰まったところで家治にその探索の結果を、つまりは治済が罪の証を報告するつもりでおり、それまでは隠密の探索、所謂、
「密行捜査」
それを行うつもりでいたのだ。
しかし、ここで一つ問題が、それも大きな問題があった。
それは仮に探索が煮詰まり、深谷式部盛朝がいざ、将軍・家治にその結果を報告しようとする段になっても、しかしそのための「ルート」が…、将軍・家治へと報告する直接の「ルート」がなかったのだ。
これで深谷式部盛朝が西之丸の目付ではなく、本丸の目付であったならばそのようなことで悩む必要はなかったであろう。
それと言うのも目付、それも将軍の居城たる本丸目付には中奥にいる将軍に対して直接に言上する権限が与えられていた。
つまり目付は表向の役人でありながら、必要があれば…、将軍に対して報告すべき事態が出来したならば、中奥を取り仕切る側用人や御側御用取次の許しも得ずして中奥へと立ち入ることが出来たのだ。
尤もその際には表向と中奥との間の時斗之間にて、表向より中奥へと無闇に立ち入る者がいないかどうか、それに目を光らせている時斗之間の坊主か、或いは側用人や御側御用取次に附属する時斗之間肝煎坊主に将軍の許への案内を請う必要はあったが、それでもそれだけで良く、その用向きについて彼ら坊主から一々、穿鑿を受けることはなかった。。
だが、これで外の諸役人ともなるとそうはゆかない。将軍に目通りを願うに際しても一々、その用向きを彼ら坊主に伝えねばならず、それはそのまま側用人や御側御用取次に筒抜けになることを意味していた。
そして深谷式部盛朝もこの、「外の諸役人」に属する。
深谷式部盛朝も確かに目付ではあるものの、しかしそれはあくまで、
「西之丸にて家基に仕える目付…」
それに過ぎず、また家基亡き後も引き続き、外の目付と共に、主を失った西之丸にて目付を勤めるようにと、そのように辞令が下りていたので、これでは深谷式部盛朝は本丸目付とは言えず、それゆえ外の諸役人と同様、将軍・家治に報告するに際しても、その用向きが、即ち、探索の結果が側用人や御側御用取次に筒抜けになり、しかし、深谷式部盛朝としてはそれだけは何としても避けたいところであった。
そこで深谷式部盛朝のその悩みを石寺伊織に相談し、すると石寺伊織は田安館の老女である廣瀬を使うことを思い付いたそうな。
即ち、探索の結果を廣瀬に託し、廣瀬には「公儀奥女遣」として江戸城本丸大奥へと上がって貰い、そこで種姫に附属する年寄の向坂に対してそれを…、石寺伊織より託された、深谷式部盛朝の探索の結果を伝え、そして更に向坂より将軍・家治へと伝えて貰うことを石寺伊織は思い付いたそうな。
将軍は毎朝、裃に二本差しの姿にて大奥へと出向いては、歴代将軍の位牌が安置されてある御仏間へと向かい、そこで位牌を拝む。これが朝の五つ半(午前9時頃)であり、将軍はおよそ四半刻(約30分)程、位牌を拝んだ後、今度は寝室である御小座敷之間へと足を運んでは、その御小座敷之間の上段にて待つ御台所の隣に座り、やはり下段にて将軍を待ち受ける年寄や中年寄を始めとする御目見得以上の奥女中の挨拶を受ける。これが所謂、「朝の総触れ」であり、しかし、御台所であった倫子亡き後は御小座敷之間の上段にては将軍・家治が一人にて奥女中らの挨拶を受けていた。
そして昼八つ(午後2時頃)になると公務を終えた将軍が再び、大奥へと出向くことがあり、これは将軍が休息のために御台所と雑談するためであり、それゆえその時には裃ではなく着流しであり、また公務が繁忙の折には出向かない時もあった。
やはり家治は御台所である倫子を喪ってからは大奥に足が遠のいたものの、しかし、それでも養女である種姫が暮らしていたので、昼八つ(午後2時頃)には御台所であった倫子に代わって種姫と雑談するために大奥へと足を運んでいた。
その際、家治は倫子とそうしていたように、御小座敷之間にて種姫と会い、雑談を交わしていたわけだが、その折には種姫に附属する年寄の向坂も陪席した。
この向坂はかつて田安館の老女を務めており、種姫が家基の婚約者含みにて、将軍・家治の養女として江戸城本丸の大奥へと召されたので、向坂もまた、種姫の年寄としてそれに随い、それに伴い、田安館の老女は廣瀬へと交代したのだ。
それゆえ向坂と廣瀬は先輩、後輩の間柄にて、その向坂は廣瀬が石寺伊織よりの、つまりは深谷式部盛朝よりの伝言を託す相手としては正に打ってつけと言えよう。
即ち、向坂には御小座敷之間における家治と種姫との雑談の機会を利用して、深谷式部盛朝による探索の結果を伝えて貰うことを石寺伊織は思いついたそうな。
「しかも、廣瀬は石寺伊織が伯母に当たるそうな…」
石寺伊織が母は、即ち、吉田桃源院が妻女は大番士であった佐脇十左衛門龍章の四女であるのだが、同じく佐脇十左衛門の三女こそが廣瀬であったのだ。
「これで外の…、石寺伊織が縁者でなき老女なれば、最悪、裏切る恐れもあり得たが、廣瀬は石寺伊織が縁者、それも伯母という近しい縁者なれば安心して秘事を託せると申すものにて…」
「されば廣瀬は石寺伊織よりのその、密命とも申せましょうその依頼を引き受けましたので…」
意知が確かめるようにそう尋ねると、家治は「無論のこと」と答え、
「さればこそ、寶蓮院殿が高嶋朔庵に毒の鑑定を命じしその場に廣瀬も陪席したのだ」
そう付け加えた。確かにその通りであった。
石寺伊織が陪席しているのは当然としても、何ゆえに老女までが陪席を許されたのか、それが意知には分からず、意知は思わず、「老女までが?」と首を傾げさせながら聞き返した。
「然様…、されば毒の正体をも含めて探索の結果を…、治済は果たして如何なる手品を用いて倫子や萬壽、そして家基が命を奪うたのか、そのことを余に伝えるためであったのだ…」
つまりはこういうことである。
深谷式部盛朝はこうして松平正淳や水上興正の死を受けて、倫子や萬壽姫、そして家基の相次ぐ死の真相、いや、治済による連続殺人の探索に乗り出したわけだが、しかし、このことは、この時までは将軍・家治もまだ知らないことであった。この時はまだ、深谷式部盛朝が家治に報告していなかったからだ。
深谷式部盛朝としてはある程度、探索が煮詰まったところで家治にその探索の結果を、つまりは治済が罪の証を報告するつもりでおり、それまでは隠密の探索、所謂、
「密行捜査」
それを行うつもりでいたのだ。
しかし、ここで一つ問題が、それも大きな問題があった。
それは仮に探索が煮詰まり、深谷式部盛朝がいざ、将軍・家治にその結果を報告しようとする段になっても、しかしそのための「ルート」が…、将軍・家治へと報告する直接の「ルート」がなかったのだ。
これで深谷式部盛朝が西之丸の目付ではなく、本丸の目付であったならばそのようなことで悩む必要はなかったであろう。
それと言うのも目付、それも将軍の居城たる本丸目付には中奥にいる将軍に対して直接に言上する権限が与えられていた。
つまり目付は表向の役人でありながら、必要があれば…、将軍に対して報告すべき事態が出来したならば、中奥を取り仕切る側用人や御側御用取次の許しも得ずして中奥へと立ち入ることが出来たのだ。
尤もその際には表向と中奥との間の時斗之間にて、表向より中奥へと無闇に立ち入る者がいないかどうか、それに目を光らせている時斗之間の坊主か、或いは側用人や御側御用取次に附属する時斗之間肝煎坊主に将軍の許への案内を請う必要はあったが、それでもそれだけで良く、その用向きについて彼ら坊主から一々、穿鑿を受けることはなかった。。
だが、これで外の諸役人ともなるとそうはゆかない。将軍に目通りを願うに際しても一々、その用向きを彼ら坊主に伝えねばならず、それはそのまま側用人や御側御用取次に筒抜けになることを意味していた。
そして深谷式部盛朝もこの、「外の諸役人」に属する。
深谷式部盛朝も確かに目付ではあるものの、しかしそれはあくまで、
「西之丸にて家基に仕える目付…」
それに過ぎず、また家基亡き後も引き続き、外の目付と共に、主を失った西之丸にて目付を勤めるようにと、そのように辞令が下りていたので、これでは深谷式部盛朝は本丸目付とは言えず、それゆえ外の諸役人と同様、将軍・家治に報告するに際しても、その用向きが、即ち、探索の結果が側用人や御側御用取次に筒抜けになり、しかし、深谷式部盛朝としてはそれだけは何としても避けたいところであった。
そこで深谷式部盛朝のその悩みを石寺伊織に相談し、すると石寺伊織は田安館の老女である廣瀬を使うことを思い付いたそうな。
即ち、探索の結果を廣瀬に託し、廣瀬には「公儀奥女遣」として江戸城本丸大奥へと上がって貰い、そこで種姫に附属する年寄の向坂に対してそれを…、石寺伊織より託された、深谷式部盛朝の探索の結果を伝え、そして更に向坂より将軍・家治へと伝えて貰うことを石寺伊織は思い付いたそうな。
将軍は毎朝、裃に二本差しの姿にて大奥へと出向いては、歴代将軍の位牌が安置されてある御仏間へと向かい、そこで位牌を拝む。これが朝の五つ半(午前9時頃)であり、将軍はおよそ四半刻(約30分)程、位牌を拝んだ後、今度は寝室である御小座敷之間へと足を運んでは、その御小座敷之間の上段にて待つ御台所の隣に座り、やはり下段にて将軍を待ち受ける年寄や中年寄を始めとする御目見得以上の奥女中の挨拶を受ける。これが所謂、「朝の総触れ」であり、しかし、御台所であった倫子亡き後は御小座敷之間の上段にては将軍・家治が一人にて奥女中らの挨拶を受けていた。
そして昼八つ(午後2時頃)になると公務を終えた将軍が再び、大奥へと出向くことがあり、これは将軍が休息のために御台所と雑談するためであり、それゆえその時には裃ではなく着流しであり、また公務が繁忙の折には出向かない時もあった。
やはり家治は御台所である倫子を喪ってからは大奥に足が遠のいたものの、しかし、それでも養女である種姫が暮らしていたので、昼八つ(午後2時頃)には御台所であった倫子に代わって種姫と雑談するために大奥へと足を運んでいた。
その際、家治は倫子とそうしていたように、御小座敷之間にて種姫と会い、雑談を交わしていたわけだが、その折には種姫に附属する年寄の向坂も陪席した。
この向坂はかつて田安館の老女を務めており、種姫が家基の婚約者含みにて、将軍・家治の養女として江戸城本丸の大奥へと召されたので、向坂もまた、種姫の年寄としてそれに随い、それに伴い、田安館の老女は廣瀬へと交代したのだ。
それゆえ向坂と廣瀬は先輩、後輩の間柄にて、その向坂は廣瀬が石寺伊織よりの、つまりは深谷式部盛朝よりの伝言を託す相手としては正に打ってつけと言えよう。
即ち、向坂には御小座敷之間における家治と種姫との雑談の機会を利用して、深谷式部盛朝による探索の結果を伝えて貰うことを石寺伊織は思いついたそうな。
「しかも、廣瀬は石寺伊織が伯母に当たるそうな…」
石寺伊織が母は、即ち、吉田桃源院が妻女は大番士であった佐脇十左衛門龍章の四女であるのだが、同じく佐脇十左衛門の三女こそが廣瀬であったのだ。
「これで外の…、石寺伊織が縁者でなき老女なれば、最悪、裏切る恐れもあり得たが、廣瀬は石寺伊織が縁者、それも伯母という近しい縁者なれば安心して秘事を託せると申すものにて…」
「されば廣瀬は石寺伊織よりのその、密命とも申せましょうその依頼を引き受けましたので…」
意知が確かめるようにそう尋ねると、家治は「無論のこと」と答え、
「さればこそ、寶蓮院殿が高嶋朔庵に毒の鑑定を命じしその場に廣瀬も陪席したのだ」
そう付け加えた。確かにその通りであった。
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