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深谷盛朝は毒物の鑑定に当たって田安館に仕える医師・高嶋朔庵久長の協力を仰ぐべく、田安館の目付の石寺伊織章貞を通じて協力を要請することに。
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「されば盛朝は興正の死を受けて、いよいよ家基が死の、いや、倫子や萬壽、そして家基の殺害の真相につきて探索に乗り出すことにしたわけだが…、いや、恐らくは興正が、いや、正淳が見立てし通り、これが病死ではのうて、殺害…、治済の手に、いや、正しく毒牙にかかったのであらば毒殺に相違あるまいが、なれど、それでは一体、何の毒か、それが分からぬことには治済が罪の証を立てることあたわず…」
確かに殺人事件の捜査において、「兇器」の特定は不可欠であった。
「それには医学の知識が欠かせまいて、なれど生憎と、盛朝にはその知識はなく…」
「されば医師に協力を求めましたので?」
意知がそう先回りして尋ねると、家治は頷いた上で実に意外な医師の名を挙げた。
いや、事情が分かれば決して意外ではなく、むしろ当然の「人選」と言えたやも知れぬ。
「されば盛朝は田安館に仕えし医師の高嶋朔庵に協力を求めたそうな…」
家治がそう答えたので、意次と意知は思わず、「田安殿の?」と声を揃えた。
「然様…、さればこの探索は秘を要するゆえ、町医者には協力は求められまいて…、秘が漏れるとも限らず、さりとて公儀に仕えし奥医や番医、寄合医などでは治済と通じておるやも知れず、尚更、協力など求められまいて…」
家治の言うことは、いや、深谷式部盛朝の判断は尤もであった。町医者では「守秘義務」は到底、期待出来ず、ましてや幕府に仕える医師ではその中に治済と通じている者がいるやも知れず、そのような者に協力を求めればそれこそ誇張なしに、
「一巻の終わり…」
というものであろう。
「それゆえ式部は田安殿御附の医師であります高嶋朔庵久長に協力を求めましたので?」
意次がそう尋ねると、家治は「おや?」という顔をした。それと言うのも家治は高嶋朔庵のその、「久長」なる諱は口にはしておらず、にもかかわらず意次は正確にその諱まで諳んじてみせたので、家治も思わず、「おや?」という顔をしてみせたのであった。
「意次は高嶋朔庵を存じておるのか?」
「ははっ。されば確か、安永5(1776)年の11月頃のことでござりましたか、その高嶋朔庵、畏れ多くも姫君様…、種姫様の御脈を伺い奉り、その結果、畏れ多くも上様への御目通りが許されましたものと、斯様に記憶しておりますれば…」
意次がそう答えると、家治は意次のその記憶力の良さに舌を巻かされると同時に、実に嬉しく思った。
「如何にもその通りぞ…、いや、実を申さば盛朝は当初は重好に仕えし医師に協力を求めようとしたらしい…」
清水館ではなくわざわざ、「重好」と表現する当たり、家治が御三卿の中でもとりわけ、腹違いとは言え、弟である重好が当主を務める清水家を重視していることが窺えた。
「清水殿御附の医師に?そはまた何ゆえに…」
意次は家治に尋ねた。
「されば盛朝が妻女はその当時は重好に小姓として仕えし渡邊熊之助美實なのだ…、今は熊之助から伊兵衛へとその通称を改め、八役である勘定奉行へと進んでおるが…」
清水館に仕える者の履歴まで正確に諳んじてみせるとは、これもまた家治が如何に弟・重好が当主を務める清水家を重視しているかの現われと言えよう。
ともあれ意次はそれで何ゆえに深谷式部盛朝が当初は重好に仕える医師に協力を求めようとしたのか合点が行き、「成程…」と応ずるや、
「されば岳父を頼ろうとしたわけでござりまするな?」
そう付け加えた。
「然様…」
「にもかかわらず、式部は何ゆえに清水殿御附の医師ではのうて、田安殿御附の医師を頼りますこと致しましたので?」
意知が尋ねた。
「されば探索に公平を期すためとのことだそうな…」
家治は今度は忌々しそうな表情へと転じた。
家治が何ゆえにそのような顔をするのか、意知には分からず、「と仰せられますると?」と家治にその先を促した。
「されば仮にだが、重好に仕えし医師が毒を…、治済が倫子や萬壽、そして家基の命を奪うために使いし毒を特定致したとして、盛朝にはそのことは告げずに、なれど重好には伝え、されば重好はこれを次期将軍職の取引の材料に使うのではないかと…」
「成程…、一橋殿が罪を…、毒物の一件を揉み消す代わりに、畏れ多くも上様に対しまして、己を次期将軍職に推挙して貰いたいと…、清水殿が一橋殿に斯様に取引を持ちかけるのではあるまいかと、式部はそれを恐れましたので…」
意知が確かめるようにそう尋ねると、家治はやはり相変わらず実に忌々しそうな表情を浮かべたまま、「然様…」と意知の言葉を首肯したものの、しかし直ぐに、「なれど…」と続けた。
「それぐらいの慎重さ、用心深さがなくばこの探索は務まるまいて…」
家治は己の家族を毒殺したやも知れぬ治済に「裏取引」を持ちかけるのではないかと、深谷式部盛朝が重好にそのような疑いをかけたことには内心、不快であったものの、しかしその反面、理解もしていた。
「そこで式部は明屋形の田安殿御附の医師を頼りますことに致しましたわけでござりまするか…」
当主不在である明屋形の田安家なれば、当主を抱える清水家や一橋家とは違い、
「次期将軍レース…」
それとは無縁の立場であり、それゆえその田安館なれば公平さが期待出来ると、そこで深谷式部盛朝はその田安館にて仕える医師に協力を求めることにしたのかと、意知は合点がいった。
「なれど田安殿にも伝手がなくば、早々、簡単には協力を求められますまいて…、されば式部は田安殿にも何らかの伝手が?」
意次が尋ねた。確かにその通りである。いきなり田安館へと押しかけてそのようなことを頼んでも門前払いを喰らわされるのがオチであろう。
すると家治は「然様」と答え、その「伝手」について説明した。
「されば盛朝が曽祖叔父の深谷左源太盛重なる者がかつては田安館にて仕え…、それも目付をも兼ねし物頭として、つまりは重職として仕えたことがあり、その縁により盛朝も田安館には顔が利いたそうな…」
家治の説明に意次と意知は、「成程…」と声を揃えた。
「そしてその深谷左源太が物頭として兼ねし目付だが、今では石寺伊織章貞なる者が受け継いでおり…、石寺伊織は盛朝よりも十上だそうで、盛朝曰く、石寺伊織は兄のような存在にて、そこで盛朝はそれな石寺伊織に対して事の次第を打ち明けた上で、高嶋朔庵を紹介してくれるよう頼んだそうな…」
「成程…、そうでござりましたか…」
意知は納得した声を出した。
「いや、田安館には高嶋朔庵の外にも幾人かの医師が仕えていたのだが、その中でも盛朝が態々、高嶋朔庵を名指しせしは外でもない、盛朝は高嶋朔庵とも親しくしていたからだそうな…」
家治のその補足に、意知は興味を惹かれた様子で、「されば如何なる縁にて?」と尋ねた。
「盛朝が屋敷は生前…、最期は駿河台であったが、その前は四谷の西念寺の近くに屋敷を構えており、その折、そこから目と鼻の先にありし、同じく四谷は傳馬町に高嶋朔庵の診療所を兼ねたる屋敷があり、それば盛朝も四谷にて暮らしていた頃にはその、高嶋朔庵の診療所へと足を運ぶことがあったそうな…」
「成程…、それで式部は高嶋朔庵を名指し致しましたので…」
意知は納得出来たかのように声を上げた。
確かに殺人事件の捜査において、「兇器」の特定は不可欠であった。
「それには医学の知識が欠かせまいて、なれど生憎と、盛朝にはその知識はなく…」
「されば医師に協力を求めましたので?」
意知がそう先回りして尋ねると、家治は頷いた上で実に意外な医師の名を挙げた。
いや、事情が分かれば決して意外ではなく、むしろ当然の「人選」と言えたやも知れぬ。
「されば盛朝は田安館に仕えし医師の高嶋朔庵に協力を求めたそうな…」
家治がそう答えたので、意次と意知は思わず、「田安殿の?」と声を揃えた。
「然様…、さればこの探索は秘を要するゆえ、町医者には協力は求められまいて…、秘が漏れるとも限らず、さりとて公儀に仕えし奥医や番医、寄合医などでは治済と通じておるやも知れず、尚更、協力など求められまいて…」
家治の言うことは、いや、深谷式部盛朝の判断は尤もであった。町医者では「守秘義務」は到底、期待出来ず、ましてや幕府に仕える医師ではその中に治済と通じている者がいるやも知れず、そのような者に協力を求めればそれこそ誇張なしに、
「一巻の終わり…」
というものであろう。
「それゆえ式部は田安殿御附の医師であります高嶋朔庵久長に協力を求めましたので?」
意次がそう尋ねると、家治は「おや?」という顔をした。それと言うのも家治は高嶋朔庵のその、「久長」なる諱は口にはしておらず、にもかかわらず意次は正確にその諱まで諳んじてみせたので、家治も思わず、「おや?」という顔をしてみせたのであった。
「意次は高嶋朔庵を存じておるのか?」
「ははっ。されば確か、安永5(1776)年の11月頃のことでござりましたか、その高嶋朔庵、畏れ多くも姫君様…、種姫様の御脈を伺い奉り、その結果、畏れ多くも上様への御目通りが許されましたものと、斯様に記憶しておりますれば…」
意次がそう答えると、家治は意次のその記憶力の良さに舌を巻かされると同時に、実に嬉しく思った。
「如何にもその通りぞ…、いや、実を申さば盛朝は当初は重好に仕えし医師に協力を求めようとしたらしい…」
清水館ではなくわざわざ、「重好」と表現する当たり、家治が御三卿の中でもとりわけ、腹違いとは言え、弟である重好が当主を務める清水家を重視していることが窺えた。
「清水殿御附の医師に?そはまた何ゆえに…」
意次は家治に尋ねた。
「されば盛朝が妻女はその当時は重好に小姓として仕えし渡邊熊之助美實なのだ…、今は熊之助から伊兵衛へとその通称を改め、八役である勘定奉行へと進んでおるが…」
清水館に仕える者の履歴まで正確に諳んじてみせるとは、これもまた家治が如何に弟・重好が当主を務める清水家を重視しているかの現われと言えよう。
ともあれ意次はそれで何ゆえに深谷式部盛朝が当初は重好に仕える医師に協力を求めようとしたのか合点が行き、「成程…」と応ずるや、
「されば岳父を頼ろうとしたわけでござりまするな?」
そう付け加えた。
「然様…」
「にもかかわらず、式部は何ゆえに清水殿御附の医師ではのうて、田安殿御附の医師を頼りますこと致しましたので?」
意知が尋ねた。
「されば探索に公平を期すためとのことだそうな…」
家治は今度は忌々しそうな表情へと転じた。
家治が何ゆえにそのような顔をするのか、意知には分からず、「と仰せられますると?」と家治にその先を促した。
「されば仮にだが、重好に仕えし医師が毒を…、治済が倫子や萬壽、そして家基の命を奪うために使いし毒を特定致したとして、盛朝にはそのことは告げずに、なれど重好には伝え、されば重好はこれを次期将軍職の取引の材料に使うのではないかと…」
「成程…、一橋殿が罪を…、毒物の一件を揉み消す代わりに、畏れ多くも上様に対しまして、己を次期将軍職に推挙して貰いたいと…、清水殿が一橋殿に斯様に取引を持ちかけるのではあるまいかと、式部はそれを恐れましたので…」
意知が確かめるようにそう尋ねると、家治はやはり相変わらず実に忌々しそうな表情を浮かべたまま、「然様…」と意知の言葉を首肯したものの、しかし直ぐに、「なれど…」と続けた。
「それぐらいの慎重さ、用心深さがなくばこの探索は務まるまいて…」
家治は己の家族を毒殺したやも知れぬ治済に「裏取引」を持ちかけるのではないかと、深谷式部盛朝が重好にそのような疑いをかけたことには内心、不快であったものの、しかしその反面、理解もしていた。
「そこで式部は明屋形の田安殿御附の医師を頼りますことに致しましたわけでござりまするか…」
当主不在である明屋形の田安家なれば、当主を抱える清水家や一橋家とは違い、
「次期将軍レース…」
それとは無縁の立場であり、それゆえその田安館なれば公平さが期待出来ると、そこで深谷式部盛朝はその田安館にて仕える医師に協力を求めることにしたのかと、意知は合点がいった。
「なれど田安殿にも伝手がなくば、早々、簡単には協力を求められますまいて…、されば式部は田安殿にも何らかの伝手が?」
意次が尋ねた。確かにその通りである。いきなり田安館へと押しかけてそのようなことを頼んでも門前払いを喰らわされるのがオチであろう。
すると家治は「然様」と答え、その「伝手」について説明した。
「されば盛朝が曽祖叔父の深谷左源太盛重なる者がかつては田安館にて仕え…、それも目付をも兼ねし物頭として、つまりは重職として仕えたことがあり、その縁により盛朝も田安館には顔が利いたそうな…」
家治の説明に意次と意知は、「成程…」と声を揃えた。
「そしてその深谷左源太が物頭として兼ねし目付だが、今では石寺伊織章貞なる者が受け継いでおり…、石寺伊織は盛朝よりも十上だそうで、盛朝曰く、石寺伊織は兄のような存在にて、そこで盛朝はそれな石寺伊織に対して事の次第を打ち明けた上で、高嶋朔庵を紹介してくれるよう頼んだそうな…」
「成程…、そうでござりましたか…」
意知は納得した声を出した。
「いや、田安館には高嶋朔庵の外にも幾人かの医師が仕えていたのだが、その中でも盛朝が態々、高嶋朔庵を名指しせしは外でもない、盛朝は高嶋朔庵とも親しくしていたからだそうな…」
家治のその補足に、意知は興味を惹かれた様子で、「されば如何なる縁にて?」と尋ねた。
「盛朝が屋敷は生前…、最期は駿河台であったが、その前は四谷の西念寺の近くに屋敷を構えており、その折、そこから目と鼻の先にありし、同じく四谷は傳馬町に高嶋朔庵の診療所を兼ねたる屋敷があり、それば盛朝も四谷にて暮らしていた頃にはその、高嶋朔庵の診療所へと足を運ぶことがあったそうな…」
「成程…、それで式部は高嶋朔庵を名指し致しましたので…」
意知は納得出来たかのように声を上げた。
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