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家基に御側御用取次として仕えていた水上興正は松平正淳の遺志を継いで一橋治済と対決するに当たり、西之丸目付であった深谷式部盛朝に遺言を託す。
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「治済はどうやら、倫子のみならず、萬壽の命まで奪うたようだ…、富だけでなく、大崎や高橋をも使嗾しての…」
家治は力なくそう告げた。家治もまた、意知と同様にそう感じていたのだ。
「富の方殿が一橋殿に…、一橋殿が姦計に手を貸しましたる動機が側室の座として、大崎や高橋のそれはやはり、出世でござりましょうか…」
意次がそう尋ねると、家治も「さもあろう…」と首肯し、
「されば大崎と高橋を西之丸の大奥の年寄にと、余に願うたは外ならぬ家斉ぞ。家斉が西之丸へと入るや、余に然様に願うたのだ…」
「それも恐らくはその背後には一橋殿が?」
治済は家斉に命じて、家治にそのように願い出よと命じたのか…、意次がそう示唆すると、家治は頷き、その上で、
「さればそれで余も、確信したものよ…、治済が倫子や萬壽の命を奪いし下手人であるとな…、いや、それまでは半信半疑であったわ…」
そのように打ち明けたので、意次は思わず「半信半疑?」と聞き返した。
「然様…、さればこれまでの余の話…、正淳が動きは全て盛朝より齎されしものよ…」
家治はそのように付け加えた。
「深谷式部より?」
意次は家治に聞き返した。
「左様…、されば正淳は治済が倫子や萬壽の命を奪いし下手人であると、然様に確信したものの、なれどその確たる証を見つけるには至らず、時ばかりが過ぎたのだ…」
家治は思い出話を語るようにそう告げ、それに対して意次も意知も無理のないことだと思った。正淳一人では出来ることは限られており、倫子や萬壽姫の殺害の証拠を見つけることなど到底、不可能であっただろう。
「だが、4年前に家基が斃れるに及んで正淳はまたしても治済の仕業に相違あるまいと、然様に確信するや、治済の許へと乗り込み、今度こそ、確たる証を…、倫子や萬壽、そして家基とこの一連の死が治済の仕業であると…、その確たる証を見つけ出すと、宣することに致したそうな…、2月24日にの…」
4年前…、安永8(1779)年の2月24日は家基の命日であると同時に、正淳の命日でもある。
「だが正淳はその前に、これまでの経緯につきて、興正にだけ打ち明けたそうな…」
家治がそう告げたので、「万が一を考えて、でござりまするな?」と意知は即座に合いの手を入れた。
「然様…、己も口を塞がれるやも知れぬと、正淳はそう思えばこそ、その時に備えて、興正にさしずめ遺言を託したのであろうな…」
「されば若狭は何ゆえに美濃に遺言を託しましたので…」
正淳が遺言を託すべき相手として美濃こと水上美濃守興正を選んだ理由が意知には分からず、その点、家治に尋ねた。
「されば興正が家基に御側御用取次として仕えていた、ということもあろうが、正淳は興正とは個人的にも親しく…」
家治の説明によれば…、と言うよりは深谷式部盛朝より伝え聞いた話であるが、正淳は留守居に進む前、14年前の明和6(1769)年、家基が西之丸入りを果たしたその年に小普請組支配よりその西之丸の小姓組番頭へと進み、その際、既に西之丸にて御側御用取次の御役にあった水上興正が正淳に対して小姓組番頭としての職務について色々と「レクチャー」したようで、それに対して正淳も興正のその心配りに大いに感謝したようで、爾来、正淳と興正の付き合いが始まったそうな。
「興正はなれど、如何に正淳からの話だとしても容易には信じられなかったそうな…、少なくとも正淳までが命を落とすまでは…」
治済が倫子や萬壽姫、果ては家基の命までも奪った下手人である…、そのようなことを打ち明けられても確かに興正ならずとも容易には信じられまいと、意次も意知もそう思った。
「興正が正淳よりそのことを打ち明けられたのは前日…、家基が身罷りし前日の23日のことだったそうな…、そして翌日の24日、正淳は恐らくは家基が最期を看取り、そして下城した後、一橋館へと赴いた、いや、討ち入ったのであろうが…」
正淳はそこで治済に「宣戦布告」をしたがために、返り討ちに遭ってしまった…、家治はそう示唆した。
「されば興正も翌日、正淳が命を落としたことを知るや…、一応、病死との届出がなされたものの、なれど興正は唯一人、正淳は決して病死などではのうて治済の手にかかったに相違あるまいと、然様に確信するや、正淳の話をまともに聞いてやらなんだ後悔の念が湧き上がり、それと共に正淳に対して申し訳なく思い、また、哀惜の念も湧き上がり、そして御側御用取次として家基を守りきれなかったことの後悔と、家基を害せし治済への憤りから、興正もまた、治済と対決することに致したそうな…」
家治は正淳や更には興正を悼むかのようにそう告げたので、
「その結果、美濃までが命を落とした…、いえ、一橋殿の手にかかったと?」
意次がそう合いの手を入れ、それに対して家治は無念そうに頷いた。
だが家治はその無念さを振り払うかのように、「なれど…」と続けた。
「なれど、興正は治済と対決するに当たり、正淳が興正に対してそうしたように、興正もまた、盛朝に遺言を…、正淳より伝え聞いた話をそのまま伝えたそうな…」
「美濃は何ゆえに遺言を託すべき相手として深谷式部を選びましたので?」
意知は気になっていたことを尋ねた。
「さればそれは勿論、盛朝が西之丸を取り締まるべき目付であったからゆえ…、それが最大の理由だが、目付として頼りになるのは盛朝一人のみ、ということもあっただろうな…」
その当時…、安永8(1779)年の時点でここ本丸には10人の目付が存していたのに対して、西之丸には深谷式部盛朝を含めて6人の目付が存していた。
興正が遺言を託す相手として西之丸を取り締まるその6人の目付の中でも深谷式部盛朝を選んだということは成程、家治が言う通り、興正が深谷式部盛朝が一番頼りになると、そう思ったからに違いない。
「そのことも…、美濃が式部に遺言を託しましたる理由につきましてもやはり、式部よりお聞きあそばされましたので?」
意知が真顔でそう尋ねると、家治は久しぶりに苦笑を浮かべた。
「まさか…、よもや己が頼りになるからとは、盛朝が然様に申す筈もなかろうて…」
確かにその通りだと、意知は己の迂闊さに気づいた。
「されば余が勝手にそう推察したまでよ…」
だが意知にはそれが単なる推察とは思えなかった。やはり興正は深谷式部盛朝が6人の目付の中で一番頼りになると思えばこそ、遺言を…、正淳より聞いた話を託したに相違ないと思った。
家治は力なくそう告げた。家治もまた、意知と同様にそう感じていたのだ。
「富の方殿が一橋殿に…、一橋殿が姦計に手を貸しましたる動機が側室の座として、大崎や高橋のそれはやはり、出世でござりましょうか…」
意次がそう尋ねると、家治も「さもあろう…」と首肯し、
「されば大崎と高橋を西之丸の大奥の年寄にと、余に願うたは外ならぬ家斉ぞ。家斉が西之丸へと入るや、余に然様に願うたのだ…」
「それも恐らくはその背後には一橋殿が?」
治済は家斉に命じて、家治にそのように願い出よと命じたのか…、意次がそう示唆すると、家治は頷き、その上で、
「さればそれで余も、確信したものよ…、治済が倫子や萬壽の命を奪いし下手人であるとな…、いや、それまでは半信半疑であったわ…」
そのように打ち明けたので、意次は思わず「半信半疑?」と聞き返した。
「然様…、さればこれまでの余の話…、正淳が動きは全て盛朝より齎されしものよ…」
家治はそのように付け加えた。
「深谷式部より?」
意次は家治に聞き返した。
「左様…、されば正淳は治済が倫子や萬壽の命を奪いし下手人であると、然様に確信したものの、なれどその確たる証を見つけるには至らず、時ばかりが過ぎたのだ…」
家治は思い出話を語るようにそう告げ、それに対して意次も意知も無理のないことだと思った。正淳一人では出来ることは限られており、倫子や萬壽姫の殺害の証拠を見つけることなど到底、不可能であっただろう。
「だが、4年前に家基が斃れるに及んで正淳はまたしても治済の仕業に相違あるまいと、然様に確信するや、治済の許へと乗り込み、今度こそ、確たる証を…、倫子や萬壽、そして家基とこの一連の死が治済の仕業であると…、その確たる証を見つけ出すと、宣することに致したそうな…、2月24日にの…」
4年前…、安永8(1779)年の2月24日は家基の命日であると同時に、正淳の命日でもある。
「だが正淳はその前に、これまでの経緯につきて、興正にだけ打ち明けたそうな…」
家治がそう告げたので、「万が一を考えて、でござりまするな?」と意知は即座に合いの手を入れた。
「然様…、己も口を塞がれるやも知れぬと、正淳はそう思えばこそ、その時に備えて、興正にさしずめ遺言を託したのであろうな…」
「されば若狭は何ゆえに美濃に遺言を託しましたので…」
正淳が遺言を託すべき相手として美濃こと水上美濃守興正を選んだ理由が意知には分からず、その点、家治に尋ねた。
「されば興正が家基に御側御用取次として仕えていた、ということもあろうが、正淳は興正とは個人的にも親しく…」
家治の説明によれば…、と言うよりは深谷式部盛朝より伝え聞いた話であるが、正淳は留守居に進む前、14年前の明和6(1769)年、家基が西之丸入りを果たしたその年に小普請組支配よりその西之丸の小姓組番頭へと進み、その際、既に西之丸にて御側御用取次の御役にあった水上興正が正淳に対して小姓組番頭としての職務について色々と「レクチャー」したようで、それに対して正淳も興正のその心配りに大いに感謝したようで、爾来、正淳と興正の付き合いが始まったそうな。
「興正はなれど、如何に正淳からの話だとしても容易には信じられなかったそうな…、少なくとも正淳までが命を落とすまでは…」
治済が倫子や萬壽姫、果ては家基の命までも奪った下手人である…、そのようなことを打ち明けられても確かに興正ならずとも容易には信じられまいと、意次も意知もそう思った。
「興正が正淳よりそのことを打ち明けられたのは前日…、家基が身罷りし前日の23日のことだったそうな…、そして翌日の24日、正淳は恐らくは家基が最期を看取り、そして下城した後、一橋館へと赴いた、いや、討ち入ったのであろうが…」
正淳はそこで治済に「宣戦布告」をしたがために、返り討ちに遭ってしまった…、家治はそう示唆した。
「されば興正も翌日、正淳が命を落としたことを知るや…、一応、病死との届出がなされたものの、なれど興正は唯一人、正淳は決して病死などではのうて治済の手にかかったに相違あるまいと、然様に確信するや、正淳の話をまともに聞いてやらなんだ後悔の念が湧き上がり、それと共に正淳に対して申し訳なく思い、また、哀惜の念も湧き上がり、そして御側御用取次として家基を守りきれなかったことの後悔と、家基を害せし治済への憤りから、興正もまた、治済と対決することに致したそうな…」
家治は正淳や更には興正を悼むかのようにそう告げたので、
「その結果、美濃までが命を落とした…、いえ、一橋殿の手にかかったと?」
意次がそう合いの手を入れ、それに対して家治は無念そうに頷いた。
だが家治はその無念さを振り払うかのように、「なれど…」と続けた。
「なれど、興正は治済と対決するに当たり、正淳が興正に対してそうしたように、興正もまた、盛朝に遺言を…、正淳より伝え聞いた話をそのまま伝えたそうな…」
「美濃は何ゆえに遺言を託すべき相手として深谷式部を選びましたので?」
意知は気になっていたことを尋ねた。
「さればそれは勿論、盛朝が西之丸を取り締まるべき目付であったからゆえ…、それが最大の理由だが、目付として頼りになるのは盛朝一人のみ、ということもあっただろうな…」
その当時…、安永8(1779)年の時点でここ本丸には10人の目付が存していたのに対して、西之丸には深谷式部盛朝を含めて6人の目付が存していた。
興正が遺言を託す相手として西之丸を取り締まるその6人の目付の中でも深谷式部盛朝を選んだということは成程、家治が言う通り、興正が深谷式部盛朝が一番頼りになると、そう思ったからに違いない。
「そのことも…、美濃が式部に遺言を託しましたる理由につきましてもやはり、式部よりお聞きあそばされましたので?」
意知が真顔でそう尋ねると、家治は久しぶりに苦笑を浮かべた。
「まさか…、よもや己が頼りになるからとは、盛朝が然様に申す筈もなかろうて…」
確かにその通りだと、意知は己の迂闊さに気づいた。
「されば余が勝手にそう推察したまでよ…」
だが意知にはそれが単なる推察とは思えなかった。やはり興正は深谷式部盛朝が6人の目付の中で一番頼りになると思えばこそ、遺言を…、正淳より聞いた話を託したに相違ないと思った。
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