上 下
87 / 162

家基に御側御用取次として仕えていた水上興正は松平正淳の遺志を継いで一橋治済と対決するに当たり、西之丸目付であった深谷式部盛朝に遺言を託す。

しおりを挟む
治済はるさだはどうやら、倫子ともこのみならず、萬壽ますの命までうぼうたようだ…、とみだけでなく、大崎おおさき高橋たかはしをも使嗾しそうしての…」

 家治は力なくそうげた。家治もまた、意知おきとも同様どうようにそう感じていたのだ。

とみかた殿が一橋ひとつばし殿に…、一橋ひとつばし殿が姦計かんけいに手をしましたる動機どうき側室そくしつとして、大崎おおさき高橋たかはしのそれはやはり、出世しゅっせでござりましょうか…」

 意次おきつぐがそうたずねると、家治も「さもあろう…」と首肯しゅこうし、

「されば大崎おおさき高橋たかはし西之丸にしのまる大奥おおおく年寄としよりにと、ねごうたはほかならぬ家斉いえなりぞ。家斉いえなり西之丸にしのまるへと入るや、然様さようねごうたのだ…」

「それもおそらくはその背後はいごには一橋ひとつばし殿が?」

 治済はるさだ家斉いえなりに命じて、家治にそのように願い出よと命じたのか…、意次おきつぐがそう示唆しさすると、家治はうなずき、その上で、

「さればそれでも、確信かくしんしたものよ…、治済はるさだ倫子ともこ萬壽ますの命をうばいし下手人げしゅにんであるとな…、いや、それまでは半信半疑はんしんはんぎであったわ…」

 そのようにけたので、意次おきつぐは思わず「半信半疑はんしんはんぎ?」とかえした。

然様さよう…、さればこれまでのの話…、正淳まさあつが動きはすべ盛朝もりともよりもたらされしものよ…」

 家治はそのようにくわえた。

深谷ふかや式部しきぶより?」

 意次おきつぐは家治にかえした。

左様さよう…、されば正淳まさあつ治済はるさだ倫子ともこ萬壽ますの命をうばいし下手人げしゅにんであると、然様さよう確信かくしんしたものの、なれどそのかくたるあかしつけるにはいたらず、時ばかりがぎたのだ…」

 家治は思い出話を語るようにそう告げ、それに対して意次おきつぐ意知おきともも無理のないことだと思った。正淳まさあつ一人では出来できることはかぎられており、倫子ともこ萬壽ますひめの殺害の証拠しょうこを見つけることなど到底とうてい不可能ふかのうであっただろう。

「だが、4年前に家基いえもとたおれるにおよんで正淳まさあつはまたしても治済はるさだ仕業しわざ相違そういあるまいと、然様さよう確信かくしんするや、治済はるさだもとへとみ、今度こんどこそ、かくたるあかしを…、倫子ともこ萬壽ます、そして家基いえもととこの一連いちれんの死が治済はるさだ仕業しわざであると…、そのかくたるあかしを見つけ出すと、せんすることにいたしたそうな…、2月24日にの…」

 4年前…、安永8(1779)年の2月24日は家基いえもと命日めいにちであると同時どうじに、正淳まさあつ命日めいにちでもある。

「だが正淳まさあつはその前に、これまでの経緯いきさつにつきて、興正おきまさにだけけたそうな…」

 家治がそうげたので、「まんいつを考えて、でござりまするな?」と意知おきとも即座そくざいのれた。

然様さよう…、おのれくちふさがれるやも知れぬと、正淳まさあつはそう思えばこそ、その時にそなえて、興正おきまさにさしずめ遺言いごんたくしたのであろうな…」

「されば若狭わかさは何ゆえに美濃みの遺言いごんたくしましたので…」

 正淳まさあつ遺言いごんたくすべき相手あいてとして美濃みのこと水上みずかみ美濃守みののかみ興正おきまさえらんだ理由わけ意知おきともには分からず、その点、家治にたずねた。

「されば興正おきまさ家基いえもと御側御用取次おそばごようとりつぎとしてつかえていた、ということもあろうが、正淳まさあつ興正おきまさとは個人的こじんてきにもしたしく…」

 家治の説明によれば…、と言うよりは深谷ふかや式部しきぶ盛朝もりともよりつたいた話であるが、正淳まさあつ留守居るすいすすむ前、14年前の明和6(1769)年、家基いえもと西之丸にしのまる入りをたしたその年に小普請こぶしんぐみ支配しはいよりその西之丸にしのまる小姓こしょうぐみ番頭ばんがしらへとすすみ、その際、すで西之丸にしのまるにて御側御用取次おそばごようとりつぎ御役おやくにあった水上みずかみ興正おきまさ正淳まさあつに対して小姓こしょうぐみ番頭ばんがしらとしての職務しょくむについて色々いろいろと「レクチャー」したようで、それに対して正淳まさあつ興正おきまさのその心配こころくばりにおおいに感謝したようで、爾来じらい正淳まさあつ興正おきまさいがはじまったそうな。

興正おきまさはなれど、如何いか正淳まさあつからの話だとしても容易よういには信じられなかったそうな…、すくなくとも正淳まさあつまでが命を落とすまでは…」

 治済はるさだ倫子ともこ萬壽ますひめては家基いえもとの命までもうばった下手人げしゅにんである…、そのようなことを打ち明けられてもたしかに興正おきまさならずとも容易よういには信じられまいと、意次おきつぐ意知おきとももそう思った。

興正おきまさ正淳まさあつよりそのことを打ち明けられたのは前日…、家基いえもと身罷みまかりし前日の23日のことだったそうな…、そして翌日の24日、正淳まさあつおそらくは家基いえもと最期さいご看取みとり、そして下城げじょうした後、一橋ひとつばしやかたへとおもむいた、いや、ったのであろうが…」

 正淳まさあつはそこで治済はるさだに「宣戦せんせん布告ふこく」をしたがために、かえちにってしまった…、家治はそう示唆しさした。

「されば興正おきまさ翌日よくじつ正淳まさあつが命を落としたことを知るや…、一応いちおう病死びょうしとの届出とどけでがなされたものの、なれど興正おきまさただ一人ひとり正淳まさあつは決して病死びょうしなどではのうて治済はるさだの手にかかったに相違そういあるまいと、然様さよう確信かくしんするや、正淳まさあつの話をまともに聞いてやらなんだ後悔こうかいねんがり、それととも正淳まさあつに対してもうわけなく思い、また、哀惜あいせきねんがり、そして御側御用取次おそばごようとりつぎとして家基いえもとを守りきれなかったことの後悔こうかいと、家基いえもとがいせし治済はるさだへのいきどおりから、興正おきまさもまた、治済はるさだ対決たいけつすることにいたしたそうな…」

 家治は正淳まさあつさらには興正おきまさいたむかのようにそうげたので、

「その結果、美濃みのまでが命を落とした…、いえ、一橋ひとつばし殿の手にかかったと?」

 意次おきつぐがそういのれ、それに対して家治は無念むねんそうにうなずいた。

 だが家治はその無念むねんさをはらうかのように、「なれど…」と続けた。

「なれど、興正おきまさ治済はるさだと対決するに当たり、正淳まさあつ興正おきまさに対してそうしたように、興正おきまさもまた、盛朝もりとも遺言いごんを…、正淳まさあつよりつたいた話をそのままつたえたそうな…」

美濃みのは何ゆえに遺言いごんたくすべき相手として深谷ふかや式部しきぶえらびましたので?」

 意知おきともは気になっていたことをたずねた。

「さればそれは勿論もちろん盛朝もりとも西之丸にしのまるまるべき目付めつけであったからゆえ…、それが最大さいだい理由わけだが、目付めつけとしてたよりになるのは盛朝もりとも一人のみ、ということもあっただろうな…」

 その当時とうじ…、安永8(1779)年の時点じてんでここ本丸ほんまるには10人の目付めつけそんしていたのに対して、西之丸にしのまるには深谷ふかや式部しきぶ盛朝もりともふくめて6人の目付めつけそんしていた。

 興正おきまさ遺言いごんたく相手あいてとして西之丸にしのまるまるその6人の目付めつけの中でも深谷ふかや式部しきぶ盛朝もりともえらんだということは成程なるほど、家治が言う通り、興正おきまさ深谷ふかや式部しきぶ盛朝もりとも一番いちばんたよりになると、そう思ったからにちがいない。

「そのことも…、美濃みの式部しきぶ遺言いごんたくしましたる理由わけにつきましてもやはり、式部しきぶよりおきあそばされましたので?」

 意知おきとも真顔まがおでそうたずねると、家治はひさしぶりに苦笑くしょうかべた。

「まさか…、よもやおのれたよりになるからとは、盛朝もりとも然様さようもうはずもなかろうて…」

 確かにそのとおりだと、意知おきともおのれ迂闊うかつさに気づいた。

「されば勝手かってにそう推察すいさつしたまでよ…」

 だが意知おきともにはそれがたんなる推察すいさつとは思えなかった。やはり興正おきまさ深谷ふかや式部しきぶ盛朝もりともが6人の目付めつけの中で一番たよりになると思えばこそ、遺言いごんを…、正淳まさあつより聞いた話をたくしたに相違そういないと思った。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

江戸の夕映え

大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。 「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三) そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。 同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。 しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

戦艦タナガーin太平洋

みにみ
歴史・時代
コンベース港でメビウス1率いる ISAF部隊に撃破され沈んだタナガー だがクルーたちが目を覚ますと そこは1942年の柱島泊地!?!?

陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた…… 

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

天明奇聞 ~たとえば意知が死ななかったら~

ご隠居
歴史・時代
タイトル通りです。意知が暗殺されなかったら(助かったら)という架空小説です。

上意討ち人十兵衛

工藤かずや
歴史・時代
本間道場の筆頭師範代有村十兵衛は、 道場四天王の一人に数えられ、 ゆくゆくは道場主本間頼母の跡取りになると見られて居た。 だが、十兵衛には誰にも言えない秘密があった。 白刃が怖くて怖くて、真剣勝負ができないことである。 その恐怖心は病的に近く、想像するだに震えがくる。 城中では御納戸役をつとめ、城代家老の信任も厚つかった。 そんな十兵衛に上意討ちの命が降った。 相手は一刀流の遣い手・田所源太夫。 だが、中間角蔵の力を借りて田所を斬ったが、 上意討ちには見届け人がついていた。 十兵衛は目付に呼び出され、 二度目の上意討ちか切腹か、どちらかを選べと迫られた。

処理中です...