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将軍・家治より倫子が生前、最期に毒見役である中年寄として仕えていたのが岩田こと家斉母堂の富と知らされた意次と意知は絶句する。
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「いや、正淳は単に家基が言葉を真に受け、疑いを抱いただけではなく、倫子や萬壽の死を…、死因について糾明しようとしていたらしいのだ…」
「何と…」
意次は驚きの余り、呻いた。意知にしても父・意次と同様、心底、驚いたようで目を見開いた。
「されば正淳は先任の留守居に対して、倫子や萬壽が死の状況についてあれこれと穿鑿致したそうな…」
家治がそう打ち明けると、意次は「成程…」と答えた。
それと言うのも、正淳が留守居へと昇進したその当時、既に留守居であった依田豊前守政次、高井土佐守直熙、そして神保和泉守茂清のこの3人は皆、倫子が身罷った明和8(1771)年8月20日以前に留守居に就いた者たちばかりであり、つまりは倫子や萬壽姫の死目にも立ち会っていたわけで、そうであれば家基に感化されて倫子や萬壽姫の死に疑問を抱くようになった正淳が彼ら先任の留守居に対して倫子や萬壽姫の死の状況についてあれこれと穿鑿するのは自然な成り行きであり、それゆえの、
「成程…」
であった。
「正淳は同時に廣敷役人にも…、とりわけ番之頭に対して詳しく糺したらしいのだが…」
廣敷役人とは留守居の支配下にある、大奥にて勤める男子役人のことで、番之頭…、廣敷番之頭は大奥の警備・監察係の最高責任者であり、倫子や萬壽姫の死の状況について調べようと思えばその廣敷番之頭への聴取は絶対に不可欠と言え、正淳が廣敷番之頭に対しても詳しく糺したのもこれまた自然な成り行きと言えた。
「なれど、正淳の聴取に対して、留守居にしろ、番之頭を始めとせし廣敷役人にしろ皆、要領を得ず…」
どうやら正淳による探索はうまくいかなかったようであり、それも無理からぬことと、意次は頷けた。留守居に就いたばかりの正淳に出来ることなど限られていたからだ。
「いや、それでも正淳は倫子や萬壽が…、その死が家基が疑いし通り、病死などではなかったとして、その場合には毒殺されたのではあるまいかと、然様に見立てたそうな…」
正淳がそう見立てたのもこれまた自然な成り行きと言えた。
倫子や萬壽姫が仮に他殺であったとしても、二人は斬られて死んだわけでもなければ、絞められて死んだわけでもない。
それでも二人の死が他殺であったとして、その場合には畢竟、毒殺としか考えられまい。
「そこで正淳は倫子や萬壽に附属せし…、それも死の間際に附属せし中年寄をも糺そうとし…」
中年寄とは御台所やその姫君、或いは側室に附属する奥女中であり、毒見役をその職掌とし、その点だけを捉えるならばちょうど、将軍に近侍する小納戸に相当する。それゆえ将軍附の奥女中の中には中年寄は存在しない。
ともあれその中年寄から、それも倫子や萬壽姫がその生前、最期に附属していた中年寄から正淳が事情を聴こうとしたのも頷ける。仮に倫子や萬壽姫が毒殺だとして、その場合には倫子や萬壽姫の毒見を担った中年寄が下手人である可能性が高かったからだ。
「されば松平若狭はそれな中年寄を糺しましたわけで?」
意次が家治を促すように尋ねるや、
「萬壽に附属せし中年寄にはの…」
家治は実に思わせぶりにそう答えた。
「されば畏れ多くも御台様に附属せし中年寄に対しましては…」
意次はその答えを半ば予期しながらも、それでも一応、尋ねた。
「糺すことは叶わなかったそうな…」
やはりそうか…、意次はそう思いつつ、その理由についても家治に尋ねた。
「さればその時には…、正淳が留守居へと進みしその時にはもう、倫子が最期に附属せし中年寄はもう、大奥にはおらなんだゆえ…」
「そは…、既にして亡きゆえに?」
意次はそう勘を働かせたものの、しかし違った。
家治は頭を振るや、「今でも健在ぞ…」と答えた。
「されば…、その者はその時にはもう、御役を退きましたるゆえに糺すことが叶わなかったと?」
中年寄は一生奉公…、つまりは生涯、大奥にて暮らさねばならぬ身であり、にもかかわらず、既にして大奥にはいなかったとなれば、死か、若しくは退職以外にあり得ず、死んだわけではないとなれば、退職しか考えられなかった。
案の定、家治は「然様…」と意次のその「勘働き」を首肯した。
「なれど、それでは尚の事、糺しますこと容易の筈では?」
これで仮に、例えば年寄に昇進していたとあらば、事情聴取も難しかったやも知れぬ。
だが既に大奥を退職したとあらば、その時にはもう、城外にて余生を過ごしているに外ならず、そうであれば事情聴取も容易の筈である。
その点、意次が疑問に思っていると、家治が絵解きをしてみせた。
「されば彼の者は御三卿の館にて暮らしているのだ」
「何と…」
意次は再び、驚きの余り呻き、意知も同じく目を見開いた。
「倫子がその生前に最期に仕えし中年寄は岩田なる者にて、今では富とその名を改めて一橋の館にて暮らしておるわ…」
「さればそれは将軍家御養君におわします家斉様の御母堂ではござりませぬかっ」
意次は驚き、いや、衝撃の余り、思わず声を上げたもので、それは悲鳴に近いものだった。
「何と…」
意次は驚きの余り、呻いた。意知にしても父・意次と同様、心底、驚いたようで目を見開いた。
「されば正淳は先任の留守居に対して、倫子や萬壽が死の状況についてあれこれと穿鑿致したそうな…」
家治がそう打ち明けると、意次は「成程…」と答えた。
それと言うのも、正淳が留守居へと昇進したその当時、既に留守居であった依田豊前守政次、高井土佐守直熙、そして神保和泉守茂清のこの3人は皆、倫子が身罷った明和8(1771)年8月20日以前に留守居に就いた者たちばかりであり、つまりは倫子や萬壽姫の死目にも立ち会っていたわけで、そうであれば家基に感化されて倫子や萬壽姫の死に疑問を抱くようになった正淳が彼ら先任の留守居に対して倫子や萬壽姫の死の状況についてあれこれと穿鑿するのは自然な成り行きであり、それゆえの、
「成程…」
であった。
「正淳は同時に廣敷役人にも…、とりわけ番之頭に対して詳しく糺したらしいのだが…」
廣敷役人とは留守居の支配下にある、大奥にて勤める男子役人のことで、番之頭…、廣敷番之頭は大奥の警備・監察係の最高責任者であり、倫子や萬壽姫の死の状況について調べようと思えばその廣敷番之頭への聴取は絶対に不可欠と言え、正淳が廣敷番之頭に対しても詳しく糺したのもこれまた自然な成り行きと言えた。
「なれど、正淳の聴取に対して、留守居にしろ、番之頭を始めとせし廣敷役人にしろ皆、要領を得ず…」
どうやら正淳による探索はうまくいかなかったようであり、それも無理からぬことと、意次は頷けた。留守居に就いたばかりの正淳に出来ることなど限られていたからだ。
「いや、それでも正淳は倫子や萬壽が…、その死が家基が疑いし通り、病死などではなかったとして、その場合には毒殺されたのではあるまいかと、然様に見立てたそうな…」
正淳がそう見立てたのもこれまた自然な成り行きと言えた。
倫子や萬壽姫が仮に他殺であったとしても、二人は斬られて死んだわけでもなければ、絞められて死んだわけでもない。
それでも二人の死が他殺であったとして、その場合には畢竟、毒殺としか考えられまい。
「そこで正淳は倫子や萬壽に附属せし…、それも死の間際に附属せし中年寄をも糺そうとし…」
中年寄とは御台所やその姫君、或いは側室に附属する奥女中であり、毒見役をその職掌とし、その点だけを捉えるならばちょうど、将軍に近侍する小納戸に相当する。それゆえ将軍附の奥女中の中には中年寄は存在しない。
ともあれその中年寄から、それも倫子や萬壽姫がその生前、最期に附属していた中年寄から正淳が事情を聴こうとしたのも頷ける。仮に倫子や萬壽姫が毒殺だとして、その場合には倫子や萬壽姫の毒見を担った中年寄が下手人である可能性が高かったからだ。
「されば松平若狭はそれな中年寄を糺しましたわけで?」
意次が家治を促すように尋ねるや、
「萬壽に附属せし中年寄にはの…」
家治は実に思わせぶりにそう答えた。
「されば畏れ多くも御台様に附属せし中年寄に対しましては…」
意次はその答えを半ば予期しながらも、それでも一応、尋ねた。
「糺すことは叶わなかったそうな…」
やはりそうか…、意次はそう思いつつ、その理由についても家治に尋ねた。
「さればその時には…、正淳が留守居へと進みしその時にはもう、倫子が最期に附属せし中年寄はもう、大奥にはおらなんだゆえ…」
「そは…、既にして亡きゆえに?」
意次はそう勘を働かせたものの、しかし違った。
家治は頭を振るや、「今でも健在ぞ…」と答えた。
「されば…、その者はその時にはもう、御役を退きましたるゆえに糺すことが叶わなかったと?」
中年寄は一生奉公…、つまりは生涯、大奥にて暮らさねばならぬ身であり、にもかかわらず、既にして大奥にはいなかったとなれば、死か、若しくは退職以外にあり得ず、死んだわけではないとなれば、退職しか考えられなかった。
案の定、家治は「然様…」と意次のその「勘働き」を首肯した。
「なれど、それでは尚の事、糺しますこと容易の筈では?」
これで仮に、例えば年寄に昇進していたとあらば、事情聴取も難しかったやも知れぬ。
だが既に大奥を退職したとあらば、その時にはもう、城外にて余生を過ごしているに外ならず、そうであれば事情聴取も容易の筈である。
その点、意次が疑問に思っていると、家治が絵解きをしてみせた。
「されば彼の者は御三卿の館にて暮らしているのだ」
「何と…」
意次は再び、驚きの余り呻き、意知も同じく目を見開いた。
「倫子がその生前に最期に仕えし中年寄は岩田なる者にて、今では富とその名を改めて一橋の館にて暮らしておるわ…」
「さればそれは将軍家御養君におわします家斉様の御母堂ではござりませぬかっ」
意次は驚き、いや、衝撃の余り、思わず声を上げたもので、それは悲鳴に近いものだった。
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