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御用之間において将軍・家治より若年寄へと進むよう命じられた意知はそれを拝辞したものの、家治はそれを許さず、そこで意知は昇進の理由を尋ねる。

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 意次おきつぐ意知おきとも案内あんないされた御用之間ごようのまは将軍の秘密ひみつ部屋べやともしょうされるだけあって、中々なかなかにせせこましい。

 間取まどりは六畳ろくじょうであるが、おくには黒塗くろぬりの箪笥たんす占領せんりょうし、かって右側には文机ふづくえまでがしつらえられていたために、実際じっさい間取まどりは四畳しじょう程度ていどであろうか。

 それゆえその黒塗くろぬりの箪笥たんすにして鎮座ちんざした将軍・家治とかいった意次おきつぐ意知おきともは家治に対して平伏へいふくしようにも、それだけのゆとりがなく、平伏へいふく出来できず、それゆえおおいに困惑こんわくした。

 将軍をまえにして平伏へいふくしないなど、おおよそゆるされないことであったからだ。

 すると意次おきつぐ意知おきとも様子ようすからそうとさっした家治は、「かまわぬ」と声をかけ、平伏へいふくするにはおよばないむね示唆しさした。

頭取とうどり小姓こしょうもここにては態々わざわざ平伏ふれふさぬものよ…」

 家治は微笑ほほえみをかべてそうくわえた。中奥なかおく兼帯けんたい…、中奥なかおくへの出入でいりがゆるされている意次おきつぐであったが、今の今まで小姓こしょう頭取とうどりか、あるいはかぎられた小姓こしょうしかりがゆるされぬここ御用之間ごようのまには流石さすがあしれたことがなかったので分からなかったが、たしかにこの間取まどりでは将軍とかいって平伏ひれふすのは無理むりであろうと、意次おきつぐ合点がてんがいった。

 まして、一介いっかい奏者番そうじゃばんぎぬ、つまりは父・意次おきつぐとはちがい、軽々けいけい中奥なかおくへとることがゆるされてはおらぬ意知おきとももうすにおよばずであった。

 ともあれ意次おきつぐ意知おきとも平伏へいふくこそしなかったものの、それでも会釈えしゃくはした。

「されば…、意次おきつぐはもうぞんじておることだが…」

 家治はまずは意次おきつぐの方をいてそう切り出すと、続けて意知おきともの方をき、

意知おきともよ、若年寄へとすすめ…」

 そうめいじたのであった。

 その瞬間しゅんかん意知おきとも時間ときまったような感覚かんかくおそわれたものである。

 いや、意知おきともとて、

「いつかは若年寄に…」

 そう夢想むそうしないわけではなかった。何しろ今の意知おきとも譜代ふだい大名にとっての所謂いわゆる

出世しゅっせ登竜門とうりゅうもん…」

 とでもぶべき奏者番そうじゃばんの地位にあった。そうであればゆくゆくは、奏者番そうじゃばん筆頭ひっとうである寺社奉行か、あるいは若年寄へと出世しゅっせたすのをのぞむのが普通ふつうであり、それは何も意知おきともかぎったことではない。

 だが意知おきともの場合、

る…」

 ほか奏者番そうじゃばん決定的けっていてきちがう点が一つあり、それはズバリ、

いま部屋住へやずみ…」

 つまりは大名ではないということであった。

 現在、14人の奏者番そうじゃばん…、その筆頭ひっとうたる4人の寺社奉行をふくめれば18人もの奏者番そうじゃばんのうち、部屋住へやずみ、つまりは大名でない者は意知おきともただ一人ひとりであった。

 譜代ふだい大名にとっての出世しゅっせ登竜門とうりゅうもん的ポストである奏者番そうじゃばんおもに、雁之間がんのまづめ諸侯しょこうの中からえらばれる傾向けいこうにあり、そしてこの雁之間がんのまめることがゆるされているのは何も、雁之間がんのまづめの大名だけにかぎらない。

 それと言うのも老中と、それに京都きょうと所司代しょしだい大坂おおざか城代じょうだい成人せいじん嫡子ちゃくしもまた、雁之間がんのまめることがゆるされており、そして意知おきともは老中・田沼たぬま意次おきつぐ成人せいじん嫡子ちゃくしゆえ、雁之間がんのまめることがゆるされ、そして2年前の天明元(1781)年12月に奏者番そうじゃばんとして見出みいだされたのであった。

 かる事情じじょうから意知おきとも奏者番そうじゃばんとして見出みいだされたのも一見いっけん不自然ふしぜんではないようにおもわれるが、しかし、これは実際じっさいには異例いれいのことであった。

 それと言うのも奏者番そうじゃばんえらばれるのはやはり何と言っても大名にかぎられるからだ。

 事実じじつ意知おきともと同じく、嫡子ちゃくしにて雁之間がんのまめることがゆるされている者…、意次おきつぐと同じく老中、それも首座しゅざである松平まつだいら康福やすよし嫡子ちゃくしである左京亮さきょうのすけ康定やすさだや、おなじく老中の久世くぜ廣明ひろあきら嫡子ちゃくしである隠岐守おきのかみ廣譽ひろやすあるいは次期じき将軍の家斉いえなりまう西之丸にしのまるの老中・鳥居とりい忠意ただおき嫡子ちゃくしである播磨守はりまのかみ忠求ただやす、それに京都きょうと所司代しょしだい牧野まきの貞長さだなが嫡子ちゃくしである兵部少輔ひょうぶしょうゆう貞喜さだよし大坂おおざか城代じょうだい戸田とだ忠寛ただとお嫡子ちゃくしである能登守のとのかみ忠翰ただなか…、彼らもまた、意知おきともおなじく雁之間がんのまづめではあるものの、しかし意知おきともとはちがい、奏者番そうじゃばんにはにんじられてはいなかったのだ。

 意知おきとものみ、奏者番そうじゃばんにんじられたのが如何いか異例いれいか分かろうというものである。

おそれながら…」

 意知おきともはやっとの思いでそう切り出すと、

「それがしよりも若年寄に相応ふさわしき者は数多あまたおりますれば…」

 若年寄への昇進しょうしん拝辞はいじしようとした。

 そもそも部屋住へやずみぎぬ、つまりは大名ですらない意知おきとも奏者番そうじゃばんとして名をつらねただけでもきわめて異例いれいであり、それゆえ意知おきともへの、

風当かぜあたり…」

 それは中々なかなかつよく、|その上、若年寄へと進もうものなら意知おきともへのそれはいよいよもってつよまろうというものである。

 第一だいいち意知おきともは2年前の天明元(1781)年に奏者番そうじゃばんにんじられたばかりである。

 そうであれば意知おきともの「先輩せんぱい」にたる奏者番そうじゃばんがそれこそ、

数多あまた…」

 存在そんざいし、意知おきともは彼ら「先輩せんぱい」こそ若年寄に相応ふさわしいと、家治に示唆しさした。

 いや、示唆しさしただけではなく、具体ぐたいめいげてみせた。

「されば牧野まきの遠江とおとうみ秋元あきもと但馬たじま松平まつだいら玄蕃げんばらがおりますれば…」

 牧野まきの遠江とおとうみとは遠江守とおとうみのかみ康満やすみつのことであり、今から21年前の宝暦12(1762)年に奏者番そうじゃばんにんじられた一番いちばん古株ふるかぶであった。

 また、秋元あきもと但馬たじまとは但馬守たじまのかみ永朝つねともで、一方、松平まつだいら玄蕃げんばとは玄蕃頭げんばのかみ忠福ただよしで二人はともに今から9年前の安永3(1774)年の、それも12月22日の同日どうじつ奏者番そうじゃばんにんじられた者であり、牧野まきの康満やすみついで古株ふるかぶであった。

「また、寺社奉行もおりますれば…」

 寺社奉行は奏者番そうじゃばん筆頭ひっとうであり、そして若年寄と寺社奉行とでは若年寄の方が若干じゃっかん格上かくうえであり、それゆえ意知おきともとしては彼ら「先輩せんぱい」やあるいは寺社奉行を、

いて…」

 若年寄へと昇進しょうしんするわけにはゆかないと、家治にそう示唆しさ、いや、懇願こんがんしたものである。

 それに対して家治はと言うと、意知おきともの気持ちは勿論もちろん分かっていたものの、しかし、頭をった。

意知おきともをおいて最早もはやほかに人はいないのだ…」

 家治のその言葉は一見いっけん、かぼそいように聞こえて、しかし、断固だんこたるひびきが感じ取られた。さしずめ、

拝辞はいじゆるさぬ…」

 そのようなひびきであろうか。

 事実、家治は意知おきとも拝辞はいじゆるすつもりはなかった。

 意知おきとももそうと看取かんしゅすると若年寄への昇進しょうしん拝辞はいじすることはあきらめたものの、しかし、

「何ゆえにいまだ、若輩じゃくはいもうさぬそれがしを…」

 若年寄へと昇進しょうしんさせるのか、将軍・家治の意向いこうたずねずにはいられなかった。

 家治としても意知おきとものこの疑問ぎもん至当しとうであるとうなずけたので、何よりそれを答えないわけにはゆかず、そこで家治はつい意知おきともに対して、のみならず、意次おきつぐに対しても、意知おきともを若年寄へと進ませる理由わけについて打ち明けることにしたのであった。

 そしてそれはまさ秘事ひじぞくするものであり、それゆえ家治はこうして態々わざわざ、将軍の秘密ひみつ部屋べやであるここ御用之間ごようのまへと意次おきつぐ意知おきともの二人をまねいたのであった。
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