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長尾幸兵衛保章の不安に対して物頭の蔭山新五郎久廣は露骨に侮辱し、近習の松平源右衛門定城も同調するも、用人の根来茂右衛門長方が叱責する。
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長尾幸兵衛保章が異議の声を張り上げたのも無理からぬことではあった。
それと言うのも長尾幸兵衛保章は元々は清水家の領地である武蔵の百姓であったが、「銭勘定」に強かったために代官所にて手代として採用、召抱えられ、長尾幸兵衛保章の代官手代としての働きぶりがやがて、ここ江戸表の清水館にまで届き、その当時は用人であった本目権右衛門親収が、
「それなれば…」
それ程までに有能な者なればということで、この清水館にて召抱えることにし、こうして長尾幸兵衛保章は武蔵の代官所から江戸の清水館へと、さしずめ、
「支社から本社へと…」
栄転を果たしたのであった。
爾来、長尾幸兵衛保章は己を取り立ててくれた本目権右衛門親収に徹底的に取り入り、それが奏効してか、長尾幸兵衛保章は今や、八役である勘定奉行へと異例とも言える栄達を遂げたのであった。
何しろ長尾幸兵衛保章は元を正せば百姓であり、それが今や御三卿の館における勘定奉行である。これを栄達、それも異例とも言える栄達と言わずして何と言おうか。
だが、御三卿が潰されてしまえば、つまりはこの清水館がなくなれば、長尾幸兵衛保章はまた、元の身分である百姓へと逆戻りである。
何しろ長尾幸兵衛保章はここ清水館にて抱入の身分で勘定奉行として仕えているわけだが、しかし生憎と武士の身分を持ち合わせてはおらず、それゆえ仮にこの勤務先とも言うべき清水館がなくなれば、長尾幸兵衛保章としては元の百姓へと戻るよりも、それも逆戻りするよりも外になく、そこが外の、武士の身分を持ち合わせている抱入とは違う点であった。御三卿の館に長く仕えたからと言って、それだけで武士に昇格できるわけではないのである。
それゆえ長尾幸兵衛保章は言ってみれば、
「我が身可愛さ…」
その思惑から異議の声を張り上げたのであり、長尾幸兵衛保章のそのような浅ましい思惑は直ぐに外の家臣にも、それも家臣一同、察せられた。
物頭を勤める蔭山新五郎久廣も勿論その一人であり、長尾幸兵衛保章のその浅ましさに思わず顔を顰めつつ、「控えよっ!」と怒鳴った。
「全く、これだから百姓上がりは困る」
蔭山新五郎久廣はそう余計な一言もとい厭味を付け加えるのも忘れなかった。
蔭山新五郎久廣は常日頃、長尾幸兵衛保章のことを毛嫌いしていた。
それと言うのも蔭山新五郎久廣は清和源氏義家流の流を汲む名族であり、のみならず、蔭山新五郎久廣の祖先の中には御三家の水戸徳川家の始祖である頼房の母堂…、生母である萬こと養珠院がいた。
蔭山新五郎久廣は斯かる名族に生まれたがゆえに殊の外、名族意識に溢れ、それが昂じて、己とは違う、つまりは名族ではないものを見下すという悪癖を持ち合わせるに至った。
そのような蔭山新五郎久廣である、元々、武士ですらない、一介の百姓に過ぎぬ長尾幸兵衛保章など眼中になかった。
いや、敢えて眼に触れぬように努めていたと言うべきであろう。名族意識に溢れる、と言うよりはそれに凝り固まっている蔭山新五郎久廣にとって、百姓に過ぎぬ長尾幸兵衛保章と共に「八役」として肩を並べることは正に、
「耐え難い屈辱…」
それに外ならなかった。
おれゆえ蔭山新五郎久廣は事ある毎に長尾幸兵衛保章を見下し、或いは露骨に侮辱してみせることで何とか心の平穏を保とうとしていた。
そのような蔭山新五郎久廣にいたく「シンパシー」を抱く者がおり、近習の松平源右衛門定城がそうであった。
松平源右衛門定城は蔭山新五郎久廣よりも更に名族であり、清和源氏義家流は久松松平の流れを汲み、それゆえにやはりと言うべきか、長尾幸兵衛保章のことを毛嫌いしており、
「全く、その通りでござる。これだから百姓上がりは…」
松平源右衛門定城はそう呼応してみせたのであった。
共に名族意識に凝り固まる蔭山新五郎と松平源右衛門定城は仲が良く、しかしそれゆえに基本的には「アットホーム」な家風の清水館において二人の存在は異質なものであった。いや、異質を通り越して、家風を乱す目障りな存在であった。
「久廣、定城、両名共に控えぬか」
清水館における「重石」とも言うべき根来茂右衛門長方がそんな二人を叱責した。
「保章もまた、そなたらと同じく、畏れ多くも重好様の股肱の臣なるぞ。その保章を然様に悪し様に罵るは、保章を股肱の臣とせし重好様をも罵るも同然ぞ」
根来茂右衛門長方は諭すようにそう言うと、さしもの蔭山新五郎久廣にしろ松平源右衛門定城にしろ、返す言葉もなく、項垂れるより外になかった。
根来茂右衛門長方は二人が口を噤んだところで、改めて重好の方を向き、重好に対して改めて叩頭してみせた。
一方、重好はそんな根来茂右衛門長方に対して深々と頷いてみせた。
それから重好は気を取り直した様子にて、「されば…」と切り出すや、
「実際には上様が御三卿を潰そうなどとは…、左様なる思し召しをお持ちあそばされているとも思えなんだがな…」
微苦笑を浮かべつつ、そう付け加えることで、長尾幸兵衛保章の「不安」を払拭してみせることに努めた。
それと言うのも長尾幸兵衛保章は元々は清水家の領地である武蔵の百姓であったが、「銭勘定」に強かったために代官所にて手代として採用、召抱えられ、長尾幸兵衛保章の代官手代としての働きぶりがやがて、ここ江戸表の清水館にまで届き、その当時は用人であった本目権右衛門親収が、
「それなれば…」
それ程までに有能な者なればということで、この清水館にて召抱えることにし、こうして長尾幸兵衛保章は武蔵の代官所から江戸の清水館へと、さしずめ、
「支社から本社へと…」
栄転を果たしたのであった。
爾来、長尾幸兵衛保章は己を取り立ててくれた本目権右衛門親収に徹底的に取り入り、それが奏効してか、長尾幸兵衛保章は今や、八役である勘定奉行へと異例とも言える栄達を遂げたのであった。
何しろ長尾幸兵衛保章は元を正せば百姓であり、それが今や御三卿の館における勘定奉行である。これを栄達、それも異例とも言える栄達と言わずして何と言おうか。
だが、御三卿が潰されてしまえば、つまりはこの清水館がなくなれば、長尾幸兵衛保章はまた、元の身分である百姓へと逆戻りである。
何しろ長尾幸兵衛保章はここ清水館にて抱入の身分で勘定奉行として仕えているわけだが、しかし生憎と武士の身分を持ち合わせてはおらず、それゆえ仮にこの勤務先とも言うべき清水館がなくなれば、長尾幸兵衛保章としては元の百姓へと戻るよりも、それも逆戻りするよりも外になく、そこが外の、武士の身分を持ち合わせている抱入とは違う点であった。御三卿の館に長く仕えたからと言って、それだけで武士に昇格できるわけではないのである。
それゆえ長尾幸兵衛保章は言ってみれば、
「我が身可愛さ…」
その思惑から異議の声を張り上げたのであり、長尾幸兵衛保章のそのような浅ましい思惑は直ぐに外の家臣にも、それも家臣一同、察せられた。
物頭を勤める蔭山新五郎久廣も勿論その一人であり、長尾幸兵衛保章のその浅ましさに思わず顔を顰めつつ、「控えよっ!」と怒鳴った。
「全く、これだから百姓上がりは困る」
蔭山新五郎久廣はそう余計な一言もとい厭味を付け加えるのも忘れなかった。
蔭山新五郎久廣は常日頃、長尾幸兵衛保章のことを毛嫌いしていた。
それと言うのも蔭山新五郎久廣は清和源氏義家流の流を汲む名族であり、のみならず、蔭山新五郎久廣の祖先の中には御三家の水戸徳川家の始祖である頼房の母堂…、生母である萬こと養珠院がいた。
蔭山新五郎久廣は斯かる名族に生まれたがゆえに殊の外、名族意識に溢れ、それが昂じて、己とは違う、つまりは名族ではないものを見下すという悪癖を持ち合わせるに至った。
そのような蔭山新五郎久廣である、元々、武士ですらない、一介の百姓に過ぎぬ長尾幸兵衛保章など眼中になかった。
いや、敢えて眼に触れぬように努めていたと言うべきであろう。名族意識に溢れる、と言うよりはそれに凝り固まっている蔭山新五郎久廣にとって、百姓に過ぎぬ長尾幸兵衛保章と共に「八役」として肩を並べることは正に、
「耐え難い屈辱…」
それに外ならなかった。
おれゆえ蔭山新五郎久廣は事ある毎に長尾幸兵衛保章を見下し、或いは露骨に侮辱してみせることで何とか心の平穏を保とうとしていた。
そのような蔭山新五郎久廣にいたく「シンパシー」を抱く者がおり、近習の松平源右衛門定城がそうであった。
松平源右衛門定城は蔭山新五郎久廣よりも更に名族であり、清和源氏義家流は久松松平の流れを汲み、それゆえにやはりと言うべきか、長尾幸兵衛保章のことを毛嫌いしており、
「全く、その通りでござる。これだから百姓上がりは…」
松平源右衛門定城はそう呼応してみせたのであった。
共に名族意識に凝り固まる蔭山新五郎と松平源右衛門定城は仲が良く、しかしそれゆえに基本的には「アットホーム」な家風の清水館において二人の存在は異質なものであった。いや、異質を通り越して、家風を乱す目障りな存在であった。
「久廣、定城、両名共に控えぬか」
清水館における「重石」とも言うべき根来茂右衛門長方がそんな二人を叱責した。
「保章もまた、そなたらと同じく、畏れ多くも重好様の股肱の臣なるぞ。その保章を然様に悪し様に罵るは、保章を股肱の臣とせし重好様をも罵るも同然ぞ」
根来茂右衛門長方は諭すようにそう言うと、さしもの蔭山新五郎久廣にしろ松平源右衛門定城にしろ、返す言葉もなく、項垂れるより外になかった。
根来茂右衛門長方は二人が口を噤んだところで、改めて重好の方を向き、重好に対して改めて叩頭してみせた。
一方、重好はそんな根来茂右衛門長方に対して深々と頷いてみせた。
それから重好は気を取り直した様子にて、「されば…」と切り出すや、
「実際には上様が御三卿を潰そうなどとは…、左様なる思し召しをお持ちあそばされているとも思えなんだがな…」
微苦笑を浮かべつつ、そう付け加えることで、長尾幸兵衛保章の「不安」を払拭してみせることに努めた。
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