71 / 162
仙台藩陪臣の工藤平助の四女である栲子は定姫の姉である種姫の代わりとして田安館の奥女中として採用された。3
しおりを挟む
寶蓮院はこうして義理の姪に当たる年子に対して事の次第を告げた上で、種姫の代わりが…、定姫の姉代わりが務まるような仙台藩士の子女を紹介してくれるよう頼んだのであった。
即ち、種姫が次期将軍たる家基の婚約者含みで将軍・家治の養女として江戸城本丸大奥へと招かれた安永4(1775)年11月朔日から暫らく経った中頃、寶蓮院は年子が住まう芝口三丁目にある仙台藩伊達家の上屋敷へと自ら足を運び、そこで年子に直に頼んだのであった。
「出来得れば江戸詰ではのうて、御国許の藩士の子女が望ましい…」
ここ江戸にて…、江戸にある仙台藩邸にて勤める藩士の子女ではなく、国許である仙台にて勤める藩士の子女が望ましい…、それが寶蓮院が年子に提示した「リクエスト」であった。
だがそれに対して年子から返ってきた答えは意外なものであった。
即ち、意外にも仙台の地にはそのような者はいないとのことであった。
いや、田安館に仕えるに相応しい女子なればそれこそ、
「掃いて捨てる程…」
それ程までに存した。が、種姫の代わり…、定姫の姉代わりともなると、年齢の点から仙台の地にはいなかった。
「なれど、江戸詰なれば…」
江戸藩邸にて勤める藩士の子女なればそれらしき者がいるとの年子の返答にしかし、寶蓮院は当初、難色を示した。
それと言うのも寶蓮院が求める種姫の代わり…、定姫の姉代わりが務まる、言ってみれば、
「女中像…」
それは純朴な者であり、しかし、江戸詰の藩士の子女ともなると、
「すれている…」
それゆえ寶蓮院が求める「女中像」からは畢竟、
「かけ離れたものではあるまいか…」
寶蓮院はそう思えばこそ難色を示したわけである。
だが、現実問題、年齢の点から江戸詰の藩士の子女をおいては外に種姫の代わり、即ち、定姫の代わりが務まる者がいないのも事実であり、そこで寶蓮院はとりあえず年子に対してその江戸詰の藩士の名を訊ねたのであった。
その結果、年子が教えてくれたのが工藤平助であった。
驚いたことに工藤平助は江戸詰…、江戸藩邸にて勤める藩士でありながら、藩邸内の長屋には住んではおらず、何と藩邸外にて屋敷を構え、そこで家族と共に暮らしていたのだ。
年子よりそうと聞かされた寶蓮院はまずは仰天したものである。
それと言うのも江戸詰…、江戸藩邸にて勤める藩士が江戸にて家族と共に暮らすなど、
「絶対に…」
そう前置きしても差し支えない程にあり得ないことであったからだ。
江戸藩邸にて勤める藩士は藩邸内の長屋にて暮らすのが規則であり、それも、
「単身赴任…」
それが規則であった。
それを裏付けるが如く、藩邸内の長屋に女子を連れ込むことは御法度であり、それは例え妻女であったとしてもだ。
仮に江戸藩邸内の長屋に妻女を連れ込もうものなら厳罰は免れ得ない。
これは各藩に共通し、ゆえに仙台藩伊達家とてその例外ではなかった。
にもかかわらず工藤平助には極めて「イレギュラー」とも言える待遇が許されていた。
寶蓮院は仰天が治まるや、次いで何ゆえに工藤平助には斯かる「特別待遇」が許されているのかと、その疑問が浮かび、年子にその疑問をぶつけてみた。
すると年子によると工藤平助は仙台藩士とは言え、その身は、
「客分…」
そのような扱いであり、それゆえに江戸詰でありながら、藩邸内の長屋で暮らすことなく、藩邸外に設けた私邸にて家族と共に暮らすことが特に許されたそうだ。
年子よりそうと聞かされた寶蓮院はいよいよもって工藤平助の子女が果たして定姫の姉代わりが務まるものかと疑問に思えてきた。それと言うのもそのような「特別待遇」が許されている工藤平助の子女ともなると、相当に、
「すれているのではあるまいか…」
寶蓮院にはそう思えてならなかったからである。
それでもとりあえず実際に「面接」してみないことには分からぬと、寶蓮院は年子に対してその工藤平助の子女を紹介してくれるよう頼んだのであった。
年子は寶蓮院のその頼みを勿論、快諾するや、まずはこの旨、夫にして仙台藩伊達家の当主たる重村に話を通す必要があると、そうと判断した年子はここ上屋敷にて、
「久方ぶりに…」
暮らす夫・重村の許へと馳せ参じ、この旨、伝えたのであった。
安永4年(1775)年は未年であり、仙台藩伊達家の当主にとってはちょうど参府…、参勤交代により江戸に来る年に当たり、重村はこれより…、11月中頃よりも半年以上前、それも7ヶ月前の4月に参府し、同月15日の月次御礼に合わせて江戸城に登城するや、将軍・家治に対して、
「参観…」
その挨拶をしたものである。
ちなみに暇…、国許である仙台の地へと帰る年ともなると、重村と年子は離れ離れとなる。夫婦揃って帰国することなど許されないからであり、
「久方ぶりに…」
暮らす夫・重村とはつまりはこういう意味であった。
ともあれ寶蓮院にとっては、そして寶蓮院より依頼を受けた年子にとっても、この年…、安永4(1775)年が重村の参府の年であったということは真にもって都合が良かった。
これで逆に暇…、国許である仙台の地へと帰る年であったならば、それも既に江戸から遥か遠い仙台の地へと帰国していた後であったならば、一々、書状にてやり取りしなければならぬところであったからだ。
これでスマホといった便利なる通信機器でもあれば、例え、江戸から遥か遠い仙台の地に夫・重村がいたとしても、スマホ一つにて、工藤平助の子女を田安館の女中として採用したい旨、重村に告げた上でその許しを得られるところであろうが、生憎、この時代はまだスマホといった便利なる通信機器はそれこそ、
「影も形も…」
ないというものであった。
さて、年子は夫・重村にこの旨、伝えるべく重村の許へと足を運んだ。
寶蓮院の来訪は不意のものであったが、しかし、寶蓮院は何といっても御三卿のそれも筆頭格たる田安家の始祖である宗武の室にして、その上、将軍・家治の養女として迎えられた種姫の養母ということもあり、寶蓮院が仙台藩伊達家の上屋敷に姿を見せるや、重村自ら寶蓮院に挨拶をしたものだが、その後はすぐに年子に「バトンタッチ」、奥へと引っ込んだ。寶蓮院と年子の二人きりにさせてやるためであり、
「寶蓮院様とつもる話もあろう…」
愛妻家でもある重村らしい判断からであった。
それでも重村は年子より事の次第を…、寶蓮院の頼みを聞かされるや、年子と共に再び、寶蓮院の許へと出向くと、その頼みを快諾した上で、工藤平助には4人の娘がおり、そのうちの誰を女中として雇うかそれを訊ねた。
それに対して寶蓮院はとりあえず4人全員を見定めてみたいと、そう答えるや、重村は驚いたことに早速、工藤平助に「つなぎ」を取るや、寶蓮院が待つこの上屋敷へと、そして寶蓮院の御前に4人の娘を連れて来させたのであった。
さて、工藤平助の4人の娘だが長女は「あや」なる女子であり、宝暦13(1763)年生まれの12歳であり、案の定と言うべきか、寶蓮院が危惧した通り、
「すれていた…」
それも相当にすれているように見えた。いや、利発な女子であることは寶蓮院にも直ぐにそうと察せられ、その点、奥女中としては申し分なかったが、しかし、定姫の姉代わりとしては不適任と言えた。
寶蓮院は次いで次女の「しず」と三女の「つね」も見定めたが、「しず」にしろ「つね」にしろ、二人もまた、姉である「あや」と同じく如何にも利発そうであったが、同時に如何にもすれていた。
そして寶蓮院は最後に末娘である四女の「たえ」を見定めた。
するとこの「たえ」だけは上の三人の姉とは違い、すれたところがなかった。少なくとも寶蓮院の眼にはそのように映った。
利発か否かという観点からみれば、この「たえ」は寶蓮院の眼には凡庸そうに映ったものの、しかしそれは上の三人の姉と較べてみた場合の話であり、全くの白痴ではなく、磨けば上の三人の姉以上の「もの」になるであろうことは間違いなく、
「教育のし甲斐がある…」
というものであった。
また、種姫とは一つ違い…、一歳年下というのも気に入り、何より「たえ」には寶蓮院が求めていた
「純朴さ…」
それを持ち合わせているように思え、そこで寶蓮院はこの「たえ」を田安館の奥女中として迎えることにしたのであった。
こうして「たえ」は田安館へと迎えられると、寶蓮院によって、
「栲子…」
新たにその名が与えられたのであった。
そして「たえ」改め「栲子」は定姫に仕える奥女中として寶蓮院と共に、種姫に付き随って江戸城本丸大奥入りを果たした向坂に代わって新たに田安館の老女となった廣瀬からの教育を受けつつ、定姫の姉代わりをも務めたのであった。
即ち、種姫が次期将軍たる家基の婚約者含みで将軍・家治の養女として江戸城本丸大奥へと招かれた安永4(1775)年11月朔日から暫らく経った中頃、寶蓮院は年子が住まう芝口三丁目にある仙台藩伊達家の上屋敷へと自ら足を運び、そこで年子に直に頼んだのであった。
「出来得れば江戸詰ではのうて、御国許の藩士の子女が望ましい…」
ここ江戸にて…、江戸にある仙台藩邸にて勤める藩士の子女ではなく、国許である仙台にて勤める藩士の子女が望ましい…、それが寶蓮院が年子に提示した「リクエスト」であった。
だがそれに対して年子から返ってきた答えは意外なものであった。
即ち、意外にも仙台の地にはそのような者はいないとのことであった。
いや、田安館に仕えるに相応しい女子なればそれこそ、
「掃いて捨てる程…」
それ程までに存した。が、種姫の代わり…、定姫の姉代わりともなると、年齢の点から仙台の地にはいなかった。
「なれど、江戸詰なれば…」
江戸藩邸にて勤める藩士の子女なればそれらしき者がいるとの年子の返答にしかし、寶蓮院は当初、難色を示した。
それと言うのも寶蓮院が求める種姫の代わり…、定姫の姉代わりが務まる、言ってみれば、
「女中像…」
それは純朴な者であり、しかし、江戸詰の藩士の子女ともなると、
「すれている…」
それゆえ寶蓮院が求める「女中像」からは畢竟、
「かけ離れたものではあるまいか…」
寶蓮院はそう思えばこそ難色を示したわけである。
だが、現実問題、年齢の点から江戸詰の藩士の子女をおいては外に種姫の代わり、即ち、定姫の代わりが務まる者がいないのも事実であり、そこで寶蓮院はとりあえず年子に対してその江戸詰の藩士の名を訊ねたのであった。
その結果、年子が教えてくれたのが工藤平助であった。
驚いたことに工藤平助は江戸詰…、江戸藩邸にて勤める藩士でありながら、藩邸内の長屋には住んではおらず、何と藩邸外にて屋敷を構え、そこで家族と共に暮らしていたのだ。
年子よりそうと聞かされた寶蓮院はまずは仰天したものである。
それと言うのも江戸詰…、江戸藩邸にて勤める藩士が江戸にて家族と共に暮らすなど、
「絶対に…」
そう前置きしても差し支えない程にあり得ないことであったからだ。
江戸藩邸にて勤める藩士は藩邸内の長屋にて暮らすのが規則であり、それも、
「単身赴任…」
それが規則であった。
それを裏付けるが如く、藩邸内の長屋に女子を連れ込むことは御法度であり、それは例え妻女であったとしてもだ。
仮に江戸藩邸内の長屋に妻女を連れ込もうものなら厳罰は免れ得ない。
これは各藩に共通し、ゆえに仙台藩伊達家とてその例外ではなかった。
にもかかわらず工藤平助には極めて「イレギュラー」とも言える待遇が許されていた。
寶蓮院は仰天が治まるや、次いで何ゆえに工藤平助には斯かる「特別待遇」が許されているのかと、その疑問が浮かび、年子にその疑問をぶつけてみた。
すると年子によると工藤平助は仙台藩士とは言え、その身は、
「客分…」
そのような扱いであり、それゆえに江戸詰でありながら、藩邸内の長屋で暮らすことなく、藩邸外に設けた私邸にて家族と共に暮らすことが特に許されたそうだ。
年子よりそうと聞かされた寶蓮院はいよいよもって工藤平助の子女が果たして定姫の姉代わりが務まるものかと疑問に思えてきた。それと言うのもそのような「特別待遇」が許されている工藤平助の子女ともなると、相当に、
「すれているのではあるまいか…」
寶蓮院にはそう思えてならなかったからである。
それでもとりあえず実際に「面接」してみないことには分からぬと、寶蓮院は年子に対してその工藤平助の子女を紹介してくれるよう頼んだのであった。
年子は寶蓮院のその頼みを勿論、快諾するや、まずはこの旨、夫にして仙台藩伊達家の当主たる重村に話を通す必要があると、そうと判断した年子はここ上屋敷にて、
「久方ぶりに…」
暮らす夫・重村の許へと馳せ参じ、この旨、伝えたのであった。
安永4年(1775)年は未年であり、仙台藩伊達家の当主にとってはちょうど参府…、参勤交代により江戸に来る年に当たり、重村はこれより…、11月中頃よりも半年以上前、それも7ヶ月前の4月に参府し、同月15日の月次御礼に合わせて江戸城に登城するや、将軍・家治に対して、
「参観…」
その挨拶をしたものである。
ちなみに暇…、国許である仙台の地へと帰る年ともなると、重村と年子は離れ離れとなる。夫婦揃って帰国することなど許されないからであり、
「久方ぶりに…」
暮らす夫・重村とはつまりはこういう意味であった。
ともあれ寶蓮院にとっては、そして寶蓮院より依頼を受けた年子にとっても、この年…、安永4(1775)年が重村の参府の年であったということは真にもって都合が良かった。
これで逆に暇…、国許である仙台の地へと帰る年であったならば、それも既に江戸から遥か遠い仙台の地へと帰国していた後であったならば、一々、書状にてやり取りしなければならぬところであったからだ。
これでスマホといった便利なる通信機器でもあれば、例え、江戸から遥か遠い仙台の地に夫・重村がいたとしても、スマホ一つにて、工藤平助の子女を田安館の女中として採用したい旨、重村に告げた上でその許しを得られるところであろうが、生憎、この時代はまだスマホといった便利なる通信機器はそれこそ、
「影も形も…」
ないというものであった。
さて、年子は夫・重村にこの旨、伝えるべく重村の許へと足を運んだ。
寶蓮院の来訪は不意のものであったが、しかし、寶蓮院は何といっても御三卿のそれも筆頭格たる田安家の始祖である宗武の室にして、その上、将軍・家治の養女として迎えられた種姫の養母ということもあり、寶蓮院が仙台藩伊達家の上屋敷に姿を見せるや、重村自ら寶蓮院に挨拶をしたものだが、その後はすぐに年子に「バトンタッチ」、奥へと引っ込んだ。寶蓮院と年子の二人きりにさせてやるためであり、
「寶蓮院様とつもる話もあろう…」
愛妻家でもある重村らしい判断からであった。
それでも重村は年子より事の次第を…、寶蓮院の頼みを聞かされるや、年子と共に再び、寶蓮院の許へと出向くと、その頼みを快諾した上で、工藤平助には4人の娘がおり、そのうちの誰を女中として雇うかそれを訊ねた。
それに対して寶蓮院はとりあえず4人全員を見定めてみたいと、そう答えるや、重村は驚いたことに早速、工藤平助に「つなぎ」を取るや、寶蓮院が待つこの上屋敷へと、そして寶蓮院の御前に4人の娘を連れて来させたのであった。
さて、工藤平助の4人の娘だが長女は「あや」なる女子であり、宝暦13(1763)年生まれの12歳であり、案の定と言うべきか、寶蓮院が危惧した通り、
「すれていた…」
それも相当にすれているように見えた。いや、利発な女子であることは寶蓮院にも直ぐにそうと察せられ、その点、奥女中としては申し分なかったが、しかし、定姫の姉代わりとしては不適任と言えた。
寶蓮院は次いで次女の「しず」と三女の「つね」も見定めたが、「しず」にしろ「つね」にしろ、二人もまた、姉である「あや」と同じく如何にも利発そうであったが、同時に如何にもすれていた。
そして寶蓮院は最後に末娘である四女の「たえ」を見定めた。
するとこの「たえ」だけは上の三人の姉とは違い、すれたところがなかった。少なくとも寶蓮院の眼にはそのように映った。
利発か否かという観点からみれば、この「たえ」は寶蓮院の眼には凡庸そうに映ったものの、しかしそれは上の三人の姉と較べてみた場合の話であり、全くの白痴ではなく、磨けば上の三人の姉以上の「もの」になるであろうことは間違いなく、
「教育のし甲斐がある…」
というものであった。
また、種姫とは一つ違い…、一歳年下というのも気に入り、何より「たえ」には寶蓮院が求めていた
「純朴さ…」
それを持ち合わせているように思え、そこで寶蓮院はこの「たえ」を田安館の奥女中として迎えることにしたのであった。
こうして「たえ」は田安館へと迎えられると、寶蓮院によって、
「栲子…」
新たにその名が与えられたのであった。
そして「たえ」改め「栲子」は定姫に仕える奥女中として寶蓮院と共に、種姫に付き随って江戸城本丸大奥入りを果たした向坂に代わって新たに田安館の老女となった廣瀬からの教育を受けつつ、定姫の姉代わりをも務めたのであった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
7
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる