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仙台藩陪臣の工藤平助の四女である栲子は定姫の姉である種姫の代わりとして田安館の奥女中として採用された。3

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 寶蓮院ほうれんいんはこうして義理ぎりめいたる年子のぶこに対してこと次第しだいげた上で、種姫たねひめわりが…、定姫さだひめあねわりがつとまるような仙台せんだい藩士はんし子女しじょ紹介しょうかいしてくれるようたのんだのであった。

 すなわち、種姫たねひめが次期将軍たる家基いえもと婚約者こんやくしゃぶくみで将軍・家治の養女ようじょとして江戸城本丸ほんまる大奥おおおくへとまねかれた安永4(1775)年11月朔日ついたちからしばらくった中頃なかごろ寶蓮院ほうれんいん年子のぶこまう芝口しばぐち三丁目にある仙台藩せんだいはん伊達だて家の上屋敷かみやしきへとみずから足を運び、そこで年子のぶこじかたのんだのであった。

出来できれば江戸えどづめではのうて、御国許おくにもと藩士はんし子女しじょのぞましい…」

 ここ江戸えどにて…、江戸えどにある仙台せんだい藩邸はんていにてつとめる藩士はんし子女しじょではなく、国許くにもとである仙台せんだいにてつとめる藩士はんし子女しじょのぞましい…、それが寶蓮院ほうれんいん年子のぶこ提示ていじした「リクエスト」であった。

 だがそれに対して年子のぶこからかえってきたこたえは意外いがいなものであった。

 すなわち、意外いがいにも仙台せんだいの地にはそのような者はいないとのことであった。

 いや、田安たやすやかたつかえるに相応ふさわしい女子おなごなればそれこそ、

いててるほど…」

 それほどまでにそんした。が、種姫たねひめわり…、定姫さだひめあねわりともなると、年齢としの点から仙台せんだいの地にはいなかった。

「なれど、江戸えどづめなれば…」

 江戸えど藩邸はんていにてつとめる藩士はんし子女しじょなればそれらしき者がいるとの年子のぶこ返答へんとうにしかし、寶蓮院ほうれんいん当初とうしょ難色なんしょくしめした。

 それと言うのも寶蓮院ほうれんいんもとめる種姫たねひめわり…、定姫さだひめあねわりがつとまる、言ってみれば、

女中じょちゅうぞう…」

 それは純朴じゅんぼくな者であり、しかし、江戸えどづめ藩士はんし子女しじょともなると、

「すれている…」

 それゆえ寶蓮院ほうれんいんもとめる「女中じょちゅうぞう」からは畢竟ひっきょう

「かけはなれたものではあるまいか…」

 寶蓮院ほうれんいんはそう思えばこそ難色なんしょくしめしたわけである。

 だが、現実げんじつ問題もんだい年齢としの点から江戸えどづめ藩士はんし子女しじょをおいてはほか種姫たねひめわり、すなわち、定姫さだひめわりがつとまる者がいないのも事実であり、そこで寶蓮院ほうれんいんはとりあえず年子のぶこに対してその江戸えどづめ藩士はんしの名をたずねたのであった。

 その結果、年子のぶこが教えてくれたのが工藤くどう平助へいすけであった。

 驚いたことに工藤くどう平助へいすけ江戸えどづめ…、江戸えど藩邸はんていにてつとめる藩士はんしでありながら、藩邸はんていない長屋ながやにはんではおらず、何と藩邸はんていがいにて屋敷やしきかまえ、そこで家族とともらしていたのだ。

 年子のぶこよりそうと聞かされた寶蓮院ほうれんいんはまずは仰天ぎょうてんしたものである。

 それと言うのも江戸えどづめ…、江戸えど藩邸はんていにてつとめる藩士はんし江戸えどにて家族かぞくともらすなど、

絶対ぜったいに…」

 そう前置まえおきしてもつかえないほどにありないことであったからだ。

 江戸えど藩邸はんていにてつとめる藩士はんし藩邸はんていない長屋ながやにてらすのが規則きそくであり、それも、

単身たんしん赴任ふにん…」

 それが規則きそくであった。

 それを裏付うらづけるがごとく、藩邸はんていない長屋ながや女子おなごむことは御法度ごはっとであり、それは例え妻女さいじょであったとしてもだ。

 かり江戸えど藩邸はんていない長屋ながや妻女さいじょもうものなら厳罰げんばつまぬがない。

 これは各藩かくはん共通きょうつうし、ゆえに仙台藩せんだいはん伊達だて家とてその例外れいがいではなかった。

 にもかかわらず工藤くどう平助へいすけにはきわめて「イレギュラー」とも言える待遇たいぐうゆるされていた。

 寶蓮院ほうれんいん仰天ぎょうてんおさまるや、いで何ゆえに工藤くどう平助へいすけにはかる「特別待遇とくべつたいぐう」がゆるされているのかと、その疑問ぎもんかび、年子のぶこにその疑問ぎもんをぶつけてみた。

 すると年子のぶこによると工藤くどう平助へいすけ仙台せんだい藩士はんしとは言え、そのは、

客分きゃくぶん…」

 そのようなあつかいであり、それゆえに江戸えどづめでありながら、藩邸はんていない長屋ながやらすことなく、藩邸はんていがいもうけた私邸していにて家族かぞくともらすことが特にゆるされたそうだ。

 年子のぶこよりそうとかされた寶蓮院ほうれんいんはいよいよもって工藤くどう平助へいすけ子女しじょたして定姫さだひめあねわりがつとまるものかと疑問ぎもんに思えてきた。それと言うのもそのような「特別待遇とくべつたいぐう」がゆるされている工藤くどう平助へいすけ子女しじょともなると、相当そうとうに、

「すれているのではあるまいか…」

 寶蓮院ほうれんいんにはそう思えてならなかったからである。

 それでもとりあえず実際じっさいに「面接めんせつ」してみないことには分からぬと、寶蓮院ほうれんいん年子のぶこに対してその工藤くどう平助へいすけ子女しじょ紹介しょうかいしてくれるようたのんだのであった。

 年子のぶこ寶蓮院ほうれんいんのそのたのみを勿論もちろん快諾かいだくするや、まずはこのむね、夫にして仙台藩せんだいはん伊達だて家の当主とうしゅたる重村しげむらに話を通す必要ひつようがあると、そうと判断はんだんした年子のぶこはここ上屋敷かみやしきにて、

久方ひさかたぶりに…」

 らす夫・重村しげむらもとへとさんじ、このむね、伝えたのであった。

 安永4年(1775)年は未年ひつじどしであり、仙台藩せんだいはん伊達だて家の当主とうしゅにとってはちょうど参府さんぷ…、参勤さんきん交代こうたいにより江戸にる年に当たり、重村しげむらはこれより…、11月中頃なかごろよりも半年はんとし以上前、それも7ヶ月前の4月に参府さんぷし、同月どうげつ15日の月次つきなみ御礼おんれいに合わせて江戸城に登城とじょうするや、将軍・家治に対して、

参観さんかん…」

 その挨拶あいさつをしたものである。

 ちなみにいとま…、国許くにもとである仙台せんだいの地へとかえる年ともなると、重村しげむら年子のぶこはなばなれとなる。夫婦そろって帰国きこくすることなどゆるされないからであり、

久方ひさかたぶりに…」

 らす夫・重村しげむらとはつまりはこういう意味であった。

 ともあれ寶蓮院ほうれんいんにとっては、そして寶蓮院ほうれんいんより依頼いらいけた年子のぶこにとっても、この年…、安永4(1775)年が重村しげむら参府さんぷの年であったということはまことにもって都合つごうが良かった。

 これで逆にいとま…、国許くにもとである仙台せんだいの地へとかえる年であったならば、それもすでに江戸からはるとお仙台せんだいの地へと帰国きこくしていた後であったならば、一々いちいち書状しょじょうにてやり取りしなければならぬところであったからだ。

 これでスマホといった便利べんりなる通信つうしん機器ききでもあれば、例え、江戸えどからはるとお仙台せんだいの地に夫・重村しげむらがいたとしても、スマホ一つにて、工藤くどう平助へいすけ子女しじょ田安たやすやかた女中じょちゅうとして採用さいようしたいむね重村しげむらげた上でそのゆるしを得られるところであろうが、生憎あいにく、この時代はまだスマホといった便利べんりなる通信つうしん機器ききはそれこそ、

かげかたちも…」

 ないというものであった。

 さて、年子のぶこは夫・重村しげむらにこのむね、伝えるべく重村しげむらもとへと足を運んだ。

 寶蓮院ほうれんいん来訪らいほう不意ふいのものであったが、しかし、寶蓮院ほうれんいんは何といっても御三卿ごさんきょうのそれも筆頭ひっとうかくたる田安たやす家の始祖しそである宗武むねたけしつにして、その上、将軍・家治の養女ようじょとしてむかえられた種姫たねひめ養母ようぼということもあり、寶蓮院ほうれんいん仙台藩せんだいはん伊達だて家の上屋敷かみやしき姿すがたを見せるや、重村しげむらみずか寶蓮院ほうれんいん挨拶あいさつをしたものだが、その後はすぐに年子のぶこに「バトンタッチ」、おくへとんだ。寶蓮院ほうれんいん年子のぶこの二人きりにさせてやるためであり、

寶蓮院ほうれんいん様とつもる話もあろう…」

 愛妻家あいさいかでもある重村しげむららしい判断からであった。

 それでも重村しげむら年子のぶこよりこと次第しだいを…、寶蓮院ほうれんいんたのみを聞かされるや、年子のぶこと共にふたたび、寶蓮院ほうれんいんもとへと出向でむくと、そのたのみを快諾かいだくした上で、工藤くどう平助へいすけには4人の娘がおり、そのうちの誰を女中じょちゅうとしてやとうかそれをたずねた。

 それに対して寶蓮院ほうれんいんはとりあえず4人全員を見定みさだめてみたいと、そう答えるや、重村しげむらおどろいたことに早速さっそく工藤くどう平助へいすけに「つなぎ」を取るや、寶蓮院ほうれんいんが待つこの上屋敷かみやしきへと、そして寶蓮院ほうれんいん御前ごぜんに4人の娘を連れてさせたのであった。

 さて、工藤くどう平助へいすけの4人の娘だが長女ちょうじょは「あや」なる女子おなごであり、宝暦13(1763)年生まれの12歳であり、あんじょうと言うべきか、寶蓮院ほうれんいん危惧きぐした通り、

「すれていた…」

 それも相当そうとうにすれているように見えた。いや、利発りはつ女子おなごであることは寶蓮院ほうれんいんにもぐにそうとさっせられ、その点、奥女中おくじょちゅうとしてはもうぶんなかったが、しかし、定姫さだひめあねわりとしては不適任ふてきにんと言えた。

 寶蓮院ほうれんいんいで次女じじょの「しず」と三女さんじょの「つね」も見定みさだめたが、「しず」にしろ「つね」にしろ、二人もまた、姉である「あや」と同じく如何いかにも利発りはつそうであったが、同時どうじ如何いかにもすれていた。

 そして寶蓮院ほうれんいん最後さいご末娘すえむすめである四女よんじょの「たえ」を見定みさだめた。

 するとこの「たえ」だけは上の三人のあねとはちがい、すれたところがなかった。すくなくとも寶蓮院ほうれんいんの眼にはそのようにうつった。

 利発りはついなかという観点かんてんからみれば、この「たえ」は寶蓮院ほうれんいんの眼には凡庸ぼんようそうにうつったものの、しかしそれは上の三人のあねくらべてみた場合の話であり、まったくの白痴はくちではなく、みがけば上の三人のあね以上の「もの」になるであろうことは間違まちがいなく、

「教育のし甲斐がいがある…」

 というものであった。

 また、種姫たねひめとは一つ違い…、一歳年下というのも気に入り、何より「たえ」には寶蓮院ほうれんいんが求めていた

純朴じゅんぼくさ…」

 それを持ち合わせているように思え、そこで寶蓮院ほうれんいんはこの「たえ」を田安たやすやかた奥女中おくじょちゅうとしてむかえることにしたのであった。

 こうして「たえ」は田安たやすやかたへとむかえられると、寶蓮院ほうれんいんによって、

栲子たえこ…」

 あらたにその名が与えられたのであった。

 そして「たえ」改め「栲子たえこ」は定姫さだひめつかえる奥女中おくじょちゅうとして寶蓮院ほうれんいんと共に、種姫たねひめしたがって江戸城本丸ほんまる大奥おおおくりをたした向坂さきさかわってあらたに田安たやすやかた老女ろうじょとなった廣瀬ひろせからの教育を受けつつ、定姫さだひめあねわりをもつとめたのであった。
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