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仙台藩陪臣の工藤平助の四女である栲子は定姫の姉である種姫の代わりとして田安館の奥女中として採用された。1

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 いや、実を言えば寶蓮院ほうれんいん種姫たねひめ定姫さだひめ実母じつぼではなかった。

 種姫たねひめ定姫さだひめ寶蓮院ほうれんいんが夫・宗武むねたけがその側妾そくしょうたる登耶とやこと香詮院こうせんいんに産ませた姉妹しまいであり、この登耶とやこと香詮院こうせんいんは他にも長女の淑姫すえひめや、それにわずか6歳で夭折ようせつした長男の友菊ともぎく伊予いよ松山まつやま藩主の松平まつだいら定静さだきよ養嗣子ようししとしてむかえられた次男・定國さだくに、そして陸奥むつ白河しらかわ藩主の松平まつだいら定邦さだくに養嗣子ようししとしてむかえられた三男・定信さだのぶ宗武むねたけとの間に宿やどしたものであり、それゆえ種姫たねひめは次女、定姫さだひめは三女にして末娘すえむすめであった。

 登耶とやこと香仙院こうせんいんは明和4(1767)年、宗武むねたけとの間に末娘すえむすめに当たる定姫さだひめをもうけると間もなくしてくなり、爾来じらい宗武むねたけ正室せいしつであった寶蓮院ほうれんいん種姫たねひめとそして生まれたばかりの定姫さだひめ姉妹しまいおやわりをつとめ、寶蓮院ほうれんいんはこの種姫たねひめ定姫さだひめ姉妹しまいを我が子も同然どうぜん、それこそ、

手塩てしおにかけて…」

 育てたものである。

 この時…、定姫さだひめが生まれた明和4(1767)年、淑姫すえひめすで肥前ひぜん佐賀さが藩主の鍋島なべしま重茂しげもち継室けいしつ、つまりは後妻ごさいとしてむかえられており、ゆえにここ田安たやすやかたの「おく」を出た後であり、しかし、寶蓮院ほうれんいんんだ節姫ときひめさらに、やはり側妾そくしょうはやしんだ脩姫なおひめの4人の姫君ひめぎみらしており、脩姫なおひめにしても種姫たねひめ定姫さだひめ姉妹しまい同様どうよう実母じつぼであるはやしすでくしており、やはり寶蓮院ほうれんいんおやわりをつとめていた。

 年の順から言えば、節姫ときひめ脩姫なおひめ種姫たねひめ定姫さだひめであり、さしずめ四姉妹よんしまいであり、寶蓮院ほうれんいんはこの「四姉妹よんしまい」をそれこそ、

へだてなく…」

 そだてたものであり、その点、寶蓮院ほうれんいんまさしく、

賢婦けんぷ…」

 その言葉がまり、脩姫なおひめ種姫たねひめ、そして定姫さだひめもそのような「賢婦けんぷ」たる寶蓮院ほうれんいんによくなついたものである。

 もっとも、寶蓮院ほうれんいんじつむすめである節姫ときひめはそれがおさなかったようで、生来せいらい我儘わがまま気性きしょうとも相俟あいまって…、種姫たねひめ定姫さだひめとはちがって、奥女中おくじょちゅうからかしずかれ、「おべんちゃら」を言われるのを何よりも居心地いごこち良く感じるタイプであり、その上、一番いちばん年嵩としかさであるのを良いことに、脩姫なおひめ種姫たねひめ定姫さだひめ…、とりわけ脩姫なおひめ種姫たねひめ意地悪いじわるをすることもあったそうだが、そのたび節姫ときひめ実母じつぼたる寶蓮院ほうれんいんより打擲ちょうちゃくされたものである。

 それでも明和8(1771)年になると、節姫ときひめ長門ながとはぎ藩主の毛利もうり治親はるちかとの縁組えんぐみ調ととのい、その年の12月に田安たやすやかたの「おく」を出ると、外櫻田そとさくらだ…、櫻田さくらだ御門外ごもんそとと言うよりはあたらばし御門ごもん内にある毛利もうり家の新橋しんばし中屋敷なかやしきへと引き移り、脩姫なおひめ種姫たねひめもそれはそれで幾分いくぶんさびしい思いにとらわれたものである。節姫ときひめ脩姫なおひめ種姫たねひめに対する意地悪いじわるにしても元はと言えば、

脩姫なおひめ種姫たねひめ母親ははおやをとられる…」

 その思いからであり、脩姫なおひめ種姫たねひめもそんな節姫ときひめの気持ちが手に取るように分かり、またその気持ちが理解りかいできたゆえに、節姫ときひめ意地悪いじわる脩姫なおひめ種姫たねひめには微笑ほほえましくさえ感じられたほどであった。

 そして安永2(1773)年には脩姫なおひめも11月には出羽でわ庄内しょうない藩主の酒井さかい忠徳ただのりとの縁組えんぐみ調ととのい、やはり田安たやすやかたの「おく」を出たために、田安たやすやかたの「おく」には種姫たねひめ定姫さだひめの二人だけが取りのこされた格好かっこうであり、同腹どうふくでもある種姫たねひめ定姫さだひめ姉妹しまいむすびつきを強めたのも必然ひつぜんと言えた。

 いや、養母ようぼである寶蓮院ほうれんいん種姫たねひめ定姫さだひめさびしい思いをさせぬようにと、いよいよもって愛情あいじょうそそいだものであり、それは老女ろうじょ向坂さきさかにしても同様どうようであり、ゆえに種姫たねひめ定姫さだひめも、とりわけ定姫さだひめはそれほどさびしい思いをせずにんだ。

 だが、それから2年後の安永4(1775)年には定姫さだひめにとってはたった一人の姉である種姫たねひめまでもが次期将軍たる家基いえもと婚約者こんやくしゃぶくみで将軍・家治の養女ようじょとして江戸城本丸ほんまる大奥おおおくへとまねかれたことから、定姫さだひめはたった一人の姉である種姫たねひめと、

はなばなれ…」

 になってしまったために、孤独感こどくかんさいなまれたものである。

 いや、それは種姫たねひめにも言えることであったが、しかし種姫たねひめ定姫さだひめよりも大人であり、何より向坂さきさかそばについていたので定姫さだひめほどには孤独感こどくかんさいなまれることはなかった。

 それゆえ寶蓮院ほうれんいん定姫さだひめ孤独感こどくかんを少しでもやわらげようと、なお一層いっそう愛情あいじょうそそいだものであり、それに対して定姫さだひめ種姫たねひめくらべればおさないとは言え、そんな寶蓮院ほうれんいん気遣きづかいがからぬほどにはおさなくはなかったので、定姫さだひめはこのまさ慈母じぼとも言うべき寶蓮院ほうれんいんに心配をかけさせまいと、無理むり笑顔えがおを作ったものであった。

 もっとも、慈母じぼにして「賢婦けんぷ」たる寶蓮院ほうれんいんがそれに気づかぬはずもなく、わずか8歳にして養母ようぼたる己に心配をかけさせまいと無理むりつくわらいをしてみせる定姫さだひめ痛々いたいたしく思ったほどであり、そしてそんな定姫さだひめがいよいよもっていとおしく思え、そこで寶蓮院ほうれんいん定姫さだひめのために種姫たねひめわり、さしずめ、

あねわり…」

 そのような奥女中おくじょちゅうやとれることとし、それこそが仙台藩陪臣ばいしんである工藤くどう平助へいすけの四女の栲子たえこであったのだ。
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