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田安館の元廣敷用人にして今は八役の用人の杉浦猪兵衛良昭は種姫附の年寄の向坂より将軍・家治の真意を確かめさせることを提案する。

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「されば上様うえさま御旨ぎょし奈辺なへんにあるのか…、たしてまこと、ご公儀こうぎ財政ざいせい逼迫ひっぱくの折、かねい虫とでも申すべき御三卿ごさんきょうつぶすべく、その手始てはじめとして当主とうしゅ不在ふざい明屋形あきやかたであるこの田安たやす家をつぶすつもりなのかどうか、それをたしかめもうしては如何いかがでござろうか…」

 そう声を上げたのは用人ようにん杉浦すぎうら猪兵衛いへえ美昭よしあきであった。

 杉浦すぎうら猪兵衛いへえ御齢おんとし62、ただし、用人ようにんとしては一番の若手わかてであった。それと言うのも今年、廣敷ひろしき用人ようにんより異動いどう昇進しょうしんたしたばかりだからだ。

 もっとも、廣敷ひろしき用人ようにんと言っても江戸城の大奥おおおくにてつかえる男子役人である廣敷ひろしき用人ようにんではなく、ここ御三卿ごさんきょうやかたである田安たやすやかたの「大奥おおおく」にてつかえるそれである。

 江戸城に大奥おおおくがあるように、御三卿ごさんきょうやかたにもまたそれに相応そうおうする「おく」、つまりは大奥おおおくもうけられていた。

 と言っても御三卿ごさんきょうやかたに「おく」、所謂いわゆる大奥おおおくもうけられるのはあくまで姫君ひめぎみそんする場合にかぎられ、姫君ひめぎみがいなければこの「おく」がもうけられることはなかった。

 そして田安たやすやかたにおいてはかつては種姫たねひめが住んでおり、のみならず、種姫たねひめ実妹じつまい定姫さだひめや、さらには種姫たねひめ定姫さだひめ姉妹しまい養母ようぼである、すなわち、田安たやす家の始祖しそたる宗武むねたけ正室せいしつであった寶蓮院ほうれんいんまでもが住んでおり、それゆえ当然とうぜん、「おく」がもうけられ、そこで寶蓮院ほうれんいん定姫さだひめらしていた。

 そして杉浦すぎうら猪兵衛いへえは「おく」にてらす寶蓮院ほうれんいん定姫さだひめつかえる男子役人である廣敷ひろしき用人ようにんつとめた後、今年、天明3(1783)年に入ってから八役はちやくである用人ようにんへと異動いどう昇進しょうぎんたしたのであった。

 御三卿ごさんきょうやかたにてつかえる「八役はちやく」の一つである用人ようにん廣敷ひろしき用人ようにんは共に4百石高であるが、用人ようにんにはその上、役料やくりょうとして2百俵が支給しきゅうされるのに対して、廣敷ひろしき用人ようにんはと言うと、用人ようにんと同じく役料やくりょう支給しきゅうされるものの、そのがくたるやちょうど半額はんがくの百俵に過ぎず、何より、八役はちやくである用人ようにん従六位じゅろくい布衣ほい役であるのに対して、廣敷ひろしき用人ようにんはそうではなかった。

 杉浦すぎうら猪兵衛いへえ廣敷ひろしき用人ようにんから八役はちやくである用人ようにんへと、

昇進しょうしんたした…」

 そう言えるのはそれゆえであった。

 その杉浦すぎうら猪兵衛いへえが将軍・家治の意向いこうじかたしかめてみてはと、そう提案ていあんしたことから誰もがおどろいた。

「なれど如何いかにして?」

 小林こばやし左十郎さじゅうろうがそうたずねたのも当然とうぜんであり、みな疑問ぎもん代弁だいべんしたとも言える。

 何しろ相手あいては「天下てんかの将軍様」である。そうそう簡単かんたんに声をかけられるものではない。それはここ御三卿ごさんきょうやかたにてつかえる彼ら八役はちやくとて例外れいがいではなかった。

 これで田安たやすやかた当主とうしゅそんしていれば、その当主とうしゅより将軍・家治へとその意向いこうじかたしかめてもらうことも可能かのうであっただろう。何しろ御三卿ごさんきょうは将軍家の家族の一員としてあつかわれていたからだ。

 だが生憎あいにく、この田安たやすやかたにおいては肝心かんじんかなめ当主とうしゅがおらずその手は使つかえなかった。いや、そもそも当主とうしゅ不在ふざい明屋形あきやかたなればこそ、「リストラ」の「ターゲット」にされているとも言えた。

 ともあれ将軍・家治の意向いこうじかたしかめるなど容易よういなことではない。

 しかし杉浦すぎうら猪兵衛いへえ態度たいどたるや、いささかもどうずるところが見受みうけられなかった。

「何か腹案ふくあんでもありそうだの…」

 番頭ばんがしら常見つねみ文左衛門ぶんざえもんがそうとさっしてたずねた。

 すると杉浦すぎうら猪兵衛いへえはそうわれるのを待っていたかのようであり、「如何いかにも」と如何いかにも自信じしん満々まんまんといったてい即答そくとうするや、その「腹案ふくあん」について披瀝ひれきした。

「されば、向坂さきさかより上様うえさまへとたずもうげさせては如何いかがでござろうか…、田沼たぬま山城守やましろのかみ様を若年寄へとすすませるその真意しんいについて…、もそっと申すならばまこと田安たやすやかたつぶすつもりなのか、そしてその尖兵せんぺい山城守やましろのかみ様を使われる御所存ごしょぞんなのかどうか…」

 杉浦すぎうら猪兵衛いへえが口にした「向坂さきさか」とは種姫たねひめ附属ふぞくする侍女じじょであり、それも種姫たねひめづき年寄としよりであった。

 向坂さきさか種姫たねひめがまだこの田安たやすやかたにてらしていた頃より種姫たねひめつかえ、そして種姫たねひめ家基いえもと婚約者こんやくしゃとして江戸城本丸ほんまる大奥おおおくへとむかえられるや、向坂さきさかもそれにしたがい、大奥おおおく入りをたすや、種姫たねひめづき年寄としよりへと取り立てられたのであった。

 大奥おおおく年寄としよりが支配しており、しかも将軍づき御台所みだいどころづきさらには御部屋おへやづき姫君ひめぎみづきに分かれていた。

 種姫たねひめは次期将軍たる家基いえもと婚約者こんやくしゃとして、しかしその身はあくまで将軍・家治の養女ようじょとして江戸城本丸ほんまる大奥おおおくへとむかえられ、それゆえ種姫たねひめつかえる年寄としよりが当然、必要となり、そこで種姫たねひめしたがい、大奥おおおく入りをたした向坂さきさか種姫たねひめづき年寄としよりへと取り立てられたのであった。

 その向坂さきさかより将軍・家治へとその意向いこうたしかめてさせては、というのが杉浦すぎうら猪兵衛いへえの「腹案ふくあん」であった。

向坂さきさかより?向坂さきさかよりおそれ多くも上様うえさまたしかめさせようと申すのか?」

 小林こばやし左十郎さじゅうろうたしかめるようにそうかえすと杉浦すぎうら猪兵衛いへえうなずいてみせた。

成程なるほど…、大奥おおおく年寄としよりともなればそれも可能であろうぞ…」

 左十郎さじゅうろう感心かんしんしきりといったていでそうつぶやいた。

 それに対して杉浦すぎうら猪兵衛いへえは、

「されば…、栲子たえこ公儀こうぎおく女遣おんなづかいとして大奥おおおくへとけましては如何いかがでござりましょうや…」

 さらにそう付け加えたのであった。
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