66 / 162
田安館に仕える最年長の用人の小林左十郎長章は将軍・家治が果たして大事な養女である種姫の実家に当たる田安家を潰そうとするものか疑問に思う。
しおりを挟む
「されば幕閣は新たに田沼山城守様を幕閣に迎え入れることで、愈々、御三卿潰しに乗り出すと?」
高井多宮にそう確かめるように尋ねたのは多宮と同じく用人の萬年七郎左衛門頼英であった。
幕閣が幕府の財政再建の一環として「金喰い虫」とも言うべき御三卿潰しを画策、それも手始めに当主不在であるこの田安館が狙われているらしい…、多宮は伯父である留守居の高井直熙より、父・主水房覺を通じて伝えられたその情報を今、ここに寄り集まっている萬年七郎左衛門ら「七役」だけには、
「さる筋より伝え聞いた話…」
として、打ち明けていたのだ。無論、その「さる筋」とやらが平御側である高井綽房であることは萬年七郎左衛門ら「七役」にしても「先刻承知」のことであった。
ともあれそれゆえ萬年七郎左衛門は直ぐにそのような反応を示すことが出来たわけで、それは他の者にしても同じ思いであった。
萬年七郎左衛門の問いかけに頷いてみせる多宮に対して、すると今度は郡奉行の設楽七左衛門正凝が、
「されば…、幕閣は田沼山城守様にその尖兵の役を…、御三卿潰しの、それも手始めとしてこの田安館を潰す尖兵の役を担わせようと?」
ストレートにそう突っ込んできた。
一方、多宮はそれに対しても頷いてみせると、
「されば仮にの話でござるが、御三卿が廃されし折には我ら、御三卿に仕えし者たちの…、旗本や御家人らの行き場がなくなり申し候…、そこで…」
そこまで口にすると、そこでいったん言葉を区切るや、後の言葉を設楽七左衛門と同じく郡奉行の幸田友之助親平が引き取ってみせた。
「旗本や御家人を支配せし若年寄の出番…、御三卿が廃されたために職を失いせし、それまで御三卿に仕えし旗本や御家人らの新たなる職探し…、つまりは配置転換が必須課題にて、その大仕事は紛れもなく旗本や御家人を支配せし若年寄の仕事なれど、今の若年寄にはそのような大仕事は任せられず、そこで田沼山城守様を新たに若年寄として迎え入れ、山城守様に御三卿潰しのための具体的なる段取りを、と?」
幸田友之助は多宮の顔を覗き込みながらそのように尋ね、それに対して多宮も「左様…」と答えた。
「されば…、上様は如何に思し召しか…」
七役、家老を含めた八役の中でも最年長の小林左十郎長章が思い出したようにそう声を上げた。小林左十郎は御齢81になる用人であった。
小林左十郎のその言葉に、多宮は「はっ?」と首を傾げてみせた。上様こと将軍・家治の「思し召し」までは把握していなかったからだ。
「されば…、畏れ多くも上様におかせられては、種姫様をそれこそ実の娘御のように深き愛情をお注ぎあそばされておる由にて…、さればそのような上様が果たして種姫様のご実家に当たられしこの田安館を果たして潰されようと思し召されるであろうか…」
左十郎がまるで独り言のようにそう告げると、誰もが「あっ」と弾かれたような顔をしたもので、多宮などは実際、思わず「あっ」と声にしていた。
確かに左十郎の言う通りであったからだ。
種姫とは将軍・家治の養女にして、その実、田安家の始祖たる宗武の息女であった。
種姫は明和2(1765)年7月15日にここ田安館にて宗武の七女として出生し、それからちょうど10年後の安永4(1775)年11月朔日には将軍・家治との縁組が調うと、6日後の11月7日に種姫は晴れて将軍・家治の養女として、所謂、
「御縁女様」
として江戸城本丸は大奥へと迎えられ、そこで御部屋様こと家基の生母であった千穂の手許にて育てられることになった。
千穂はこの種姫を実の我が子のように可愛がり、それは将軍・家治にしても同様であった。
それと言うのも種姫は実は家基の婚約者として迎えられたからだ。
それゆえ種姫は安永8(1779)年には本丸大奥より家基が住まう西之丸の大奥へと移る予定であった。
これはその前年、安永7(1778)年の3月18日に家基がそれまでの童形を改め、前髪を落としたことによる。
この時…、安永7(1778)年の時点で家基は既に元服を済ませてはいたものの、しかしその身形は相変わらず童形のままであった。
元服を済ませたと言っても、家基が元服を済ませたのは明和3(1766)年4月7日のことであり、この時、家基はまだ4歳に過ぎなかった。これでは如何に元服を済ませたと言っても、前髪を落とすことはできまい。
そこで家基が15歳の折…、16歳となる安永7(1778)年の3月18日に漸くに前髪を落とした次第であり、家基はこれで晴れて名実共に次期将軍と認められたと言っても良かったであろう。
それに伴い、家基の婚約者であった種姫もその翌年の3月頃には家基が住まう西之丸の大奥へと移る運びと相成った。
家基が住まう西之丸の大奥へと移るということは、それはとりもなおさず、
「契り」
即ち、肉体関係を結ぶことに外ならず、しかし如何に元服を済ませたとは言え、童形のままでは流石に肉体関係を結ぶことは不可能、とは言わぬにしても、それでも憚られたために、それゆえ種姫が家基が前髪を落とすまでは本丸の大奥にて暮らしていたのだ。
それが安永7(1778)年に家基が漸くに前髪を落としたことから、種姫もいよいよ西之丸の大奥へと移ることになったのだ。
だが種姫は結局、西之丸の大奥へと移ることはなかった。
即ち、家基と結ばれることはなかったのだ。種姫が西之丸の大奥へと移るその直前の2月…、安永8(1779)年の2月24日、家基は斃れたからだ。
その代わりに、と言っては何だが、種姫はそれから3年後の天明2(1782)年、2月7日に御三家の紀伊中納言治貞が嫡男、岩千代と婚約の運びと相成った。
岩千代はその後…、種姫との婚約が決まってからちょうど一月後の3月7日に元服を果たし、岩千代から今の治寶へとその名を改めた。
そして今からちょうど半年前の4月15日には種姫と治寶との納采の儀が執り行われ、後は祝言を待つばかりであり、養父たる家治は種姫との別れを惜しんでいた。
そのような家治が果たして種姫の実家とも言うべき田安家を潰そうとするものだろうかと、それが左十郎の抱いた疑問であり、左十郎のその疑問に対して皆も、確かにと頷いたものである。
高井多宮にそう確かめるように尋ねたのは多宮と同じく用人の萬年七郎左衛門頼英であった。
幕閣が幕府の財政再建の一環として「金喰い虫」とも言うべき御三卿潰しを画策、それも手始めに当主不在であるこの田安館が狙われているらしい…、多宮は伯父である留守居の高井直熙より、父・主水房覺を通じて伝えられたその情報を今、ここに寄り集まっている萬年七郎左衛門ら「七役」だけには、
「さる筋より伝え聞いた話…」
として、打ち明けていたのだ。無論、その「さる筋」とやらが平御側である高井綽房であることは萬年七郎左衛門ら「七役」にしても「先刻承知」のことであった。
ともあれそれゆえ萬年七郎左衛門は直ぐにそのような反応を示すことが出来たわけで、それは他の者にしても同じ思いであった。
萬年七郎左衛門の問いかけに頷いてみせる多宮に対して、すると今度は郡奉行の設楽七左衛門正凝が、
「されば…、幕閣は田沼山城守様にその尖兵の役を…、御三卿潰しの、それも手始めとしてこの田安館を潰す尖兵の役を担わせようと?」
ストレートにそう突っ込んできた。
一方、多宮はそれに対しても頷いてみせると、
「されば仮にの話でござるが、御三卿が廃されし折には我ら、御三卿に仕えし者たちの…、旗本や御家人らの行き場がなくなり申し候…、そこで…」
そこまで口にすると、そこでいったん言葉を区切るや、後の言葉を設楽七左衛門と同じく郡奉行の幸田友之助親平が引き取ってみせた。
「旗本や御家人を支配せし若年寄の出番…、御三卿が廃されたために職を失いせし、それまで御三卿に仕えし旗本や御家人らの新たなる職探し…、つまりは配置転換が必須課題にて、その大仕事は紛れもなく旗本や御家人を支配せし若年寄の仕事なれど、今の若年寄にはそのような大仕事は任せられず、そこで田沼山城守様を新たに若年寄として迎え入れ、山城守様に御三卿潰しのための具体的なる段取りを、と?」
幸田友之助は多宮の顔を覗き込みながらそのように尋ね、それに対して多宮も「左様…」と答えた。
「されば…、上様は如何に思し召しか…」
七役、家老を含めた八役の中でも最年長の小林左十郎長章が思い出したようにそう声を上げた。小林左十郎は御齢81になる用人であった。
小林左十郎のその言葉に、多宮は「はっ?」と首を傾げてみせた。上様こと将軍・家治の「思し召し」までは把握していなかったからだ。
「されば…、畏れ多くも上様におかせられては、種姫様をそれこそ実の娘御のように深き愛情をお注ぎあそばされておる由にて…、さればそのような上様が果たして種姫様のご実家に当たられしこの田安館を果たして潰されようと思し召されるであろうか…」
左十郎がまるで独り言のようにそう告げると、誰もが「あっ」と弾かれたような顔をしたもので、多宮などは実際、思わず「あっ」と声にしていた。
確かに左十郎の言う通りであったからだ。
種姫とは将軍・家治の養女にして、その実、田安家の始祖たる宗武の息女であった。
種姫は明和2(1765)年7月15日にここ田安館にて宗武の七女として出生し、それからちょうど10年後の安永4(1775)年11月朔日には将軍・家治との縁組が調うと、6日後の11月7日に種姫は晴れて将軍・家治の養女として、所謂、
「御縁女様」
として江戸城本丸は大奥へと迎えられ、そこで御部屋様こと家基の生母であった千穂の手許にて育てられることになった。
千穂はこの種姫を実の我が子のように可愛がり、それは将軍・家治にしても同様であった。
それと言うのも種姫は実は家基の婚約者として迎えられたからだ。
それゆえ種姫は安永8(1779)年には本丸大奥より家基が住まう西之丸の大奥へと移る予定であった。
これはその前年、安永7(1778)年の3月18日に家基がそれまでの童形を改め、前髪を落としたことによる。
この時…、安永7(1778)年の時点で家基は既に元服を済ませてはいたものの、しかしその身形は相変わらず童形のままであった。
元服を済ませたと言っても、家基が元服を済ませたのは明和3(1766)年4月7日のことであり、この時、家基はまだ4歳に過ぎなかった。これでは如何に元服を済ませたと言っても、前髪を落とすことはできまい。
そこで家基が15歳の折…、16歳となる安永7(1778)年の3月18日に漸くに前髪を落とした次第であり、家基はこれで晴れて名実共に次期将軍と認められたと言っても良かったであろう。
それに伴い、家基の婚約者であった種姫もその翌年の3月頃には家基が住まう西之丸の大奥へと移る運びと相成った。
家基が住まう西之丸の大奥へと移るということは、それはとりもなおさず、
「契り」
即ち、肉体関係を結ぶことに外ならず、しかし如何に元服を済ませたとは言え、童形のままでは流石に肉体関係を結ぶことは不可能、とは言わぬにしても、それでも憚られたために、それゆえ種姫が家基が前髪を落とすまでは本丸の大奥にて暮らしていたのだ。
それが安永7(1778)年に家基が漸くに前髪を落としたことから、種姫もいよいよ西之丸の大奥へと移ることになったのだ。
だが種姫は結局、西之丸の大奥へと移ることはなかった。
即ち、家基と結ばれることはなかったのだ。種姫が西之丸の大奥へと移るその直前の2月…、安永8(1779)年の2月24日、家基は斃れたからだ。
その代わりに、と言っては何だが、種姫はそれから3年後の天明2(1782)年、2月7日に御三家の紀伊中納言治貞が嫡男、岩千代と婚約の運びと相成った。
岩千代はその後…、種姫との婚約が決まってからちょうど一月後の3月7日に元服を果たし、岩千代から今の治寶へとその名を改めた。
そして今からちょうど半年前の4月15日には種姫と治寶との納采の儀が執り行われ、後は祝言を待つばかりであり、養父たる家治は種姫との別れを惜しんでいた。
そのような家治が果たして種姫の実家とも言うべき田安家を潰そうとするものだろうかと、それが左十郎の抱いた疑問であり、左十郎のその疑問に対して皆も、確かにと頷いたものである。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
大日本帝国、アラスカを購入して無双する
雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。
大日本帝国VS全世界、ここに開幕!
※架空の日本史・世界史です。
※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。
※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
日は沈まず
ミリタリー好きの人
歴史・時代
1929年世界恐慌により大日本帝國も含め世界は大恐慌に陥る。これに対し大日本帝國は満州事変で満州を勢力圏に置き、積極的に工場や造船所などを建造し、経済再建と大幅な軍備拡張に成功する。そして1937年大日本帝國は志那事変をきっかけに戦争の道に走っていくことになる。当初、帝國軍は順調に進撃していたが、英米の援蔣ルートによる援助と和平の断念により戦争は泥沼化していくことになった。さらに1941年には英米とも戦争は避けられなくなっていた・・・あくまでも趣味の範囲での制作です。なので文章がおかしい場合もあります。
また参考資料も乏しいので設定がおかしい場合がありますがご了承ください。また、おかしな部分を次々に直していくので最初見た時から内容がかなり変わっている場合がありますので何か前の話と一致していないところがあった場合前の話を見直して見てください。おかしなところがあったら感想でお伝えしてもらえると幸いです。表紙は自作です。
渡世人飛脚旅(小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品で)
牛馬走
歴史・時代
(小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品で)水呑百姓の平太は、体の不自由な祖母を養いながら、未来に希望を持てずに生きていた。平太は、賭場で無宿(浪人)を鮮やかに斃す。その折、親分に渡世人飛脚に誘われる。渡世人飛脚とは、あちこちを歩き回る渡世人を利用した闇の運送業のことを云う――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる