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用人の久田縫殿助長考は岩本正利より田安館の八役に対して意知を殺そうと欲する九八郎の背中を押して貰おうと考えている治済のその胸のうちを察する。

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「先月、忠右衛門ちゅうえもん西之丸にしのまる書院しょいん番士ばんしよりこのやかたへと、物頭ものがしらへとてんじてまいりましたのも、あるいはその烽火のろしやも知れませぬな…、山城やましろめに大納言だいなごん様が死の真相しんそう探索たんさく…、その指揮しきとらせるとの、上様うえさまげられし烽火のろしやも…」

 河野こうの忠右衛門ちゅうえもん相役あいやく…、同僚どうりょうである物頭ものがしら山本やまもと武右衛門ぶえもん正凭まさより忠右衛門ちゅうえもんさら青褪あおざめさせるようなことを口にした。

 だが言われてみれば確かにその通りであった。

 それと言うのも、御三卿ごさんきょうやかたにてつかえる八役はちやくの中でも物頭ものがしら所謂いわゆる

きの臣…」

 つまりは「プロパー社員」がくのが一般的であり、それが証拠しょうこ山本やまもと武右衛門ぶえもんはここ一橋ひとつばしやかたにて小十人こじゅうにん皮切かわきりに、今の物頭ものがしらへと昇進しょうしん辿たどいたのであった。

 いや、それは一橋ひとつばしやかただけではない、田安たやすやかたにしろ、清水しみずやかたにしろまることであった。

 すなわち、田安たやすやかたにて物頭ものがしらとしてつかえる金森かなもり五郎右衛門ごろうえもん可言ありゆき和田わだ三郎左衛門さぶろうざえもん持澄もちずみの二人にしても「プロパー社員」であり、清水しみずやかたにて物頭ものがしらとしてつかえる小野おの四郎五郎しろごろう言貞のりさだ蔭山かげやま新五郎しんごろう久廣ひさひろの二人にしても同様どうように「プロパー社員」であった。

 ことに蔭山かげやま新五郎しんごろう附切つけきりすなわち、旗本の嫡子ちゃくしではなく、旗本の次男坊以下いか立場たちばにて、清水しみずやかたにてつかえていた。

 それゆえ、河野こうの忠右衛門ちゅうえもんのように書院しょいん番士ばんしから、あるいは小姓こしょうぐみ番士ばんしから…、所謂いわゆる

両番りょうばん…」

 その番士ばんしから御三卿ごさんきょうやかたにてつかえる物頭ものがしらへと異動いどうするケースは皆無かいむとまでは言わないにしてもかなりのレアケースと言えた。

 それがこの時期…、大名ですらない、ただ奏者番そうじゃばんであるにぎない意知おきともが若年寄に内定ないていしたこの時期ともなれば尚更なおさらにそのように感じさせた。

 顔をさら青褪あおざめさせた忠右衛門ちゅうえもんと同じく、治済はるさだにしても、

「確かに言われてみればその通りよのう…」

 そううなずいたものである。さしもの治済はるさだもそこまでは考えていなかったが、山本やまもと武右衛門ぶえもん指摘してきされてその可能性にうなずかされた。

「何たることだ…」

 忠右衛門ちゅうえもんはいよいよもって青褪あおざめ、そして取りみだした。

 そんな忠右衛門ちゅうえもんを落ちかせたのはここにいる六役ろくやくの中でも、いや、八役はちやく見渡みわたしても最年長さいねんちょうたるはた奉行の平岡ひらおか喜三郎きさぶろう茂高しげたかであった。平岡ひらおか喜三郎きさぶろう御齢おんとし86、はた奉行であると同時に、用人ようにん格の地位を与えられていた。これはひとえに治済はるさだ信任しんにん賜物たまものによる。

けい…」

 喜三郎きさぶろうは決して一喝いっかつするわけではなく、あくまで重々おもおもしい口調くちょうにて忠右衛門ちゅうえもんにそうげただけであったが、しかし、忠右衛門ちゅうえもんにはそれで十分じゅうぶんであったらしく、きを取りもどしたものである。

 喜三郎きさぶろうにはそれだけの威厳いげんがあり、治済はるさだ喜三郎きさぶろう信任しんにんして用人ようにん格の地位を与えたのもまさにその点にあった。

 一方、忠右衛門ちゅうえもん喜三郎きさぶろうのおかげきこそ取りもどしたものの、しかし、その顔は相変あいかわらず青褪あおざめさせたままであった。

 すると喜三郎きさぶろうは先ほどの口調くちょうから一転いってん

然様さようあんずるでない…、上様うえさま斯様かように我らをおびあそばされたということはきっと、上様うえさまに何か御旨ぎょしがあってのこと…」

 やわらかい口調くちょうでもって忠右衛門ちゅうえもんにそう語りかけ、忠右衛門ちゅうえもんを安心させた。

 実際、平岡ひらおか喜三郎きさぶろうの言う通りであり、上様うえさまもとい治済はるさだには考えがあればこそ、こうして彼ら六役ろくやくを呼んだわけである。

 治済はるさだは己の胸中きょうちゅうみ取り、忠右衛門ちゅうえもんを安心させた喜三郎きさぶろうに対してその通りだと言わんばかりにうなずいてみせると、改めて喜三郎きさぶろうに対する信任しんにんふかめつつ、

「されば…」

 治済はるさだはそう切り出すや、田沼たぬま意次おきつぐうらみを抱く小姓こしょう竹本たけもと九八郎くはちろうに対して意知おきともへの殺意さついあおり、さら九八郎くはちろう意知おきともを殺すことについて田安たやすやかたにてつかえる八役はちやくと相談することも認めたことをも打ち明けたのであった。

「さればその八役はちやくより上様うえさま九八郎くはちろうめに山城やましろめを殺すようそそのかされしこと、れることはありませぬか…」

 用人ようにん大林おおばやし與兵衛よへえ親用ちかもち如何いかにも不安げな表情にてその懸念けねんを口にした。家老かろうはやし忠篤ただあつも口にした懸念けねんであり、そこで治済はるさだもまた、忠篤ただあつ安堵あんどさせたのと同じく、

「決定的なことは何一つ、口にしてはおらぬゆえ…、あくまで山城やましろめがいなくなればと、斯様かように申したに過ぎず、さればそれをどのように受け取るかは九八郎くはちろうめが判断なれば、仮令たとえがことが外部にれようとも、いくらでも言いのがれが出来ると申すものにて…」

 大林おおばやし與兵衛よへえにもそのように伝え、與兵衛よへえ安堵あんどさせたものである。

 治済はるさだはそれから九八郎くはちろうには明後日の10月16日に八役はちやくと相談するよう強くすすめたことをも打ち明けたのであった。

 すると用人ようにんの中でもとりわけ鋭敏えいびん久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ長考ながとしである。

 久田ひさだ縫殿助ぬいのすけもまた、一橋ひとつばしやかたの「プロパー社員」であり、それも父・縫殿助ぬいのすけ宣如のぶゆき二代にだいわたってつかえてきた、

「プロパー中のプロパー」

 そう言えた。

 その久田ひさだ縫殿助ぬいのすけは、

「されば岩本いわもと殿の出番でばん、というわけでござりまするな?」

 そうかんを働かせたものである。

 それに対して治済はるさだはと言うと、まさしくその通りであり、久田ひさだ縫殿助ぬいのすけのその相変あいかわらずのかんの良さには内心ないしんしたかされると同時に、そのみの早さに満足させられもした。

 つまりはこういうことである。

 治済はるさだ愛妾あいしょうにして、次期将軍たる家斉いえなり母堂ぼどう…、実母じつぼであるとみ実父じっぷすなわち、家斉いえなり祖父そふである岩本いわもと殿こと、今は普請ふしん奉行の岩本いわもと内膳正ないぜんのかみ正利まさとしはかつては…、

岩本いわもと辰之助たつのすけ正利まさとし…」

 そう名乗なのっていた頃には実はここ一橋ひとつばしやかたではなく、田安たやすやかたにて小姓こしょうとして田安たやす家の始祖しそである宗武むねたけつかえていたのだ。

 そのおり、同じく小姓こしょうとして田安たやす宗武むねたけつかえていた者の中に、つまりは岩本いわもと正利まさとしの言ってみれば、

田安たやす時代の同僚どうりょう…」

 その中には今、田安たやすやかたにて用人ようにんとしてつかえる高井たかい多宮たみや房玄ふさはる小出こいで半十郎はんじゅうろう廣則ひろのりあるいははた奉行としてつかえる三賀さんが監物けんもつ長頼ながよりといった面々めんめんふくまれており、彼らは言うまでもなく八役はちやくすなわち、竹本たけもと九八郎くはちろうが明後日の16日に意知おきともを殺すことについて相談を持ちかける相手であった。

 そして彼らは今でも岩本いわもと正利まさとしと交流を続けており、そこで岩本いわもと正利まさとしから彼らに対して、

「10月16日に竹本たけもと九八郎くはちろう田安たやすやかたを訪れてはそこもとら八役はちやくに対して、田沼たぬま意知おきともを殺すことについて相談を持ちかけるに相違そういなく、その際には是非ぜひともその背中せなかして欲しい…」

 そうすすめてくれることを治済はるさだは望んでおり、久田ひさだ縫殿助ぬいのすけもそんな治済はるさだ胸中きょうちゅうんだからこその、

岩本いわもと殿の出番でばん…」

 という台詞せりふつながったわけで、それに対して治済はるさだうなずいたわけである。
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