53 / 162
用人の久田縫殿助長考は岩本正利より田安館の八役に対して意知を殺そうと欲する九八郎の背中を押して貰おうと考えている治済のその胸のうちを察する。
しおりを挟む
「先月、忠右衛門が西之丸の書院番士よりこの館へと、物頭へと転じて参りましたのも、或いはその烽火やも知れませぬな…、山城めに大納言様が死の真相を探索…、その指揮を執せるとの、上様が上げられし烽火やも…」
河野忠右衛門の相役…、同僚である物頭の山本武右衛門正凭が忠右衛門を更に青褪めさせるようなことを口にした。
だが言われてみれば確かにその通りであった。
それと言うのも、御三卿の館にて仕える八役の中でも物頭は所謂、
「生え抜きの臣…」
つまりは「プロパー社員」が就くのが一般的であり、それが証拠に山本武右衛門はここ一橋の館にて小十人を皮切りに、今の物頭へと昇進、辿り着いたのであった。
いや、それは一橋の館だけではない、田安の館にしろ、清水の館にしろ当て嵌まることであった。
即ち、田安の館にて物頭として仕える金森五郎右衛門可言と和田三郎左衛門持澄の二人にしても「プロパー社員」であり、清水の館にて物頭として仕える小野四郎五郎言貞と蔭山新五郎久廣の二人にしても同様に「プロパー社員」であった。
ことに蔭山新五郎は附切、即ち、旗本の嫡子ではなく、旗本の次男坊以下の立場にて、清水館にて仕えていた。
それゆえ、河野忠右衛門のように書院番士から、或いは小姓組番士から…、所謂、
「両番…」
その番士から御三卿の館にて仕える物頭へと異動するケースは皆無とまでは言わないにしてもかなりのレアケースと言えた。
それがこの時期…、大名ですらない、ただ奏者番であるに過ぎない意知が若年寄に内定したこの時期ともなれば尚更にそのように感じさせた。
顔を更に青褪めさせた忠右衛門と同じく、治済にしても、
「確かに言われてみればその通りよのう…」
そう頷いたものである。さしもの治済もそこまでは考えていなかったが、山本武右衛門に指摘されてその可能性に頷かされた。
「何たることだ…」
忠右衛門はいよいよもって青褪め、そして取り乱した。
そんな忠右衛門を落ち着かせたのはここにいる六役の中でも、いや、八役を見渡しても最年長に当たる旗奉行の平岡喜三郎茂高であった。平岡喜三郎は御齢86、旗奉行であると同時に、用人格の地位を与えられていた。これはひとえに治済の信任の賜物による。
「落ち着けい…」
喜三郎は決して一喝するわけではなく、あくまで重々しい口調にて忠右衛門にそう告げただけであったが、しかし、忠右衛門にはそれで十分であったらしく、落ち着きを取り戻したものである。
喜三郎にはそれだけの威厳があり、治済が喜三郎を信任して用人格の地位を与えたのも正にその点にあった。
一方、忠右衛門は喜三郎のお蔭で落ち着きこそ取り戻したものの、しかし、その顔は相変わらず青褪めさせたままであった。
すると喜三郎は先ほどの口調から一転、
「然様に案ずるでない…、上様が斯様に我らをお呼びあそばされたということはきっと、上様に何か御旨があってのこと…」
柔らかい口調でもって忠右衛門にそう語りかけ、忠右衛門を安心させた。
実際、平岡喜三郎の言う通りであり、上様もとい治済には考えがあればこそ、こうして彼ら六役を呼んだわけである。
治済は己の胸中を汲み取り、忠右衛門を安心させた喜三郎に対してその通りだと言わんばかりに頷いてみせると、改めて喜三郎に対する信任を深めつつ、
「されば…」
治済はそう切り出すや、田沼意次に恨みを抱く小姓の竹本九八郎に対して意知への殺意を煽り、更に九八郎が意知を殺すことについて田安の館にて仕える八役と相談することも認めたことをも打ち明けたのであった。
「さればその八役より上様が九八郎めに山城めを殺すよう唆されしこと、漏れることはありませぬか…」
用人の大林與兵衛親用が如何にも不安げな表情にてその懸念を口にした。家老の林忠篤も口にした懸念であり、そこで治済もまた、忠篤を安堵させたのと同じく、
「決定的なことは何一つ、口にしてはおらぬゆえ…、あくまで山城めがいなくなればと、斯様に申したに過ぎず、さればそれをどのように受け取るかは九八郎めが判断なれば、仮令、余がことが外部に漏れようとも、いくらでも言い逃れが出来ると申すものにて…」
大林與兵衛にもそのように伝え、與兵衛を安堵させたものである。
治済はそれから九八郎には明後日の10月16日に八役と相談するよう強くすすめたことをも打ち明けたのであった。
すると用人の中でもとりわけ鋭敏な久田縫殿助長考である。
久田縫殿助もまた、一橋館の「プロパー社員」であり、それも父・縫殿助宣如と二代に亘って仕えてきた、
「プロパー中のプロパー」
そう言えた。
その久田縫殿助は、
「されば岩本殿の出番、というわけでござりまするな?」
そう勘を働かせたものである。
それに対して治済はと言うと、正しくその通りであり、久田縫殿助のその相変わらずの勘の良さには内心、舌を巻かされると同時に、その呑み込みの早さに満足させられもした。
つまりはこういうことである。
治済の愛妾にして、次期将軍たる家斉の母堂…、実母である富の実父、即ち、家斉の祖父である岩本殿こと、今は普請奉行の岩本内膳正正利はかつては…、
「岩本辰之助正利…」
そう名乗っていた頃には実はここ一橋の館ではなく、田安の館にて小姓として田安家の始祖である宗武に仕えていたのだ。
その折、同じく小姓として田安宗武に仕えていた者の中に、つまりは岩本正利の言ってみれば、
「田安時代の同僚…」
その中には今、田安の館にて用人として仕える高井多宮房玄や小出半十郎廣則、或いは旗奉行として仕える三賀監物長頼といった面々が含まれており、彼らは言うまでもなく八役、即ち、竹本九八郎が明後日の16日に意知を殺すことについて相談を持ちかける相手であった。
そして彼らは今でも岩本正利と交流を続けており、そこで岩本正利から彼らに対して、
「10月16日に竹本九八郎が田安館を訪れてはそこもとら八役に対して、田沼意知を殺すことについて相談を持ちかけるに相違なく、その際には是非ともその背中を押して欲しい…」
そうすすめてくれることを治済は望んでおり、久田縫殿助もそんな治済の胸中を呑み込んだからこその、
「岩本殿の出番…」
という台詞に繋がったわけで、それに対して治済も頷いたわけである。
河野忠右衛門の相役…、同僚である物頭の山本武右衛門正凭が忠右衛門を更に青褪めさせるようなことを口にした。
だが言われてみれば確かにその通りであった。
それと言うのも、御三卿の館にて仕える八役の中でも物頭は所謂、
「生え抜きの臣…」
つまりは「プロパー社員」が就くのが一般的であり、それが証拠に山本武右衛門はここ一橋の館にて小十人を皮切りに、今の物頭へと昇進、辿り着いたのであった。
いや、それは一橋の館だけではない、田安の館にしろ、清水の館にしろ当て嵌まることであった。
即ち、田安の館にて物頭として仕える金森五郎右衛門可言と和田三郎左衛門持澄の二人にしても「プロパー社員」であり、清水の館にて物頭として仕える小野四郎五郎言貞と蔭山新五郎久廣の二人にしても同様に「プロパー社員」であった。
ことに蔭山新五郎は附切、即ち、旗本の嫡子ではなく、旗本の次男坊以下の立場にて、清水館にて仕えていた。
それゆえ、河野忠右衛門のように書院番士から、或いは小姓組番士から…、所謂、
「両番…」
その番士から御三卿の館にて仕える物頭へと異動するケースは皆無とまでは言わないにしてもかなりのレアケースと言えた。
それがこの時期…、大名ですらない、ただ奏者番であるに過ぎない意知が若年寄に内定したこの時期ともなれば尚更にそのように感じさせた。
顔を更に青褪めさせた忠右衛門と同じく、治済にしても、
「確かに言われてみればその通りよのう…」
そう頷いたものである。さしもの治済もそこまでは考えていなかったが、山本武右衛門に指摘されてその可能性に頷かされた。
「何たることだ…」
忠右衛門はいよいよもって青褪め、そして取り乱した。
そんな忠右衛門を落ち着かせたのはここにいる六役の中でも、いや、八役を見渡しても最年長に当たる旗奉行の平岡喜三郎茂高であった。平岡喜三郎は御齢86、旗奉行であると同時に、用人格の地位を与えられていた。これはひとえに治済の信任の賜物による。
「落ち着けい…」
喜三郎は決して一喝するわけではなく、あくまで重々しい口調にて忠右衛門にそう告げただけであったが、しかし、忠右衛門にはそれで十分であったらしく、落ち着きを取り戻したものである。
喜三郎にはそれだけの威厳があり、治済が喜三郎を信任して用人格の地位を与えたのも正にその点にあった。
一方、忠右衛門は喜三郎のお蔭で落ち着きこそ取り戻したものの、しかし、その顔は相変わらず青褪めさせたままであった。
すると喜三郎は先ほどの口調から一転、
「然様に案ずるでない…、上様が斯様に我らをお呼びあそばされたということはきっと、上様に何か御旨があってのこと…」
柔らかい口調でもって忠右衛門にそう語りかけ、忠右衛門を安心させた。
実際、平岡喜三郎の言う通りであり、上様もとい治済には考えがあればこそ、こうして彼ら六役を呼んだわけである。
治済は己の胸中を汲み取り、忠右衛門を安心させた喜三郎に対してその通りだと言わんばかりに頷いてみせると、改めて喜三郎に対する信任を深めつつ、
「されば…」
治済はそう切り出すや、田沼意次に恨みを抱く小姓の竹本九八郎に対して意知への殺意を煽り、更に九八郎が意知を殺すことについて田安の館にて仕える八役と相談することも認めたことをも打ち明けたのであった。
「さればその八役より上様が九八郎めに山城めを殺すよう唆されしこと、漏れることはありませぬか…」
用人の大林與兵衛親用が如何にも不安げな表情にてその懸念を口にした。家老の林忠篤も口にした懸念であり、そこで治済もまた、忠篤を安堵させたのと同じく、
「決定的なことは何一つ、口にしてはおらぬゆえ…、あくまで山城めがいなくなればと、斯様に申したに過ぎず、さればそれをどのように受け取るかは九八郎めが判断なれば、仮令、余がことが外部に漏れようとも、いくらでも言い逃れが出来ると申すものにて…」
大林與兵衛にもそのように伝え、與兵衛を安堵させたものである。
治済はそれから九八郎には明後日の10月16日に八役と相談するよう強くすすめたことをも打ち明けたのであった。
すると用人の中でもとりわけ鋭敏な久田縫殿助長考である。
久田縫殿助もまた、一橋館の「プロパー社員」であり、それも父・縫殿助宣如と二代に亘って仕えてきた、
「プロパー中のプロパー」
そう言えた。
その久田縫殿助は、
「されば岩本殿の出番、というわけでござりまするな?」
そう勘を働かせたものである。
それに対して治済はと言うと、正しくその通りであり、久田縫殿助のその相変わらずの勘の良さには内心、舌を巻かされると同時に、その呑み込みの早さに満足させられもした。
つまりはこういうことである。
治済の愛妾にして、次期将軍たる家斉の母堂…、実母である富の実父、即ち、家斉の祖父である岩本殿こと、今は普請奉行の岩本内膳正正利はかつては…、
「岩本辰之助正利…」
そう名乗っていた頃には実はここ一橋の館ではなく、田安の館にて小姓として田安家の始祖である宗武に仕えていたのだ。
その折、同じく小姓として田安宗武に仕えていた者の中に、つまりは岩本正利の言ってみれば、
「田安時代の同僚…」
その中には今、田安の館にて用人として仕える高井多宮房玄や小出半十郎廣則、或いは旗奉行として仕える三賀監物長頼といった面々が含まれており、彼らは言うまでもなく八役、即ち、竹本九八郎が明後日の16日に意知を殺すことについて相談を持ちかける相手であった。
そして彼らは今でも岩本正利と交流を続けており、そこで岩本正利から彼らに対して、
「10月16日に竹本九八郎が田安館を訪れてはそこもとら八役に対して、田沼意知を殺すことについて相談を持ちかけるに相違なく、その際には是非ともその背中を押して欲しい…」
そうすすめてくれることを治済は望んでおり、久田縫殿助もそんな治済の胸中を呑み込んだからこその、
「岩本殿の出番…」
という台詞に繋がったわけで、それに対して治済も頷いたわけである。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
7
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる