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意知が若年寄に内定したことについて、杉山嘉兵衛に続いて物頭にして一番の若手である河野忠右衛門通度が反応する ~忠右衛門と一橋家の縁~2

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 ひさもまた、須磨すま古牟こんならんで、八代将軍・吉宗の側妾そくしょうにして、一橋ひとつばし宗尹むねただこと小次郎こじろう母堂ぼどう…、実母じつぼであった。すなわち、吉宗との間に小次郎こじろうをなしたのであった。

 だがひさ小次郎こじろうを産んでもなく、所謂いわゆる

産後さんご肥立ひだちがわるく…」

 それにより、享保6(1721)年10月にくなってしまったのだが、そのひさ姉妹しまいが将軍・吉宗に対して、平塚ひらつか爲政ためまさ復帰ふっきを願ったのであった。それが享保10(1725)年のことであった。

 ひさ谷口たにぐち長右衛門ちょうえもん正次まさつぐの次女として生まれ、吉宗がまだ紀州きしゅうにいた頃より、吉宗の御側おそばちかくにてつかえていた。

 のみならず、平塚ひらつか爲政ためまさ復帰ふっきを願ったひさの姉と妹もまた、紀州きしゅうにて吉宗の御側おそばちかくにつかえていたのだ。すなわち、

三姉妹さんしまい…」

 というわけであり、このうち吉宗の手がついたのが次女のひさであったのだ。

 そして吉宗が八代将軍に選ばれ、紀州より江戸城へと移ると、それにともない、ひさも姉と妹共々ともども、江戸城大奥へと移ったのであった。

 ひさはその後も将軍となった吉宗の寵愛ちょうあいを受け続け、吉宗との間に小五郎こごろうをなすわけだが、一方、ひさの姉と妹はと言うと、その当時、大奥の年寄としよりであった外山とやま庇護ひごもと順調じゅんちょうに出世の階段かいだんのぼっていった。

 そこには勿論もちろん、将軍・吉宗の寵愛ちょうあいけるひさ存在そんざいも大きかったであろうが、ともあれひさの姉はその後…、ひさあと年寄としよりへとのぼめ、一方、妹はやはりひさの死後、大奥を出ると旗本の加藤かとう伊豫守いよのかみ泰都やすくにもとへとしたのであった。

 このひさの姉妹が年寄としより外山とやまをもみ、平塚ひらつか爲政ためまさの復帰を願ったのであった。

 それでは何ゆえにひさ姉妹しまいがここまで平塚ひらつか爲政ためまさのことを気にかけるのかと言うと、それはズバリ、

不遇ふぐうかこっていた爲政ためまさあわれんで…」

 というわけでは決してなく、いや、少しくはあったやも知れぬが、しかし、ひさ姉妹しまいうごかしたものはひとえに、

古牟こんへの対抗心たいこうしん…」

 それにきた。

 吉宗が八代将軍として江戸城に移ってからというもの、大奥においては古牟こんひさ勢力せいりょく二分にぶんしていた。

 これで正室せいしつ真宮さなのみや理子まさこか、あるいは嫡男ちゃくなんすなわち、次期将軍たる長福丸ながとみまること家重いえしげを産んだ須磨すまが生きていれば、この二人が古牟こんひさの「バトル」をおさめたやも知れぬが、生憎あいにく理子まさこ須磨すまも、吉宗が八代将軍・吉宗として江戸城に移る前、紀州きしゅうにいた頃にぼっしてしまい、それゆえ大奥における古牟こんひさの「バトル」をおさめられる者はいなかった。

 だが、その「バトル」も享保6(1721)年10月にひさの死により終止符しゅうしふたれることになった。

 ひさの死によりこれで大奥は古牟こん天下てんがのようにも思われたが、しかし、ひさは将軍・吉宗との間に小五郎こごろうというわば、

わす形見がたみ…」

 それをのこしていてくれたおかげで、大奥が古牟こん天下てんがになったからと言って、ひさ姉妹しまいにしても、その庇護ひごしゃである年寄としより外山とやまにしてもその立場にそれほど影響えいきょうはなかった。

 もっとまったくもってその立場に影響えいきょうがなかったわけではなく、幾分いくぶんかはやはり、その立場、あるいは威勢いせいと言いえても良いそれに、

地盤じばん沈下ちんか…」

 それが起きたのは間違まちがいない。

 そこでひさ姉妹しまいとその庇護ひごしゃである年寄としより外山とやま古牟こんへの対抗心たいこうしん、と言うよりは、

いやがらせ…」

 それから、長福丸ながとみまること家重いえしげ小姓こしょうを「クビ」になってしまった平塚ひらつか爲政ためまさ復帰ふっき…、家重いえしげ小姓こしょうとして復帰ふっきさせてくれるようたのんだ仕儀しぎであった。

 古牟こんのその実にまらぬ猜疑心さいぎしんから平塚ひらつか一郎右衛門いちろうえもん小次郎こじろう側近そっきん役を免じられ、そのあおりを格好かっこう嫡子ちゃくしであった爲政ためまさまでが家重いえしげこと長福丸ながとみまる小姓こしょうめんじられてしまったその経緯けいいについてはひさ姉妹しまいにしろ外山とやまにしろ、把握はあくしていたからだ。

 ともあれ、ひさ姉妹しまい外山とやまのその嘆願たんがん対して、吉宗も内心ないしんではつい、古牟こん嘆願たんがんほだされ、その、

我儘わがまま

 それを聞いてやってしまったことをずっといており、それゆえ吉宗は今度は彼女たちのこの、

我儘わがまま

 それも聞いてやることにし、爲政ためまさを現場復帰させてやることにしたのであった。

 すでに次期将軍として二ノ丸にのまるから西之丸にしのまるへとうつっていた家重いえしげふたたび、小姓こしょうとしてつかえさせるようになったのであった。

 その後、爲政ためまさは間もなく、小納戸こなんどへと移った。これもまた、ひさ姉妹しまい外山とやま嘆願たんがん賜物たまものであった。

 小姓こしょう従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶ役であるのに対して、小納戸こなんど従六位じゅろくい布衣ほい役であり、小姓こしょうから小納戸こなんどへの異動いどう一見いっけん格下かくさげのようにも思えるが、しかし、それはあくまで表面的なものにぎず、実際に将軍、あるいは次期将軍に、

機会きかい…」

 その観点かんてんから見た場合、小納戸こなんどの方が小姓こしょうよりもその機会きかいめぐまれており、それはそのまま出世へとつながっていた。すなわち、小納戸こなんどの方が小姓こしょうよりも出世する傾向けいこうにあった。

 実際、爲政ためまさもそのれいれずで、家重が九代将軍として西之丸にしのまるより本丸ほんまるへとうつるにさいしてそれにしたが格好かっこう本丸ほんまるへとうつり、それからさら小納戸こなんど頭取とうどりにまでのぼめたのであった。一介いっかいの、つまりヒラの小姓こしょう小納戸こなんどでは小姓こしょうの方が格上かくうえではあるものの、しかしこれが小姓こしょう頭取とうどり小納戸こなんど頭取とうどりともなると、その立場たちば逆転ぎゃくてんする。

 すなわち、小納戸こなんど頭取とうどりの方が小姓こしょう頭取とうどりよりも格上かくうえであり、のみならず、実際の権力もともなっていた。

 それと言うのも小納戸こなんど頭取とうどりは将軍の「お小遣こづかい」である、

「お手許てもときん…」

 それを管理、差配さはいする立場にあったからだ。

 爲政ためまさはこの小納戸こなんど頭取とうどりにまでのぼめたわけであるが、その「きっかけ」を作ってくれたのは他ならぬ、小五郎こごろうこと一橋ひとつばし宗尹むねただ母堂ぼどう…、実母じつぼであるひさ姉妹しまいとその庇護ひごしゃにして年寄としより外山とやまであり、爲政ためまさは彼女らに、とりわけひさ姉妹しまいに大いに感謝したものであり、それはそのまま、

一橋ひとつばし家への恩義おんぎ…」

 へと転化てんか昇華しょうかしたのであった。

 そのさいたるものとして、爲政ためまさせがれたちにも一橋ひとつばし宗尹むねただ母堂ぼどうひさ姉妹しまいより受けた恩義おんぎを伝え聞かせたものであり、その甲斐かいあってか、爲政ためまさせがれたちにもその宗尹むねただ母堂ぼどうひさ姉妹しまいから受けた恩義おんぎ、ひいては、

一橋ひとつばし家への恩義おんぎ…」

 という名の「DNA」がしっかりとがれたのであった。

 そして平塚ひらつか爲政ためまさの五男であった忠右衛門ちゅうえもん河野こうの彌太郎やたろう通次みちつぐ養嗣子ようししとしてむかえられたのもその「DNA」のおかげと言えるかも知れなかった。
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