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一橋治済は田沼意次を恨む竹本九八郎正温に対して意次の息・意知が若年寄に内定したことを告げ、意知に対する殺意を芽生えさせる。
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そして忠篤が竹本九八郎を連れて治済の許へと戻ってきたのはそれから四半刻…、30分も経たぬ、凡そ10分程、経った頃であった。
忠篤に伴われて姿を見せた九八郎は緊張している様子であった。天下の御三卿を前にしては当然の反応と言え、治済はそんな九八郎の様子が実に心地良く感じられた。
九八郎は緊張しつつ、治済に平伏すべく、両膝を折ろうとしたので、治済はそれを制した。
「堅苦しい挨拶は抜きにしようぞ…」
治済は九八郎の緊張を解き解すべく、柔らかい声でそう語りかけた。
「畏れ入り奉りまする…」
九八郎はそれでも平伏こそしなかったものの、深々と頭を垂れた。
治済はそんな九八郎に対して直ぐには本題に入らずに、まずは雑談から入ることにした。
「されば再来月にはそなたもいよいよ、朝散大夫よのう…」
朝散大夫とは従五位下諸大夫の別名であり、従五位下諸大夫という名が旗本に対して使われることが多いのに対して、朝散大夫は主に大名に対して使われることが多い名であり、治済は旗本である九八郎に対して、大名に対して使われることが多いその、朝散大夫の名を持ち出すことでそれとなく、朝散大夫の大名と同格になることを示唆したわけである。
すると九八郎もそうと察してかそれこそ、
「傍目にも分かる程に…」
如何にも嬉し気な表情を浮かべたものである。
九八郎という男は実に分かり易い男だと、治済は内心、ほくそ笑んだものである。
治済はしかし、そんな内心を九八郎には勿論、明かさずに、更に九八郎を喜ばせてやることに努めた。無論、九八郎の心を己に引き寄せるためである。
「されば今から官職名を考えた方が良かろうて…、やはり父、正章と同じく越前を名乗るか…、いやいや、越前は既に御用取次の稲葉越前が名乗っておるゆえに、されば正章が初めに名乗りし、それもそなたと同じく、小姓に任じられた際に名乗りし伯耆を名乗るか…」
治済は忠篤より教えられたばかりのそれらをさも、前々から知っているかのような口ぶりで告げ、それに対して九八郎はと言うと、そうとも知らずに、己が父、正章のことを天下の御三卿である一橋治済がそこまで気にかけていてくれたのかと、素直に感動したもので、やはりその様を隠そうともせず、素直にそのまま表現した。
しかし、九八郎は直ぐに渋い表情に転じたかと思うと、
「されば伯耆も既に、奏者番の本庄様が…」
治済にそう告げたので、治済も、「おお、そうであったの…」と思い出したかのような声を上げた。
実際、治済は、「奏者番の本庄様」こと、本庄資承が伯耆守を名乗っていることを思い出したのであった。
奏者番は幕閣とは言えないものの、それでも譜代大名にとっての出世の登竜門的ポストであり、その筆頭である寺社奉行は老中や若年寄に次ぐ幕閣と言って差し支えなく、そうであれば遠慮すべきところであろう。
治済はそのことを思い出すと、
「されば、祖父、正綱と同じく、大膳亮を名乗るか…」
九八郎を更に喜ばせようとそう告げるや、その効果たるや、治済の予想以上に覿面であった。
九八郎は治済が何と、己の祖父・正綱が名乗っていた官職名まで把握してくれていたのかと、実際、治済が予想した通り、大膳亮の官職名を選択、名乗るつもりでいたこととも相俟って、九八郎は正に、
「感動の極致…」
そのような状態に至ったもので、九八郎のその余りに分かり易過ぎる態度にはさしもの治済も自らが望んだこととは言え、気恥ずかしささえ覚えた程である。
ともあれ九八郎は感動の表情を浮かべつつ、「御意…」と答えてみせたので、治済も頷いてみせると、
「さればそなたを呼び出したは他でもない、田沼主殿めがことぞ…」
治済はいよいよ本題に入り、再び、九八郎の表情を渋いものへと、いや、そのような生易しいものではなく、大いに曇らせたものである。
「主殿めがことと仰せられますると?」
九八郎は余程に田沼嫌いのようで、それが昂じて田沼のことが気にかかるのか、治済を促した。
「されば…、そなたを前にしては実に申し難きことなれど…」
治済は己から振っておきながら、正に、
「抜け抜けと…」
そう前置きしたものである。
「構いませぬゆえ、何卒、お聞かせの程を…」
九八郎は治済が予期した通り、そう懇願したもので、治済は内心、そんな九八郎の態度が、それも己が思い通りに動く九八郎の態度が治済には面白くて仕方がなかった。
それでも余り、面白がっていては前に進めないと、治済はもう少し、九八郎で遊びたいのを堪えて、今度こそ本題に入ることにした。
「されば、主殿めが倅、山城めが此度、若年寄へと進むらしい…」
治済がそう告げた途端、九八郎は全身を硬直させたもので、それもやはり傍目にも分かる程であった。
九八郎はそれから一拍置いた後、
「そは、真でござりまするか…」
呻くようにそう尋ねた。それこそ、
「言葉を搾り出す…」
そのような表現が正に当て嵌まる程であった。
「真よ…、されば御用取次の横田筑後めが提議をして、畏れ多くも上様におかせられてもそれをお認めあそばされし由…、いや、全ては我が子可愛さの主殿めが策謀にて…、金魚の糞とも申すべき筑後めを使嗾して、その儀、提議為さしめたのであろうが…、それにしてもどこぞの馬の骨とも分からぬ、盗賊も同然の下賤なる成り上がり者の田沼めが、こともあろうに父子揃うて、幕府の要職を占めんと欲するとは、腐敗の猖獗もここに極まれりよ…」
治済がそう告げると、九八郎も全くもって同感であり、大いに頷いたものである。
「このままでは幕府は田沼という溝鼠によってそれこそ骨の髄までしゃぶりつくされるやも知れぬな…」
治済が更にそう続けるや、
「絶対に左様なこと…、田沼めの好きにさせてはなりませぬっ!」
九八郎は堪らなくなったようで、思わずそう声を上げたものである。
治済は九八郎のその反応にいよいよもって内心、ほくそ笑んだものだが、しかし、あくまで表情は内心とは裏腹に、如何にも深刻そうに装った。
「余とて九八郎、いや、正温と思いは同じぞ…」
治済はあえて九八郎の諱を口にすることで、更に九八郎の心をグッと引き寄せた上で、
「なれどこのままでは田沼が思うがまま、それこそ田沼が天下ぞ…、少なくとも、田沼に…、主殿めに山城という倅がいる限りはの…、何しろ倅、山城めも父、主殿めと同じく、上様のご寵愛を得ておるゆえに…、それも父、主殿め以上に深いご寵愛をな…」
さも、山城こと意知さえ取り除けば、もっと言えば、
「意知さえ死ねば…」
田沼の天下も終焉を迎えるであろうと、治済は九八郎にそう示唆したのであった。無論、九八郎に意知への殺意を芽生えさせるためであった。
忠篤に伴われて姿を見せた九八郎は緊張している様子であった。天下の御三卿を前にしては当然の反応と言え、治済はそんな九八郎の様子が実に心地良く感じられた。
九八郎は緊張しつつ、治済に平伏すべく、両膝を折ろうとしたので、治済はそれを制した。
「堅苦しい挨拶は抜きにしようぞ…」
治済は九八郎の緊張を解き解すべく、柔らかい声でそう語りかけた。
「畏れ入り奉りまする…」
九八郎はそれでも平伏こそしなかったものの、深々と頭を垂れた。
治済はそんな九八郎に対して直ぐには本題に入らずに、まずは雑談から入ることにした。
「されば再来月にはそなたもいよいよ、朝散大夫よのう…」
朝散大夫とは従五位下諸大夫の別名であり、従五位下諸大夫という名が旗本に対して使われることが多いのに対して、朝散大夫は主に大名に対して使われることが多い名であり、治済は旗本である九八郎に対して、大名に対して使われることが多いその、朝散大夫の名を持ち出すことでそれとなく、朝散大夫の大名と同格になることを示唆したわけである。
すると九八郎もそうと察してかそれこそ、
「傍目にも分かる程に…」
如何にも嬉し気な表情を浮かべたものである。
九八郎という男は実に分かり易い男だと、治済は内心、ほくそ笑んだものである。
治済はしかし、そんな内心を九八郎には勿論、明かさずに、更に九八郎を喜ばせてやることに努めた。無論、九八郎の心を己に引き寄せるためである。
「されば今から官職名を考えた方が良かろうて…、やはり父、正章と同じく越前を名乗るか…、いやいや、越前は既に御用取次の稲葉越前が名乗っておるゆえに、されば正章が初めに名乗りし、それもそなたと同じく、小姓に任じられた際に名乗りし伯耆を名乗るか…」
治済は忠篤より教えられたばかりのそれらをさも、前々から知っているかのような口ぶりで告げ、それに対して九八郎はと言うと、そうとも知らずに、己が父、正章のことを天下の御三卿である一橋治済がそこまで気にかけていてくれたのかと、素直に感動したもので、やはりその様を隠そうともせず、素直にそのまま表現した。
しかし、九八郎は直ぐに渋い表情に転じたかと思うと、
「されば伯耆も既に、奏者番の本庄様が…」
治済にそう告げたので、治済も、「おお、そうであったの…」と思い出したかのような声を上げた。
実際、治済は、「奏者番の本庄様」こと、本庄資承が伯耆守を名乗っていることを思い出したのであった。
奏者番は幕閣とは言えないものの、それでも譜代大名にとっての出世の登竜門的ポストであり、その筆頭である寺社奉行は老中や若年寄に次ぐ幕閣と言って差し支えなく、そうであれば遠慮すべきところであろう。
治済はそのことを思い出すと、
「されば、祖父、正綱と同じく、大膳亮を名乗るか…」
九八郎を更に喜ばせようとそう告げるや、その効果たるや、治済の予想以上に覿面であった。
九八郎は治済が何と、己の祖父・正綱が名乗っていた官職名まで把握してくれていたのかと、実際、治済が予想した通り、大膳亮の官職名を選択、名乗るつもりでいたこととも相俟って、九八郎は正に、
「感動の極致…」
そのような状態に至ったもので、九八郎のその余りに分かり易過ぎる態度にはさしもの治済も自らが望んだこととは言え、気恥ずかしささえ覚えた程である。
ともあれ九八郎は感動の表情を浮かべつつ、「御意…」と答えてみせたので、治済も頷いてみせると、
「さればそなたを呼び出したは他でもない、田沼主殿めがことぞ…」
治済はいよいよ本題に入り、再び、九八郎の表情を渋いものへと、いや、そのような生易しいものではなく、大いに曇らせたものである。
「主殿めがことと仰せられますると?」
九八郎は余程に田沼嫌いのようで、それが昂じて田沼のことが気にかかるのか、治済を促した。
「されば…、そなたを前にしては実に申し難きことなれど…」
治済は己から振っておきながら、正に、
「抜け抜けと…」
そう前置きしたものである。
「構いませぬゆえ、何卒、お聞かせの程を…」
九八郎は治済が予期した通り、そう懇願したもので、治済は内心、そんな九八郎の態度が、それも己が思い通りに動く九八郎の態度が治済には面白くて仕方がなかった。
それでも余り、面白がっていては前に進めないと、治済はもう少し、九八郎で遊びたいのを堪えて、今度こそ本題に入ることにした。
「されば、主殿めが倅、山城めが此度、若年寄へと進むらしい…」
治済がそう告げた途端、九八郎は全身を硬直させたもので、それもやはり傍目にも分かる程であった。
九八郎はそれから一拍置いた後、
「そは、真でござりまするか…」
呻くようにそう尋ねた。それこそ、
「言葉を搾り出す…」
そのような表現が正に当て嵌まる程であった。
「真よ…、されば御用取次の横田筑後めが提議をして、畏れ多くも上様におかせられてもそれをお認めあそばされし由…、いや、全ては我が子可愛さの主殿めが策謀にて…、金魚の糞とも申すべき筑後めを使嗾して、その儀、提議為さしめたのであろうが…、それにしてもどこぞの馬の骨とも分からぬ、盗賊も同然の下賤なる成り上がり者の田沼めが、こともあろうに父子揃うて、幕府の要職を占めんと欲するとは、腐敗の猖獗もここに極まれりよ…」
治済がそう告げると、九八郎も全くもって同感であり、大いに頷いたものである。
「このままでは幕府は田沼という溝鼠によってそれこそ骨の髄までしゃぶりつくされるやも知れぬな…」
治済が更にそう続けるや、
「絶対に左様なこと…、田沼めの好きにさせてはなりませぬっ!」
九八郎は堪らなくなったようで、思わずそう声を上げたものである。
治済は九八郎のその反応にいよいよもって内心、ほくそ笑んだものだが、しかし、あくまで表情は内心とは裏腹に、如何にも深刻そうに装った。
「余とて九八郎、いや、正温と思いは同じぞ…」
治済はあえて九八郎の諱を口にすることで、更に九八郎の心をグッと引き寄せた上で、
「なれどこのままでは田沼が思うがまま、それこそ田沼が天下ぞ…、少なくとも、田沼に…、主殿めに山城という倅がいる限りはの…、何しろ倅、山城めも父、主殿めと同じく、上様のご寵愛を得ておるゆえに…、それも父、主殿め以上に深いご寵愛をな…」
さも、山城こと意知さえ取り除けば、もっと言えば、
「意知さえ死ねば…」
田沼の天下も終焉を迎えるであろうと、治済は九八郎にそう示唆したのであった。無論、九八郎に意知への殺意を芽生えさせるためであった。
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