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田安家老の戸川山城守逵和と清水家老の本多讃岐守昌忠の違い ~御三卿家老としての姿勢の違い~ 清水家老・本多昌忠の場合
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だが、そんな逵和とは正反対な姿勢を示してみせたのが清水家老の本多讃岐守昌忠であり、それは当主不在の明屋形である田安家に仕える逵和とは違い、昌忠の場合は、
「清水重好という、御三卿家老として、それも清水家老として己が仕えるべき主君とも言える当主がいたから…」
というものであったが、こと昌忠の場合はそれ以上のものがあった。
それと言うのも昌忠の実弟の本多六三郎長卿は清水重好がまだ、
「萬次郎…」
そう名乗っていた頃より…、それもまだ10歳の時分、宝暦5(1755)年12月より近習として仕え、その萬次郎が宝暦9(1759)年9月27日に元服して今の、
「重好…」
そう名乗るようになり、更にそれから2ヵ月後の11月29日には、かねて田安御門内の敷地内にて造営中であった清水館が落成をみたために…、その前年の宝暦8(1758)年12月2日に重好、いや、萬次郎が元服後に住まう屋敷を建てるべく、田安御門内の敷地の一角が割り当てられたのであった…、その清水館へと江戸城より引き移るに際して、近習であった本多六三郎もそれに従った。
六三郎はその後、清水館にて所謂、
「八役…」
その末席に列なる勘定奉行へと取り立てられ、その後、勘定奉行や郡奉行よりも上位に位置する「八役」である物頭へと栄進を遂げ、この物頭を最後に六三郎は隠退し、家督を養嗣子である主税忠陳に譲ったわけだが、六三郎がここまで栄進を遂げたのはひとえに、
「重好からの寵愛…」
正にその賜物と言え、六三郎もその恩義に報いるべく、それこそ決して大袈裟ではなく、
「身命を賭して…」
重好に仕えたものである。六三郎は重好の正に、
「不惜身命の臣…」
であった。
六三郎は本多昌忠の弟…、即ち、大番組頭まで勤め上げた本多新五兵衛忠愛の次男であり、それゆえ六三郎のその御三卿の家臣として仕える立場たるや…、所謂、立ち位置は正しく、附人と並ぶ、
「附切…」
つまりは公儀…、幕府より派遣された家臣であったもののの、しかし、六三郎の意識としては、重好が個人的に雇い入れた、
「抱入…」
つまりは「プロパー社員」のそれであった。
重好にしてもそんな六三郎の意識、いや、気概といったものを大いに愛で、だからこそ栄進へと繋がったのである。
いや、御三卿に仕える家臣の人事権はあくまで公儀にあり、それゆえ如何に重好と雖も、例えば六三郎を御三卿に仕える家臣の中でも頂点に位置する従五位下諸大夫役である家老に取り立てることは無理であっただろう。何しろ六三郎は従六位の布衣役ですらない、いや、それ以前に嫡子でさえなかったからだ。
だが所謂、八役の中でも従五位下諸大夫役ではなく、従六位の布衣役でもない、勘定奉行や、或いは物頭へと取り立てようと思えば、決して不可能ではなく、重好は公儀…、幕府に掛け合って、この六三郎を勘定奉行、更には物頭へと取り立てたのであった。
六三郎にしても己が栄進を遂げたその背景を把握していたので、それゆえ六三郎は隠退した今でも、重好のことをやはり決して大袈裟ではなく、
「神の如く…」
崇拝していた。
のみならず、六三郎は隠退後の今でも重好の個人的な相談役として、清水館への出入りが許されていたのだ。
清水館にて仕えていた頃は邸内にある家臣専用の長屋にて起居していた六三郎であったが、隠退後は他の家臣もそうであるように、館を出て個人的な住まいである屋敷へと…、六三郎の場合は市谷にある屋敷へと引き移り、代わりにそれまで市谷にあるその屋敷の留守を預かっていた養嗣子の主税忠陳が養父・六三郎と入れ替わる格好にて清水館へと入ったわけだが、その後も六三郎は重好に請われて、重好の相談役として清水館へと出入りしていた。
そのような事情があるために、その六三郎の実兄である昌忠もそのような実弟・六三郎の重好に対する忠誠心が伝染したかのように、昌忠も家老という公儀…、幕府より派された附人ではあったものの、いつしか抱入のような意識で重好に仕えていた。
それゆえ昌忠は主君とも言うべき当主が存在しない明屋形に仕える逵和とは違い、
「ご主君・宮内卿様のために…」
重好のために仕えねばと、その意識があり、こうして今日のように登城、中奥にて詰める当番日であれば、主君・重好のためになる、謂わば有益となる情報の収集に余念がなく、それが昂じて、同じ御三卿家老の小さな変化にも気になり、今が正にそうであった。
「そこもとは息と他愛もなき話をしただけと申されるが、なればわざわざ我ら家老を避けるようにして、廊下にてヒソヒソと話されるには及ぶまいて…、真にもって親子の他愛もなき話なれば…」
昌忠は忠篤を尚もそう追及したものの、忠篤は相変わらず黙秘を決め込み、その様子を直ぐ間近で見せつけられている逵和は昌忠のその粘着ぶりにうんざりした様子を隠そうともしなかった。
「さればそこもとは息にして小納戸の藤助殿と話し終えられるや、こともあろうに御控座敷へと足を運ばれたであろうが…、あまつさえ、一橋民部卿様をもやはり廊下へと連れ申し上げ、何やらヒソヒソ話に興じられたであろうがっ!」
昌忠がそう「爆弾」を炸裂させたところ、さしもの忠篤も思わず目を剥いた。
一方、逵和は心底、呆れた様子で、
「そこもとは林殿のあとをつけられたのか…」
昌忠にそう尋ねた。いや、あとをつけられた当の本人とも言うべき忠篤も思いは同じで、そう尋ねたいところであった。いや、罵声を浴びせたいところであった。
「そこもとは確か、厠へ行くと申して席を立たれたが、あれは真っ赤な偽りにて、真は林殿があとをつけるべく、席を立たれたのか…」
逵和は尚も呆れた様子でそう続け、それで忠篤も昌忠が己のあとをつけたその経緯を把握したものである。
ともあれ昌忠は、「さあ、答えられぃっ!」と更に声量を上げてヒソヒソ話の中身について忠篤を糺したのであった。
「清水重好という、御三卿家老として、それも清水家老として己が仕えるべき主君とも言える当主がいたから…」
というものであったが、こと昌忠の場合はそれ以上のものがあった。
それと言うのも昌忠の実弟の本多六三郎長卿は清水重好がまだ、
「萬次郎…」
そう名乗っていた頃より…、それもまだ10歳の時分、宝暦5(1755)年12月より近習として仕え、その萬次郎が宝暦9(1759)年9月27日に元服して今の、
「重好…」
そう名乗るようになり、更にそれから2ヵ月後の11月29日には、かねて田安御門内の敷地内にて造営中であった清水館が落成をみたために…、その前年の宝暦8(1758)年12月2日に重好、いや、萬次郎が元服後に住まう屋敷を建てるべく、田安御門内の敷地の一角が割り当てられたのであった…、その清水館へと江戸城より引き移るに際して、近習であった本多六三郎もそれに従った。
六三郎はその後、清水館にて所謂、
「八役…」
その末席に列なる勘定奉行へと取り立てられ、その後、勘定奉行や郡奉行よりも上位に位置する「八役」である物頭へと栄進を遂げ、この物頭を最後に六三郎は隠退し、家督を養嗣子である主税忠陳に譲ったわけだが、六三郎がここまで栄進を遂げたのはひとえに、
「重好からの寵愛…」
正にその賜物と言え、六三郎もその恩義に報いるべく、それこそ決して大袈裟ではなく、
「身命を賭して…」
重好に仕えたものである。六三郎は重好の正に、
「不惜身命の臣…」
であった。
六三郎は本多昌忠の弟…、即ち、大番組頭まで勤め上げた本多新五兵衛忠愛の次男であり、それゆえ六三郎のその御三卿の家臣として仕える立場たるや…、所謂、立ち位置は正しく、附人と並ぶ、
「附切…」
つまりは公儀…、幕府より派遣された家臣であったもののの、しかし、六三郎の意識としては、重好が個人的に雇い入れた、
「抱入…」
つまりは「プロパー社員」のそれであった。
重好にしてもそんな六三郎の意識、いや、気概といったものを大いに愛で、だからこそ栄進へと繋がったのである。
いや、御三卿に仕える家臣の人事権はあくまで公儀にあり、それゆえ如何に重好と雖も、例えば六三郎を御三卿に仕える家臣の中でも頂点に位置する従五位下諸大夫役である家老に取り立てることは無理であっただろう。何しろ六三郎は従六位の布衣役ですらない、いや、それ以前に嫡子でさえなかったからだ。
だが所謂、八役の中でも従五位下諸大夫役ではなく、従六位の布衣役でもない、勘定奉行や、或いは物頭へと取り立てようと思えば、決して不可能ではなく、重好は公儀…、幕府に掛け合って、この六三郎を勘定奉行、更には物頭へと取り立てたのであった。
六三郎にしても己が栄進を遂げたその背景を把握していたので、それゆえ六三郎は隠退した今でも、重好のことをやはり決して大袈裟ではなく、
「神の如く…」
崇拝していた。
のみならず、六三郎は隠退後の今でも重好の個人的な相談役として、清水館への出入りが許されていたのだ。
清水館にて仕えていた頃は邸内にある家臣専用の長屋にて起居していた六三郎であったが、隠退後は他の家臣もそうであるように、館を出て個人的な住まいである屋敷へと…、六三郎の場合は市谷にある屋敷へと引き移り、代わりにそれまで市谷にあるその屋敷の留守を預かっていた養嗣子の主税忠陳が養父・六三郎と入れ替わる格好にて清水館へと入ったわけだが、その後も六三郎は重好に請われて、重好の相談役として清水館へと出入りしていた。
そのような事情があるために、その六三郎の実兄である昌忠もそのような実弟・六三郎の重好に対する忠誠心が伝染したかのように、昌忠も家老という公儀…、幕府より派された附人ではあったものの、いつしか抱入のような意識で重好に仕えていた。
それゆえ昌忠は主君とも言うべき当主が存在しない明屋形に仕える逵和とは違い、
「ご主君・宮内卿様のために…」
重好のために仕えねばと、その意識があり、こうして今日のように登城、中奥にて詰める当番日であれば、主君・重好のためになる、謂わば有益となる情報の収集に余念がなく、それが昂じて、同じ御三卿家老の小さな変化にも気になり、今が正にそうであった。
「そこもとは息と他愛もなき話をしただけと申されるが、なればわざわざ我ら家老を避けるようにして、廊下にてヒソヒソと話されるには及ぶまいて…、真にもって親子の他愛もなき話なれば…」
昌忠は忠篤を尚もそう追及したものの、忠篤は相変わらず黙秘を決め込み、その様子を直ぐ間近で見せつけられている逵和は昌忠のその粘着ぶりにうんざりした様子を隠そうともしなかった。
「さればそこもとは息にして小納戸の藤助殿と話し終えられるや、こともあろうに御控座敷へと足を運ばれたであろうが…、あまつさえ、一橋民部卿様をもやはり廊下へと連れ申し上げ、何やらヒソヒソ話に興じられたであろうがっ!」
昌忠がそう「爆弾」を炸裂させたところ、さしもの忠篤も思わず目を剥いた。
一方、逵和は心底、呆れた様子で、
「そこもとは林殿のあとをつけられたのか…」
昌忠にそう尋ねた。いや、あとをつけられた当の本人とも言うべき忠篤も思いは同じで、そう尋ねたいところであった。いや、罵声を浴びせたいところであった。
「そこもとは確か、厠へ行くと申して席を立たれたが、あれは真っ赤な偽りにて、真は林殿があとをつけるべく、席を立たれたのか…」
逵和は尚も呆れた様子でそう続け、それで忠篤も昌忠が己のあとをつけたその経緯を把握したものである。
ともあれ昌忠は、「さあ、答えられぃっ!」と更に声量を上げてヒソヒソ話の中身について忠篤を糺したのであった。
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