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田安家老の戸川山城守逵和と清水家老の本多讃岐守昌忠の違い ~御三卿家老としての姿勢の違い~ 田安家老・戸川逵和の場合
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さて、中奥にある御三卿の詰所である御控座敷には一橋家の当主である治済の他には、清水家の当主である重好が詰めているだけであった。
本来ならば田安家の当主が詰めても良さそうなところであったが、生憎と田安家の当主は現在、不在であり、それゆえ登城しようにも、
「元より不可能…」
というものであった。ちなみにこれで一般の大名や旗本、御家人であれば当主不在はそのまま、御家断絶の危機に直結するが、こと御三卿の場合、当主不在でも潰れることがなく、
「明屋形…」
として存続が許されており、それは御三家にも許されていない、御三卿にのみ与えられた特権と言えた。
そういうわけで、今、この御控座敷には一橋家の当主の治済と清水家当主の重好の二人だけが詰めていたのだ。
それゆえ、治済に二人の「訪問者」がそれこそ、
「立て続けに…」
あり、しかもその度に治済はその「訪問者」の、
「たっての要望…」
により、御控座敷を抜け出しては廊下へと移り、そこで「訪問者」と何やらヒソヒソ話に興じたとあらば、
「否でも…」
重好の目に付くというものであり、
「民部殿…、何やら本日は貴殿を訪ねられる者が多いのう…」
重好は如何にも、
「恐る恐る…」
といった体で「訪問者」のことを、即ち、小納戸頭取の稲葉正存と一橋家老の林忠篤のことを治済に問いかけた。そこには、
「一体、何を話していたのか…」
それを問う意図があった。とりわけ、小納戸頭取である稲葉正存と何を話していたのか、大いに気になるところであった。
いや、重好は治済とは同じ御三卿、のみならず、重好は現将軍・家治の腹違いとは言え、弟に当たり、しかも治済よりも年上であった。
治済は九代将軍・家重の弟にして一橋家の始祖・宗尹の嫡子であり、現将軍たる家治共々、家重の息に当たる重好から見れば、治済はいとこに当たり、しかも重好の方が年上であるので、治済は従弟というわけだ。
そうであれば重好としては治済に対して何ら遠慮する必要はなかったものの、しかし、重好はそれこそ、
「何となく…」
治済に対して遠慮があった。それは治済が醸し出す、ある種の不気味さによる。
治済は今、32歳、いや、来月には33になろうか、それでも治済はとても30代とは思えぬ凄味を体全体から醸し出していたのだ。
いや、それは凄味を通り越し、
「尋常ならざる…」
そのような不気味な空気を醸し出しており、それゆえ重好は治済よりも年上でありながら、どうしても遠慮勝ちになってしまう。腰が引けてしまうと言い換えても良いであろう。
それに対して治済もそんな重好の、
「足許を見透かして…」
ただ微笑むだけであり、まともに重好の問いかけに答えようとはしなかった。
一方、御三卿家老の詰所においてもやはり同じようなやり取りがあった。
即ち、小納戸である息・藤助の訪問を受けた、それもやはり同じく廊下にてその藤助と何やらヒソヒソ話に興じた一橋家老の林忠篤に対して二人の家老が…、田安家老の戸川山城守逵和と清水家老の本多讃岐守昌忠の二人の家老が一体、何を話していたのかと、忠篤を詰問していた。
それに対して忠篤はと言うと、重好同様、治済よりも年上でありながら、生憎と治済のように、
「尋常ならざる…」
凄味をその体全体から醸し出していたわけではないので、治済のように、
「微笑み…」
をもって煙に巻くわけにもゆかず、
「単なる親子の会話…、他愛もなき会話でござるよ…」
そう誤魔化すのが精一杯であった。
それに対して戸川逵和と本多昌忠の二人が見せた反応たるや、好対照であった。
即ち、二人とも、忠篤が誤魔化していることぐらい分かっていたものの、それに対して戸川逵和はそれ以上、追及する気もなく、すっかり興味が失せた様子であった。
「例え、追及してみたところで、肥後めは口を割るまいて…」
逵和はそう見切り、それ以上、追及する気が失せたのであった。
一方、本多昌忠はそれとは正反対に、追及の手を緩めることはなかった。
いや、昌忠とて、逵和同様、忠篤を追及してみたところで、忠篤は決して口を割らないであろうことは承知していたものの、昌忠としてはそれを承知の上で尚も追及せずにはいられなかった。
逵和と昌忠は同じ御三卿家老でありながら、どうしてこの様な好対照な反応を示したのか、それはやはり、
「御三卿家老としての姿勢の違い…」
それに尽きるであろう。
それと言うのも、逵和の場合は昌忠や忠篤のように仕えるべき当主、さしずめ、
「主君…」
とも言うべき御三卿がいないからだ。
逵和としてはあくまで、主君…、当主不在の田安館に仕えているという意識であった。
御三卿は所謂、
「潰れない御家…」
であるゆえに、例え、当主不在であろうとも、
「明屋形…」
として御家とも言うべき館の存続が許され、ゆえに館に家老を始めとする附人や、或いは附切が公儀…、幕府より派遣されるわけだが、どうしても仕えるべき主君、もとい当主がいないので、当主がいる一橋家と清水家、この両家に仕える附人や附切と較べて、所謂、
「モチベーション」
それがつい欠け勝ちであり、館へと派遣される附人や附切の人数の多寡もそれに追い討ちをかけた。
即ち、当主が不在である御三卿の館へと派される附人や附切の人数たるや、当主が存する御三卿の館へと派されるそれよりも少ないのであった。
それが証拠に、それも好例なのが家老であり、田安家にも一応、家老がその定員通り、二人いるものの、実際には戸川逵和が一人で家老を勤めているのも同然であった。
それと言うのももう一人の家老である松本伊豆守秀持は実は勝手方勘定奉行であり、のみならず、長崎御用掛をも兼務していた。長崎御用掛とはこの江戸において長崎貿易政策を手がけるポストであり、勝手方勘定奉行の加役…、兼務ポストであった。
この長崎御用掛は中々に激務であり、加役…、兼務ポストなどではなく、独立の専任ポストでも良いぐらいの忙しさであり、松本秀持は勝手方勘定奉行としてその激務の加役である長崎御用掛を兼務している中での田安家老の兼務であり、それゆえ実際には家老としての仕事は全て、戸川逵和に丸投げされていた。逵和は秀持のように、兼務として家老を勤めているわけではなく、あくまで家老を専任として勤めていたからだ。
いや、御三卿家老は元より閑職であり…、全くもって仕事がないわけではないが、それでも町奉行や勘定奉行といった実務ポストと較べてみた時、どうしても閑職の色合いが強く、その上、当主不在の明屋形に仕える家老ともなると、完全に閑職と断言できた。
そしてそうであればこそ、そうでなくとも忙しい松本秀持に今更、兼務ポストを、それも閑職のポストをもう一つ、兼務させても問題あるまいと、幕府はそう判断したのであろうが、それにしても勝手方勘定奉行の定員もまた二人であり、現在は赤井豊前守忠皛が秀持の相役…、同僚として勝手方勘定奉行を勤めており、そうであれば赤井忠皛にも少しは仕事を割り振っても良さそうなものであったが、有能な秀持と較べた時、どうしても忠皛の才はと言うと、どうしても色褪せてしまう。
いや、決して忠皛が無能というわけではなく、秀持が有能過ぎたのだ。
それゆえどうしても秀持に仕事が集中してしまい、忠皛としてもそのことは十分に心得ており、忠皛は決して腐らずに、それどころか秀持が、
「思う存分…」
仕事に打ち込めるようにと、忠皛は己の能力の範囲内で勝手方勘定奉行としての仕事の大半を引き受け、秀持が激務であるその兼務ポストの長崎御用掛を勤め得るよう助けたものであり、秀持もそのお蔭で長崎御用掛に、即ち、貿易政策に打ち込めたものであり、秀持はさしずめ、
「相棒…」
とも言うべきこの忠皛に感謝したものであった。
正に見事な連繋プレーと言え、公事方勘定奉行の桑原伊豫守盛員と山村信濃守良旺だったならば、ここまでの連繋プレーは期待できなかったであろう。
桑原盛員にしろ、山村良旺にしろ、勝手方勘定奉行よりは「ラク」な、もっと言えば閑である筈の公事方勘定奉行を勤めるだけで精一杯であり、こう言っては悪いが完全に無能と断言できた。
ともあれそのような事情もあって、田安の館に詰める家老は逵和一人であり、その家政は逵和のその、
「双肩にかかっている…」
言えば聞こえは良いが、実際には館においては少なくとも家老がみるべき仕事は何もなく、それゆえ例え、転寝していても何ら差し支えがないという有様であり、それゆえ逵和としては今日のような平日は毎日、登城してはここ本丸は中奥にある御三卿家老の詰所に詰めるのが唯一の仕事、と言うよりは楽しみであった。
何しろここ中奥には側用人や御側御用取次、小納戸頭取衆といった将軍の側近役が勤めており、ゆえにここ中奥にて政治が決まると言っても過言ではなく、その中奥に詰められるのはかなりの、いや、相当の、
「特典…」
と言えた。それと言うのも、中奥に詰めることで彼ら実力者と、
「顔繋ぎ…」
それが叶うというもので、それはそのまま一族郎党の、
「栄誉栄華…」
それも夢ではないというものである。
そしてそれは決して大袈裟などではなく、事実、逵和は他の、当主を抱える御三卿家老とは違い、交代などではなく、毎日、中奥に詰められるので、その「特典」を大いに活かすべく、側用人や御側御用取次、小納戸頭取衆といった実力者と、
「顔繋ぎ…」
それに努めたもので、それが功を奏して、小納戸頭取衆の一人である岡部河内守一徳と、
「顔繋ぎ…」
になることが叶った。
いや、そうでなくとも逵和は次男の庄九郎一元を岡部一徳の養嗣子として、それこそ、
「差し出し…」
それゆえ今更、次男・庄九郎の養父たる一徳と顔繋ぎもないが、しかし、そうは言っても逵和はちょうど去年の今頃…、天明2(1782)年の10月に田安家老に任じられる前までは表向のポストである小普請支配を勤めており、ゆえに中奥にて勤める岡部一徳とはどうしても、疎遠になり勝ちとなり、それが去年のちょうど今頃、逵和は小普請支配と同じく表向のポストでありながら、ここ中奥に詰所が用意されている、つまりは中奥に詰めることが許される御三卿家老に任じられたことから、再び、小納戸頭取として中奥にて勤める岡部一徳と正に、
「公私に亘っての…」
交流が復活したというもので、その甲斐あってか、逵和は一徳を介してまずは小納戸頭取衆、次いで小姓頭取衆と続いて、御側御用取次や更には側用人にも引き合わせて貰ったものである。
そのような逵和にとって目下、焦眉の急であるのは息、助次郎逵旨がことであり、逵旨は今はここ本丸にて小姓組番士として将軍・家治に仕えており、逵和としてはこの助次郎を何とかして従六位の布衣役に、それも表向のポストではなく、中奥のポストに、それはつまりは小納戸に就けてやることであった。
更に欲を言えば、三男である越前守正朗も出来れば中奥にて勤めさせてやりたいところであった。
正朗は明和3(1766)年、16歳の折に中奥小姓であった阿部遠江守正元の養子として、それも末期養子として迎えられ、そうして阿部家を継いだ正朗はそれからちょうど10年後の安永5(1776)年は11月に養父・正元と同じく、中奥小姓に取り立てられたのであった。それは次男・庄九郎一元が既に小納戸頭取であった岡部一徳の養嗣子として迎えられてから1年後にも当たり、養子縁組が無事に相整ったそのご祝儀というわけでもなかろうが、一徳が骨を折ってくれた賜物であることは明らかであった。
とは言え、中奥小姓は従五位諸大夫役ではあるものの、その上、中奥の文字が冠せられているところから、つい中奥にて勤める小姓であると誤解され勝ちだが、実際には表向にて儀式を掌る、つまりは表向のポストであり、ゆえに逵和としてはこの三男・正朗をも出来れば中奥にて勤めさせてやりたいところであり、それが叶うならば、例え従六位の布衣役である小納戸でも構わなかった。ここ中奥にて将軍に近侍出来ると言う「メリット」たるや、従五位下諸大夫役以上の価値があるからだ。
いや、愛娘…、助次郎・庄九郎・正朗三兄弟にとっては姉のその夫、逵和にとっては婿、それも大事な婿である小出織部英明も出来れば小納戸としてここ中奥にて将軍・家治に近侍させてやりたいところであった。
織部は既にして、表向のポストにしてやはり従六位の布衣役である使番を勤めており、そうであればそのまま、同じく従六位の布衣役である小納戸として、
「スライド…」
させてやることが出来れば正に、
「万々歳…」
言うことなしというものであり、そのような逵和にしてみれば、一介の小納戸に過ぎぬ、それも忠篤が言う通り、倅である藤助と廊下にて何を話そうとも、それも己ら他の家老には聞かせたくない話のようであり、だからこそ藤助は父にして一橋家老の忠篤をわざわざ廊下まで連れ出してヒソヒソ話に興じたに違いなく、そうであれば、
「単なる親子の会話…、他愛もなき会話…」
との忠篤の「言い訳」たるや、到底、信用するに値しなかったが、それでも忠篤と藤助との会話の中身について興味以上のものはない逵和としては、忠篤がその会話の中身を打ち明けたがらないのであれば、それ以上、追及するつもりもなかった。
本来ならば田安家の当主が詰めても良さそうなところであったが、生憎と田安家の当主は現在、不在であり、それゆえ登城しようにも、
「元より不可能…」
というものであった。ちなみにこれで一般の大名や旗本、御家人であれば当主不在はそのまま、御家断絶の危機に直結するが、こと御三卿の場合、当主不在でも潰れることがなく、
「明屋形…」
として存続が許されており、それは御三家にも許されていない、御三卿にのみ与えられた特権と言えた。
そういうわけで、今、この御控座敷には一橋家の当主の治済と清水家当主の重好の二人だけが詰めていたのだ。
それゆえ、治済に二人の「訪問者」がそれこそ、
「立て続けに…」
あり、しかもその度に治済はその「訪問者」の、
「たっての要望…」
により、御控座敷を抜け出しては廊下へと移り、そこで「訪問者」と何やらヒソヒソ話に興じたとあらば、
「否でも…」
重好の目に付くというものであり、
「民部殿…、何やら本日は貴殿を訪ねられる者が多いのう…」
重好は如何にも、
「恐る恐る…」
といった体で「訪問者」のことを、即ち、小納戸頭取の稲葉正存と一橋家老の林忠篤のことを治済に問いかけた。そこには、
「一体、何を話していたのか…」
それを問う意図があった。とりわけ、小納戸頭取である稲葉正存と何を話していたのか、大いに気になるところであった。
いや、重好は治済とは同じ御三卿、のみならず、重好は現将軍・家治の腹違いとは言え、弟に当たり、しかも治済よりも年上であった。
治済は九代将軍・家重の弟にして一橋家の始祖・宗尹の嫡子であり、現将軍たる家治共々、家重の息に当たる重好から見れば、治済はいとこに当たり、しかも重好の方が年上であるので、治済は従弟というわけだ。
そうであれば重好としては治済に対して何ら遠慮する必要はなかったものの、しかし、重好はそれこそ、
「何となく…」
治済に対して遠慮があった。それは治済が醸し出す、ある種の不気味さによる。
治済は今、32歳、いや、来月には33になろうか、それでも治済はとても30代とは思えぬ凄味を体全体から醸し出していたのだ。
いや、それは凄味を通り越し、
「尋常ならざる…」
そのような不気味な空気を醸し出しており、それゆえ重好は治済よりも年上でありながら、どうしても遠慮勝ちになってしまう。腰が引けてしまうと言い換えても良いであろう。
それに対して治済もそんな重好の、
「足許を見透かして…」
ただ微笑むだけであり、まともに重好の問いかけに答えようとはしなかった。
一方、御三卿家老の詰所においてもやはり同じようなやり取りがあった。
即ち、小納戸である息・藤助の訪問を受けた、それもやはり同じく廊下にてその藤助と何やらヒソヒソ話に興じた一橋家老の林忠篤に対して二人の家老が…、田安家老の戸川山城守逵和と清水家老の本多讃岐守昌忠の二人の家老が一体、何を話していたのかと、忠篤を詰問していた。
それに対して忠篤はと言うと、重好同様、治済よりも年上でありながら、生憎と治済のように、
「尋常ならざる…」
凄味をその体全体から醸し出していたわけではないので、治済のように、
「微笑み…」
をもって煙に巻くわけにもゆかず、
「単なる親子の会話…、他愛もなき会話でござるよ…」
そう誤魔化すのが精一杯であった。
それに対して戸川逵和と本多昌忠の二人が見せた反応たるや、好対照であった。
即ち、二人とも、忠篤が誤魔化していることぐらい分かっていたものの、それに対して戸川逵和はそれ以上、追及する気もなく、すっかり興味が失せた様子であった。
「例え、追及してみたところで、肥後めは口を割るまいて…」
逵和はそう見切り、それ以上、追及する気が失せたのであった。
一方、本多昌忠はそれとは正反対に、追及の手を緩めることはなかった。
いや、昌忠とて、逵和同様、忠篤を追及してみたところで、忠篤は決して口を割らないであろうことは承知していたものの、昌忠としてはそれを承知の上で尚も追及せずにはいられなかった。
逵和と昌忠は同じ御三卿家老でありながら、どうしてこの様な好対照な反応を示したのか、それはやはり、
「御三卿家老としての姿勢の違い…」
それに尽きるであろう。
それと言うのも、逵和の場合は昌忠や忠篤のように仕えるべき当主、さしずめ、
「主君…」
とも言うべき御三卿がいないからだ。
逵和としてはあくまで、主君…、当主不在の田安館に仕えているという意識であった。
御三卿は所謂、
「潰れない御家…」
であるゆえに、例え、当主不在であろうとも、
「明屋形…」
として御家とも言うべき館の存続が許され、ゆえに館に家老を始めとする附人や、或いは附切が公儀…、幕府より派遣されるわけだが、どうしても仕えるべき主君、もとい当主がいないので、当主がいる一橋家と清水家、この両家に仕える附人や附切と較べて、所謂、
「モチベーション」
それがつい欠け勝ちであり、館へと派遣される附人や附切の人数の多寡もそれに追い討ちをかけた。
即ち、当主が不在である御三卿の館へと派される附人や附切の人数たるや、当主が存する御三卿の館へと派されるそれよりも少ないのであった。
それが証拠に、それも好例なのが家老であり、田安家にも一応、家老がその定員通り、二人いるものの、実際には戸川逵和が一人で家老を勤めているのも同然であった。
それと言うのももう一人の家老である松本伊豆守秀持は実は勝手方勘定奉行であり、のみならず、長崎御用掛をも兼務していた。長崎御用掛とはこの江戸において長崎貿易政策を手がけるポストであり、勝手方勘定奉行の加役…、兼務ポストであった。
この長崎御用掛は中々に激務であり、加役…、兼務ポストなどではなく、独立の専任ポストでも良いぐらいの忙しさであり、松本秀持は勝手方勘定奉行としてその激務の加役である長崎御用掛を兼務している中での田安家老の兼務であり、それゆえ実際には家老としての仕事は全て、戸川逵和に丸投げされていた。逵和は秀持のように、兼務として家老を勤めているわけではなく、あくまで家老を専任として勤めていたからだ。
いや、御三卿家老は元より閑職であり…、全くもって仕事がないわけではないが、それでも町奉行や勘定奉行といった実務ポストと較べてみた時、どうしても閑職の色合いが強く、その上、当主不在の明屋形に仕える家老ともなると、完全に閑職と断言できた。
そしてそうであればこそ、そうでなくとも忙しい松本秀持に今更、兼務ポストを、それも閑職のポストをもう一つ、兼務させても問題あるまいと、幕府はそう判断したのであろうが、それにしても勝手方勘定奉行の定員もまた二人であり、現在は赤井豊前守忠皛が秀持の相役…、同僚として勝手方勘定奉行を勤めており、そうであれば赤井忠皛にも少しは仕事を割り振っても良さそうなものであったが、有能な秀持と較べた時、どうしても忠皛の才はと言うと、どうしても色褪せてしまう。
いや、決して忠皛が無能というわけではなく、秀持が有能過ぎたのだ。
それゆえどうしても秀持に仕事が集中してしまい、忠皛としてもそのことは十分に心得ており、忠皛は決して腐らずに、それどころか秀持が、
「思う存分…」
仕事に打ち込めるようにと、忠皛は己の能力の範囲内で勝手方勘定奉行としての仕事の大半を引き受け、秀持が激務であるその兼務ポストの長崎御用掛を勤め得るよう助けたものであり、秀持もそのお蔭で長崎御用掛に、即ち、貿易政策に打ち込めたものであり、秀持はさしずめ、
「相棒…」
とも言うべきこの忠皛に感謝したものであった。
正に見事な連繋プレーと言え、公事方勘定奉行の桑原伊豫守盛員と山村信濃守良旺だったならば、ここまでの連繋プレーは期待できなかったであろう。
桑原盛員にしろ、山村良旺にしろ、勝手方勘定奉行よりは「ラク」な、もっと言えば閑である筈の公事方勘定奉行を勤めるだけで精一杯であり、こう言っては悪いが完全に無能と断言できた。
ともあれそのような事情もあって、田安の館に詰める家老は逵和一人であり、その家政は逵和のその、
「双肩にかかっている…」
言えば聞こえは良いが、実際には館においては少なくとも家老がみるべき仕事は何もなく、それゆえ例え、転寝していても何ら差し支えがないという有様であり、それゆえ逵和としては今日のような平日は毎日、登城してはここ本丸は中奥にある御三卿家老の詰所に詰めるのが唯一の仕事、と言うよりは楽しみであった。
何しろここ中奥には側用人や御側御用取次、小納戸頭取衆といった将軍の側近役が勤めており、ゆえにここ中奥にて政治が決まると言っても過言ではなく、その中奥に詰められるのはかなりの、いや、相当の、
「特典…」
と言えた。それと言うのも、中奥に詰めることで彼ら実力者と、
「顔繋ぎ…」
それが叶うというもので、それはそのまま一族郎党の、
「栄誉栄華…」
それも夢ではないというものである。
そしてそれは決して大袈裟などではなく、事実、逵和は他の、当主を抱える御三卿家老とは違い、交代などではなく、毎日、中奥に詰められるので、その「特典」を大いに活かすべく、側用人や御側御用取次、小納戸頭取衆といった実力者と、
「顔繋ぎ…」
それに努めたもので、それが功を奏して、小納戸頭取衆の一人である岡部河内守一徳と、
「顔繋ぎ…」
になることが叶った。
いや、そうでなくとも逵和は次男の庄九郎一元を岡部一徳の養嗣子として、それこそ、
「差し出し…」
それゆえ今更、次男・庄九郎の養父たる一徳と顔繋ぎもないが、しかし、そうは言っても逵和はちょうど去年の今頃…、天明2(1782)年の10月に田安家老に任じられる前までは表向のポストである小普請支配を勤めており、ゆえに中奥にて勤める岡部一徳とはどうしても、疎遠になり勝ちとなり、それが去年のちょうど今頃、逵和は小普請支配と同じく表向のポストでありながら、ここ中奥に詰所が用意されている、つまりは中奥に詰めることが許される御三卿家老に任じられたことから、再び、小納戸頭取として中奥にて勤める岡部一徳と正に、
「公私に亘っての…」
交流が復活したというもので、その甲斐あってか、逵和は一徳を介してまずは小納戸頭取衆、次いで小姓頭取衆と続いて、御側御用取次や更には側用人にも引き合わせて貰ったものである。
そのような逵和にとって目下、焦眉の急であるのは息、助次郎逵旨がことであり、逵旨は今はここ本丸にて小姓組番士として将軍・家治に仕えており、逵和としてはこの助次郎を何とかして従六位の布衣役に、それも表向のポストではなく、中奥のポストに、それはつまりは小納戸に就けてやることであった。
更に欲を言えば、三男である越前守正朗も出来れば中奥にて勤めさせてやりたいところであった。
正朗は明和3(1766)年、16歳の折に中奥小姓であった阿部遠江守正元の養子として、それも末期養子として迎えられ、そうして阿部家を継いだ正朗はそれからちょうど10年後の安永5(1776)年は11月に養父・正元と同じく、中奥小姓に取り立てられたのであった。それは次男・庄九郎一元が既に小納戸頭取であった岡部一徳の養嗣子として迎えられてから1年後にも当たり、養子縁組が無事に相整ったそのご祝儀というわけでもなかろうが、一徳が骨を折ってくれた賜物であることは明らかであった。
とは言え、中奥小姓は従五位諸大夫役ではあるものの、その上、中奥の文字が冠せられているところから、つい中奥にて勤める小姓であると誤解され勝ちだが、実際には表向にて儀式を掌る、つまりは表向のポストであり、ゆえに逵和としてはこの三男・正朗をも出来れば中奥にて勤めさせてやりたいところであり、それが叶うならば、例え従六位の布衣役である小納戸でも構わなかった。ここ中奥にて将軍に近侍出来ると言う「メリット」たるや、従五位下諸大夫役以上の価値があるからだ。
いや、愛娘…、助次郎・庄九郎・正朗三兄弟にとっては姉のその夫、逵和にとっては婿、それも大事な婿である小出織部英明も出来れば小納戸としてここ中奥にて将軍・家治に近侍させてやりたいところであった。
織部は既にして、表向のポストにしてやはり従六位の布衣役である使番を勤めており、そうであればそのまま、同じく従六位の布衣役である小納戸として、
「スライド…」
させてやることが出来れば正に、
「万々歳…」
言うことなしというものであり、そのような逵和にしてみれば、一介の小納戸に過ぎぬ、それも忠篤が言う通り、倅である藤助と廊下にて何を話そうとも、それも己ら他の家老には聞かせたくない話のようであり、だからこそ藤助は父にして一橋家老の忠篤をわざわざ廊下まで連れ出してヒソヒソ話に興じたに違いなく、そうであれば、
「単なる親子の会話…、他愛もなき会話…」
との忠篤の「言い訳」たるや、到底、信用するに値しなかったが、それでも忠篤と藤助との会話の中身について興味以上のものはない逵和としては、忠篤がその会話の中身を打ち明けたがらないのであれば、それ以上、追及するつもりもなかった。
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満州国は、日本が作った対ソ連の干渉となる国であった。 未開の不毛の地であった。 無法の馬賊どもが闊歩する草原が広がる地だ。 そこに、農業開発開墾団が入植してくる。 とうぜん、馬賊と激しい勢力争いとなる。 馬賊は機動性を武器に、なかなか殲滅できなかった。 それで、入植者保護のため満州政府が宗主国である日本国へ馬賊討伐を要請したのである。 それに答えたのが馬賊専門の討伐飛行隊である。
渡世人飛脚旅(小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品で)
牛馬走
歴史・時代
(小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品で)水呑百姓の平太は、体の不自由な祖母を養いながら、未来に希望を持てずに生きていた。平太は、賭場で無宿(浪人)を鮮やかに斃す。その折、親分に渡世人飛脚に誘われる。渡世人飛脚とは、あちこちを歩き回る渡世人を利用した闇の運送業のことを云う――
日は沈まず
ミリタリー好きの人
歴史・時代
1929年世界恐慌により大日本帝國も含め世界は大恐慌に陥る。これに対し大日本帝國は満州事変で満州を勢力圏に置き、積極的に工場や造船所などを建造し、経済再建と大幅な軍備拡張に成功する。そして1937年大日本帝國は志那事変をきっかけに戦争の道に走っていくことになる。当初、帝國軍は順調に進撃していたが、英米の援蔣ルートによる援助と和平の断念により戦争は泥沼化していくことになった。さらに1941年には英米とも戦争は避けられなくなっていた・・・あくまでも趣味の範囲での制作です。なので文章がおかしい場合もあります。
また参考資料も乏しいので設定がおかしい場合がありますがご了承ください。また、おかしな部分を次々に直していくので最初見た時から内容がかなり変わっている場合がありますので何か前の話と一致していないところがあった場合前の話を見直して見てください。おかしなところがあったら感想でお伝えしてもらえると幸いです。表紙は自作です。
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