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田安家老の戸川山城守逵和と清水家老の本多讃岐守昌忠の違い ~御三卿家老としての姿勢の違い~ 田安家老・戸川逵和の場合

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 さて、中奥なかおくにある御三卿ごさんきょう詰所つめしょである御控おひかえ座敷ざしきには一橋ひとつばし家の当主とうしゅである治済はるさだの他には、清水しみず家の当主とうしゅである重好しげよしめているだけであった。

 本来ほんらいならば田安たやす家の当主とうしゅめても良さそうなところであったが、生憎あいにく田安たやす家の当主とうしゅ現在げんざい不在ふざいであり、それゆえ登城とじょうしようにも、

もとより不可能…」

 というものであった。ちなみにこれで一般いっぱんの大名や旗本、御家人であれば当主とうしゅ不在ふざいはそのまま、御家おいえ断絶だんぜつの危機に直結ちょっけつするが、こと御三卿ごさんきょうの場合、当主とうしゅ不在ふざいでもつぶれることがなく、

明屋形あきやかた…」

 として存続そんぞくが許されており、それは御三家にも許されていない、御三卿ごさんきょうにのみ与えられた特権とっけんと言えた。

 そういうわけで、今、この御控おひかえ座敷ざしきには一橋ひとつばし家の当主とうしゅ治済はるさだ清水しみず当主とうしゅ重好しげよしの二人だけがめていたのだ。

 それゆえ、治済はるさだに二人の「訪問者」がそれこそ、

つづけに…」

 あり、しかもそのたび治済はるさだはその「訪問者」の、

「たっての要望ようぼう…」

 により、御控おひかえ座敷ざしきしては廊下ろうかへと移り、そこで「訪問者」と何やらヒソヒソ話にきょうじたとあらば、

いやでも…」

 重好しげよしの目に付くというものであり、

民部みんぶ殿…、何やら本日は貴殿きでんたずねられる者が多いのう…」

 重好しげよし如何いかにも、

おそおそる…」

 といったていで「訪問者」のことを、すなわち、小納戸こなんど頭取とうどり稲葉いなば正存まさよし一橋ひとつばし家老かろうはやし忠篤ただあつのことを治済はるさだに問いかけた。そこには、

一体いったい、何を話していたのか…」

 それを意図いとがあった。とりわけ、小納戸こなんど頭取とうどりである稲葉いなば正存まさよしと何を話していたのか、大いに気になるところであった。

 いや、重好しげよし治済はるさだとは同じ御三卿ごさんきょう、のみならず、重好しげよしは現将軍・家治の腹違いとは言え、弟に当たり、しかも治済はるさだよりも年上であった。

 治済はるさだは九代将軍・家重いえしげの弟にして一橋ひとつばし家の始祖しそ宗尹むねただ嫡子ちゃくしであり、現将軍たる家治共々ともども家重いえしげそくに当たる重好しげよしから見れば、治済はるさだはいとこに当たり、しかも重好しげよしの方が年上としうえであるので、治済はるさだ従弟じゅうていというわけだ。

 そうであれば重好しげよしとしては治済はるさだに対して何ら遠慮えんりょする必要はなかったものの、しかし、重好しげよしはそれこそ、

「何となく…」

 治済はるさだに対して遠慮えんりょがあった。それは治済はるさだかもす、あるしゅ不気味ぶきみさによる。

 治済はるさだは今、32歳、いや、来月には33になろうか、それでも治済はるさだはとても30代とは思えぬ凄味すごみを体全体からかもしていたのだ。

 いや、それは凄味すごみを通りし、

尋常じんじょうならざる…」

 そのような不気味ぶきみな空気をかもしており、それゆえ重好しげよし治済はるさだよりも年上としうえでありながら、どうしても遠慮えんりょちになってしまう。こしけてしまうと言いえても良いであろう。

 それに対して治済はるさだもそんな重好しげよしの、

足許あしもと見透みすかして…」

 ただ微笑ほほえむだけであり、まともに重好しげよしの問いかけに答えようとはしなかった。

 一方、御三卿ごさんきょう家老かろう詰所つめしょにおいてもやはり同じようなやり取りがあった。

 すなわち、小納戸こなんどであるそく藤助とうすけ訪問ほうもんを受けた、それもやはり同じく廊下ろうかにてその藤助とうすけと何やらヒソヒソ話にきょうじた一橋ひとつばし家老かろうはやし忠篤ただあつに対して二人の家老かろうが…、田安たやす家老かろう戸川とがわ山城守やましろのかみ逵和みちとも清水しみず家老かろう本多ほんだ讃岐守さぬきのかみ昌忠まさただの二人の家老かろうが一体、何を話していたのかと、忠篤ただあつ詰問きつもんしていた。

 それに対して忠篤ただあつはと言うと、重好しげよし同様どうよう治済はるさだよりも年上としうえでありながら、生憎あいにく治済はるさだのように、

尋常じんじょうならざる…」

 凄味すごみをその体全体からかもしていたわけではないので、治済はるさだのように、

微笑ほほえみ…」

 をもってけむくわけにもゆかず、

たんなる親子の会話…、他愛たわいもなき会話でござるよ…」

 そう誤魔化ごまかすのが精一杯せいいっぱいであった。

 それに対して戸川とがわ逵和みちとも本多ほんだ昌忠まさただの二人が見せた反応はんのうたるや、好対照こうたいしょうであった。

 すなわち、二人とも、忠篤ただあつ誤魔化ごまかしていることぐらい分かっていたものの、それに対して戸川とがわ逵和みちともはそれ以上、追及ついきゅうする気もなく、すっかり興味きょうみせた様子であった。

「例え、追及ついきゅうしてみたところで、肥後ひごめは口を割るまいて…」

 逵和みちともはそう見切みきり、それ以上、追及ついきゅうする気がせたのであった。

 一方、本多ほんだ昌忠まさただはそれとは正反対に、追及ついきゅうの手をゆるめることはなかった。

 いや、昌忠まさただとて、逵和みちとも同様どうよう忠篤ただあつ追及ついきゅうしてみたところで、忠篤ただあつは決して口を割らないであろうことは承知しょうちしていたものの、昌忠まさただとしてはそれを承知しょうちの上でなお追及ついきゅうせずにはいられなかった。

 逵和みちとも昌忠まさただは同じ御三卿ごさんきょう家老かろうでありながら、どうしてこのよう好対照こうたいしょう反応はんのうを示したのか、それはやはり、

御三卿ごさんきょう家老かろうとしての姿勢しせいちがい…」

 それにきるであろう。

 それと言うのも、逵和みちともの場合は昌忠まさただ忠篤ただあつのようにつかえるべき当主とうしゅ、さしずめ、

主君しゅくん…」

 とも言うべき御三卿ごさんきょうがいないからだ。

 逵和みちともとしてはあくまで、主君しゅくん…、当主とうしゅ不在ふざい田安たやすやかたつかえているという意識いしきであった。

 御三卿ごさんきょう所謂いわゆる

つぶれない御家おいえ…」

 であるゆえに、例え、当主とうしゅ不在ふざいであろうとも、

明屋形あきやかた…」

 として御家おいえとも言うべきやかた存続そんぞくが許され、ゆえにやかた家老かろうを始めとする附人つけびとや、あるいは附切つけきり公儀こうぎ…、幕府より派遣はけんされるわけだが、どうしてもつかえるべき主君しゅくん、もとい当主とうしゅがいないので、当主とうしゅがいる一橋ひとつばし家と清水しみず家、この両家りょうけつかえる附人つけびと附切つけきりくらべて、所謂いわゆる

「モチベーション」

 それがついちであり、やかたへと派遣はけんされる附人つけびと附切つけきり人数にんずう多寡たかもそれにちをかけた。

 すなわち、当主とうしゅ不在ふざいである御三卿ごさんきょうやかたへとされる附人つけびと附切つけきりの人数たるや、当主とうしゅそんする御三卿ごさんきょうやかたへとされるそれよりも少ないのであった。

 それが証拠に、それも好例こうれいなのが家老かろうであり、田安たやす家にも一応いちおう家老かろうがその定員ていいん通り、二人いるものの、実際には戸川とがわ逵和みちともが一人で家老かろうつとめているのも同然どうぜんであった。

 それと言うのももう一人の家老かろうである松本まつもと伊豆守いずのかみ秀持ひでもちは実は勝手かって勘定かんじょう奉行であり、のみならず、長崎ながさき御用ごようがかりをも兼務けんむしていた。長崎ながさき御用ごようがかりとはこの江戸において長崎ながさき貿易政策を手がけるポストであり、勝手かって勘定かんじょう奉行の加役かやく…、兼務けんむポストであった。

 この長崎ながさき御用ごようがかり中々なかなか激務げきむであり、加役かやく…、兼務けんむポストなどではなく、独立どくりつ専任せんにんポストでも良いぐらいのいそがしさであり、松本まつもと秀持ひでもち勝手かって勘定かんじょう奉行としてその激務げきむ加役かやくである長崎ながさき御用ごようがかり兼務けんむしている中での田安たやす家老かろう兼務けんむであり、それゆえ実際には家老かろうとしての仕事はすべて、戸川とがわ逵和みちとも丸投まるなげされていた。逵和みちとも秀持ひでもちのように、兼務けんむとして家老かろうつとめているわけではなく、あくまで家老かろう専任せんにんとしてつとめていたからだ。

 いや、御三卿ごさんきょう家老かろうは元より閑職かんしょくであり…、まったくもって仕事がないわけではないが、それでも町奉行や勘定かんじょう奉行といった実務じつむポストとくらべてみた時、どうしても閑職かんしょく色合いろあいが強く、その上、当主とうしゅ不在ふざい明屋形あきやかたつかえる家老かろうともなると、完全に閑職かんしょく断言だんげんできた。

 そしてそうであればこそ、そうでなくともいそがしい松本まつもと秀持ひでもち今更いまさら兼務けんむポストを、それも閑職かんしょくのポストをもう一つ、兼務けんむさせても問題あるまいと、幕府はそう判断したのであろうが、それにしても勝手かって勘定かんじょう奉行の定員ていいんもまた二人であり、現在は赤井あかい豊前守ぶぜんのかみ忠皛ただあきら秀持ひでもち相役あいやく…、同僚どうりょうとして勝手かって勘定かんじょう奉行をつとめており、そうであれば赤井あかい忠皛ただあきらにも少しは仕事を割り振っても良さそうなものであったが、有能ゆうのう秀持ひでもちくらべた時、どうしても忠皛ただあきらさいはと言うと、どうしても色褪いろあせてしまう。

 いや、決して忠皛ただあきら無能むのうというわけではなく、秀持ひでもち有能ゆうのうぎたのだ。

 それゆえどうしても秀持ひでもちに仕事が集中してしまい、忠皛ただあきらとしてもそのことは十分じゅうぶん心得こころえており、忠皛ただあきらは決してくさらずに、それどころか秀持ひでもちが、

おも存分ぞんぶん…」

 仕事に打ちめるようにと、忠皛ただあきらは己の能力の範囲内はんいない勝手かって勘定かんじょう奉行としての仕事の大半を引き受け、秀持ひでもち激務げきむであるその兼務けんむポストの長崎ながさき御用ごようがかりつとるよう助けたものであり、秀持ひでもちもそのおかげ長崎ながさき御用ごようがかりに、すなわち、貿易ぼうえき政策に打ち込めたものであり、秀持ひでもちはさしずめ、

相棒あいぼう…」

 とも言うべきこの忠皛ただあきらに感謝したものであった。

 まさ見事みごと連繋れんけいプレーと言え、公事くじ勘定かんじょう奉行の桑原くわばら伊豫守いよのかみ盛員もりかず山村やまむら信濃守しなののかみ良旺たかあきらだったならば、ここまでの連繋れんけいプレーは期待できなかったであろう。

 桑原くわばら盛員もりかずにしろ、山村やまむら良旺たかあきらにしろ、勝手かって勘定かんじょう奉行よりは「ラク」な、もっと言えばひまであるはず公事くじ勘定かんじょう奉行をつとめるだけで精一杯せいいっぱいであり、こう言っては悪いが完全に無能むのう断言だんげんできた。

 ともあれそのような事情もあって、田安たやすやかためる家老かろう逵和みちとも一人であり、その家政かせい逵和みちとものその、

双肩そうけんにかかっている…」

 言えば聞こえは良いが、実際にはやかたにおいては少なくとも家老かろうがみるべき仕事は何もなく、それゆえ例え、転寝うたたねしていても何らつかえがないという有様ありさまであり、それゆえ逵和みちともとしては今日のような平日へいじつは毎日、登城とじょうしてはここ本丸ほんまる中奥なかおくにある御三卿ごさんきょう家老かろう詰所つめしょめるのが唯一ゆいいつの仕事、と言うよりは楽しみであった。

 何しろここ中奥なかおくには側用人そばようにん御側御用取次おそばごようとりつぎ小納戸こなんど頭取とうどりしゅうといった将軍の側近役がつとめており、ゆえにここ中奥なかおくにて政治が決まると言っても過言かごんではなく、その中奥なかおくめられるのはかなりの、いや、相当そうとうの、

特典とくてん…」

 と言えた。それと言うのも、中奥なかおくめることで彼ら実力者と、

顔繋かおつなぎ…」

 それがかなうというもので、それはそのまま一族郎党いちぞくろうとうの、

栄誉えいよ栄華えいが…」

 それもゆめではないというものである。

 そしてそれは決して大袈裟おおげさなどではなく、事実、逵和みちともは他の、当主とうしゅかかえる御三卿ごさんきょう家老かろうとは違い、交代こうたいなどではなく、毎日、中奥なかおくめられるので、その「特典とくてん」をおおいにかすべく、側用人そばようにん御側御用取次おそばごようとりつぎ小納戸こなんど頭取とうどりしゅうといった実力者と、

顔繋かおつなぎ…」

 それにつとめたもので、それがこうそうして、小納戸こなんど頭取とうどりしゅうの一人である岡部おかべ河内守かわちのかみ一徳かずのりと、

顔繋かおつなぎ…」

 になることがかなった。

 いや、そうでなくとも逵和みちともは次男の庄九郎しょうくろう一元かずもと岡部おかべ一徳かずのり養嗣子ようししとして、それこそ、

し…」

 それゆえ今更いまさら、次男・庄九郎しょうくろう養父ようふたる一徳かずのり顔繋かおつなぎもないが、しかし、そうは言っても逵和みちともはちょうど去年の今頃いまごろ…、天明2(1782)年の10月に田安たやす家老かろうに任じられる前までは表向おもてむきのポストである小普請こぶしん支配しはいつとめており、ゆえに中奥なかおくにてつとめる岡部おかべ一徳かずのりとはどうしても、疎遠そえんになりちとなり、それが去年のちょうど今頃いまごろ逵和みちとも小普請こぶしん支配しはいと同じく表向おもてむきのポストでありながら、ここ中奥なかおく詰所つめしょ用意よういされている、つまりは中奥なかおくめることが許される御三卿ごさんきょう家老かろうにんじられたことから、ふたたび、小納戸こなんど頭取とうどりとして中奥なかおくにてつとめる岡部おかべ一徳かずのりまさに、

公私こうしわたっての…」

 交流こうりゅう復活ふっかつしたというもので、その甲斐かいあってか、逵和みちとも一徳かずのりかいしてまずは小納戸こなんど頭取とうどりしゅういで小姓こしょう頭取とうどりしゅうと続いて、御側御用取次おそばごようとりつぎさらには側用人そばようにんにも引きわせてもらったものである。

 そのような逵和みちともにとって目下もっか焦眉しょうびきゅうであるのはそく助次郎すけじろう逵旨みちよしがことであり、逵旨みちよしは今はここ本丸ほんまるにて小姓こしょうぐみ番士ばんしとして将軍・家治につかえており、逵和みちともとしてはこの助次郎すけじろうを何とかして従六位じゅろくい布衣ほい役に、それも表向おもてむきのポストではなく、中奥なかおくのポストに、それはつまりは小納戸こなんどけてやることであった。

 さらに欲を言えば、三男である越前守えちぜんのかみ正朗まさあきらも出来れば中奥なかおくにてつとめさせてやりたいところであった。

 正朗まさあきらは明和3(1766)年、16歳のおり中奥なかおく小姓こしょうであった阿部あべ遠江守とおとうみのかみ正元まさゆき養子ようしとして、それも末期まつご養子ようしとしてむかえられ、そうして阿部あべ家をいだ正朗まさあきらはそれからちょうど10年後の安永5(1776)年は11月に養父ようふ正元まさゆきと同じく、中奥なかおく小姓こしょうに取り立てられたのであった。それは次男・庄九郎しょうくろう一元かずもとすで小納戸こなんど頭取とうどりであった岡部おかべ一徳かずのり養嗣子ようししとしてむかえられてから1年後にも当たり、養子ようし縁組えんぐみ無事ぶじ相整あいととのったそのご祝儀しゅうぎというわけでもなかろうが、一徳かずのりが骨を折ってくれた賜物たまものであることはあきらかであった。

 とは言え、中奥なかおく小姓こしょう従五位じゅごいのげ諸大夫しょだいぶ役ではあるものの、その上、中奥なかおく文字もじかんせられているところから、つい中奥なかおくにてつとめる小姓こしょうであると誤解ごかいされちだが、実際には表向おもてむきにて儀式ぎしきつかさどる、つまりは表向おもてむきのポストであり、ゆえに逵和みちともとしてはこの三男・正朗まさあきらをも出来れば中奥なかおくにてつとめさせてやりたいところであり、それがかなうならば、例え従六位じゅろくい布衣ほい役である小納戸こなんどでもかまわなかった。ここ中奥なかおくにて将軍に近侍きんじ出来ると言う「メリット」たるや、従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶ役以上の価値かちがあるからだ。

 いや、愛娘まなむすめ…、助次郎すけじろう庄九郎しょうくろう正朗まさあきら三兄弟にとっては姉のその夫、逵和みちともにとっては婿むこ、それも大事だいじ婿むこである小出こいで織部おりべ英明ふさあきらも出来れば小納戸こなんどとしてここ中奥なかおくにて将軍・家治に近侍きんじさせてやりたいところであった。

 織部おりべすでにして、表向おもてむきのポストにしてやはり従六位じゅろくい布衣ほい役である使番つかいばんつとめており、そうであればそのまま、同じく従六位じゅろくい布衣ほい役である小納戸こなんどとして、

「スライド…」

 させてやることが出来ればまさに、

万々歳ばんばんざい…」

 言うことなしというものであり、そのような逵和みちともにしてみれば、一介いっかい小納戸こなんどに過ぎぬ、それも忠篤ただあつが言う通り、せがれである藤助とうすけ廊下ろうかにて何を話そうとも、それも己ら他の家老かろうには聞かせたくない話のようであり、だからこそ藤助とうすけは父にして一橋ひとつばし家老かろう忠篤ただあつをわざわざ廊下ろうかまでれ出してヒソヒソ話にきょうじたに違いなく、そうであれば、

たんなる親子の会話…、他愛たわいもなき会話…」

 との忠篤ただあつの「わけ」たるや、到底とうてい信用しんようするにあたいしなかったが、それでも忠篤ただあつ藤助とうすけとの会話の中身なかみについて興味きょうみ以上のものはない逵和みちともとしては、忠篤ただあつがその会話の中身なかみを打ち明けたがらないのであれば、それ以上、追及ついきゅうするつもりもなかった。
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