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御三卿家老(一橋家老)として治済を監視する筈の林肥後守忠篤が治済に取り込まれた理由 ~一橋治済の悪魔の囁き~

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 たして正利まさとしの言う通りであった。

 すなわち、御三卿ごさんきょう家老かろう、それも一橋ひとつばし家老かろうはやし肥後守ひごのかみ忠篤ただあつが、

奏者番そうじゃばんではあるものの、いま部屋住へやずみの身に過ぎぬ、つまりは大名でさえない意知おきともが若年寄へと進むことが内定ないていした…」

 その情報を「キャッチ」、家老かろうとしてつかえる「御前ごぜん」、つまりは御三卿ごさんきょうである、

一橋ひとつばし民部卿みんぶのきょう治済はるさだ

 に伝えたのであった。

 いや、御三卿ごさんきょう家老かろう御三卿ごさんきょうつかえるという表現は本来ほんらいただしくはない。

 御三卿ごさんきょう家老かろうは御三家で言うところの附家老つけがろう相当そうとうする。

 つまりは御三家の附家老つけがろうが御三家を監視かんしするのがその本来ほんらい職分しょくぶんであるのと同じく、御三卿ごさんきょう家老かろうもまた、御三卿ごさんきょう監視かんしするのがその本来ほんらい職分しょくぶんであるはずであった。

 ところがこと、一橋ひとつばし家の家老かろう拝命はいめいしたこのはやし肥後守ひごのかみ忠篤ただあつに限って言えば、お世辞せじにもその本来ほんらい職分しょくぶんたしているとは|言いがたかった。

 それどころか監視かんし対象であるはず一橋ひとつばし治済はるさだの完全なる、

腹心ふくしん…」

 言ってみれば「抱入かかえいれ」としていたのであった。

 御三卿ごさんきょうつかえる家臣は主に三通り、いや、二通りに分けられる。

 すなわち、一応いちおう附人つけびと附切つけきり、そして抱入かかえいれの三通りに分けられるものの、しかし、実際には、

附人つけびと附切つけきり

抱入かかえいれ

 この二通りに分けられた。

 それと言うのも附人つけびと附切つけきりは皆、幕臣ばくしんとしての身分みぶんを持つのに対して、抱入かかえいれは必ずしもそうではない…、例えば百姓ひゃくしょうや、あるいは町人ちょうにんであっても、算勘さんかんの才があれば御三卿ごさんきょうみずから、

「スカウト…」

 武士に取り立てて、己につかえさせることもあり得たのだ。

 要するに「抱入かかえいれ」は御三卿ごさんきょうにとっては「プロパー社員」のようなものであり、それに比して附人つけびと附切つけきりはさしずめ、

「銀行(幕府)から派遣はけんされた役員…」

 のような存在そんざいと言えた。とりわけ附人つけびとにはその傾向けいこうが強かった。

 附切つけきり幕臣ばくしんとしての身分みぶんを持つとは言え、旗本の次男坊や三男坊であり、一応いちおう附人つけびと同様どうよう、幕府の命により附切つけきりとして、つまりは、

御三卿ごさんきょう監視かんし役…」

 として、御三卿ごさんきょうが住まうやかたへと派遣はけんされるわけだが、附人つけびとのように実家じっか当主とうしゅでもなければ、嫡子ちゃくしでもないというわけで、他家たけ養嗣子ようししとしてむかえられない限りは、附切つけきりとして一生を終え、そうなると、

子々孫々ししそんそん…」

 代々だいだいわたって附切つけきりとしてつかえることもあり得、そうなると附人つけびとと共に御三卿ごさんきょう監視かんしすべきその附切つけきり監視かんし対象であるはず御三卿ごさんきょうに、

まれる…」

 そのようなケースも見受けられ、そうなるとそのような附切つけきり最早もはや抱入かかえいれ同然どうぜんであった。

 そこがあくまで「こしかけ」に過ぎない附人つけびととの違いと言え、御三卿ごさんきょう家老かろうまさにその典型てんけいと言えた。

 御三卿ごさんきょう家老かろう従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶ役であり、それも幕府内の序列じょれつで言えば、大目付おおめつけや町奉行、勘定かんじょう奉行よりも上に位置いちする重職じゅうしょくであり、ゆえに御三卿ごさんきょう家老かろうは皆、旗本家の当主とうしゅであり、そこが家をぐことができない附切つけきりとの違いであり、そうであれば附切つけきりのように御三卿ごさんきょうに取り込まれることは本来ほんらいないはずであった。

 何より、御三卿ごさんきょう家老かろう留守居るすい大目付おおめつけならぶ、

閑職かんしょく…」

 であり、さしずめ旗本にとって「出世双六すごろく」の「あがり」のポストであった。

 そうであれば御三卿ごさんきょう家老かろう大抵たいてい高齢こうれいであり、ゆえに彼ら高齢こうれい御三卿ごさんきょう家老かろうは、

日々ひび大過たいかなく…」

 そう思うのがつねであった。ことに御三卿ごさんきょう家老かろうの場合、持高もちだか勤めではあるものの、つまりは足高たしだかの制の対象外ではあるものの、その代わりに公儀こうぎ…、幕府より千俵、やかた…、御三卿ごさんきょうより千俵の合わせて二千表もの役高やくだか、それも蔵米くらまい支給しきゅうされるのであった。

 蔵米くらまい支給しきゅうゆえに、二千俵がそのまま懐に入るわけで、これは二千石の知行ちぎょう所を与えられるに等しい。

 蔵米くらまい支給しきゅう…、蔵米くらまい取の場合と違って、知行ちぎょう取の場合は当たり前だが知行ちぎょう所より収穫しゅうかくされる米がそのまま領主りょうしゅふところに入るわけではない。そんなことをすれば米の生産者たる百姓ひゃくしょう干上ひあがってしまう。

 知行ちぎょう取の場合、所謂いわゆる四公しこう六民ろくみんにより、知行ちぎょう所より収穫しゅうかくされる米のうち六割が生産者たる百姓の取り分であり、残り四割が年貢米ねんぐまいになり、つまりは領主りょうしゅの取り分というわけだ。

 さてそこで知行ちぎょう二千石の場合、領主りょうしゅの取り分はその四割に当たる八百石というわけで、これはちょうど二千俵に相当そうとうする。一石は2.5俵だからだ。

 それゆえ二千俵の蔵米くらまい支給しきゅうは二千石もの知行ちぎょう所を与えられたも同然どうぜんというわけだ。

 そうであれば御三卿ごさんきょう家老かろうとしては、それも、

日々ひび大過たいかなく…」

 を身上しんじょうとする、もっと言えば、

「可能な限りこのままずっと二千俵もの蔵米くらまい支給しきゅうを受け続けたい…」

 そう思ってまない高齢こうれい御三卿ごさんきょう家老かろうとしては下手へた御三卿ごさんきょうに取りまれて、己の雇主やといぬしとも言うべき幕府ににらまれるより、大人おとなしくその本来ほんらい職分しょくぶんとも言うべき御三卿ごさんきょう監視かんしいそしむはずであった。

 百歩ひゃっぽゆずっていそしまないにしても、少なくとも御三卿ごさんきょうに取り込まれるような危険、いや、おかさない。精々せいぜい、仕事をサボる程度ていどであろう。

 だがはやし忠篤ただあつの場合は違った。忠篤ただあつ治済はるさだに完全に取りまれたのであった。

 それでは何ゆえに忠篤ただあつ御三卿ごさんきょう家老かろうでありながら治済はるさだに取りまれたのか、つまりはおかしたのかと言うと、それはズバリ、

治済はるさだからの悪魔あくまささやき…」

 それがあったからだ。すなわち、

田沼たぬま能登のとと同じく、そこもとにもいずれは豊千代とよちよ御側衆おそばしゅうとして、豊千代とよちよを支えてもらいたい…」

 治済はるさだ御三卿ごさんきょう家老かろう…、一橋ひとつばし家老かろう着任ちゃくにんしたばかりの忠篤ただあつにそうささやいたのであった。

 はやし忠篤ただあつが今の御三卿ごさんきょう家老かろう…、一橋ひとつばし家老かろう着任ちゃくにんしたのは今から2年前の天明元(1781)年6月朔日ついたち…、1日のことであった。

 それより一月ひとつき前のうるう5月18日に御三卿ごさんきょう一橋ひとつばし治済はるさだ嫡子ちゃくし豊千代とよちよが将軍家御養君ごようくん…、将軍・家治の世子せいしと定められ、さらにそれから4日後の22日には豊千代とよちよは将軍・家治の世子せいしとして、つまりは次期将軍として江戸城西之丸にしのまる入りをたしたのであった。

 その際、はやし忠篤ただあつ前任ぜんにん一橋ひとつばし家老かろうであった田沼たぬま能登守のとのかみ意致おきむね豊千代とよちよつかえる御側衆おそばしゅうとして、つまりは西之丸にしのまる御側衆おそばしゅうとして一橋ひとつばし家老かろうより異動いどうたしたのであった。

 正確せいかくには豊千代とよちよが将軍・家治の世子せいし…、次期将軍と定められたその翌日に当たる19日に、田沼たぬま意致おきむねに対して、一橋ひとつばし家老かろうより西之丸にしのまる御側衆おそばしゅうへの異動いどうを命ずる辞令じれいが出たために、意致おきむねは、

一足先ひとあしさきに…」

 西之丸にしのまるに移ると、次期将軍として西之丸にしのまる盟主めいしゅとなる豊千代とよちよ御側衆おそばしゅうとして待ち受けたのであった。

 それにしても御三卿ごさんきょうから御側衆おそばしゅうへの異動いどうきわめてまれと言えた。何しろ御三卿ごさんきょう家老かろう前述ぜんじゅつした通り、

閑職かんしょく…」

 それであるゆえに、大抵たいてい高齢こうれいの旗本でめられており、そうであれば御三卿ごさんきょう家老かろうとして一生いっしょうえるケースがほとんどであり、かりにその御三卿ごさんきょう家老かろうからさらに別のポストへと異動いどうたすにしても、精々せいぜい格上かくうえ留守居るすいか、しくは格下かくした大目付おおめつけはた奉行といったところであり、少なくとも御側衆おそばしゅうといった実務的じつむてきな、つまりはいそがしいポストへの異動いどうなどあり得なかった。

 にもかかわらず、意致おきむね御側衆おそばしゅうへと異動いどうたし得たのはひとえにその若さによる。

 すなわち、意致おきむね一橋ひとつばし家老かろういたのは安永7(1778)年7月28日のことであり、この時、意致おきむねは38歳に過ぎなかった。

 38歳での御三卿ごさんきょう家老かろう就任など前代未聞ぜんだいみもんと言えよう。しかもそれが従六位じゅろくい布衣ほい役である目付めつけからの異動いどうともなれば尚更なおさらであろう。

 如何いか御三卿ごさんきょう家老かろう閑職かんしょくとは言え、従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶ役、それも幕府内の序列じょれつで言えば大目付おおめつけよりも格上かくうえなのである。

 そうであれば大目付おおめつけから、あるいは勘定かんじょう奉行といった同じく従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶ役からの異動いどうほとんどであり、従六位じゅろくい布衣ほい役からの異動いどう、それも昇進しょうしんなど滅多めったにないことであった。

 にもかかわらずそれを可能たらしめたのはやはり、いまをときめく田沼たぬま意次おきつぐとの縁によるものだろうと言うのが衆目しゅうもく一致いっちするところであった。

 すなわち、意致おきむねが父、能登守のとのかみ意誠おきのぶ意次おきつぐ実弟じっていであり、それゆえ意次おきつぐ意致おきむね伯父おじおいの関係に当たるのだ。

 そうであればこそ、意致おきむね伯父おじ意次おきつぐの「ヒキ」により目付めつけから御三卿ごさんきょう家老かろう、それも一橋ひとつばし家老かろうへと異例いれいとも言える昇進しょうしんげたのだろうと言うのがもっぱらの評判であった。

 そしてはやし忠篤ただあつにしても意致おきむねと同じく、44歳という若さで御三卿ごさんきょう家老かろう…、一橋ひとつばし家老かろう辿たどいた。わずか38歳で辿たどいた意致おきむねにはおよばないものの、それでも十分に若い。

 そうであれば忠篤ただあつとしてもこのまま御三卿ごさんきょう家老かろうとして…、一橋ひとつばし家老かろうとして終わるつもりはなかった。

 忠篤ただあつ遠国おんごく奉行である浦賀うらが奉行より御三卿ごさんきょう家老かろう…、一橋ひとつばし家老かろうへと異動いどうたしたのであったが、実を言うと、忠篤ただあつとしては次は旗本ならば誰もが望む、まさしく、

垂涎すいぜんの…」

 同じく遠国おんごく奉行である、それも筆頭ひっとう位置いち付けられる長崎奉行を狙っていた。長崎奉行にけば一生遊んで暮らせるだけの財産が築けるからで、それこそが、

垂涎すいぜんの…」

 所以ゆえんであり、長崎奉行が無理ならば、長崎奉行にいで、

実入みいりの良い…」

 大坂おおざか町奉行のポストをねらっていた。長崎奉行ほどの「実入みいり」は期待できないにしても、それでも大坂おおざか所謂いわゆる

商都しょうと…」

 と呼ばれる地だけあって、豪商ごうしょうひしめいており、それゆえその大坂おおざか町奉行ともなれば彼ら豪商ごうしょうからの「そでの下」が期待きたいできるというものであったからだ。

 だがふたけてみれば閑職かんしょくぎない御三卿ごさんきょう家老かろうであり、忠篤ただあつはこの人事が発令はつれいされるや内心ないしんおおいに落胆らくたんしたものである。

 そんな忠篤ただあつに対して治済はるさだはそんな忠篤ただあつ内心ないしん見透みすかしたかのように、

田沼たぬま能登のとと同じく、そこもとにもいずれは豊千代とよちよ御側衆おそばしゅうとして、豊千代とよちよを支えてもらいたい…」

 そう「「悪魔あくまささやき」をもたらしたのであった。

 本来ほんらいならば、それもまともな判断力があるならばそのような「悪魔あくまささやき」など一笑いっしょうするところであろう。

 あるいは己の雇主やといぬしとも言うべき幕府に告口つげぐちして歓心かんしんを買おうと考えたやも知れぬ。

 いや、実際、忠篤ただあつもすぐには治済はるさだの「悪魔あくまささやき」に洗脳せんのうされることはなく、幕府に告口つげぐちしたのであった。その程度ていどの判断力はあった。あるいは、幕府に告口つげぐちすることで幕府の歓心かんしんを買い、ひいては出世に役立てようとの打算ださんも働いた。

 だが生憎あいにくと言うべきか、告口つげぐちした相手あいてが悪かった。

 この場合の幕府とはすなわち、御側御用取次おそばごようとりつぎを意味しており、忠篤ただあつはその中でも稲葉いなば正明まさあきらに対して告口つげぐちしたのであった。

 これには理由があった。それと言うのも御三卿ごさんきょう家老かろうは一応、名目めいもく上は老中支配にぞくするものの、実際には御側御用取次おそばごようとりつぎ管掌かんしょうを受けていた。

 御三卿ごさんきょう家老かろう御側御用取次おそばごようとりつぎ指図さしずもと、その職務しょくむに当たっていた。

 それゆえ忠篤ただあつ御側御用取次おそばごようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきらに対して告口つげぐちしたのも指揮命令系統しきめいれいけいとうから考えて至極しごく当然の判断と言えた。

 だが御側御用取次おそばごようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきら一人ではない。その時点じてん…、忠篤ただあつ浦賀うらが奉行より御三卿ごさんきょう家老かろう…、一橋ひとつばし家老かろうへと異動いどうたした天明元(1781)年6月の時点では稲葉いなば正明まさあきらの他にも横田よこた準松のりとし御側御用取次おそばごようとりつぎとしてひかえており、さら御側御用取次おそばごようとりつぎ見習みならい、所謂いわゆる

小姓こしょうぐみ番頭ばんがしらかくおくづとめ…」

 として、本郷ほんごう泰行やすゆきもおり、にもかかわらず忠篤ただあつがその中でも正明まさあきら告口つげぐちする相手として選んだのは他でもない、

「さればこの…、そこもとをゆくゆく、豊千代とよちよ御側衆おそばしゅうとして豊千代とよちよを支えてもらうことにつきては御側御用取次おそばごようとりつぎ稲葉いなば越中えっちゅうとも話ができておるのだ…」

 そう付け加えたのである。いや、それだけではない。

「さればそこもとを…、将来のありしそこもとを御三卿ごさんきょう家老かろうなどと、閑職かんしょく棚上たなあげせしは同じく御側御用取次おそばごようとりつぎ横田よこた筑後ちくごめの策謀さくぼうによるものらしい…」

 治済はるさだはご丁寧ていねいにもさらにそう付け加えたのであった。ここまでご丁寧ていねいに念を押されてはかえってその言葉を疑いたくもなるが、しかし生憎あいにくと言うべきか、棚上たなあげ人事に不満を持っていた忠篤ただあつはそこまでの判断力はなく、治済はるさだの言葉を額面がくめん通りに受け止め、それでも念のために御側御用取次おそばごようとりつぎ稲葉いなば越中えっちゅうこと越中守えっちゅうのかみ正明まさあきらに対して告口つげぐちすることで、と言うよりはこと真偽しんぎを確かめるべく、赫々かくかく然々しかじかと、治済はるさだよりの言葉を伝えた上で、たして治済はるさだが言ったことは本当かと、正明まさあきらに問いただしたのであった。

 それに対して正明まさあきらはと言うと、忠篤ただあつからの「告口つげぐち」に内心ないしん、大いに喜び、だがそれはおくびにも出さず、それどころかそんな内心ないしんとは裏腹うらはら如何いかにも深刻しんこくそうな表情をかべると、

「実はその通りなのだ…」

 そう認めた上で、

「されば実力のあるそなたを田沼様がうとまれ、と申すよりは恐れ、それゆえに御三卿ごさんきょう家老かろうという、こう申してはまことにもっておそれ多いが閑職かんしょくふうめるべく、横田よこた筑後ちくごめと、その金魚きんぎょふん本郷ほんごう伊勢いせめを使嗾しそうして、そなたを浦賀うらが奉行より御三卿ごさんきょう家老かろうへと…、一橋ひとつばし家老かろうへと棚上たなあいたしたのだ…」

 そのようなもないことを忠篤ただあつに語って見せたのだ。そしてやはり忠篤ただあつ正明まさあきらのその虚言きょげんをも額面がくめん通りに受け止めた、つまりはに受けたのであった。

 結果、忠篤ただあつ意次おきつぐと、さら横田よこた準松のりとし本郷ほんごう泰行やすゆきらに対する怒りをかくそうともせず、正明まさあきらはいよいよもって喜びを隠せず、それをかくすのに苦労したほどである。

 その上で正明まさあきらは、

「されば身共みどもとしてもそこもとには…、そこもとの境遇きょうぐうには心底しんそこ同情どうじょうしておる…、そこもとは本来ほんらい、長崎奉行、それが無理ならば大坂おおざか町奉行をつとる身なれば、それが御三卿ごさんきょう家老かろう…、一橋ひとつばし家老かろうとは…」

 如何いかにも忠篤ただあつに対して同情を寄せているふりをしてみせ、

「さればこの上は身共みどもとしてはおそれ多くも一橋ひとつばし民部卿みんぶのきょう様とも談合だんごうの上、そこもとをゆくゆくは将軍家御養君ごようくん様にあらせられし豊千代とよちよ君様ぎみさま、いや、家斉いえなり公の御側衆おそばしゅうへと取り立てる所存しょぞんにて、今しばらくの間、辛抱しんぼうして欲しい…」

 そうとどめをしたのであった。それもさらにご丁寧ていねいにも、

「なに、やはりそこもとと同じく一橋ひとつばし家老かろうであった田沼たぬま能登のとめが御側衆おそばしゅうへと…、西之丸にしのまる御側衆おそばしゅうへと昇進しょうしんげた前例ぜんれいがあるゆえに、そこもととて御側衆おそばしゅうに取り立てられてしかるべき…、何しろその実力と良い、何より家柄いえがらと良い、どこその馬の骨とも分からぬ、盗賊とうぞく同然どうぜん下賤げせんなる田沼めとは違うのだから…」

 そのようにも付け加え、これで忠篤ただあつ治済はるさだの言葉は本当だと、完全に洗脳せんのう所謂いわゆる

「マインドコントロール」

 そのもとに置かれ、治済はるさだに取り込まれてしまったのだ。

 正明まさあきらもそうとさっすると、

「さればこの横田よこた筑後ちくごめや本郷ほんごう伊勢いせめには話さぬよう…」

 忠篤ただあつにそう念押ねんおしすることも忘れなかった。横田よこた準松のりとし本郷ほんごう泰行やすゆきの両名に対して事実確認でもされれば、虚言きょげんだとバレてしまうためであり、それに対して忠篤ただあつはと言うと、完全に治済はるさだのマインドコントロール下にあり、元よりそのようなことなど考えてもいなかったので、

「元より承知しょうち…」

 即座そくざにそのように応じたのであった。
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