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御三卿家老(一橋家老)として治済を監視する筈の林肥後守忠篤が治済に取り込まれた理由 ~一橋治済の悪魔の囁き~
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果たして正利の言う通りであった。
即ち、御三卿家老、それも一橋家老の林肥後守忠篤が、
「奏者番ではあるものの、未だ部屋住の身に過ぎぬ、つまりは大名でさえない意知が若年寄へと進むことが内定した…」
その情報を「キャッチ」、家老として仕える「御前」、つまりは御三卿である、
「一橋民部卿治済」
に伝えたのであった。
いや、御三卿家老が御三卿に仕えるという表現は本来、正しくはない。
御三卿家老は御三家で言うところの附家老に相当する。
つまりは御三家の附家老が御三家を監視するのがその本来の職分であるのと同じく、御三卿家老もまた、御三卿を監視するのがその本来の職分である筈であった。
ところがこと、一橋家の家老を拝命したこの林肥後守忠篤に限って言えば、お世辞にもその本来の職分を果たしているとは|言い難かった。
それどころか監視対象である筈の一橋治済の完全なる、
「腹心…」
言ってみれば「抱入」と化していたのであった。
御三卿に仕える家臣は主に三通り、いや、二通りに分けられる。
即ち、一応は附人と附切、そして抱入の三通りに分けられるものの、しかし、実際には、
「附人と附切」
「抱入」
この二通りに分けられた。
それと言うのも附人と附切は皆、幕臣としての身分を持つのに対して、抱入は必ずしもそうではない…、例えば百姓や、或いは町人であっても、算勘の才があれば御三卿が自ら、
「スカウト…」
武士に取り立てて、己に仕えさせることもあり得たのだ。
要するに「抱入」は御三卿にとっては「プロパー社員」のようなものであり、それに比して附人と附切はさしずめ、
「銀行(幕府)から派遣された役員…」
のような存在と言えた。とりわけ附人にはその傾向が強かった。
附切は幕臣としての身分を持つとは言え、旗本の次男坊や三男坊であり、一応、附人と同様、幕府の命により附切として、つまりは、
「御三卿の監視役…」
として、御三卿が住まう館へと派遣されるわけだが、附人のように実家の当主でもなければ、嫡子でもないというわけで、他家に養嗣子として迎えられない限りは、附切として一生を終え、そうなると、
「子々孫々…」
代々に亘って附切として仕えることもあり得、そうなると附人と共に御三卿を監視すべきその附切が監視対象である筈の御三卿に、
「取り込まれる…」
そのようなケースも見受けられ、そうなるとそのような附切は最早、抱入も同然であった。
そこがあくまで「腰かけ」に過ぎない附人との違いと言え、御三卿家老は正にその典型と言えた。
御三卿家老は従五位下諸大夫役であり、それも幕府内の序列で言えば、大目付や町奉行、勘定奉行よりも上に位置する重職であり、ゆえに御三卿家老は皆、旗本家の当主であり、そこが家を継ぐことができない附切との違いであり、そうであれば附切のように御三卿に取り込まれることは本来ない筈であった。
何より、御三卿家老は留守居や大目付と並ぶ、
「閑職…」
であり、さしずめ旗本にとって「出世双六」の「あがり」のポストであった。
そうであれば御三卿家老は大抵が高齢であり、ゆえに彼ら高齢の御三卿家老は、
「日々大過なく…」
そう思うのが常であった。ことに御三卿家老の場合、持高勤めではあるものの、つまりは足高の制の対象外ではあるものの、その代わりに公儀…、幕府より千俵、館…、御三卿より千俵の合わせて二千表もの役高、それも蔵米が支給されるのであった。
蔵米支給ゆえに、二千俵がそのまま懐に入るわけで、これは二千石の知行所を与えられるに等しい。
蔵米支給…、蔵米取の場合と違って、知行取の場合は当たり前だが知行所より収穫される米がそのまま領主の懐に入るわけではない。そんなことをすれば米の生産者たる百姓が干上がってしまう。
知行取の場合、所謂、四公六民により、知行所より収穫される米のうち六割が生産者たる百姓の取り分であり、残り四割が年貢米になり、つまりは領主の取り分というわけだ。
さてそこで知行二千石の場合、領主の取り分はその四割に当たる八百石というわけで、これはちょうど二千俵に相当する。一石は2.5俵だからだ。
それゆえ二千俵の蔵米支給は二千石もの知行所を与えられたも同然というわけだ。
そうであれば御三卿家老としては、それも、
「日々大過なく…」
を身上とする、もっと言えば、
「可能な限りこのままずっと二千俵もの蔵米支給を受け続けたい…」
そう思って已まない高齢の御三卿家老としては下手に御三卿に取り込まれて、己の雇主とも言うべき幕府に睨まれるより、大人しくその本来の職分とも言うべき御三卿の監視に勤しむ筈であった。
百歩譲って勤しまないにしても、少なくとも御三卿に取り込まれるような危険、いや、愚は冒さない。精々、仕事をサボる程度であろう。
だが林忠篤の場合は違った。忠篤は治済に完全に取り込まれたのであった。
それでは何ゆえに忠篤は御三卿家老でありながら治済に取り込まれたのか、つまりは愚を冒したのかと言うと、それはズバリ、
「治済からの悪魔の囁き…」
それがあったからだ。即ち、
「田沼能登と同じく、そこもとにもいずれは豊千代の御側衆として、豊千代を支えて貰いたい…」
治済は御三卿家老…、一橋家老に着任したばかりの忠篤にそう囁いたのであった。
林忠篤が今の御三卿家老…、一橋家老に着任したのは今から2年前の天明元(1781)年6月朔日…、1日のことであった。
それより一月前の閏5月18日に御三卿・一橋治済の嫡子・豊千代が将軍家御養君…、将軍・家治の世子と定められ、更にそれから4日後の22日には豊千代は将軍・家治の世子として、つまりは次期将軍として江戸城西之丸入りを果たしたのであった。
その際、林忠篤の前任の一橋家老であった田沼能登守意致も豊千代に仕える御側衆として、つまりは西之丸の御側衆として一橋家老より異動を果たしたのであった。
正確には豊千代が将軍・家治の世子…、次期将軍と定められたその翌日に当たる19日に、田沼意致に対して、一橋家老より西之丸の御側衆への異動を命ずる辞令が出たために、意致は、
「一足先に…」
西之丸に移ると、次期将軍として西之丸の盟主となる豊千代を御側衆として待ち受けたのであった。
それにしても御三卿から御側衆への異動は極めて稀と言えた。何しろ御三卿家老は前述した通り、
「閑職…」
それであるゆえに、大抵、高齢の旗本で占められており、そうであれば御三卿家老として一生を終えるケースが殆どであり、仮にその御三卿家老から更に別のポストへと異動を果たすにしても、精々、格上の留守居か、若しくは格下の大目付や旗奉行といったところであり、少なくとも御側衆といった実務的な、つまりは忙しいポストへの異動などあり得なかった。
にもかかわらず、意致が御側衆へと異動を果たし得たのはひとえにその若さによる。
即ち、意致が一橋家老に就いたのは安永7(1778)年7月28日のことであり、この時、意致は38歳に過ぎなかった。
38歳での御三卿家老就任など前代未聞と言えよう。しかもそれが従六位の布衣役である目付からの異動ともなれば尚更であろう。
如何に御三卿家老が閑職とは言え、従五位下諸大夫役、それも幕府内の序列で言えば大目付よりも格上なのである。
そうであれば大目付から、或いは勘定奉行といった同じく従五位下諸大夫役からの異動が殆どであり、従六位布衣役からの異動、それも昇進など滅多にないことであった。
にもかかわらずそれを可能たらしめたのはやはり、いまを時めく田沼意次との縁によるものだろうと言うのが衆目の一致するところであった。
即ち、意致が父、能登守意誠は意次の実弟であり、それゆえ意次と意致は伯父・甥の関係に当たるのだ。
そうであればこそ、意致は伯父・意次の「ヒキ」により目付から御三卿家老、それも一橋家老へと異例とも言える昇進を遂げたのだろうと言うのが専らの評判であった。
そして林忠篤にしても意致と同じく、44歳という若さで御三卿家老…、一橋家老に辿り着いた。僅か38歳で辿り着いた意致には及ばないものの、それでも十分に若い。
そうであれば忠篤としてもこのまま御三卿家老として…、一橋家老として終わるつもりはなかった。
忠篤は遠国奉行である浦賀奉行より御三卿家老…、一橋家老へと異動を果たしたのであったが、実を言うと、忠篤としては次は旗本ならば誰もが望む、正しく、
「垂涎の…」
同じく遠国奉行である、それも筆頭に位置付けられる長崎奉行を狙っていた。長崎奉行に就けば一生遊んで暮らせるだけの財産が築けるからで、それこそが、
「垂涎の…」
所以であり、長崎奉行が無理ならば、長崎奉行に次いで、
「実入りの良い…」
大坂町奉行のポストを狙っていた。長崎奉行程の「実入り」は期待できないにしても、それでも大坂は所謂、
「商都…」
と呼ばれる地だけあって、豪商が犇いており、それゆえその大坂町奉行ともなれば彼ら豪商からの「袖の下」が期待できるというものであったからだ。
だが蓋を開けてみれば閑職に過ぎない御三卿家老であり、忠篤はこの人事が発令されるや内心、大いに落胆したものである。
そんな忠篤に対して治済はそんな忠篤の内心を見透かしたかのように、
「田沼能登と同じく、そこもとにもいずれは豊千代の御側衆として、豊千代を支えて貰いたい…」
そう「「悪魔の囁き」を齎したのであった。
本来ならば、それもまともな判断力があるならばそのような「悪魔の囁き」など一笑に付するところであろう。
或いは己の雇主とも言うべき幕府に告口して歓心を買おうと考えたやも知れぬ。
いや、実際、忠篤もすぐには治済の「悪魔の囁き」に洗脳されることはなく、幕府に告口したのであった。その程度の判断力はあった。或いは、幕府に告口することで幕府の歓心を買い、ひいては出世に役立てようとの打算も働いた。
だが生憎と言うべきか、告口した相手が悪かった。
この場合の幕府とは即ち、御側御用取次を意味しており、忠篤はその中でも稲葉正明に対して告口したのであった。
これには理由があった。それと言うのも御三卿家老は一応、名目上は老中支配に属するものの、実際には御側御用取次の管掌を受けていた。
御三卿家老は御側御用取次の指図の下、その職務に当たっていた。
それゆえ忠篤が御側御用取次の稲葉正明に対して告口したのも指揮命令系統から考えて至極当然の判断と言えた。
だが御側御用取次は稲葉正明一人ではない。その時点…、忠篤が浦賀奉行より御三卿家老…、一橋家老へと異動を果たした天明元(1781)年6月の時点では稲葉正明の他にも横田準松が御側御用取次として控えており、更に御側御用取次見習い、所謂、
「小姓組番頭格奥勤…」
として、本郷泰行もおり、にもかかわらず忠篤がその中でも正明を告口する相手として選んだのは他でもない、
「さればこの儀…、そこもとをゆくゆく、豊千代が御側衆として豊千代を支えて貰うことにつきては御側御用取次の稲葉越中とも話ができておるのだ…」
そう付け加えたのである。いや、それだけではない。
「さればそこもとを…、将来のありしそこもとを御三卿家老などと、閑職に棚上げせしは同じく御側御用取次の横田筑後めの策謀によるものらしい…」
治済はご丁寧にも更にそう付け加えたのであった。ここまでご丁寧に念を押されてはかえってその言葉を疑いたくもなるが、しかし生憎と言うべきか、棚上げ人事に不満を持っていた忠篤はそこまでの判断力はなく、治済の言葉を額面通りに受け止め、それでも念のために御側御用取次の稲葉越中こと越中守正明に対して告口することで、と言うよりは事の真偽を確かめるべく、赫々然々と、治済よりの言葉を伝えた上で、果たして治済が言ったことは本当かと、正明に問い質したのであった。
それに対して正明はと言うと、忠篤からの「告口」に内心、大いに喜び、だがそれはおくびにも出さず、それどころかそんな内心とは裏腹に如何にも深刻そうな表情を浮かべると、
「実はその通りなのだ…」
そう認めた上で、
「されば実力のあるそなたを田沼様が疎まれ、と申すよりは恐れ、それゆえに御三卿家老という、こう申しては真にもって畏れ多いが閑職に封じ込めるべく、横田筑後めと、その金魚の糞の本郷伊勢めを使嗾して、そなたを浦賀奉行より御三卿家老へと…、一橋家老へと棚上げ致したのだ…」
そのような根も葉もないことを忠篤に語って見せたのだ。そしてやはり忠篤は正明のその虚言をも額面通りに受け止めた、つまりは真に受けたのであった。
結果、忠篤は意次と、更に横田準松と本郷泰行らに対する怒りを隠そうともせず、正明はいよいよもって喜びを隠せず、それを押し隠すのに苦労した程である。
その上で正明は、
「されば身共としてもそこもとには…、そこもとの境遇には心底、同情しておる…、そこもとは本来、長崎奉行、それが無理ならば大坂町奉行を務め得る身なれば、それが御三卿家老…、一橋家老とは…」
如何にも忠篤に対して同情を寄せているふりをしてみせ、
「さればこの上は身共としては畏れ多くも一橋民部卿様とも談合の上、そこもとをゆくゆくは将軍家御養君様にあらせられし豊千代君様、いや、家斉公の御側衆へと取り立てる所存にて、今しばらくの間、辛抱して欲しい…」
そう止めを刺したのであった。それも更にご丁寧にも、
「なに、やはりそこもとと同じく一橋家老であった田沼能登めが御側衆へと…、西之丸の御側衆へと昇進を遂げた前例があるゆえに、そこもととて御側衆に取り立てられて然るべき…、何しろその実力と良い、何より家柄と良い、どこその馬の骨とも分からぬ、盗賊も同然の下賤なる田沼めとは違うのだから…」
そのようにも付け加え、これで忠篤は治済の言葉は本当だと、完全に洗脳、所謂、
「マインドコントロール」
その下に置かれ、治済に取り込まれてしまったのだ。
正明もそうと察すると、
「さればこの儀、横田筑後めや本郷伊勢めには話さぬよう…」
忠篤にそう念押しすることも忘れなかった。横田準松や本郷泰行の両名に対して事実確認でもされれば、虚言だとバレてしまうためであり、それに対して忠篤はと言うと、完全に治済のマインドコントロール下にあり、元よりそのようなことなど考えてもいなかったので、
「元より承知…」
即座にそのように応じたのであった。
即ち、御三卿家老、それも一橋家老の林肥後守忠篤が、
「奏者番ではあるものの、未だ部屋住の身に過ぎぬ、つまりは大名でさえない意知が若年寄へと進むことが内定した…」
その情報を「キャッチ」、家老として仕える「御前」、つまりは御三卿である、
「一橋民部卿治済」
に伝えたのであった。
いや、御三卿家老が御三卿に仕えるという表現は本来、正しくはない。
御三卿家老は御三家で言うところの附家老に相当する。
つまりは御三家の附家老が御三家を監視するのがその本来の職分であるのと同じく、御三卿家老もまた、御三卿を監視するのがその本来の職分である筈であった。
ところがこと、一橋家の家老を拝命したこの林肥後守忠篤に限って言えば、お世辞にもその本来の職分を果たしているとは|言い難かった。
それどころか監視対象である筈の一橋治済の完全なる、
「腹心…」
言ってみれば「抱入」と化していたのであった。
御三卿に仕える家臣は主に三通り、いや、二通りに分けられる。
即ち、一応は附人と附切、そして抱入の三通りに分けられるものの、しかし、実際には、
「附人と附切」
「抱入」
この二通りに分けられた。
それと言うのも附人と附切は皆、幕臣としての身分を持つのに対して、抱入は必ずしもそうではない…、例えば百姓や、或いは町人であっても、算勘の才があれば御三卿が自ら、
「スカウト…」
武士に取り立てて、己に仕えさせることもあり得たのだ。
要するに「抱入」は御三卿にとっては「プロパー社員」のようなものであり、それに比して附人と附切はさしずめ、
「銀行(幕府)から派遣された役員…」
のような存在と言えた。とりわけ附人にはその傾向が強かった。
附切は幕臣としての身分を持つとは言え、旗本の次男坊や三男坊であり、一応、附人と同様、幕府の命により附切として、つまりは、
「御三卿の監視役…」
として、御三卿が住まう館へと派遣されるわけだが、附人のように実家の当主でもなければ、嫡子でもないというわけで、他家に養嗣子として迎えられない限りは、附切として一生を終え、そうなると、
「子々孫々…」
代々に亘って附切として仕えることもあり得、そうなると附人と共に御三卿を監視すべきその附切が監視対象である筈の御三卿に、
「取り込まれる…」
そのようなケースも見受けられ、そうなるとそのような附切は最早、抱入も同然であった。
そこがあくまで「腰かけ」に過ぎない附人との違いと言え、御三卿家老は正にその典型と言えた。
御三卿家老は従五位下諸大夫役であり、それも幕府内の序列で言えば、大目付や町奉行、勘定奉行よりも上に位置する重職であり、ゆえに御三卿家老は皆、旗本家の当主であり、そこが家を継ぐことができない附切との違いであり、そうであれば附切のように御三卿に取り込まれることは本来ない筈であった。
何より、御三卿家老は留守居や大目付と並ぶ、
「閑職…」
であり、さしずめ旗本にとって「出世双六」の「あがり」のポストであった。
そうであれば御三卿家老は大抵が高齢であり、ゆえに彼ら高齢の御三卿家老は、
「日々大過なく…」
そう思うのが常であった。ことに御三卿家老の場合、持高勤めではあるものの、つまりは足高の制の対象外ではあるものの、その代わりに公儀…、幕府より千俵、館…、御三卿より千俵の合わせて二千表もの役高、それも蔵米が支給されるのであった。
蔵米支給ゆえに、二千俵がそのまま懐に入るわけで、これは二千石の知行所を与えられるに等しい。
蔵米支給…、蔵米取の場合と違って、知行取の場合は当たり前だが知行所より収穫される米がそのまま領主の懐に入るわけではない。そんなことをすれば米の生産者たる百姓が干上がってしまう。
知行取の場合、所謂、四公六民により、知行所より収穫される米のうち六割が生産者たる百姓の取り分であり、残り四割が年貢米になり、つまりは領主の取り分というわけだ。
さてそこで知行二千石の場合、領主の取り分はその四割に当たる八百石というわけで、これはちょうど二千俵に相当する。一石は2.5俵だからだ。
それゆえ二千俵の蔵米支給は二千石もの知行所を与えられたも同然というわけだ。
そうであれば御三卿家老としては、それも、
「日々大過なく…」
を身上とする、もっと言えば、
「可能な限りこのままずっと二千俵もの蔵米支給を受け続けたい…」
そう思って已まない高齢の御三卿家老としては下手に御三卿に取り込まれて、己の雇主とも言うべき幕府に睨まれるより、大人しくその本来の職分とも言うべき御三卿の監視に勤しむ筈であった。
百歩譲って勤しまないにしても、少なくとも御三卿に取り込まれるような危険、いや、愚は冒さない。精々、仕事をサボる程度であろう。
だが林忠篤の場合は違った。忠篤は治済に完全に取り込まれたのであった。
それでは何ゆえに忠篤は御三卿家老でありながら治済に取り込まれたのか、つまりは愚を冒したのかと言うと、それはズバリ、
「治済からの悪魔の囁き…」
それがあったからだ。即ち、
「田沼能登と同じく、そこもとにもいずれは豊千代の御側衆として、豊千代を支えて貰いたい…」
治済は御三卿家老…、一橋家老に着任したばかりの忠篤にそう囁いたのであった。
林忠篤が今の御三卿家老…、一橋家老に着任したのは今から2年前の天明元(1781)年6月朔日…、1日のことであった。
それより一月前の閏5月18日に御三卿・一橋治済の嫡子・豊千代が将軍家御養君…、将軍・家治の世子と定められ、更にそれから4日後の22日には豊千代は将軍・家治の世子として、つまりは次期将軍として江戸城西之丸入りを果たしたのであった。
その際、林忠篤の前任の一橋家老であった田沼能登守意致も豊千代に仕える御側衆として、つまりは西之丸の御側衆として一橋家老より異動を果たしたのであった。
正確には豊千代が将軍・家治の世子…、次期将軍と定められたその翌日に当たる19日に、田沼意致に対して、一橋家老より西之丸の御側衆への異動を命ずる辞令が出たために、意致は、
「一足先に…」
西之丸に移ると、次期将軍として西之丸の盟主となる豊千代を御側衆として待ち受けたのであった。
それにしても御三卿から御側衆への異動は極めて稀と言えた。何しろ御三卿家老は前述した通り、
「閑職…」
それであるゆえに、大抵、高齢の旗本で占められており、そうであれば御三卿家老として一生を終えるケースが殆どであり、仮にその御三卿家老から更に別のポストへと異動を果たすにしても、精々、格上の留守居か、若しくは格下の大目付や旗奉行といったところであり、少なくとも御側衆といった実務的な、つまりは忙しいポストへの異動などあり得なかった。
にもかかわらず、意致が御側衆へと異動を果たし得たのはひとえにその若さによる。
即ち、意致が一橋家老に就いたのは安永7(1778)年7月28日のことであり、この時、意致は38歳に過ぎなかった。
38歳での御三卿家老就任など前代未聞と言えよう。しかもそれが従六位の布衣役である目付からの異動ともなれば尚更であろう。
如何に御三卿家老が閑職とは言え、従五位下諸大夫役、それも幕府内の序列で言えば大目付よりも格上なのである。
そうであれば大目付から、或いは勘定奉行といった同じく従五位下諸大夫役からの異動が殆どであり、従六位布衣役からの異動、それも昇進など滅多にないことであった。
にもかかわらずそれを可能たらしめたのはやはり、いまを時めく田沼意次との縁によるものだろうと言うのが衆目の一致するところであった。
即ち、意致が父、能登守意誠は意次の実弟であり、それゆえ意次と意致は伯父・甥の関係に当たるのだ。
そうであればこそ、意致は伯父・意次の「ヒキ」により目付から御三卿家老、それも一橋家老へと異例とも言える昇進を遂げたのだろうと言うのが専らの評判であった。
そして林忠篤にしても意致と同じく、44歳という若さで御三卿家老…、一橋家老に辿り着いた。僅か38歳で辿り着いた意致には及ばないものの、それでも十分に若い。
そうであれば忠篤としてもこのまま御三卿家老として…、一橋家老として終わるつもりはなかった。
忠篤は遠国奉行である浦賀奉行より御三卿家老…、一橋家老へと異動を果たしたのであったが、実を言うと、忠篤としては次は旗本ならば誰もが望む、正しく、
「垂涎の…」
同じく遠国奉行である、それも筆頭に位置付けられる長崎奉行を狙っていた。長崎奉行に就けば一生遊んで暮らせるだけの財産が築けるからで、それこそが、
「垂涎の…」
所以であり、長崎奉行が無理ならば、長崎奉行に次いで、
「実入りの良い…」
大坂町奉行のポストを狙っていた。長崎奉行程の「実入り」は期待できないにしても、それでも大坂は所謂、
「商都…」
と呼ばれる地だけあって、豪商が犇いており、それゆえその大坂町奉行ともなれば彼ら豪商からの「袖の下」が期待できるというものであったからだ。
だが蓋を開けてみれば閑職に過ぎない御三卿家老であり、忠篤はこの人事が発令されるや内心、大いに落胆したものである。
そんな忠篤に対して治済はそんな忠篤の内心を見透かしたかのように、
「田沼能登と同じく、そこもとにもいずれは豊千代の御側衆として、豊千代を支えて貰いたい…」
そう「「悪魔の囁き」を齎したのであった。
本来ならば、それもまともな判断力があるならばそのような「悪魔の囁き」など一笑に付するところであろう。
或いは己の雇主とも言うべき幕府に告口して歓心を買おうと考えたやも知れぬ。
いや、実際、忠篤もすぐには治済の「悪魔の囁き」に洗脳されることはなく、幕府に告口したのであった。その程度の判断力はあった。或いは、幕府に告口することで幕府の歓心を買い、ひいては出世に役立てようとの打算も働いた。
だが生憎と言うべきか、告口した相手が悪かった。
この場合の幕府とは即ち、御側御用取次を意味しており、忠篤はその中でも稲葉正明に対して告口したのであった。
これには理由があった。それと言うのも御三卿家老は一応、名目上は老中支配に属するものの、実際には御側御用取次の管掌を受けていた。
御三卿家老は御側御用取次の指図の下、その職務に当たっていた。
それゆえ忠篤が御側御用取次の稲葉正明に対して告口したのも指揮命令系統から考えて至極当然の判断と言えた。
だが御側御用取次は稲葉正明一人ではない。その時点…、忠篤が浦賀奉行より御三卿家老…、一橋家老へと異動を果たした天明元(1781)年6月の時点では稲葉正明の他にも横田準松が御側御用取次として控えており、更に御側御用取次見習い、所謂、
「小姓組番頭格奥勤…」
として、本郷泰行もおり、にもかかわらず忠篤がその中でも正明を告口する相手として選んだのは他でもない、
「さればこの儀…、そこもとをゆくゆく、豊千代が御側衆として豊千代を支えて貰うことにつきては御側御用取次の稲葉越中とも話ができておるのだ…」
そう付け加えたのである。いや、それだけではない。
「さればそこもとを…、将来のありしそこもとを御三卿家老などと、閑職に棚上げせしは同じく御側御用取次の横田筑後めの策謀によるものらしい…」
治済はご丁寧にも更にそう付け加えたのであった。ここまでご丁寧に念を押されてはかえってその言葉を疑いたくもなるが、しかし生憎と言うべきか、棚上げ人事に不満を持っていた忠篤はそこまでの判断力はなく、治済の言葉を額面通りに受け止め、それでも念のために御側御用取次の稲葉越中こと越中守正明に対して告口することで、と言うよりは事の真偽を確かめるべく、赫々然々と、治済よりの言葉を伝えた上で、果たして治済が言ったことは本当かと、正明に問い質したのであった。
それに対して正明はと言うと、忠篤からの「告口」に内心、大いに喜び、だがそれはおくびにも出さず、それどころかそんな内心とは裏腹に如何にも深刻そうな表情を浮かべると、
「実はその通りなのだ…」
そう認めた上で、
「されば実力のあるそなたを田沼様が疎まれ、と申すよりは恐れ、それゆえに御三卿家老という、こう申しては真にもって畏れ多いが閑職に封じ込めるべく、横田筑後めと、その金魚の糞の本郷伊勢めを使嗾して、そなたを浦賀奉行より御三卿家老へと…、一橋家老へと棚上げ致したのだ…」
そのような根も葉もないことを忠篤に語って見せたのだ。そしてやはり忠篤は正明のその虚言をも額面通りに受け止めた、つまりは真に受けたのであった。
結果、忠篤は意次と、更に横田準松と本郷泰行らに対する怒りを隠そうともせず、正明はいよいよもって喜びを隠せず、それを押し隠すのに苦労した程である。
その上で正明は、
「されば身共としてもそこもとには…、そこもとの境遇には心底、同情しておる…、そこもとは本来、長崎奉行、それが無理ならば大坂町奉行を務め得る身なれば、それが御三卿家老…、一橋家老とは…」
如何にも忠篤に対して同情を寄せているふりをしてみせ、
「さればこの上は身共としては畏れ多くも一橋民部卿様とも談合の上、そこもとをゆくゆくは将軍家御養君様にあらせられし豊千代君様、いや、家斉公の御側衆へと取り立てる所存にて、今しばらくの間、辛抱して欲しい…」
そう止めを刺したのであった。それも更にご丁寧にも、
「なに、やはりそこもとと同じく一橋家老であった田沼能登めが御側衆へと…、西之丸の御側衆へと昇進を遂げた前例があるゆえに、そこもととて御側衆に取り立てられて然るべき…、何しろその実力と良い、何より家柄と良い、どこその馬の骨とも分からぬ、盗賊も同然の下賤なる田沼めとは違うのだから…」
そのようにも付け加え、これで忠篤は治済の言葉は本当だと、完全に洗脳、所謂、
「マインドコントロール」
その下に置かれ、治済に取り込まれてしまったのだ。
正明もそうと察すると、
「さればこの儀、横田筑後めや本郷伊勢めには話さぬよう…」
忠篤にそう念押しすることも忘れなかった。横田準松や本郷泰行の両名に対して事実確認でもされれば、虚言だとバレてしまうためであり、それに対して忠篤はと言うと、完全に治済のマインドコントロール下にあり、元よりそのようなことなど考えてもいなかったので、
「元より承知…」
即座にそのように応じたのであった。
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