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忠休は菊之間縁頬に大坂定番(玉造口定番)の稲垣長門守定計の成人嫡子・若狭守定淳が詰めているのを目にして苦々しく思う。

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 大番頭おおばんがしら書院しょいん番頭ばんがしら小姓こしょうぐみ番頭ばんがしらと同じく旗本役ではあるものの、大名も任じられるというめずらしいポストであった。

 と言っても御三家や、あるいは雄藩ゆうはん大藩たいはん当主とうしゅにんじられることはなく、おもに1万石から2万石クラスの無城むじょう大名、すなわち、陣屋じんや大名がにんじられるのがつねであった。

 それゆえ畢竟ひっきょう菊之間きくのま縁頬えんがわ殿中でんちゅう席とする大名、所謂いわゆる菊之間きくのまづめの大名から選ばれることが多かった。

 それと言うのも菊之間きくのまづめ…、菊之間きくのま縁頬えんがわめる大名は皆、無城むじょう大名、所謂いわゆる陣屋じんや大名ですべめられていたからだ。

 もっとも、それでは大番頭おおばんがしらにんじられる大名は皆が皆、菊之間きくのまづめ…、菊之間きくのま縁頬えんがわ殿中でんちゅう席とする大名かと言うと、決してそんなことはなく、柳之間やなぎのまづめの大名が大番頭おおばんがしらにんじられることもあった。

 柳之間やなぎのまづめの大名はすべ外様とざま大名であり、つ、城主じょうしゅ大名や城主じょうしゅかく大名、そして無城むじょう大名、所謂いわゆる陣屋じんや大名が混在こんざいしており、そこでその柳之間やなぎのまづめの大名の中から、1万石から2万石クラスの陣屋じんや大名が大番頭おおばんがしらにんじられるというケースもあり、実際、青木あおき甲斐守かいのかみ一貫かずつらがそうであった。

 青木あおき一貫かずつらは一番組から十二番組まである大番組おおばんぐみの中でも八番組をたばねる大番頭おおばんがしらであり、その一貫かずつら摂州せっしゅう豊島てしま麻田あさだ藩1万石余を領する柳之間やなぎのまづめ陣屋じんや大名であるのだ。

 ちなみに同じく大名の永井ながい信濃守しなののかみ直温なおあつ本庄ほんじょう伊勢守いせのかみ道利みちとし菊之間きくのまづめ…、ここ菊之間きくのま本間ほんまとなり縁頬えんがわ殿中でんちゅう席とする陣屋じんや大名であった。

 すなわち、永井ながい直温なおあつは四番組をたばねる大番頭おおばんがしらであり、和州わしゅう葛下かつげ新庄しんじょう藩1万石を領する陣屋じんや大名であり、一方、本庄ほんじょう道利みちとし濃州のうしゅう山縣やまがた高富たかとみ藩1万石を領するこれまた陣屋じんや大名であった。

 彼らは小藩とは申せ、れきとした大名であり、その大名を菊之間きくのま本間ほんまの中でもはしっこに…、雁之間がんのまサイドへと追いやってしまったとあっては…、少なくとも黒田くろだ直英なおひで自身じしんがそう思いんでいる限り、成程なるほど、確かに菊之間きくのま本間ほんまなかにてひかえる直英なおひで居心地いごこち悪そうにしているのも無理からぬことであった。例え、それが…、直英なおひでのような雁之間がんのま詰衆つめしゅう成人せいじん嫡子ちゃくしはここ菊之間きくのま本間ほんまなかめるのが仕来しきたりであったとしてもだ。

 さて、忠休ただよしはその菊之間きくのま本間ほんまからいよいよ、

本日ほんじつのお目当めあて…」

 とでも言うべきそのとなり菊之間きくのま縁頬えんがわへと目をてんじた。

 その菊之間きくのま縁頬えんがわにはそこを殿中でんちゅう席とする大名が2人と、それに加えて若年寄と奏者番そうじゃばん、そして大坂おおざか定番じょうばんを父に持つ成人せいじん嫡子ちゃくし各1人ずつの合わせて3人もめていたのであった。

 忠休ただよしはその光景こうけいたりにして頭痛ずつうがした。

酒井さかい家は…、大坂おおざか定番じょうばんごとき者にも負けたと申すのか…」

 それが忠休ただよし頭痛ずつう正体しょうたいであった。

 すなわち、ここ菊之間きくのま縁頬えんがわめることが許される…、殿中でんちゅう席と認められている成人せいじん嫡子ちゃくしは若年寄の嫡子ちゃくしかぎられない。

 奏者番そうじゃばんや、それに大坂おおざか定番じょうばん成人せいじん嫡子ちゃくしもまた、ここ菊之間きくのま縁頬えんがわめることが許されていたのだ。

 ところで大坂おおざか定番じょうばんとは大坂おおざか城代じょうだい補佐ほさして大坂おおざか城のそれも京橋きょうばし口と玉造たまづくり口の守衛しゅえいに当たるのがその役目であり、それゆえ大坂おおざか定番じょうばん定員ていいんは2人、すなわち、京橋きょうばし口を守る者と玉造たまづくり口を守る者、所謂いわゆる

京橋きょうばし定番じょうばん

玉造たまづくり定番じょうばん

 の2人であった。

 この大坂おおざか定番じょうばんにんじられる者も大番頭おおばんがしらにんじられる大名と同じく、主に1万石から2万石クラスの大名、それもここ菊之間きくのま縁頬えんがわめる…、菊之間きくのまづめの大名からにんじられるのが常であった。

 実際、今の大坂おおざか定番じょうばん…、京橋きょうばし定番じょうばんつとめる井上いのうえ筑後守ちくごのかみ正國まさくに玉造たまづくり定番じょうばんつとめる稲垣いながき長門守ながとのかみ定計さだかずは共に菊之間きくのまづめ…、ここ菊之間きくのま縁頬えんがわ殿中でんちゅう席とする大名であった。

 そして大坂おおざか定番じょうばんにんじられた大名に成人せいじん嫡子ちゃくしがあれば、その成人せいじん嫡子ちゃくしもまた、若年寄や奏者番そうじゃばん嫡子ちゃくし同様どうよう、ここ菊之間きくのま縁頬えんがわに「デビュー」できるのであった。

 今は大坂おおざか定番じょうばん…、玉造たまづくり定番じょうばん稲垣いながき定計さだかず成人せいじん嫡子ちゃくしである若狭守わかさのかみ定淳さだあつがそうであった。

 稲垣いながき定計さだかず自身じしんはあくまで、近江おうみ神崎かんざき山上やまがみ藩1万3043石余を領する菊之間きくのまづめの大名に過ぎず、本来ほんらいならばその成人せいじん嫡子ちゃくしたる定淳さだあつまでが父と同じく菊之間きくのま縁頬えんがわめることなど許されないはずであったが、それが父・定計さだかず大坂おおざか定番じょうばんに、玉造たまづくり定番じょうばんにんじられたために、その成人せいじん嫡子ちゃくしたる定淳さだあつ菊之間きくのま縁頬えんがわに「デビュー」をたすことができたのであった。

 ちなみにもう一人の大坂おおざか定番じょうばん…、京橋きょうばし定番じょうばん井上いのうえ正國まさくにであるが、生憎あいにくいま嫡子ちゃくしめぐまれず、しかし仮に正國まさくににも稲垣いながき定計さだかず同様どうよう成人せいじん嫡子ちゃくしがいたならば、やはりここ菊之間きくのま縁頬えんがわに「デビュー」していたに違いなく、これこそが忠休ただよし頭痛ずつうを、それも激痛げきつうもたらしていた理由であった。

酒井さかい家は…、始祖しそ大學頭だいがくのかみ忠恒ただつねが頃より代々だいだい帝鑑之間ていかんのまさぶろうことが許されているというに…」

 己はただの若年寄ではない、いや、ただの若年寄筆頭ひっとうではない、所謂いわゆる

古来こらい御譜代ごふだいの席…」

 そのようにもしょうせられている帝鑑之間ていかんのまめることが許されているにもかかわらず、その己がそく忠崇ただたかいまだ、菊之間きくのま縁頬えんがわに「デビュー」できずにいるというに、それが何ゆえに菊之間きくのまづめごときがただ、大坂おおざか定番じょうばんにんじられたというだけで、その小倅こせがれが父と同じく菊之間きくのま縁頬えんがわに「デビュー」できるのだと、忠休ただよし菊之間きくのま縁頬えんがわに、

当然とうぜんごとく…」

 めている定淳さだあつの顔を見て、そう思わずにはいられなかった。胸に苦々にがにがしいものがげてもきた。
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