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意知を若年寄へと進ませることについて加納久堅のみが心底、大賛成し、そして将軍・家治は遂に意知を若年寄に進ませる決断をする。
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「確かに…、牧野遠江は奏者番の中でも一番の古株なれど、既に50を過ぎておりましょう…」
忠友は忠休を無視して意次に対してそう答えた。
「確かに…、なれど牧野遠江は奏者番に任じられて既に21年が経とうとし、さればそろそろ…」
意次は年功序列を楯に、牧野康満を若年寄の候補者として推挙したのであった。
だがそれに対して忠友は難色を示した。
「いや…、奏者番に任じられてから21年が経とうと申すに未だに筆頭たる寺社奉行の声もかからぬ者では…」
能力…、忠友は年功序列とは正反対のそれが康満には欠けているのではないかと、そう示唆して康満の若年寄昇進に難色を示したのであり、家治も同感であった。
「然様な、50を過ぎた者では若年寄は務まりますまい…」
忠友は古希の忠休への「あてつけ」からそう付け加えたが、これは余計であった。それと言うのも今の若年寄の中には50を過ぎた者がいたからだ。
「されば…、50を過ぎておる米倉丹後や加納遠江もまた、若年寄が務まらぬと申されるのかっ!」
忠休は先ほど、忠友から受けた仕打ち、屈辱を雪がんと、大声を上げてそう反論した。
すると忠友はと言うと、この点は確かにその通りであったので、つい口が滑ったと内心反省した。米倉丹後こと丹後守昌晴は56と、52の牧野康満よりも年上であり、加納遠江こと遠江守久堅に至っては73と、古希の忠休よりも年上であったからだ。
が、その反省も束の間、
「いや、これは身共が舌足らずにて…、されば才覚のない50過ぎの者では若年寄は務まらず…」
忠友はそう言い直して、忠休に更なる恥辱を与えたものであった。つまりは、
「50を過ぎていると言っても、米倉昌晴や加納久堅は十分に若年寄を務め得る能力があるが、お前にはその能力がない…」
忠休に対してそう言い放ったも同然であり、忠友のその示唆に対して忠休もすぐにそうと気づいて、更に顔面を紅潮させたものである。
「いや…、されば牧野遠江に次いで古株の秋元但馬守永朝か、或いは松平玄蕃頭忠福が若年寄に相応しいのでは…」
意次はやはり忠休を救うかのように更に名を挙げてみせた。
「されば秋元但馬は46、松平玄蕃は42にて…」
意次は年齢まで諳んじてみせ、これには忠友をはじめとし、皆を驚かせた。家治もその一人であった。
「ことに松平玄蕃は帝鑑之間詰にて…」
意次は更にそう付け加えた。その心は、
「どこぞの馬の骨とも分からぬ、盗賊も同然の、何より未だ部屋住の身にて、大名ですらない己が愚息・意知よりも、堂々たる大名、それも古来御譜代の席とも称される帝鑑之間を殿中席とする松平玄蕃頭忠福の方が若年寄に相応しい…」
というものであった。
そして意次のこの示唆には心動かされる者も多かった。若年寄の米倉昌晴や太田資愛、それに忠休もであった。彼らはとりわけ名門であり、ゆえに意次の示唆にすぐに気づくと同時に、心動かされたものである。
いや、名門と言えば老中首座の松平康福や側用人の水野忠友にしてもそうだが、しかし、彼らは田沼家との縁の方が魅力的であり、それゆえ「帝鑑之間」というキーワードで心動かされることはなかった。そこがただの名門に過ぎない忠休らとの違い、それも最大の違いと言えた。
一方、意次は今の己の示唆に対して、忠休と資愛、そして昌晴の三人が心動かされたと即座に気づき、すると更に、
「帝鑑之間詰と申さば、牧野備前守忠精と松平和泉守乗完…、ああ、そうそう、奏者番の筆頭たる寺社奉行の堀田相模守正順もまた然り…」
思い出したかのようにその3人の名を挙げたが、しかし実際にはそれは、
「ダメ押し」
であった。それは無論、
「愚息・意知は若年寄には相応しくない、意知よりももっと若年寄に相応しい者がいる…」
とのアピールに他ならず、そして将軍・家治に向けてのアピールであった。
ちなみに今の奏者番…、筆頭である寺社奉行4人にヒラの奏者番15人の合わせて19人の中で帝鑑之間詰は意次が挙げた、
「堀田相模守正順」
「松平玄蕃頭忠福」
「牧野備前守忠精」
「松平和泉守乗完」
この4人だけであった。
譜代大名にとっての出世の謂わば、登竜門的なポストである奏者番には雁之間詰衆から選ばれる傾向が強かった。それは老中による昼の「廻り」のコース上に雁之間が含まれており、それゆえ雁之間詰衆は老中に対して「自己アピール」する機会に恵まれており、そのことが奏者番は主に雁之間詰衆出身で占められる要因であり、事実、残る15人の奏者番…、3人の寺社奉行に12人のヒラの奏者番は皆、雁之間詰衆であった。
それに比べて帝鑑之間詰の大名はと言うと、帝鑑之間は老中による昼の「廻り」のコース上にはなく、それゆえ老中に「自己アピール」する機会に恵まれておらず、何より帝鑑之間詰の大名はそもそも平日登城が許されておらず、そこが平日登城が許されている雁之間詰衆との最大の違いであり、それはそのまま奏者番への登用に響いてくる。
即ち、帝鑑之間詰の大名は古来御譜代とは申せ、雁之間詰衆と比べて奏者番に取り立てられる可能性が低い、つまりは出世の可能性が低いと言うわけだ。
尤も、だからと言って帝鑑之間詰の大名は誰一人として奏者番に取り立てられないという話ではなく、意次が今、挙げた、
「堀田相模守正順」
「松平玄蕃頭忠福」
「牧野備前守忠精」
「松平和泉守乗完」
この4人がその例外と言えた。
そして例外であるゆえに、彼ら4人の存在は貴重と言えた。雁之間に比べて中々、出世の機会に恵まれぬ帝鑑之間詰の大名にとって彼ら4人の存在は正しく、
「希望の星…」
と言えた。
そんな「希望の星」とも言うべき彼ら4人を差し置いて、愚息・意知が若年寄に進むなどとんでもないこと…、意次は家治に向けてそうアピールしたのだ。
そして家治も意次のその「アピール」には勿論、気づいていたものの、
「忠休が意知よりももっと相応しき者が…、若年寄に相応しき者がいるとの意見は良く分かった…」
家治はサラリと意次の「アピール」を受け流してみせると、資愛や昌晴、そして久堅の意見を求めた。
それに対して資愛は忠休と同様、意知を若年寄へと進ませることには絶対反対であり、昌晴は忠休程ではないにしても懐疑的であったが、それでも資愛にしろ昌晴にしろ、そんな胸のうちとは裏腹に、
「中々に結構なる人事かと…」
そう口を揃えたものである。
そんな中、唯一、加納久堅のみが意知を若年寄へと進ませることに心底、賛成してみせたのであった。
「されば田沼山城は若輩とは申せ、才気煥発…、奏者番として中々にその才を大いに発揮しておるとの専らの評判にて、されば若年寄としても必ずやその才を大いに発揮するに相違なく…」
久堅は世辞ではなく、心底、意知のその才覚、能力といったものを評価しており、そしてそのことは家治にも伝わったのであろう、資愛や昌晴には決して見せることのなかった笑顔を久堅に向けつつ、
「然様に思うてくれるか…」
実に嬉しげに、それも我が事のように喜んだものである。
「御意…、されば意知、いえ、山城が我ら若年寄の相役に加わりますれば、これ程、心強いものはなく…」
久堅は心底、意知の若年寄昇進を歓迎した。心待ちにしていると言っても過言ではない態度さえ見せた。
「されば田沼山城が若年寄へと進みますこと、諸手を挙げて大賛成で御座りまする…」
久堅は力強い調子でそう締め括った。
すると家治は大いに頷いてみせると、
「これにて相分かった」
皆の意見が出尽くしたとし、
「されば来月、11月朔日をもって、田沼山城守意知を奏者番より若年寄へと進ませることとす」
家治はそう断を下し、皆を平伏させたのであった。
忠友は忠休を無視して意次に対してそう答えた。
「確かに…、なれど牧野遠江は奏者番に任じられて既に21年が経とうとし、さればそろそろ…」
意次は年功序列を楯に、牧野康満を若年寄の候補者として推挙したのであった。
だがそれに対して忠友は難色を示した。
「いや…、奏者番に任じられてから21年が経とうと申すに未だに筆頭たる寺社奉行の声もかからぬ者では…」
能力…、忠友は年功序列とは正反対のそれが康満には欠けているのではないかと、そう示唆して康満の若年寄昇進に難色を示したのであり、家治も同感であった。
「然様な、50を過ぎた者では若年寄は務まりますまい…」
忠友は古希の忠休への「あてつけ」からそう付け加えたが、これは余計であった。それと言うのも今の若年寄の中には50を過ぎた者がいたからだ。
「されば…、50を過ぎておる米倉丹後や加納遠江もまた、若年寄が務まらぬと申されるのかっ!」
忠休は先ほど、忠友から受けた仕打ち、屈辱を雪がんと、大声を上げてそう反論した。
すると忠友はと言うと、この点は確かにその通りであったので、つい口が滑ったと内心反省した。米倉丹後こと丹後守昌晴は56と、52の牧野康満よりも年上であり、加納遠江こと遠江守久堅に至っては73と、古希の忠休よりも年上であったからだ。
が、その反省も束の間、
「いや、これは身共が舌足らずにて…、されば才覚のない50過ぎの者では若年寄は務まらず…」
忠友はそう言い直して、忠休に更なる恥辱を与えたものであった。つまりは、
「50を過ぎていると言っても、米倉昌晴や加納久堅は十分に若年寄を務め得る能力があるが、お前にはその能力がない…」
忠休に対してそう言い放ったも同然であり、忠友のその示唆に対して忠休もすぐにそうと気づいて、更に顔面を紅潮させたものである。
「いや…、されば牧野遠江に次いで古株の秋元但馬守永朝か、或いは松平玄蕃頭忠福が若年寄に相応しいのでは…」
意次はやはり忠休を救うかのように更に名を挙げてみせた。
「されば秋元但馬は46、松平玄蕃は42にて…」
意次は年齢まで諳んじてみせ、これには忠友をはじめとし、皆を驚かせた。家治もその一人であった。
「ことに松平玄蕃は帝鑑之間詰にて…」
意次は更にそう付け加えた。その心は、
「どこぞの馬の骨とも分からぬ、盗賊も同然の、何より未だ部屋住の身にて、大名ですらない己が愚息・意知よりも、堂々たる大名、それも古来御譜代の席とも称される帝鑑之間を殿中席とする松平玄蕃頭忠福の方が若年寄に相応しい…」
というものであった。
そして意次のこの示唆には心動かされる者も多かった。若年寄の米倉昌晴や太田資愛、それに忠休もであった。彼らはとりわけ名門であり、ゆえに意次の示唆にすぐに気づくと同時に、心動かされたものである。
いや、名門と言えば老中首座の松平康福や側用人の水野忠友にしてもそうだが、しかし、彼らは田沼家との縁の方が魅力的であり、それゆえ「帝鑑之間」というキーワードで心動かされることはなかった。そこがただの名門に過ぎない忠休らとの違い、それも最大の違いと言えた。
一方、意次は今の己の示唆に対して、忠休と資愛、そして昌晴の三人が心動かされたと即座に気づき、すると更に、
「帝鑑之間詰と申さば、牧野備前守忠精と松平和泉守乗完…、ああ、そうそう、奏者番の筆頭たる寺社奉行の堀田相模守正順もまた然り…」
思い出したかのようにその3人の名を挙げたが、しかし実際にはそれは、
「ダメ押し」
であった。それは無論、
「愚息・意知は若年寄には相応しくない、意知よりももっと若年寄に相応しい者がいる…」
とのアピールに他ならず、そして将軍・家治に向けてのアピールであった。
ちなみに今の奏者番…、筆頭である寺社奉行4人にヒラの奏者番15人の合わせて19人の中で帝鑑之間詰は意次が挙げた、
「堀田相模守正順」
「松平玄蕃頭忠福」
「牧野備前守忠精」
「松平和泉守乗完」
この4人だけであった。
譜代大名にとっての出世の謂わば、登竜門的なポストである奏者番には雁之間詰衆から選ばれる傾向が強かった。それは老中による昼の「廻り」のコース上に雁之間が含まれており、それゆえ雁之間詰衆は老中に対して「自己アピール」する機会に恵まれており、そのことが奏者番は主に雁之間詰衆出身で占められる要因であり、事実、残る15人の奏者番…、3人の寺社奉行に12人のヒラの奏者番は皆、雁之間詰衆であった。
それに比べて帝鑑之間詰の大名はと言うと、帝鑑之間は老中による昼の「廻り」のコース上にはなく、それゆえ老中に「自己アピール」する機会に恵まれておらず、何より帝鑑之間詰の大名はそもそも平日登城が許されておらず、そこが平日登城が許されている雁之間詰衆との最大の違いであり、それはそのまま奏者番への登用に響いてくる。
即ち、帝鑑之間詰の大名は古来御譜代とは申せ、雁之間詰衆と比べて奏者番に取り立てられる可能性が低い、つまりは出世の可能性が低いと言うわけだ。
尤も、だからと言って帝鑑之間詰の大名は誰一人として奏者番に取り立てられないという話ではなく、意次が今、挙げた、
「堀田相模守正順」
「松平玄蕃頭忠福」
「牧野備前守忠精」
「松平和泉守乗完」
この4人がその例外と言えた。
そして例外であるゆえに、彼ら4人の存在は貴重と言えた。雁之間に比べて中々、出世の機会に恵まれぬ帝鑑之間詰の大名にとって彼ら4人の存在は正しく、
「希望の星…」
と言えた。
そんな「希望の星」とも言うべき彼ら4人を差し置いて、愚息・意知が若年寄に進むなどとんでもないこと…、意次は家治に向けてそうアピールしたのだ。
そして家治も意次のその「アピール」には勿論、気づいていたものの、
「忠休が意知よりももっと相応しき者が…、若年寄に相応しき者がいるとの意見は良く分かった…」
家治はサラリと意次の「アピール」を受け流してみせると、資愛や昌晴、そして久堅の意見を求めた。
それに対して資愛は忠休と同様、意知を若年寄へと進ませることには絶対反対であり、昌晴は忠休程ではないにしても懐疑的であったが、それでも資愛にしろ昌晴にしろ、そんな胸のうちとは裏腹に、
「中々に結構なる人事かと…」
そう口を揃えたものである。
そんな中、唯一、加納久堅のみが意知を若年寄へと進ませることに心底、賛成してみせたのであった。
「されば田沼山城は若輩とは申せ、才気煥発…、奏者番として中々にその才を大いに発揮しておるとの専らの評判にて、されば若年寄としても必ずやその才を大いに発揮するに相違なく…」
久堅は世辞ではなく、心底、意知のその才覚、能力といったものを評価しており、そしてそのことは家治にも伝わったのであろう、資愛や昌晴には決して見せることのなかった笑顔を久堅に向けつつ、
「然様に思うてくれるか…」
実に嬉しげに、それも我が事のように喜んだものである。
「御意…、されば意知、いえ、山城が我ら若年寄の相役に加わりますれば、これ程、心強いものはなく…」
久堅は心底、意知の若年寄昇進を歓迎した。心待ちにしていると言っても過言ではない態度さえ見せた。
「されば田沼山城が若年寄へと進みますこと、諸手を挙げて大賛成で御座りまする…」
久堅は力強い調子でそう締め括った。
すると家治は大いに頷いてみせると、
「これにて相分かった」
皆の意見が出尽くしたとし、
「されば来月、11月朔日をもって、田沼山城守意知を奏者番より若年寄へと進ませることとす」
家治はそう断を下し、皆を平伏させたのであった。
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