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家治は側用人の忠友のアドバイス通り、奏者番の意知を若年寄に進ませる件で溜之間詰の松平頼起と井伊直幸の意見も聞くべく御休息之間下段に召し出す。
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溜之間とは通称、
「臣下最高の席…」
それゆえに御三家の殿中席である松之大廊下の上之部屋、それに加賀前田家の殿中席である下之部屋に次ぎ、大広間や所謂、「古来御譜代の席」である帝鑑之間よりも格上であった。
それだけにその溜之間に詰めることが許されている諸侯には、
「幕府の政治顧問格…」
としての役割が与えられており、それゆえその役割を果たせるよう、溜之間詰の諸侯もまた、雁之間や菊之間、総称、
「雁菊…」
そこに詰める諸侯や、或いは嫡子と同じく、在府中…、江戸にいる間は平日登城が許されており、今日も平日であるゆえに溜之間には当然、そこを殿中席とする諸侯が詰めていた。
忠休は意知を少老…、若年寄へと進ませる一件につきその溜之間に詰める諸侯の意見をも聴いてみてはと…、将軍・家治に対してそう提案をしてみてはと、忠友にそのように「アドバイス」をしたわけで、実際、忠友はその「アドバイス」に従った。
即ち、忠友は忠休との面会を終えた後、御休息之間の下段において行われた会議の場でそう提案したのであった。
御休息之間の下段は将軍が政務を執る部屋であり、そこでは側用人や御側御用取次が将軍の政務の補佐をなす。
将軍・家治はその御休息之間の下段の、それも上段とは一番近い場所、つまりは上段と下段との閾を背にして政務を執り、その将軍・家治を真ん中に挟むようにして側用人の忠友や、それに御側御用取次が向かい合っていた。
即ち、将軍・家治から見て右側には側用人の忠友と御側御用取次の稲葉正明が控え、一方、左側には同じく御側御用取次の横田準松とその子分の本郷泰行が控え、その中でも泰行は御側御用取次としては一番の若手であり、ゆえに書記を兼ねており、文机に向かっていた。
その彼らが将軍・家治を真ん中に挟んで奏者番である意知を若年寄へと進ませるか否かにつき、激論を闘わせていた。
いや、激論を闘わせていたのは3人の御側御用取次であり、側用人たる忠友はその激論には加わろうとはせず、沈思黙考に終始していた。
すると将軍・家治はそんな忠友の様子が気になったのか、或いは痺れを切らしたか、
「忠友よ、何か意見があれば申してみよ…」
家治は直々に忠友を指名して意見を促したのであった。ちなみに家治は己に仕える者たちに対しては極力、従五位下諸大夫以上であればその諱《いみな》にて、従六位布衣以下であればその通称《つうしょう》にてそれぞれ呼ぶように心がけていた。
その方がより主従の絆が深まるというものであり、しかし、従五位下諸大夫以上の者と、従六位布衣以下の者を、
「一緒くたに…」
諱で呼べば、
「上様は己を従六位布衣以下の者と同じに思し召しか…」
従五位下諸大夫以上の者に対してそのような被害妄想を抱かせる恐れがあり、或いは自尊心を傷つける恐れがあり、そこで諱で呼ぶのは従五位下諸大夫以上の者に限り、従六位布衣以下の者に対しては諱ではなく通称で呼ぶことで差別化を図ったのであった。
いや、それは差別ではなく合理的な区別であった。
ともあれ家治は忠友に対しても勿論、「忠友」とその諱を口にして意見を促したのであった。
それに対して忠友はまずは家治の方へと体を向け、いったん叩頭した後、忠休からの「アドバイス」をそのまま口にしたのであった。即ち、
「されば田沼山城は奏者番なれば少老へと進ませましても何ら支障はなく、さはさりながら、奏者番とは申せ、未だ部屋住の身であれば、斯かる者を少老という幕閣へと進ませますことにも一抹の不安があり…」
まずはそう議論をまとめた上で、つまりはどっちつかずの意見を口にした上で、
「さればここは溜之間詰の諸侯の意見も聴いてみては如何で御座りましょうや…」
そう提案したのであった。
すると家治は、「うむ」と頷いてみせたかと思うと、
「尤もな意見であるな…」
そう答えたので、忠友はホッとした。肩の荷が下りたと言っても良いだろう。これで忠休には一応の義理は果たしたからだ。少なくとも忠友はそう信じて疑わなかった。何しろ、忠休の「アドバイス」に従ったわけで、そうであれば例え、結果が忠休が望まぬものであったとしても、
「最早、己の責任ではない…」
忠友はやはりそう信じて疑わなかった。
ともあれ将軍・家治は忠友のその意見を受けて、溜之間詰の諸侯の意見を聴くことにし、そこで今、溜之間に詰めている諸侯をこの御休息之間の下段へと召し出したのであった。
即ち、彦根井伊家の当主たる掃部頭直幸と高松松平家の当主たる讃岐守頼起の二人が召し出されたのであった。
所謂、「臣下最高の席」である溜之間には現在、5人の諸侯が詰めることが許されていた。
その5人の諸侯であるが、まず高松松平家、会津松平家、そして彦根井伊家の三家の当主が挙げられる。
この三家の当主は代々、溜之間を殿中席として詰めることが許されており、謂わば溜之間が「指定席」であり、それゆえこの三家は、
「定溜」
或いは代々溜とも称されることがあった。
また、一代限りで溜之間に詰めることが許されている諸侯もおり、松山藩15万石を領する松平隠岐守定國と桑名藩10万石を領する松平下総守忠啓の二人がそうであった。
尤も、生憎と言うべきか、卯年に当たる今年、天明3年、溜之間詰からは高松松平家と彦根《ひこね》井伊家、この二家を除く諸侯が国許へと帰国する年、所謂、
「御暇を賜る…」
年であり、それも4月には会津松平家の当主たる肥後守容頌が一足先にその国許である会津へと帰国し、一月後の5月には残る2人の諸侯、即ち、松平定國と松平忠啓の2人が各々の国許へと帰国の途に就いたのであった。
それとは逆に、高松松平家と彦根井伊家、この二家にとっては卯年は参府年、つまりは江戸に来る年に当たり、それゆえこの二家の当主たる頼起と直幸の2人は5月に仲良く、この江戸に来たというわけで、このような事情があって今、この江戸城本丸の表向にある溜之間には松平頼起と井伊直幸の2人しか詰めてはおらず、そこでこの2人が召し出されたというわけだ。
「臣下最高の席…」
それゆえに御三家の殿中席である松之大廊下の上之部屋、それに加賀前田家の殿中席である下之部屋に次ぎ、大広間や所謂、「古来御譜代の席」である帝鑑之間よりも格上であった。
それだけにその溜之間に詰めることが許されている諸侯には、
「幕府の政治顧問格…」
としての役割が与えられており、それゆえその役割を果たせるよう、溜之間詰の諸侯もまた、雁之間や菊之間、総称、
「雁菊…」
そこに詰める諸侯や、或いは嫡子と同じく、在府中…、江戸にいる間は平日登城が許されており、今日も平日であるゆえに溜之間には当然、そこを殿中席とする諸侯が詰めていた。
忠休は意知を少老…、若年寄へと進ませる一件につきその溜之間に詰める諸侯の意見をも聴いてみてはと…、将軍・家治に対してそう提案をしてみてはと、忠友にそのように「アドバイス」をしたわけで、実際、忠友はその「アドバイス」に従った。
即ち、忠友は忠休との面会を終えた後、御休息之間の下段において行われた会議の場でそう提案したのであった。
御休息之間の下段は将軍が政務を執る部屋であり、そこでは側用人や御側御用取次が将軍の政務の補佐をなす。
将軍・家治はその御休息之間の下段の、それも上段とは一番近い場所、つまりは上段と下段との閾を背にして政務を執り、その将軍・家治を真ん中に挟むようにして側用人の忠友や、それに御側御用取次が向かい合っていた。
即ち、将軍・家治から見て右側には側用人の忠友と御側御用取次の稲葉正明が控え、一方、左側には同じく御側御用取次の横田準松とその子分の本郷泰行が控え、その中でも泰行は御側御用取次としては一番の若手であり、ゆえに書記を兼ねており、文机に向かっていた。
その彼らが将軍・家治を真ん中に挟んで奏者番である意知を若年寄へと進ませるか否かにつき、激論を闘わせていた。
いや、激論を闘わせていたのは3人の御側御用取次であり、側用人たる忠友はその激論には加わろうとはせず、沈思黙考に終始していた。
すると将軍・家治はそんな忠友の様子が気になったのか、或いは痺れを切らしたか、
「忠友よ、何か意見があれば申してみよ…」
家治は直々に忠友を指名して意見を促したのであった。ちなみに家治は己に仕える者たちに対しては極力、従五位下諸大夫以上であればその諱《いみな》にて、従六位布衣以下であればその通称《つうしょう》にてそれぞれ呼ぶように心がけていた。
その方がより主従の絆が深まるというものであり、しかし、従五位下諸大夫以上の者と、従六位布衣以下の者を、
「一緒くたに…」
諱で呼べば、
「上様は己を従六位布衣以下の者と同じに思し召しか…」
従五位下諸大夫以上の者に対してそのような被害妄想を抱かせる恐れがあり、或いは自尊心を傷つける恐れがあり、そこで諱で呼ぶのは従五位下諸大夫以上の者に限り、従六位布衣以下の者に対しては諱ではなく通称で呼ぶことで差別化を図ったのであった。
いや、それは差別ではなく合理的な区別であった。
ともあれ家治は忠友に対しても勿論、「忠友」とその諱を口にして意見を促したのであった。
それに対して忠友はまずは家治の方へと体を向け、いったん叩頭した後、忠休からの「アドバイス」をそのまま口にしたのであった。即ち、
「されば田沼山城は奏者番なれば少老へと進ませましても何ら支障はなく、さはさりながら、奏者番とは申せ、未だ部屋住の身であれば、斯かる者を少老という幕閣へと進ませますことにも一抹の不安があり…」
まずはそう議論をまとめた上で、つまりはどっちつかずの意見を口にした上で、
「さればここは溜之間詰の諸侯の意見も聴いてみては如何で御座りましょうや…」
そう提案したのであった。
すると家治は、「うむ」と頷いてみせたかと思うと、
「尤もな意見であるな…」
そう答えたので、忠友はホッとした。肩の荷が下りたと言っても良いだろう。これで忠休には一応の義理は果たしたからだ。少なくとも忠友はそう信じて疑わなかった。何しろ、忠休の「アドバイス」に従ったわけで、そうであれば例え、結果が忠休が望まぬものであったとしても、
「最早、己の責任ではない…」
忠友はやはりそう信じて疑わなかった。
ともあれ将軍・家治は忠友のその意見を受けて、溜之間詰の諸侯の意見を聴くことにし、そこで今、溜之間に詰めている諸侯をこの御休息之間の下段へと召し出したのであった。
即ち、彦根井伊家の当主たる掃部頭直幸と高松松平家の当主たる讃岐守頼起の二人が召し出されたのであった。
所謂、「臣下最高の席」である溜之間には現在、5人の諸侯が詰めることが許されていた。
その5人の諸侯であるが、まず高松松平家、会津松平家、そして彦根井伊家の三家の当主が挙げられる。
この三家の当主は代々、溜之間を殿中席として詰めることが許されており、謂わば溜之間が「指定席」であり、それゆえこの三家は、
「定溜」
或いは代々溜とも称されることがあった。
また、一代限りで溜之間に詰めることが許されている諸侯もおり、松山藩15万石を領する松平隠岐守定國と桑名藩10万石を領する松平下総守忠啓の二人がそうであった。
尤も、生憎と言うべきか、卯年に当たる今年、天明3年、溜之間詰からは高松松平家と彦根《ひこね》井伊家、この二家を除く諸侯が国許へと帰国する年、所謂、
「御暇を賜る…」
年であり、それも4月には会津松平家の当主たる肥後守容頌が一足先にその国許である会津へと帰国し、一月後の5月には残る2人の諸侯、即ち、松平定國と松平忠啓の2人が各々の国許へと帰国の途に就いたのであった。
それとは逆に、高松松平家と彦根井伊家、この二家にとっては卯年は参府年、つまりは江戸に来る年に当たり、それゆえこの二家の当主たる頼起と直幸の2人は5月に仲良く、この江戸に来たというわけで、このような事情があって今、この江戸城本丸の表向にある溜之間には松平頼起と井伊直幸の2人しか詰めてはおらず、そこでこの2人が召し出されたというわけだ。
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