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大名ですらない意知が若年寄に取り立てられることについて、若年寄の酒井忠休は大いに憤慨する。
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それから暫く経ってから忠休は漸くに口を開くことができた。
「馬鹿な…」
それが忠休の第一声であった。側用人たる忠友を前にして口にして良い言葉とも思えなかったが、しかし、忠友には忠休の気持ちも…、そう言いたくなる気持ちも分からないではないので、特に何とも思わなかった。
だが忠休にしてみれば、それだけでは気が収まらなかった。
「何ゆえでござりまするかっ!」
忠休は思わず大声を上げて忠友を詰問した。
「いや…、田沼山城も奏者番なれば…」
忠友は忠休の気迫に呑まれつつも、やっとの思いでそう答えた。
確かにその通りであった。意知もまた奏者番である以上、若年寄の有資格者ではあった。だが…。
「あやつは2年前に奏者番に取り立てられたばかりでは御座りますまいかっ!いや、それ以前に大名ですらないっ!」
これもまたその通りであった。
意知は未だ、嫡子の身であった。つまりは家督相続前ということで、大名ではなかったのだ。
にもかかわらず、譜代大名にとっての出世の登竜門的ポストである奏者番に取り立てられたのは老中を務める父・意次のお蔭であった。
いや、正確に言えば意次は意知に対してはあくまで奏者番になれる機会、謂わば、
「チャンス」
それを与えたに過ぎず、その「チャンス」を見事にものにし、奏者番として立派に務めを果たしているのはひとえに意知自身の才覚によるものであった。
どういうことかと言うと、奏者番に取り立てられる大名は主に、雁之間に詰めている大名、所謂、雁之間詰の大名で占められていた。
それと言うのも雁之間詰の大名は他の、例えば帝鑑之間詰の大名とは違って、毎日の登城が許されており、そうして雁之間に詰めた大名は昼に老中一同の目に触れる機会に恵まれた。昼になると老中一同が、
「廻り…」
と称しては表向にある各部屋を見廻り、と言っても全ての部屋を見廻るわけではなく、限られた部屋だけを見廻り、その「廻り」のコース上には雁之間も含まれており、それゆえ雁之間詰の大名は「廻り」に訪れた老中一同の目に触れる機会に恵まれると言うわけで、雁之間詰の大名は…、ことに出世を望む大名なれば雁之間に老中一同が姿を見せるやそれこそ、
「我先に…」
老中一同を取り囲んでは、「自己アピール」に余念がなかった。
そしてこの場合の「自己アピール」とは勿論、
「私めを何卒、奏者番に取り立てて下さいっ!」
という陳情に他ならなかった。
そしてその中には大名ではない意知も含まれていたのだ。
意知はそもそも大名ではないのだから、雁之間詰の大名とそれこそ、
「肩を並べて…」
雁之間に詰める資格はないように思われるやも知れぬが、しかし、これには例外があった。
即ち、父が老中、或いは京都所司代、大坂城代として勤仕中であれば、その成人嫡子は雁之間に出られるのであった。
ちょうど、若年寄の成人嫡子が菊之間縁頬に出られるのと同じ理屈であり、意知の他にも老中首座である松平康福の息・左京亮康定や、それにヒラの老中の久世廣明の息・隠岐守廣譽、また西之丸老中の鳥居丹波守忠意の息・播磨守忠求、そして京都所司代の牧野越中守貞長の息・兵部少輔貞喜に大坂城代の戸田因幡守忠寛の息・能登守忠翰らが意知と同じ資格で雁之間に詰めていたのだ。
いや、いま一人、忠休の目の前にいる側用人たる水野忠友が息・中務少輔忠徳もまた、雁之間に詰めることが許されていた。
それは父・忠友が側用人のかたわら、老中としての顔も持ち合わせており、つまりは老中格ということでその息・忠徳もまた雁之間に詰めることが許されたのであった。
そうであれば意知ら嫡子であっても雁之間に詰められるという機会に恵まれた以上、「廻り」に訪れた老中一同に対しての自己アピール次第ではその老中一同の目に留まり、結果として奏者番に取り立てられる「チャンス」も十分にあり得るわけで、実際、意知は見事にその「チャンス」をものにしたというわけだ。
忠休も勿論、頭ではそう理解していても、しかし感情が追いつかなかった。
「例えそうだとしても…、他の奏者番は納得致しますまいて…」
忠休は声を絞り出すようにしてそう切り出すや、
「例えば…、阿部能登は…、能登守正敏の立場は如何相成りまするか?」
尚もそう言い募った。
「阿部能登は田沼山城めと同じ年に…、天明元(1781)年に…、それも8ヶ月も早い4月に任じられ、しかも四品で御座りまするぞ?」
達しかに忠休の言う通りであった。
田沼意知が奏者番に取り立てられたのが天明元(1781)年の12月15日であり、それに対して阿部正敏はと言うと、それよりも8ヶ月も早い4月21日であり、しかも同年…、天明元(1781)年の12月16日、即ち、意知が奏者番に取り立てられたその翌日には四品、つまりは、
「従四位下諸大夫」
それまでの従五位下諸大夫から大坂城代と同じ官位へと昇叙を果たしたのであった。
そうであればその阿部正敏を差し置いて意知が先に若年寄に取り立てられては正敏の立場がないではないかと、忠休はそれを指摘していたのだ。
「いや、阿部能登に限らず、松平伯耆守資承や土井大炊頭利和、青山大膳亮幸完らにしてもまた…」
忠休が今挙げた彼ら奏者番にしてもやはり皆、意知よりも早くに奏者番に任じられた者たちであった。
「それにそう…、水野左近将監忠鼎や稲葉丹後守正諶の立場もないではありませぬか…」
忠休は思い出したように、そして擦り寄るようにそう告げた。
「馬鹿な…」
それが忠休の第一声であった。側用人たる忠友を前にして口にして良い言葉とも思えなかったが、しかし、忠友には忠休の気持ちも…、そう言いたくなる気持ちも分からないではないので、特に何とも思わなかった。
だが忠休にしてみれば、それだけでは気が収まらなかった。
「何ゆえでござりまするかっ!」
忠休は思わず大声を上げて忠友を詰問した。
「いや…、田沼山城も奏者番なれば…」
忠友は忠休の気迫に呑まれつつも、やっとの思いでそう答えた。
確かにその通りであった。意知もまた奏者番である以上、若年寄の有資格者ではあった。だが…。
「あやつは2年前に奏者番に取り立てられたばかりでは御座りますまいかっ!いや、それ以前に大名ですらないっ!」
これもまたその通りであった。
意知は未だ、嫡子の身であった。つまりは家督相続前ということで、大名ではなかったのだ。
にもかかわらず、譜代大名にとっての出世の登竜門的ポストである奏者番に取り立てられたのは老中を務める父・意次のお蔭であった。
いや、正確に言えば意次は意知に対してはあくまで奏者番になれる機会、謂わば、
「チャンス」
それを与えたに過ぎず、その「チャンス」を見事にものにし、奏者番として立派に務めを果たしているのはひとえに意知自身の才覚によるものであった。
どういうことかと言うと、奏者番に取り立てられる大名は主に、雁之間に詰めている大名、所謂、雁之間詰の大名で占められていた。
それと言うのも雁之間詰の大名は他の、例えば帝鑑之間詰の大名とは違って、毎日の登城が許されており、そうして雁之間に詰めた大名は昼に老中一同の目に触れる機会に恵まれた。昼になると老中一同が、
「廻り…」
と称しては表向にある各部屋を見廻り、と言っても全ての部屋を見廻るわけではなく、限られた部屋だけを見廻り、その「廻り」のコース上には雁之間も含まれており、それゆえ雁之間詰の大名は「廻り」に訪れた老中一同の目に触れる機会に恵まれると言うわけで、雁之間詰の大名は…、ことに出世を望む大名なれば雁之間に老中一同が姿を見せるやそれこそ、
「我先に…」
老中一同を取り囲んでは、「自己アピール」に余念がなかった。
そしてこの場合の「自己アピール」とは勿論、
「私めを何卒、奏者番に取り立てて下さいっ!」
という陳情に他ならなかった。
そしてその中には大名ではない意知も含まれていたのだ。
意知はそもそも大名ではないのだから、雁之間詰の大名とそれこそ、
「肩を並べて…」
雁之間に詰める資格はないように思われるやも知れぬが、しかし、これには例外があった。
即ち、父が老中、或いは京都所司代、大坂城代として勤仕中であれば、その成人嫡子は雁之間に出られるのであった。
ちょうど、若年寄の成人嫡子が菊之間縁頬に出られるのと同じ理屈であり、意知の他にも老中首座である松平康福の息・左京亮康定や、それにヒラの老中の久世廣明の息・隠岐守廣譽、また西之丸老中の鳥居丹波守忠意の息・播磨守忠求、そして京都所司代の牧野越中守貞長の息・兵部少輔貞喜に大坂城代の戸田因幡守忠寛の息・能登守忠翰らが意知と同じ資格で雁之間に詰めていたのだ。
いや、いま一人、忠休の目の前にいる側用人たる水野忠友が息・中務少輔忠徳もまた、雁之間に詰めることが許されていた。
それは父・忠友が側用人のかたわら、老中としての顔も持ち合わせており、つまりは老中格ということでその息・忠徳もまた雁之間に詰めることが許されたのであった。
そうであれば意知ら嫡子であっても雁之間に詰められるという機会に恵まれた以上、「廻り」に訪れた老中一同に対しての自己アピール次第ではその老中一同の目に留まり、結果として奏者番に取り立てられる「チャンス」も十分にあり得るわけで、実際、意知は見事にその「チャンス」をものにしたというわけだ。
忠休も勿論、頭ではそう理解していても、しかし感情が追いつかなかった。
「例えそうだとしても…、他の奏者番は納得致しますまいて…」
忠休は声を絞り出すようにしてそう切り出すや、
「例えば…、阿部能登は…、能登守正敏の立場は如何相成りまするか?」
尚もそう言い募った。
「阿部能登は田沼山城めと同じ年に…、天明元(1781)年に…、それも8ヶ月も早い4月に任じられ、しかも四品で御座りまするぞ?」
達しかに忠休の言う通りであった。
田沼意知が奏者番に取り立てられたのが天明元(1781)年の12月15日であり、それに対して阿部正敏はと言うと、それよりも8ヶ月も早い4月21日であり、しかも同年…、天明元(1781)年の12月16日、即ち、意知が奏者番に取り立てられたその翌日には四品、つまりは、
「従四位下諸大夫」
それまでの従五位下諸大夫から大坂城代と同じ官位へと昇叙を果たしたのであった。
そうであればその阿部正敏を差し置いて意知が先に若年寄に取り立てられては正敏の立場がないではないかと、忠休はそれを指摘していたのだ。
「いや、阿部能登に限らず、松平伯耆守資承や土井大炊頭利和、青山大膳亮幸完らにしてもまた…」
忠休が今挙げた彼ら奏者番にしてもやはり皆、意知よりも早くに奏者番に任じられた者たちであった。
「それにそう…、水野左近将監忠鼎や稲葉丹後守正諶の立場もないではありませぬか…」
忠休は思い出したように、そして擦り寄るようにそう告げた。
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