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酒井忠休は忠崇の実の父として、それ以上に若年寄筆頭としての沽券にかけて、忠崇を詰衆並として菊之間縁頬へと「デビュー」を果たさせてやりたい。
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「父上なれば分からぬ筈がないではありませぬかっ!」
忠崇が尚も食い下がり、真後ろにて控えていた彌惣次が思わず、「若殿…」と口を挟んだ。
いや、確かに忠崇の言う通りではあった。
御側御用取次の横田準松とその子分の本郷泰行が息・忠崇の菊之間縁頬入りに反対したということは、それはとりもなおさず、
「老中の田沼主殿頭意次が反対しているから…」
それを示していた。
将軍・家治の側近である御側御用取次は今、二つの「グループ」に色分けすることが出来た。
即ち、親田沼派と反田沼派であった。
いや、反田沼派と言うと、表現が強過ぎるやも知れぬ。精々、
「親田沼派とは距離を置くグループ…」
そう表現した方が正確やも知れず、その「親田沼派とは距離を置くグループ」の頭目である御側御用取次こそが他ならぬ稲葉正明であった。
そしてその稲葉正明が忠休より陳情を受け、息・忠崇の菊之間縁頬入りを側用人と御側御用取次による閣議に諮った結果、「親田沼派」である横田準松と本郷泰行が反対したということは、
「田沼意次が陰で糸を引いている…」
それに相違なかった。
いや、もしかしたらそれは忠休の邪推という可能性もあり得た。
稲葉正明が親田沼派である横田準松や本郷泰行とは距離を置く御側御用取次であることはそれこそ、
「周知の事実…」
であった。無論、親田沼派である準松と泰行も承知しており、それゆえにその、準松や泰行にとってはライバルとも言うべき稲葉正明の提案だけに、
「条件反射的に…」
つまりはさしたる考えもなしに反対した可能性もあり得た。
だが…、と忠休は胸のうちで直ぐにその可能性をも否定した。いや、否定せざるを得なかった。
何しろ16年である。本来ならば遅くとも将軍・家治への御目見えを済ませ、今の「従五位下諸大夫・大學頭」に叙任された16年前には忠崇は若年寄たる忠休の嫡子として、即ち、詰衆並として菊之間縁頬へと「デビュー」していなければおかしかったのだ。
にもかかわらず、忠崇には一向に「デビュー」の声がかかることはなかった。
その間、忠休よりも遅くに若年寄に任じられた者たちの成人嫡子が次々に詰衆並として菊之間縁頬へと「デビュー」を果たしていると言うのに、である。
例えば、忠休に次ぐ古株の若年寄である加納遠江守久堅がそうであった。
久堅は忠崇が将軍・家治への御目見えを済ませた明和4(1767)年の10月に若年寄に任じられ、その時、久堅には既に久致という嫡男がおり、しかし未だ、将軍への御目見えを済ませてはおらず、つまりは成人嫡子ではなかったために、その時はまだ久致は菊之間縁頬へと「デビュー」を果たすことは出来なかったものの、それでもそれから3年後の明和7(1770)年の11月に将軍・家治への御目見えを済ませ、翌月12月に、
「従五位下諸大夫・河内守」
に叙任され、晴れて若年寄たる久堅の成人嫡子と認められるや、直ぐに詰衆並として菊之間縁頬へと「デビュー」を果たすことが出来たのであった。忠崇を尻目に、である。
尤も、久致はそれから2年後の安永元(1772)年の8月に父・久堅に先立って卒してしまった。
すると久堅は今度は大岡出雲守忠光の次男を養嗣子として迎え入れ、それが今の久堅の嫡男である、
「従五位下諸大夫・備中守久周」
であった。
但し、久周が久堅の養嗣子として迎え入れられた安永元(1772)年10月の時点ではまだ、久周は将軍・家治への御目見えを済ませてはおらず、つまりはやはり成人嫡子としては認められておらず、それゆえその時点では「デビュー」を果たすことは出来なかったものの、それからたったの二月後の12月1日には将軍・家治への御目見えが叶い、更にそれから3週間も経たない同月18日には今のその、
「従五位下諸大夫・備中守」
に叙任され、これまた直ぐに「デビュー」を果たすことが出来、そして今に至る。未だ、忠崇は「デビュー」できずにいるというに、である。
またその他にも、忠休に遅れて若年寄に任じられた米倉丹後守昌晴の嫡男の長門守昌賢や太田備後守資愛の嫡男の采女正資武、それに西之丸の若年寄である酒井飛騨守忠香の嫡男の相模守忠言といった面々が詰衆並として菊之間縁頬へと次々と「デビュー」を果たしたのであった。忠崇を尻目に、である。
それを思えば、忠崇だけが一向に「デビュー」を果たせないのは陰で大きな力が働いているとしか、即ち、
「田沼意次が陰で糸を引いている…」
忠休にはそうとしか考えられなかった。
「殿様、これでは余りにも若殿が…」
杢之進はそこで声を詰まらせたものの、後に続く言葉が、
「憐れである…」
そう示唆していることは忠休にもすぐに察せられ、それは彌惣次にしても同様であったらしく、その通りだと言わんばかりに頷いてみせた。
白井彌惣次にしろ鈴木杢之進にしろ共に、若殿である忠崇の附人であるがゆえに、ここまで忠崇に思いを寄せ、また忠崇の胸のうちに寄り添うていたのだ。
それゆえ彌惣次にしろ杢之進にしろ、何とかして主君とも言うべき忠崇に「デビュー」を果たさせてやりたいと思っており、そしてそれは忠崇の実の父親である忠休にしても思いは同じであった。
「いや、分かっておる。この辺で忠崇には菊之間に出て貰わぬことには…」
若年寄の、それも筆頭である勝手御用掛としての己の沽券にもかかわる…、忠休は心の中でそう呟いた。
忠崇が尚も食い下がり、真後ろにて控えていた彌惣次が思わず、「若殿…」と口を挟んだ。
いや、確かに忠崇の言う通りではあった。
御側御用取次の横田準松とその子分の本郷泰行が息・忠崇の菊之間縁頬入りに反対したということは、それはとりもなおさず、
「老中の田沼主殿頭意次が反対しているから…」
それを示していた。
将軍・家治の側近である御側御用取次は今、二つの「グループ」に色分けすることが出来た。
即ち、親田沼派と反田沼派であった。
いや、反田沼派と言うと、表現が強過ぎるやも知れぬ。精々、
「親田沼派とは距離を置くグループ…」
そう表現した方が正確やも知れず、その「親田沼派とは距離を置くグループ」の頭目である御側御用取次こそが他ならぬ稲葉正明であった。
そしてその稲葉正明が忠休より陳情を受け、息・忠崇の菊之間縁頬入りを側用人と御側御用取次による閣議に諮った結果、「親田沼派」である横田準松と本郷泰行が反対したということは、
「田沼意次が陰で糸を引いている…」
それに相違なかった。
いや、もしかしたらそれは忠休の邪推という可能性もあり得た。
稲葉正明が親田沼派である横田準松や本郷泰行とは距離を置く御側御用取次であることはそれこそ、
「周知の事実…」
であった。無論、親田沼派である準松と泰行も承知しており、それゆえにその、準松や泰行にとってはライバルとも言うべき稲葉正明の提案だけに、
「条件反射的に…」
つまりはさしたる考えもなしに反対した可能性もあり得た。
だが…、と忠休は胸のうちで直ぐにその可能性をも否定した。いや、否定せざるを得なかった。
何しろ16年である。本来ならば遅くとも将軍・家治への御目見えを済ませ、今の「従五位下諸大夫・大學頭」に叙任された16年前には忠崇は若年寄たる忠休の嫡子として、即ち、詰衆並として菊之間縁頬へと「デビュー」していなければおかしかったのだ。
にもかかわらず、忠崇には一向に「デビュー」の声がかかることはなかった。
その間、忠休よりも遅くに若年寄に任じられた者たちの成人嫡子が次々に詰衆並として菊之間縁頬へと「デビュー」を果たしていると言うのに、である。
例えば、忠休に次ぐ古株の若年寄である加納遠江守久堅がそうであった。
久堅は忠崇が将軍・家治への御目見えを済ませた明和4(1767)年の10月に若年寄に任じられ、その時、久堅には既に久致という嫡男がおり、しかし未だ、将軍への御目見えを済ませてはおらず、つまりは成人嫡子ではなかったために、その時はまだ久致は菊之間縁頬へと「デビュー」を果たすことは出来なかったものの、それでもそれから3年後の明和7(1770)年の11月に将軍・家治への御目見えを済ませ、翌月12月に、
「従五位下諸大夫・河内守」
に叙任され、晴れて若年寄たる久堅の成人嫡子と認められるや、直ぐに詰衆並として菊之間縁頬へと「デビュー」を果たすことが出来たのであった。忠崇を尻目に、である。
尤も、久致はそれから2年後の安永元(1772)年の8月に父・久堅に先立って卒してしまった。
すると久堅は今度は大岡出雲守忠光の次男を養嗣子として迎え入れ、それが今の久堅の嫡男である、
「従五位下諸大夫・備中守久周」
であった。
但し、久周が久堅の養嗣子として迎え入れられた安永元(1772)年10月の時点ではまだ、久周は将軍・家治への御目見えを済ませてはおらず、つまりはやはり成人嫡子としては認められておらず、それゆえその時点では「デビュー」を果たすことは出来なかったものの、それからたったの二月後の12月1日には将軍・家治への御目見えが叶い、更にそれから3週間も経たない同月18日には今のその、
「従五位下諸大夫・備中守」
に叙任され、これまた直ぐに「デビュー」を果たすことが出来、そして今に至る。未だ、忠崇は「デビュー」できずにいるというに、である。
またその他にも、忠休に遅れて若年寄に任じられた米倉丹後守昌晴の嫡男の長門守昌賢や太田備後守資愛の嫡男の采女正資武、それに西之丸の若年寄である酒井飛騨守忠香の嫡男の相模守忠言といった面々が詰衆並として菊之間縁頬へと次々と「デビュー」を果たしたのであった。忠崇を尻目に、である。
それを思えば、忠崇だけが一向に「デビュー」を果たせないのは陰で大きな力が働いているとしか、即ち、
「田沼意次が陰で糸を引いている…」
忠休にはそうとしか考えられなかった。
「殿様、これでは余りにも若殿が…」
杢之進はそこで声を詰まらせたものの、後に続く言葉が、
「憐れである…」
そう示唆していることは忠休にもすぐに察せられ、それは彌惣次にしても同様であったらしく、その通りだと言わんばかりに頷いてみせた。
白井彌惣次にしろ鈴木杢之進にしろ共に、若殿である忠崇の附人であるがゆえに、ここまで忠崇に思いを寄せ、また忠崇の胸のうちに寄り添うていたのだ。
それゆえ彌惣次にしろ杢之進にしろ、何とかして主君とも言うべき忠崇に「デビュー」を果たさせてやりたいと思っており、そしてそれは忠崇の実の父親である忠休にしても思いは同じであった。
「いや、分かっておる。この辺で忠崇には菊之間に出て貰わぬことには…」
若年寄の、それも筆頭である勝手御用掛としての己の沽券にもかかわる…、忠休は心の中でそう呟いた。
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