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調子に乗ってみた。

地図より広い、君の世界。

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〈獣医×地図マニア〉

 感想欄で地図マニアさんのリクエストをいただいて、調子に乗りました。本編モブのダーリン登場です。


   ⁂ ⁂ ⁂ ⁂ ⁂


 ぽっかり目を開けたら、目に飛び込んできたのは青い空。切り立った崖と鮮やかな緑。

 背中に感じる柔らかな下草は押しつぶされて青い匂いを漂わせている。

 落ちた。

 そして、一瞬気を失っていた。
 
 フィオレは崖の地層を見ようとして転がり落ちてしまったのだった。我ながら阿保だ。自分の足元を覗いたって見たいものが見えるはずもない。ぐるっと迂回して降りて来て、現在自分が寝転がってる場所から見上げたほうが全体が綺麗に見える。

 それにしても、美しい。

 幾層にも重なり合った、大地の年輪。寝転んだまま、うっとりと見上げていたら、顔の上にぬっと影が落ちた。

「生きてるか?」

「⋯⋯? 誰?」

「地図ばかり見ていないで、人の顔も覚えてくれ」

 デカいなぁ。短髪で髭面で丸い眼鏡⋯⋯見たことある気がする。

「騎士団の宿舎で隣の部屋なんだが」

「⋯⋯? 獣医の人?」

「正解。名前、知ってる?」

 フィオレは考えた。

 アルノルド⋯⋯違う、獣王姫だ。

 エンドレ⋯⋯は騎士団長か。

 レオンブライト⋯⋯さすがに恐れ多い間違いだ。

「⋯⋯ドゥランだ」

「ドゥラン⋯⋯」

 初めて聞いた? フィオレは記憶をさぐったが、さっぱり思い出せなかった。

「初めて聞いたみたいな顔をするな。三年前、お前が隣の部屋に引っ越してきたとき、挨拶したぞ。ちなみに俺の方が上官だ」

「へ?」

 呆れたように言われて、フィオレは姿勢を正そうともがいたが、体中が痛くて動けなかった。

「動けない⋯⋯なんで?」

「崖から落ちたからだろう」

「あ、そっか」

「触るぞ」

「え、ひゃあッ」

 脚を掴まれて関節の可動域を確認されたり、腕を持ち上げられたりして、フィオレはこの人が自分の診察をしているんだと気づいた。

「従軍獣医⋯⋯ですよね?」

「馬が専門だな。獣魔も診るが」

「人間は?」

「滅多に診ないな」

 不安になることを言われた。

「さて、折れたところは無いようだ。打身の確認もしたいが、屋外で服を剥くのもアレだろう」

「出来れば勘弁してください」

「しょうがないな」

 言うが早いか、背中と膝の下に腕を差し込まれて抱き上げられた。

「ひぃッ」

 全身の痛みに強張ると、近くなった顔が柔らかく笑った。

「よかったな。痛みがあるのは生きているからだ」

 野営訓練のテントまで運ばれる。途中で演習中の騎士とすれ違い、団長が気付いて寄ってきた。

「姿が見えないから探しに行かせたんだが、どこにいたんだ?」

「崖の下で半分目を回してましたよ。全身打撲ですね」

「おい、帰りはどうするんだ。馬に乗れるのか?」

 団長の声が呆れ果てている。ドゥランが苦笑するのを見て、フィオレは恥ずかしくなった。

「多分乗れません⋯⋯」

 それでなくとも、騎士としての能力は試験に辛うじて引っかかる程度だったのが、戦略地形製図士として引き上げられてからは、益々落ちこぼれている。なんなら、有事の際にフィオレを護る訓練までされる始末だ。

 それだけフィオレの能力が重要視されているわけだが、本人はただの地図好きのつもりだから始末に負えない。ひとりでふらっと地形を見に行って、ウサギの罠にかかってベソをかいていたりする。

「ドゥラン、お前さんの実家このへんだったか?」

「ええ、両親は他界しましたから、家しか残ってませんけど」

「有給で休暇やるから、一週間そいつの面倒見てから戻ってきてくんねぇか?」

「それもう、休暇じゃなくて仕事じゃないですか。患畜が患者になるだけですよ」

 馬と人はだいぶ違う。

過ごせばいいじゃねぇか」

「⋯⋯なにをおっしゃいますか」

「さてね」

 ヴァーリ団長はニヤリと笑った。

 そうしてフィオレはわけのわからないまま、従軍獣医の実家とやらに連れ込まれた。

 ドゥランはフィオレを居間のソファーに寝かせると、家中の窓を開けて開けて空気の入れ替えをし、毛布を陽に干して、家の管理を頼んでいた近所の幼なじみに食料の調達を頼んだ。

 あまりの手際の良さに、フィオレは目を白黒させた。

「すごいですね、ドゥランさま」

「お前さんがなにも出来ないだけだ。それより俺の名前、覚えたな。エライぞ」

 頭をわしゃわしゃされて、完全に子供扱いされてしまった。

 玄関の扉がどんどんと叩かれて、外から賑やかな声が聞こえた。

「おーい、ドゥラぁン! 可愛こちゃん連れ込んだって聞いたぞ~ッ! 食糧持ってきたから開けろ~ッ!」

「煩いッ!」

 ドゥランも大きな声を出したので、フィオレは驚いてビクッと体を揺らした。途端に全身に痛みが走って、喉の奥でひぃっと悲鳴を上げた。

「悪い、驚かせたな。アイツは出るまで煩いから、ちょっと行ってくるな」

 そう言って外した彼は、すぐにひとりの男を伴って戻ってきた。

「うーわぁ、本当に可愛こちゃんだぁ。なんで寝っ転がってんの?」

「⋯⋯怪我人だ、静かにしろ。崖から落ちたんだ」

「そっかぁ。じゃあ、痛み止めとかいる? 昨日調合したばっかりだよ」

 随分賑やかな人だ。フィオレは黙って地図を見ていれば幸せなので、こんなに大きな声で話すことはない。騎士団に入ったばかりのころは、訓練のたびに「声を出せ」と怒鳴られたものだ。

「こいつはビアン。薬師なんだ。性格はこんなだが腕はいい」

「褒められてる気がしなぁい!」

「熱が出るかもしれないから、熱冷ましもたのむ」

「あ、俺のは鎮痛解熱。しんどいときにたくさん飲むの辛いっしょ」

「本当に薬に関してだけは気が利くな」

「だから、褒めてない~!」

 ドゥランとビアンは本当に仲の良い幼なじみのようだ。フィオレはおかしくなって笑いが漏れた。すぐに身体が悲鳴を上げて、笑いは呻き声に変わったけれど。

 夜になってドゥランの予想通り熱が出た。身体はますます痛くなって、ドゥランが付きっきりで汗を拭いたり水を飲ませてくれたりした。

「ごめんなさい⋯⋯」

 人間としていろんなものが欠けている自覚のあるフィオレは、情けなくなって謝った。

「馬より、軽い。たいした労力でもないから、気に病むな」

「うん、ありがとう」

「ただし、生活の方はちょっと考えろよ。お前、平時に怪我で死ぬぞ」

「⋯⋯誰か見張っててくれないと、無理かも」

 熱でぼぅっとしながら考えたフィオレは、とてもいいことを思いついた。

「ドゥランさまが見張ってて」

「⋯⋯くっそ、トロンとした目ぇして凶悪なこと抜かしやがって⋯⋯⋯⋯」

「なぁに、ドゥランさま?」

「お前、戦略地形製図士じゃなかったら、とっくに喰われてるぞ! 図書館で手の届かない棚の地図を取ってもらったらくらいで、顔を真っ赤にしてウルウル見上げてきやがって。地図しか見てねぇのはわかっているが、何人の男が便所に直行したのかわかってるのか⁈」

 城の開放図書館に収められた古い地図は、フィオレが入り浸るようになるまで誰も手に取ろうとしなかった。そのため、長い年月をかけて人の手が届きにくいところに移動され、殆どが最上段で埃をかぶっていた。

 騎士としては小柄なフィオレが、踏み台によじ登って一生懸命手を伸ばす姿は、図書館ではよく見られる姿だ。ドゥランは医学書を求めて図書館に入り浸っていたので、彼が入団した頃からそれを見ていた。

「訓練で薄汚れて、戦闘に向いてないガリガリの体で手を伸ばしてるときは、誰も見向きもしなかったがな!」

 それがどうだ。獣王姫に才能を見出され、上位騎士の仲間入りをして身綺麗になった途端、誰も彼も、用もない図書館に入り浸ってフィオレの手助けをするようになった。

 モサモサの前髪を整えたら、クルンと可愛い瞳が現れた。その瞳は古地図しか見ていないから、地図を取ってやった男がどんな飢えた瞳で自分を見ていたのか知らないだろう。

「官舎の自室まで押し掛けてきやがって、俺がどんだけ追い払ったことか⋯⋯」

 ヴァーリ団長がからかって来る位には、必死で追い払った。それでも本人は全く気づく気配がないばかりか、ドゥランの名前も覚えていなかった。

「⋯⋯本屋や図書館に行くと、お腹がゆるくなる人っているんだよねぇ」

 フィオレはぽやんと明後日のことを言った。

「もういい、今夜は寝ろ」

 ドゥランの両親がふたりで使っていたベッドは広い。フィオレがどんなに寝相が悪くても、落ちることはないだろう。

「ん⋯⋯」

 フィオレは返事をしたが、半分寝ぼけて鼻から甘い声が漏れただけだった。それもすぐに寝息にかわった。

「くそッ」

 成人男性にはとても見えないフィオレの寝顔を見つめて、ドゥランは悪態をついたのだった。

 翌朝、フィオレは随分早く目が覚めた。眠ったのが早かったので、睡眠時間は充分にとれているはずなのに、まだ眠い。トイレに行きたくて起き上がろうとして、昨日より痛みが酷くなっていて、眉を顰めた。

 玄関がドンドン叩かれて、外から大声でドゥランを呼ぶ声が聞こえた。この集落の住人は、みんな玄関で大騒ぎをするのだろうか。フィオレはなんだかおかしくなった。

 よろよろとトイレから帰って来ると、ベッドに倒れ込む。衝撃に全身が悲鳴を上げた。そのタイミングでドゥランがやって来て、上半身だけベッドにうつ伏せて悶えているフィオレを助け起こして、きちんと寝かせてくれた。

「悪い。獣医の仕事だ。昨夜から産気づいている雌牛がマズいらしい。一晩経っても産まれなくて、命が危ない」

 運良く仕事で家を離れているドゥランが帰省している。その噂を聞きつけて、呼びに来たのだと言う。

「ん⋯⋯頑張って。いってらっしゃい」

 ドゥランは見送りの言葉を聞いて、一瞬動きを止めた。

「⋯⋯ビアンに声をかけてくる。何か食べてもう一度、薬を飲んでおけ。まだ体が熱い。じゃ⋯⋯いってくる」

 もう返事はなかった。トイレまで歩いて少し話しをしただけで体力を使い切ったのか、熱に浮かされてトロトロと溶けた瞳がゆっくりと閉じられるのが見えた。

 ドゥランは後ろ髪を引かれる思いで自宅を出る。フィオレ人間は薬師のビアンに任せられるが、患畜の出産は自分でなければどうしようも無い。

 自分が叩き起こされたのと同じように、ドゥランはビアンを叩き起こした。玄関扉を近所迷惑も顧みず、ガンガン叩く。程なくして寝ぼけ眼で現れた幼なじみにフィオレの面倒を見てくれるように頼んだ。

 牛舎にたどり着くと、出産の真っ最中の雌牛は、かなり危険な状態だった。上着を脱ぎ捨てて肩までシャツをまくって酒で腕を洗う。胎に手を突っ込んで探ると、思った通り、逆子だった。

「急がないと命が危ない。引っ張り出すから、首を押さえておいて」

 飼い主一家の主人と息子は、すぐに二人がかりで言う通りにした。

 それからはあっという間の出来事だった。両腕を突っ込んで、掛け声と共に全身に力を入れて引っ張ると、抵抗しながらも二本の後ろ脚が現れた。やはり逆子だ。滑る手に舌打ちしながらもう一度引っ張ると腹まで出てきて、そこから母牛がうまく力を入れたのか、ずるんと子牛が落ちてきた。

 ドゥランは子牛の下敷きになって、全身血液やらなにやらでドロドロになった。産まれてしまえば、あとは畜産の本職に任せられる。

 何度も礼を言われて朝食に誘われたが、この有り様では他所さまの家に上がり込むのは憚られる。井戸だけ借りて服を着たまま水を被り、全身濡れ鼠で帰宅するのだった。

「お前、馬鹿なの? そんなに急いで帰ってこなくたって、可愛こちゃんは別に死んだりしないよ。さっさと風呂に入りなね。ビチャビチャにした床は、風呂から出たら、自分で拭きなよ」

 ビアンに風呂場に叩き込まれて、全身を隈なく洗う。出産は如何なる生き物でも神聖なものだが、さすがに血液やら体液の生臭さはいつまでも身に纏っていていいものじゃない。

 風呂から出たドゥランがビアンに言われた通りに床を拭いていると、フィオレがフラフラと階段を降りて来た。

「フィオレくん、ダメだよ~。危ないって!」

「ん~、だってドゥランさまが帰って来たんでしょ。お出迎えしなきゃあ」

「君は発熱と薬でボーッとしてんの! 体の痛みだって、薬で落ち着いてるだけだから、大人しく寝てなよ!」

 ビアンがアタフタと階段を先回りして、自分が下段に立っている。万が一の時には支えるつもりらしいが、いかんせん、彼は非力な薬師だ。多分、支えきれない。

 案の定⋯⋯。

「ふわぁっ」

「ぎゃあっ!」

 足を滑らせたフィオレと共に、階段から滑り落ちた。

「ビアン、世話をかける」

「⋯⋯助かった⋯⋯⋯⋯」

 フィオレが入団してから今まで、見守って来たのは伊達じゃない。地図を見ながら歩いて踏み外すのはいつものことだ。

 気性の荒い軍馬を押さえ付ける腕力で、ふたりの人間を受け止めるのは難しいことではなかった。

「ほえ⋯⋯びっくりした」

 青い顔をするビアンとは対照的に、フィオレはのほんとしている。

「ほれ、ベッドに行くぞ」

 ドゥランはフィオレを抱き上げた。

「まだ、おかえりなさいって言ってない。世話になってるのに、家主に挨拶もしないなんて、兄に叱られる」

 一応、貴族の出だったか。そこら辺は教育されているらしい。

「はいはい、ただいま。今、挨拶したな。⋯⋯気が済んだら眠れ」

「んうー」

 階段から落ちたことなんて気にも留めず、とろとろと微睡む。こんなに薬で朦朧としているのに、よくベッドから起き出したものだ。

 軽い体をベッドに寝かしつけて寝顔を見つめると、ドゥランは何度目かのため息をついた。

 天才というのはなにかに秀でた代わりに、なにかを欠落させている。ドゥランはそう思っている。夢中な何かしかのことを四六時中考えていて、他が付け入る隙がない。

 けれども。

 そこに入り込めたなら、自分のことを四六時中考えてくれるのではないか。

「ドゥランの気持ちは見え見えだけどさぁ、先は長そうじゃない?」
 
 寝室の扉にもたれかかって、ビアンが肩を竦めた。

「別に隠してないけどな、三年前に隣に越してきて、昨日認識されたばかりさ」

「うわぁ、どんだけボンヤリさんなんだ。こんなに可愛い顔してんのに、ぼーっとしているうちに食い散らかされそうじゃないか」

「察しろ」

「なるほど」

 ビアンは気の毒そうにしている。

「認識はされたんだ。これから本気出していくぞ」

 幸いこの家には地図がない。フィオレを夢の国に誘うものは何もないのだ。

 フィオレはその日一日、薬を飲んで微睡んで、翌日から体を動かし始めた。じっとしすぎても筋肉が衰える。ドゥランは甲斐甲斐しく世話をして、たびたび様子を見に来るビアンにからかわれた。

「ドゥランさまは、俺を馬だと思ってるんだろうか?」

「なんでまた、そんなこと考えるん?」

「一生懸命、俺の面倒を見てくれるから」

 騎士団の軍馬の健康を守るのがドゥランの仕事であるし、ヴァーリ団長が自分を託したときだって、仕事と変わらないと言ってたし⋯⋯とフィオレが切ない表情カオしたので、ビアンはとても驚いた。

「古地図も古文書も見ないでいると、時間がたくさんあるんだ。いつもは時間が足りなくて、眠るのが悔しいのに」

「そのたくさんある時間で、ドゥランのことを考えてたんだ?」

 ビアンが問うとフィオレはこっくり頷いた。

「ドゥランさまは俺より上官らしいし、患畜でもなければ俺の世話なんてしないでしょ? 従軍獣医なんだし」

 演習には軍医もいたはずだ。顔も名前も覚えていないけど、前回の演習中、ウサギの罠に掛かって捻挫した足を治療してもらった記憶がある。それなのに、わざわざドゥランが面倒を見てくれる意味がわからない。フィオレは考えても考えても、出てこない答えに首を傾げた。

 そして数日、なんとか自力で歩けるようになったフィオレは、療養を終えて騎士団に戻ることにした。決めたのはドゥランだ。

 朝、旅装を整えて、借りていた部屋を綺麗にして部屋を出ると、階段の下に見知らぬ男が立っていた。フィオレはドゥランの客かと思ったが、彼も旅装だ。

 背が高く、肩幅も広い。垂れ目がちな色っぽい目元の美丈夫だった。

 彼は手にした何かをハンカチで拭いているようだ。

「やっほーぃ、見送りに来たよ~!」

 フィオレが階段を下りるのを躊躇っていると、玄関が賑やかに開かれて、ビアンが顔を覗かせた。彼はホールに立つ美丈夫をマジマジと見て、呟いた。

「すっげ、久しぶり」

 知り合いなのだろうか。ドゥランとビアンは幼なじみなので、共通の知人かもしれない。

「その顔見るの、何年ぶりだ? 髭、どこに落としたの?」

「言っただろう、本気を出すって。使えるものはなんでも使うさ」

 美丈夫が顔を上げて階段の上のフィオレに視線をやった。ハンカチの中から眼鏡を取り出してかける。

「⋯⋯ドゥランさま⁈」

「正解」

 色っぽく微笑まれて、フィオレは真っ赤になった。

「俺、こんな色っぽい人に世話されてたの⋯⋯」

 ドゥランは笑って腰を抜かしたフィオレを抱き上げて、颯爽と馬に相乗りした。フィオレは王都までの二日間、馬上から見える地形に一切の注意を向けなかった。

 それどころじゃなかったのだ。

 結局、王都について騎士団長に挨拶を済ませ、自室に戻るまでエスコートされた。すれ違う騎士が全員ドゥランを二度見するので、自分だけがドキドキしているわけじゃないと安心する。

 けれど、官舎の部屋は隣同士である。自室の扉の前まで送られて鍵を開けると、ドゥランが名残惜しそうに手を取ってきた。

「これから、押すよ。覚悟して」

 手のひらにそっと唇を落として、ドゥランは去っていった。

 手のひらへの口づけは懇願。こんなのでも貴族の三男坊である。意味は間違うはずがない。

 部屋の壁いっぱいの本棚を埋める地図帳も、意識の片隅にもない。フィオレの頭の中は手のひらに口付けていった男でいっぱいだった。

〈おしまい〉


   ⁂ ⁂ ⁂ ⁂ ⁂


 リクエストいただいてから、ちまちま進めておりました。需要があれば続く⋯⋯かも? 
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