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気になる人々のその後のはなし。
火の鳥の娘。
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南の空は青い。
火の山を背に、しっとりと蒸気が空気を湿らせる。帝国の宗主国からは南に位置するこの土地も、シェランディア王国に於いては北方と呼ばれていた。
シェランディアはいつまで『国』として保たれるのかわからないが、そこに住う人々は上つ方(偉い人)が誰になろうと、自分の生活をするだけだ。
保養地と称される国境沿いの街ユーニェルはいわゆる温泉街で、特別目立った産業はなく、収入源は主に湯治客を相手にした観光だった。
エルメル・ダビはそこで、ひとりの少女に会っていた。
「やっと見つけましたわ、ダビ卿」
手足を金銀の輪で飾った、シェランディア貴族の装いをした少女は、エルメルにとっては顔を少しだけ知っている、顔見知り程度の間柄だった。
「貴族の姫が、親御のもとを離れてどうしたことです。感心致しませんね」
エルメルは社交用の微笑みを浮かべた。少女はそれに満面の笑顔で返す。
「王国の根底が揺らいでいる今、貴族の称号がなんの意味がありましょう。出奔して参りましたわ」
「シシェナ嬢、なんの冗談ですか?」
「あら、わたくしの名を覚えていてくださいましたのね」
シシェナは闊達に笑った。口元を羽根扇で隠すこともなく、朗らかで伸び伸びした仕草であったが、貴族の娘としては行儀が悪い。礼儀としてそれを指摘するべきか、エルメルは一瞬考えてしまったが結局なにも言わなかった。
「お礼を申し上げに参りましたのよ」
少女は晴れ晴れと言った。
「礼?」
エルメルには覚えがない。そもそも社交の場で何度か挨拶をした程度の相手だ。まともに会話をしたのは、これが初めてだ。
「ダビ卿のおかげで、後宮に納まらずにすみましたわ。わたくしのために拵えた離宮には華姫をお納めするから、輿入れは延期すると通達がありましたのよ」
少女は十四~五歳に見えた。七十歳を超えた老人に見初められて、さぞかし絶望したことだろう。そこへ降って湧いた宗主国の華姫である。その騒動の発端となったエルメルに、礼のひとつも言いたくなるのはわからないでもない。
しかし貴族の姫が政治的な話しを知っているのもおかしな話だ。華姫の輿入れにエルメルが関わっているのは、ごく一部の上級貴族しか知らない。シェランディアは男尊女卑の国で、女性の耳には政の話しは届かないのが常識だ。その上、シシェナはとても若い。
「あの幼女趣味好色爺、わたくしが嫌なら妹を納めろと申しましたのよ。妹ははしゃいで『ステキ、王さまのお嫁さんって神さまの娘さまのことね!』などと言い出すものですから、母が卒倒するやら大変でした」
「妹御はいくつだ?」
「先月六歳になりましたわ」
王さまのお嫁さんが御伽噺のお姫さまなら、憧れても仕方がない。きっと妹の想像の中の王さまは、若くて美しく逞しい若者だろう。幼児向けのシェランディア建国の物語の初代王は、だいたいそんな姿で表現されている。
「婚姻の意味もわからぬ幼い妹を、後宮に納めるわけには参りませんもの。誰も出さねば父の首を跳ねると申されては、諦めてわたくしが参る他ありませんでしたわ」
「それは⋯⋯難儀なことであったな」
廃王が若かったころに後宮に召された女なら、女としての権力の頂点に立つ野望を持った者もいただろう。しかし新床で心の臓を麻痺させそうな老王が相手ではそれもない。栄華を極める前に未亡人になるのが関の山だ。
「ですからわたくし、とても感謝しておりますのよ」
それは感謝されても仕方がない気がする。エルメルの身勝手な復讐で迷惑を被った人々は大勢いるが、彼女に限っては救われたのだろう。
「では、わたしに会って目的は果たされた。家に戻られるがよかろう」
「いいえ、帰りません」
シシェナは言い切った。
「宗主国の公爵さまがおいでになって、シェランディアは変わりますわ。わたくし、女ももっと外に出るべきだと思うんです。幸いわたくし、高位貴族の娘ですもの。先陣を切るにはうってつけだと思われませんか?」
女は男の庇護下でこそ力を振るえるのであって、本人にはなんの権力もないと言うのが一般的だ。市井の娘がいきなり自立するとなれば、世間からの風評は酷いものになるだろう。男を蔑ろにする不届き者として、迫害と暴力の対象になることも想像に難くない。
しかしシシェナには身分がある。
シシェナの生家より身分の低い者は、心のうちで何かを思っていても、表立ってはなにも言えない。
「さしあたってこの保養地のヴィラで、虐げられた女性の救済保護施設でも始めようと思っていますのよ」
晴れやかに言った少女はあどけない面貌に似合わぬ、決意をもった眼差しをしていた。
エルメルは自分が恥ずかしくなった。
彼の母は廃王の父である前王によって、無理矢理後宮に納められた。形式上はダビ家の夫人であったから愛妾の位すら与えられず、豪華な檻のような部屋に軟禁されていたという。シシェナはそう言う女性を救う施設を作ろうとしているのだ。
シェランディアの女性には成人の概念がない。男の所有物であり、一個人の人間として扱われることがないからだ。その中に育ったシシェナは、どういう経緯で持って、その考えに至ったのだろう。
表向きは公爵家の三男で、王の胤であることは公然の秘密であったエルメルは、成そうと思えばなんでも出来たはずだ。叔父が王を諫めている間に、哀れな女性を保護することだってできた。
それをせずに、復讐することばかり考えた、愚かな自分。
「シシェナ嬢は眩いな」
「ダビ卿のような美しい方におっしゃられても、なんだか複雑な気持ちになりますわ」
「希望に満ち溢れて輝いて、日輪の煌めきを纏っていられる」
シェランディアの夏の日差しのようだ。
「恥ずかしゅうございます」
シシェナがようやく、羽根翁で口元を隠した。眦がうっすらと赤い。
「女性のための施設と言ったが、あなた自身もか弱い女性だ。危険はないのだろうか」
綺麗な手をしている。剣など持ったこともないだろう。女を取り戻しに来た男に、力で叶うわけもない。
「ご心配なさらないでください。出奔したとは言え、表向きのこと。実際は父の援助もありますし、護衛も雇っておりますのよ。ただ、父が大っぴらに女性を保護などしたら、妻を奪われた男に命を獲る権利を与えてしまいますわ」
保護したつもりが掠奪と謗られる可能性がある。シェランディアの現状では、女性が自分の意思で逃げ出しても認められない。良人が自分のものと主張したら、それは掠奪なのだ。
「出奔したわたくしが、寂しくてヴィラにお友達を招いてもおかしくはありませんでしょう?」
本当に、どこでそんな知恵と勇気を身につけたのだろう。エルメルは目を細めた。
エルメルがシシェナと話してから二ヶ月が過ぎた。エルメルは相変わらずユーニェルに滞在していた。彼は明確な罪を犯していないので、指名手配されているわけでもない。王都の叔父と連絡を取りつつ、自分にできることを模索していた。
叔父のサリエルは王都にやって来た、宗主国のアレ公爵の下で、領土内の建て直しを行なっている。その進展如何によって、シェランディアの国あり方が変わってくる。シュザネット王国に取り込まれてシェランディア地方となるか、属国のまま新たな王を立てるのか。立てるにしても道はいく通りもある。今の王家の血筋、新たな王家を興す、シュザネットから王族を迎える、と考えればキリがない。
エルメルは叔父が、政治の腐敗を憂いているのを知っていた。だから復讐ついでに奸臣どもを炙り出してやろうと宗主国を引き摺り出した。
奸臣どもはアレ公爵が綺麗に排除したらしい。その後の建て直しを共にと、叔父からは便りがたびたび来る。自分の居場所を作ろうとしてくれている、血の繋がらない叔父に頭が下がる。
しかし、排除すべき前王の血筋のエルメルは、国の中枢にいるべきではないと思っている。
ユーニェルの街は今日も賑わっている。エルメルは夕方の温泉街をのんびりと歩いていた。
シュザネットからの旅行者も多く、土産物屋が盛んに声を上げて客引きをしている。湯治を目的にした旅行者は長期滞在している者が多いため、荷物は旅籠に預けて身軽だ。一見現地人のように馴染んだ者もいて、観察していると面白い。
ふと見ると、立ち並んだ土産物屋の建物の隙間に、小柄な人影が見えた。薄汚れた外套を頭から被り、明らかに人目を避けて居る。外套の裾から見える緋色の衣装は、貴族の女が身につけるものに見えた。
エルメルはなにかに突き動かされるように、その女性を追いかけて声をかけた。
「そなた、そんな体でどこへ行く」
女性はギクリと体を強張らせた。真っ青な顔でエルメルを見る目は、絶望に彩られている。そんな体ーー明らかに身重の女性は、恐れるように体を縮こまらせた。
「夫君は共にいないのか?」
「あ⋯⋯あ⋯⋯」
ブルブルと震えて、青い顔を益々青くして、今にも倒れてしまいそうだった。
「シシェナ嬢のご友人か?」
まさかと思いながら尋ねる。もし女性が良人の元から逃げて来たのであれば、シシェナの家名を出すのは憚られる。
「シシェナさまをご存知なのですか?」
「ええ、シシェナ嬢のヴィラに滞在の予定は?」
「はい⋯⋯はい⋯⋯っ」
女性は涙を流した。相変わらず顔色は悪いが、表情が緩んで安堵の息を漏らす。
間違いなく、シシェナを頼って逃げて来た女性だから。エルメルは影のように控えていた従者を先触れに出すと、女性をエスコートしてシシェナのヴィラに向かった。
以前あったときにヴィラの場所は聞いていた。使用人はいても女性のひとり住まいのヴィラにエルメルが訪ねたことはなかったが、この辺りでは大きな建物はすぐにわかった。
門番に取り次ぎを頼むとすぐに通されて、先触れに出した従者も休憩室でもてなされていた。従者は主人より先に休んでいたことを恐縮していたが、おそらくシシェナに押し切られたのだろうと思った。
シシェナはシュザネット風のディドレスで現れて、挨拶もそこそこに身重の女性を休ませる手筈を整えた。
「きちんとしたご挨拶が遅れましたわ。申し訳ございません。先ほどの女性、約束の時間になってもおいでにならないので、心配していたんですの。保護していただいて感謝いたします」
すべきことを全て終えて、ようやくエルメルの前に腰を落ち着けた彼女は丁寧に頭を下げた。教育の行き届いた丁寧な挨拶だった。
「偶然である」
「それでも、身重の彼女には神の御使いにも等しかったことでしょう」
神の御使いと言うのなら、シシェナこそがそうではないのか。エルメルは穏やかに微笑む少女に、神の娘を見た。
廃王はシュザネットからやって来た華姫の装いに、神の娘の姿を見たと言う。エルメルが彼の国の王宮で会ったときも、神の知恵を語る得難い存在であった。しかし華姫は、どこか春を思わせるおっとりと暖かい仕草で、今目の前にいるシシェナはまるで違った。
シシェナは暑い夏の陽射しを纏った、炎のような娘だ。
「彼女はやはり、良人から逃げて来たのですか?」
「ええ、残念ながら。長く暴力に耐えて来たそうですが、このままでは赤子が死んでしまうと、逃げることを決意したそうですの」
子が腹にいなければ、逃げることも思いつかなかったのか。シェランディアの女性はとても抑圧されている。
エルメルは母を思った。
母は美しかった。いつも悲しげに微笑んでいて良人には遠慮がちな態度を崩さなかった。良人であるダビ公爵は深く母を愛していたし、母も公爵を愛していた。
母は公爵を愛するがゆえ、二度裏切ることができなかった。最初の裏切りだとて、彼女の意思ではなかったというのに。
そうしてみずから生命を絶った母に、シシェナのような強さがあったなら、エルメルは違う選択をしていたのだろうか。
「⋯⋯わたしも、シシェナ嬢の活動の手助けが出来ないだろうか?」
叔父が自分を王都に呼び戻そうとしている。シュザネットのアレ公爵に、シェランディアの女性たちの現状を訴えることができるだろうか。
女性を所有物と思う男からは反発されるだろうし、自由を知らない女性を今すぐに外に放り出すわけにはいかない。しかし心の拠り所になる場所は作れるだろう。
シシェナ嬢がこのヴィラで行っているような、保護施設をシェランディアの各地に作れないだろうか。そこにいる限りは誰も手出しができないよう、法を整えられれば、のぞまぬ婚姻の果てに生命を失う女性が減るのではないだろうか。
エルメルは思いつくままに取り留めなく語った。シシェナはそれに相槌を打ちながら、静かに聞いていた。
「そうですわね、『シェルター』が各地に有れば、生命の危険は減りますわ」
「しぇるたー?」
「ええと、『駆け込み寺』? 『寺』がわかんないか⋯⋯緊急避難場所ですわね」
「異世界の花華蝶々と、同じようなことを言う。そなたはやはり、神の娘か?」
シシェナがぺろっと舌を出した。貴族の令嬢らしくない、砕けた仕草であった。
「⋯⋯頭の中に、華姫の産まれた国の記憶があるって申し上げたら、信じてくださいます?」
神の娘だ!
シシェナの言う女性の救済を自分の手で成し遂げたなら、本当の意味で母の仇が討てるのだろうか。エルメルは、込み上げる涙を飲み込んだ。
炎を纏った神鳥が人の姿をとったなら、シシェナのような姿なのかもしれない。
夏の陽射しのような少女に、エルメルは「もちろんだ」と返事をして、社交用ではない笑みを久方ぶりに浮かべたのだった。
火の山を背に、しっとりと蒸気が空気を湿らせる。帝国の宗主国からは南に位置するこの土地も、シェランディア王国に於いては北方と呼ばれていた。
シェランディアはいつまで『国』として保たれるのかわからないが、そこに住う人々は上つ方(偉い人)が誰になろうと、自分の生活をするだけだ。
保養地と称される国境沿いの街ユーニェルはいわゆる温泉街で、特別目立った産業はなく、収入源は主に湯治客を相手にした観光だった。
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エルメルは社交用の微笑みを浮かべた。少女はそれに満面の笑顔で返す。
「王国の根底が揺らいでいる今、貴族の称号がなんの意味がありましょう。出奔して参りましたわ」
「シシェナ嬢、なんの冗談ですか?」
「あら、わたくしの名を覚えていてくださいましたのね」
シシェナは闊達に笑った。口元を羽根扇で隠すこともなく、朗らかで伸び伸びした仕草であったが、貴族の娘としては行儀が悪い。礼儀としてそれを指摘するべきか、エルメルは一瞬考えてしまったが結局なにも言わなかった。
「お礼を申し上げに参りましたのよ」
少女は晴れ晴れと言った。
「礼?」
エルメルには覚えがない。そもそも社交の場で何度か挨拶をした程度の相手だ。まともに会話をしたのは、これが初めてだ。
「ダビ卿のおかげで、後宮に納まらずにすみましたわ。わたくしのために拵えた離宮には華姫をお納めするから、輿入れは延期すると通達がありましたのよ」
少女は十四~五歳に見えた。七十歳を超えた老人に見初められて、さぞかし絶望したことだろう。そこへ降って湧いた宗主国の華姫である。その騒動の発端となったエルメルに、礼のひとつも言いたくなるのはわからないでもない。
しかし貴族の姫が政治的な話しを知っているのもおかしな話だ。華姫の輿入れにエルメルが関わっているのは、ごく一部の上級貴族しか知らない。シェランディアは男尊女卑の国で、女性の耳には政の話しは届かないのが常識だ。その上、シシェナはとても若い。
「あの幼女趣味好色爺、わたくしが嫌なら妹を納めろと申しましたのよ。妹ははしゃいで『ステキ、王さまのお嫁さんって神さまの娘さまのことね!』などと言い出すものですから、母が卒倒するやら大変でした」
「妹御はいくつだ?」
「先月六歳になりましたわ」
王さまのお嫁さんが御伽噺のお姫さまなら、憧れても仕方がない。きっと妹の想像の中の王さまは、若くて美しく逞しい若者だろう。幼児向けのシェランディア建国の物語の初代王は、だいたいそんな姿で表現されている。
「婚姻の意味もわからぬ幼い妹を、後宮に納めるわけには参りませんもの。誰も出さねば父の首を跳ねると申されては、諦めてわたくしが参る他ありませんでしたわ」
「それは⋯⋯難儀なことであったな」
廃王が若かったころに後宮に召された女なら、女としての権力の頂点に立つ野望を持った者もいただろう。しかし新床で心の臓を麻痺させそうな老王が相手ではそれもない。栄華を極める前に未亡人になるのが関の山だ。
「ですからわたくし、とても感謝しておりますのよ」
それは感謝されても仕方がない気がする。エルメルの身勝手な復讐で迷惑を被った人々は大勢いるが、彼女に限っては救われたのだろう。
「では、わたしに会って目的は果たされた。家に戻られるがよかろう」
「いいえ、帰りません」
シシェナは言い切った。
「宗主国の公爵さまがおいでになって、シェランディアは変わりますわ。わたくし、女ももっと外に出るべきだと思うんです。幸いわたくし、高位貴族の娘ですもの。先陣を切るにはうってつけだと思われませんか?」
女は男の庇護下でこそ力を振るえるのであって、本人にはなんの権力もないと言うのが一般的だ。市井の娘がいきなり自立するとなれば、世間からの風評は酷いものになるだろう。男を蔑ろにする不届き者として、迫害と暴力の対象になることも想像に難くない。
しかしシシェナには身分がある。
シシェナの生家より身分の低い者は、心のうちで何かを思っていても、表立ってはなにも言えない。
「さしあたってこの保養地のヴィラで、虐げられた女性の救済保護施設でも始めようと思っていますのよ」
晴れやかに言った少女はあどけない面貌に似合わぬ、決意をもった眼差しをしていた。
エルメルは自分が恥ずかしくなった。
彼の母は廃王の父である前王によって、無理矢理後宮に納められた。形式上はダビ家の夫人であったから愛妾の位すら与えられず、豪華な檻のような部屋に軟禁されていたという。シシェナはそう言う女性を救う施設を作ろうとしているのだ。
シェランディアの女性には成人の概念がない。男の所有物であり、一個人の人間として扱われることがないからだ。その中に育ったシシェナは、どういう経緯で持って、その考えに至ったのだろう。
表向きは公爵家の三男で、王の胤であることは公然の秘密であったエルメルは、成そうと思えばなんでも出来たはずだ。叔父が王を諫めている間に、哀れな女性を保護することだってできた。
それをせずに、復讐することばかり考えた、愚かな自分。
「シシェナ嬢は眩いな」
「ダビ卿のような美しい方におっしゃられても、なんだか複雑な気持ちになりますわ」
「希望に満ち溢れて輝いて、日輪の煌めきを纏っていられる」
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シシェナがようやく、羽根翁で口元を隠した。眦がうっすらと赤い。
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「出奔したわたくしが、寂しくてヴィラにお友達を招いてもおかしくはありませんでしょう?」
本当に、どこでそんな知恵と勇気を身につけたのだろう。エルメルは目を細めた。
エルメルがシシェナと話してから二ヶ月が過ぎた。エルメルは相変わらずユーニェルに滞在していた。彼は明確な罪を犯していないので、指名手配されているわけでもない。王都の叔父と連絡を取りつつ、自分にできることを模索していた。
叔父のサリエルは王都にやって来た、宗主国のアレ公爵の下で、領土内の建て直しを行なっている。その進展如何によって、シェランディアの国あり方が変わってくる。シュザネット王国に取り込まれてシェランディア地方となるか、属国のまま新たな王を立てるのか。立てるにしても道はいく通りもある。今の王家の血筋、新たな王家を興す、シュザネットから王族を迎える、と考えればキリがない。
エルメルは叔父が、政治の腐敗を憂いているのを知っていた。だから復讐ついでに奸臣どもを炙り出してやろうと宗主国を引き摺り出した。
奸臣どもはアレ公爵が綺麗に排除したらしい。その後の建て直しを共にと、叔父からは便りがたびたび来る。自分の居場所を作ろうとしてくれている、血の繋がらない叔父に頭が下がる。
しかし、排除すべき前王の血筋のエルメルは、国の中枢にいるべきではないと思っている。
ユーニェルの街は今日も賑わっている。エルメルは夕方の温泉街をのんびりと歩いていた。
シュザネットからの旅行者も多く、土産物屋が盛んに声を上げて客引きをしている。湯治を目的にした旅行者は長期滞在している者が多いため、荷物は旅籠に預けて身軽だ。一見現地人のように馴染んだ者もいて、観察していると面白い。
ふと見ると、立ち並んだ土産物屋の建物の隙間に、小柄な人影が見えた。薄汚れた外套を頭から被り、明らかに人目を避けて居る。外套の裾から見える緋色の衣装は、貴族の女が身につけるものに見えた。
エルメルはなにかに突き動かされるように、その女性を追いかけて声をかけた。
「そなた、そんな体でどこへ行く」
女性はギクリと体を強張らせた。真っ青な顔でエルメルを見る目は、絶望に彩られている。そんな体ーー明らかに身重の女性は、恐れるように体を縮こまらせた。
「夫君は共にいないのか?」
「あ⋯⋯あ⋯⋯」
ブルブルと震えて、青い顔を益々青くして、今にも倒れてしまいそうだった。
「シシェナ嬢のご友人か?」
まさかと思いながら尋ねる。もし女性が良人の元から逃げて来たのであれば、シシェナの家名を出すのは憚られる。
「シシェナさまをご存知なのですか?」
「ええ、シシェナ嬢のヴィラに滞在の予定は?」
「はい⋯⋯はい⋯⋯っ」
女性は涙を流した。相変わらず顔色は悪いが、表情が緩んで安堵の息を漏らす。
間違いなく、シシェナを頼って逃げて来た女性だから。エルメルは影のように控えていた従者を先触れに出すと、女性をエスコートしてシシェナのヴィラに向かった。
以前あったときにヴィラの場所は聞いていた。使用人はいても女性のひとり住まいのヴィラにエルメルが訪ねたことはなかったが、この辺りでは大きな建物はすぐにわかった。
門番に取り次ぎを頼むとすぐに通されて、先触れに出した従者も休憩室でもてなされていた。従者は主人より先に休んでいたことを恐縮していたが、おそらくシシェナに押し切られたのだろうと思った。
シシェナはシュザネット風のディドレスで現れて、挨拶もそこそこに身重の女性を休ませる手筈を整えた。
「きちんとしたご挨拶が遅れましたわ。申し訳ございません。先ほどの女性、約束の時間になってもおいでにならないので、心配していたんですの。保護していただいて感謝いたします」
すべきことを全て終えて、ようやくエルメルの前に腰を落ち着けた彼女は丁寧に頭を下げた。教育の行き届いた丁寧な挨拶だった。
「偶然である」
「それでも、身重の彼女には神の御使いにも等しかったことでしょう」
神の御使いと言うのなら、シシェナこそがそうではないのか。エルメルは穏やかに微笑む少女に、神の娘を見た。
廃王はシュザネットからやって来た華姫の装いに、神の娘の姿を見たと言う。エルメルが彼の国の王宮で会ったときも、神の知恵を語る得難い存在であった。しかし華姫は、どこか春を思わせるおっとりと暖かい仕草で、今目の前にいるシシェナはまるで違った。
シシェナは暑い夏の陽射しを纏った、炎のような娘だ。
「彼女はやはり、良人から逃げて来たのですか?」
「ええ、残念ながら。長く暴力に耐えて来たそうですが、このままでは赤子が死んでしまうと、逃げることを決意したそうですの」
子が腹にいなければ、逃げることも思いつかなかったのか。シェランディアの女性はとても抑圧されている。
エルメルは母を思った。
母は美しかった。いつも悲しげに微笑んでいて良人には遠慮がちな態度を崩さなかった。良人であるダビ公爵は深く母を愛していたし、母も公爵を愛していた。
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そうしてみずから生命を絶った母に、シシェナのような強さがあったなら、エルメルは違う選択をしていたのだろうか。
「⋯⋯わたしも、シシェナ嬢の活動の手助けが出来ないだろうか?」
叔父が自分を王都に呼び戻そうとしている。シュザネットのアレ公爵に、シェランディアの女性たちの現状を訴えることができるだろうか。
女性を所有物と思う男からは反発されるだろうし、自由を知らない女性を今すぐに外に放り出すわけにはいかない。しかし心の拠り所になる場所は作れるだろう。
シシェナ嬢がこのヴィラで行っているような、保護施設をシェランディアの各地に作れないだろうか。そこにいる限りは誰も手出しができないよう、法を整えられれば、のぞまぬ婚姻の果てに生命を失う女性が減るのではないだろうか。
エルメルは思いつくままに取り留めなく語った。シシェナはそれに相槌を打ちながら、静かに聞いていた。
「そうですわね、『シェルター』が各地に有れば、生命の危険は減りますわ」
「しぇるたー?」
「ええと、『駆け込み寺』? 『寺』がわかんないか⋯⋯緊急避難場所ですわね」
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「⋯⋯頭の中に、華姫の産まれた国の記憶があるって申し上げたら、信じてくださいます?」
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