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気になる人々のその後のはなし。
暁の獅子は愛しむ。
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〈ヴィンチ×マウリーノ〉
王都の市街地の少し奥に、その家はあった。家主は縦にも横にも大きい獰猛な肉食獣のような容貌の男だったが、近所の住人には別に恐れられていたりしなかった。
なぜなら彼は有名な傭兵で、彼が住んでいるだけで不審者が近づかず、ご近所さんは体よく番犬がわりにしていたのだ。
バルダッサーレ・ヴィンチ、二つ名を『暁の獅子』と言う。跳ね上がった伸ばしっぱなしの赤毛が 暁に燃ゆる獅子のようだ。
ヴィンチ家の主人はあまり帰って来なかった。仕事で家を空けがちで、年老いた女中が管理がてら住んでいた。
それに変化があったのは、最近のことだ。
しばらく前から主人がきちんと帰宅するようになり、夜には明かりが灯るようになった。以前も灯ってはいたが、今にして思えば防犯のために女中が決まった時間に灯していたのだろう。
それから、食料の調達量が増えた。家で食事をするようになったらしい。
もともと広くて綺麗な家ではあったが、どこか殺風景でよそよそしかった庭に花や実のなる果樹が植えられ始めて、ご近所さんは不思議に思った。縦にも横にも大きい獰猛な傭兵には、到底似合わない雰囲気だったからだ。
ある日ヴィンチ邸に押し込みがあって、ご近所さんは仰天した。押し込みの被害はなかったらしいが、暁の獅子の自宅に押し入るなんて、なんて馬鹿なんだと皆で顔を見合わせた。その後二ヶ月ほど人の出入りがなくなったが、最近になって再び明かりが灯るようになった。
ご近所さんは暁の獅子が、長期の仕事を終えて帰ってきたと思った。これでまたしばらくは番犬がいてくれると、いささか酷いことを思いながら、向かいの家に住む主婦は自宅の庭で花に水を撒いていた。
ヴィンチ邸の玄関が開き、如雨露を手にした青年が現れた。スラリとして姿勢が良く灰色味の強い金髪の、綺麗な男だった。
主婦は驚いた。ヴィンチは引っ越したのだろうかと思ったが、もう一度開いた玄関から本人が現れて、綺麗な青年の旋毛に口付けを落としたからだ。成年は恥ずかしげにしているが、大人しく受け入れている。
ご近所奥さんに気づいたヴィンチが、青年を妻だと紹介したので、噂はあっという間にこの辺りに広まった。向かいの主婦はご近所でも有名なスピーカーだった。
ヴィンチは主婦の情報網をうまく利用した。マウリーノは嫁いできてすぐに押し込みに拐かされそうになって、ショックで心が疲れている。あまり他人と交流しないのは勘弁してほしいと頼んだのだ。
お喋り好きな主婦たちもこれでマウリーノの素性を詮索しないだろう。不安定な精神状態の原因は押し込みであると噂の種は与えてやった。それ以前は健康な青年であったと思い込むはずだ。
マウリーノは普通の青年だった。綺麗だが、近寄りがたい美貌の持ち主でもないし、女性的でもない。背もシュザネットの平均よりやや低いくらいだが、隣に立つ良人のバルダッサーレが恐ろしく大きいので、とても華奢に見える。
獰猛な獅子に庇護される可憐な青年の噂は、しばらくの間ご近所を賑わせた。たまに良人と出かけていくが、偶然家の前を歩いていた住人に、控えめだが丁寧な挨拶をしたので、ご近所の奥さんたちは概ね好意的だ。
水やりを終えて室内に戻ると、マウリーノは少し疲れたようだった。あまり陽に当たらない生活をしていたので、脚が萎えて疲れやすい。血も薄いようだ。最近は騎士団の獣魔舎に顔を出して獣魔と戯れているが、まだリハビリの範囲内だ。
休みの日は女中を家に返して、ふたりでゆったり過ごす。この家を空けていた間、女中は孫の家で家事を手伝っていたらしい。ひ孫も生まれててんてこまいで、祖母の手をかなり当てにしていると嬉しげにしていた。
大きなソファにくっついて座って、マウリーノは安心したように身を預けている。
「老婆やさんの曾孫さん、会ってみたいな。きっとふにゃふにゃで可愛いよ」
「魔兎よりは抱きやすいんじゃねぇの?」
マウリーノがふんわり笑った。毒気が抜けて、子供のような表情をしている。ヴィンチの背中を追いかけていた、少年の日のマウリーノの表情だ。
ヴィンチはマウリーノの父親、ロレッタ男爵の母方の又従兄弟だ。ロレッタ男爵は婿養子なので、ヴィンチは男爵家とは何の関係もない。
男爵の父親は一代で財をなした商人で、潤沢な資金で国に貢献しその功績をもって、一代限りの準男爵を賜った。当時のロレッタ男爵家は領地経営を失敗して火の車で、金に明るい準男爵の次男を婿にしてその場を凌いだ。
新たな男爵は持ち前の勤勉さでコツコツと領地を立て直し、更に資産を増やすことに成功した。
そんな彼の妻は、自分が準男爵の次男風情と結婚させられたことにひどく憤っていた。美しかった彼女は、もっと高位の爵位から婿を迎えるつもりであったのだ。
しかし潰れかけた男爵家など、婿入りする旨味はない。仕方なく男爵家でも居丈高に振る舞える準男爵家に脅しをかけて婚姻を取り付けたのだった。
彼女は良人が稼ぐ金で贅沢し、娘には何でも買い与えた。高位の貴族に嫁がせられるよう先代男爵である父に働きかけた。
そんな中、領地経営に必死な父親と娘にしか興味のない母親にほったらかされたマウリーノは、それを気に病んでいた父親が連れてきたヴィンチと引き合わされたのだった。
マウリーノは素直で可愛らしかった。ヒョロヒョロしていたが、ヴィンチに鍛えられて外での遊びも増え、健康に育った。当時のヴィンチは騎士団に所属して、一代騎士爵も賜る将来有望な若者だった。
少年の域を脱しかけたマウリーノが恋に落ちるのは、仕方のないことだった。彼の生活の全てがヴィンチと共にあったのだから。
ヴィンチもマウリーノが可愛くて仕方がなかった。マウリーノに向かう獰猛な欲を仕事で発散させて、騎士団では順調に階級を上げた。新しい徽章を手に入れるたびに、マウリーノに無邪気な尊敬の眼差しで見つめられて、とても居た堪れなくなった。
悪党に剣を突き込むより、マウリーノに楔を突き込みたかった。
マウリーノは少年の真っ直ぐさで直向きに恋い慕った。それから逃げたのはヴィンチだ。
ヴィンチは大人だった。世の中のことが見えていた。マウリーノは男爵家の継嗣で、女性を娶って子をなさなければならない。
だから騎士団を辞めて騎士爵を返上し、王都から出て行った。地方の小競り合いや属国の端っこでの帝国の外の国との戦闘。クタクタになるまで戦って、酒を飲んで、商売女を抱いた。
馬鹿だった。
せめて近くに隠れて見守っていればよかった。
久しぶりにロレッタ男爵から便りをもらって、懐かしさに封を切った。その中に、絶望が詰まっているとも知らず。
傭兵団を抜けてロレッタ男爵領に駆け込むと、領地の外れのコテージに、マウリーノが軟禁されていた。見張りなどあってもなくても同じだ。心の病で歩くこともできないからだ。
加害者と聞いていた。
それなのに⋯⋯。
あまりに変わり果てた姿に、加害者であってくれた方が良かったと、あってはならないことを考えた。
心が癒えるまでひとりで寝ませてやろうと思っていたら、女中が怒り狂って談判に来た。虐待の濡れ衣を着せられたが、お陰で医者を呼ぶことができた。やってきた医者は全身を隈なく診て、良人であるなら見ておけと、ヴィンチにマウリーノの菊座を見せた。何度も裂けて雑に治療された、とてもいやらしい孔だった。背中だけでなく、後孔も虐待の痕跡しかない。
涙が止まらなかった。
気絶したように眠ったまま診察を終えたマウリーノは、白い貌を月影で蒼くして、ひっそりと呼吸をしていた。
それからも、部屋の隅で壁に向かって謝り続けたり、何かに恐れて逃げ惑ったりした。
今、マウリーノは薄氷の上を歩くように、慎重に前に向かっている。些細なきっかけで深淵に落ち、溺れる。それをヴィンチが引き揚げる。
ジーンスワークの遠征に止むを得ず同行した際、思いがけず王太子妃とその姉、侯爵夫人と知己を得て、驚くほど回復した。特に侯爵夫人の魔兎がマウリーノの心を癒してくれた。
「リーノ、犬でも飼うか?」
さすがに獣魔は飼えないし、猫は気儘すぎてマウリーノに寄り添ってくれるかわからない。犬は従順で、時に番犬の代わりにもなってくれるだろう。
「抱っこして眠ったら、幸せだろうね」
マウリーノがふんわり笑ったので、いい犬がいたら迎えようと思ったが、すぐに言葉が続けられた。
「ひとりで散歩に連れて行けないから、まだ早いかな。それに犬の匂いがついたら、レアンが嫌がるかもしれない」
それもそうだ。ヴィンチは騎士団に復帰したので、仕事の時は女中とふたりで留守番をする。番犬になるような犬は、疲れやすいマウリーノでは散歩に連れて行けない。しばらくは騎士団の獣魔舎に邪魔するしかなさそうだ。
獣魔舎と言えば最近、王太子妃と侯爵夫人との茶話会の様子を聞いた。話題に上っていた香油がすぐに送られてきて、それがとても良かった。
「今夜は早めに風呂に入ろうな」
「⋯⋯はい、バル兄さま」
「そろそろ兄さまはやめてくれ。リーノはもう、俺の奥さんだろ?」
「⋯⋯はい、バル」
女中がいない夜はふたりで風呂に入る。体力をなくしたマウリーノはすぐに目眩を起こして溺れそうになるからだ。初めのうちは純潔でないと一緒に入るのを嫌がって泣いた。泣きながら謝るのをなだめすかして体を洗い、髪を洗ってやる。それだけだ。おとなしく浴槽に入ってくれるようになったのは、ジーンスワークにいってからだ。
王太子妃の侍女から香油が届いてからは、風呂上りにそれを背中に塗るようになった。香油はマウリーノの肌に馴染んで、引き攣れた皮膚を柔らかくしてくれる。鞭の痕は一生消えることはないが、香油で手入れを続ければ、寒季の痛みは緩和されるだろう。
風呂を沸かしている間に、マウリーノが手拭いと着替えをゆっくり用意する。貴族の息子がすることではない。足が萎えているので動きは緩慢だが、迷いのない仕草にヴィンチは不思議に思った。
「バル兄さまのお嫁さんになりたくて、花嫁修行してたんだ」
八年も前の話だとはにかんで言われて、思わず抱きしめた。侍女どころか女中も雇えない生活を想定して、それでもヴィンチに恋していた。
胸が詰まるのを隠すように、ヴィンチはマウリーノを着替えごと抱き上げて風呂場へ連れて行った。
風呂では戯れない。そんなことをすれば、マウリーノはすぐに立ちくらみを起こして倒れてしまうから、体が温まってほぐれたら、すぐに上がる。
寝台の上に裸のマウリーノをうつ伏せに寝かせたら、丁寧に香油でマッサージをする。色を乗せず、ひたすら柔く優しく皮膚の強張りが取れるようにすり込んでいくと、マウリーノがうとうとし始める。
香油でマッサージを始めてから、彼は朝までゆっくり眠るようになった。浅い眠りの間にうなされて涙を流すことが無くなったのが嬉しい。
しばらく背中を温めるように撫でさすっていると、マウリーノの唇から寝息が漏れた。すうすうと健やかなそれに安心する。
ヴィンチは寝室の明かりを消して裸のマウリーノの隣に滑り込む。自身も腰に布を巻いただけの姿で、素肌がぴったり触れ合った。雄が滾るが知らないフリをする。
ヴィンチはマウリーノの体に楔を埋めたことがない。マウリーノは自分が汚れているからだと泣いた。
「朝まででもさせて欲しいが、リーノが健康になってからだ。そうだなぁ、お前のここが朝に元気になれるようになったら、遠慮なく抱かせてもらう」
冗談めかしてピクリともしない花芯を撫でると、マウリーノは安心したようだった。
暖かい体がヴィンチにすり寄せられた。腕を回して、胸に抱き寄せる。すうすうと規則正しい寝息が、マウリーノの命を感じさせる。
生きて、自分の腕の中にいる。
それだけでいい。
ヴィンチはマウリーノと再会してから、かつて伸ばされた手を離したことを後悔していない日はない。縦も横も大きな男は、自分よりもずっと細くて頼りない存在が、愛しくてたまらない。
暁の獅子などと呼ばれても、自分を慕う少年ひとり救えなかった。
傷ついた愛しい人を一生守り抜く決意をして、ヴィンチは緩やかに眠りに落ちた。
王都の市街地の少し奥に、その家はあった。家主は縦にも横にも大きい獰猛な肉食獣のような容貌の男だったが、近所の住人には別に恐れられていたりしなかった。
なぜなら彼は有名な傭兵で、彼が住んでいるだけで不審者が近づかず、ご近所さんは体よく番犬がわりにしていたのだ。
バルダッサーレ・ヴィンチ、二つ名を『暁の獅子』と言う。跳ね上がった伸ばしっぱなしの赤毛が 暁に燃ゆる獅子のようだ。
ヴィンチ家の主人はあまり帰って来なかった。仕事で家を空けがちで、年老いた女中が管理がてら住んでいた。
それに変化があったのは、最近のことだ。
しばらく前から主人がきちんと帰宅するようになり、夜には明かりが灯るようになった。以前も灯ってはいたが、今にして思えば防犯のために女中が決まった時間に灯していたのだろう。
それから、食料の調達量が増えた。家で食事をするようになったらしい。
もともと広くて綺麗な家ではあったが、どこか殺風景でよそよそしかった庭に花や実のなる果樹が植えられ始めて、ご近所さんは不思議に思った。縦にも横にも大きい獰猛な傭兵には、到底似合わない雰囲気だったからだ。
ある日ヴィンチ邸に押し込みがあって、ご近所さんは仰天した。押し込みの被害はなかったらしいが、暁の獅子の自宅に押し入るなんて、なんて馬鹿なんだと皆で顔を見合わせた。その後二ヶ月ほど人の出入りがなくなったが、最近になって再び明かりが灯るようになった。
ご近所さんは暁の獅子が、長期の仕事を終えて帰ってきたと思った。これでまたしばらくは番犬がいてくれると、いささか酷いことを思いながら、向かいの家に住む主婦は自宅の庭で花に水を撒いていた。
ヴィンチ邸の玄関が開き、如雨露を手にした青年が現れた。スラリとして姿勢が良く灰色味の強い金髪の、綺麗な男だった。
主婦は驚いた。ヴィンチは引っ越したのだろうかと思ったが、もう一度開いた玄関から本人が現れて、綺麗な青年の旋毛に口付けを落としたからだ。成年は恥ずかしげにしているが、大人しく受け入れている。
ご近所奥さんに気づいたヴィンチが、青年を妻だと紹介したので、噂はあっという間にこの辺りに広まった。向かいの主婦はご近所でも有名なスピーカーだった。
ヴィンチは主婦の情報網をうまく利用した。マウリーノは嫁いできてすぐに押し込みに拐かされそうになって、ショックで心が疲れている。あまり他人と交流しないのは勘弁してほしいと頼んだのだ。
お喋り好きな主婦たちもこれでマウリーノの素性を詮索しないだろう。不安定な精神状態の原因は押し込みであると噂の種は与えてやった。それ以前は健康な青年であったと思い込むはずだ。
マウリーノは普通の青年だった。綺麗だが、近寄りがたい美貌の持ち主でもないし、女性的でもない。背もシュザネットの平均よりやや低いくらいだが、隣に立つ良人のバルダッサーレが恐ろしく大きいので、とても華奢に見える。
獰猛な獅子に庇護される可憐な青年の噂は、しばらくの間ご近所を賑わせた。たまに良人と出かけていくが、偶然家の前を歩いていた住人に、控えめだが丁寧な挨拶をしたので、ご近所の奥さんたちは概ね好意的だ。
水やりを終えて室内に戻ると、マウリーノは少し疲れたようだった。あまり陽に当たらない生活をしていたので、脚が萎えて疲れやすい。血も薄いようだ。最近は騎士団の獣魔舎に顔を出して獣魔と戯れているが、まだリハビリの範囲内だ。
休みの日は女中を家に返して、ふたりでゆったり過ごす。この家を空けていた間、女中は孫の家で家事を手伝っていたらしい。ひ孫も生まれててんてこまいで、祖母の手をかなり当てにしていると嬉しげにしていた。
大きなソファにくっついて座って、マウリーノは安心したように身を預けている。
「老婆やさんの曾孫さん、会ってみたいな。きっとふにゃふにゃで可愛いよ」
「魔兎よりは抱きやすいんじゃねぇの?」
マウリーノがふんわり笑った。毒気が抜けて、子供のような表情をしている。ヴィンチの背中を追いかけていた、少年の日のマウリーノの表情だ。
ヴィンチはマウリーノの父親、ロレッタ男爵の母方の又従兄弟だ。ロレッタ男爵は婿養子なので、ヴィンチは男爵家とは何の関係もない。
男爵の父親は一代で財をなした商人で、潤沢な資金で国に貢献しその功績をもって、一代限りの準男爵を賜った。当時のロレッタ男爵家は領地経営を失敗して火の車で、金に明るい準男爵の次男を婿にしてその場を凌いだ。
新たな男爵は持ち前の勤勉さでコツコツと領地を立て直し、更に資産を増やすことに成功した。
そんな彼の妻は、自分が準男爵の次男風情と結婚させられたことにひどく憤っていた。美しかった彼女は、もっと高位の爵位から婿を迎えるつもりであったのだ。
しかし潰れかけた男爵家など、婿入りする旨味はない。仕方なく男爵家でも居丈高に振る舞える準男爵家に脅しをかけて婚姻を取り付けたのだった。
彼女は良人が稼ぐ金で贅沢し、娘には何でも買い与えた。高位の貴族に嫁がせられるよう先代男爵である父に働きかけた。
そんな中、領地経営に必死な父親と娘にしか興味のない母親にほったらかされたマウリーノは、それを気に病んでいた父親が連れてきたヴィンチと引き合わされたのだった。
マウリーノは素直で可愛らしかった。ヒョロヒョロしていたが、ヴィンチに鍛えられて外での遊びも増え、健康に育った。当時のヴィンチは騎士団に所属して、一代騎士爵も賜る将来有望な若者だった。
少年の域を脱しかけたマウリーノが恋に落ちるのは、仕方のないことだった。彼の生活の全てがヴィンチと共にあったのだから。
ヴィンチもマウリーノが可愛くて仕方がなかった。マウリーノに向かう獰猛な欲を仕事で発散させて、騎士団では順調に階級を上げた。新しい徽章を手に入れるたびに、マウリーノに無邪気な尊敬の眼差しで見つめられて、とても居た堪れなくなった。
悪党に剣を突き込むより、マウリーノに楔を突き込みたかった。
マウリーノは少年の真っ直ぐさで直向きに恋い慕った。それから逃げたのはヴィンチだ。
ヴィンチは大人だった。世の中のことが見えていた。マウリーノは男爵家の継嗣で、女性を娶って子をなさなければならない。
だから騎士団を辞めて騎士爵を返上し、王都から出て行った。地方の小競り合いや属国の端っこでの帝国の外の国との戦闘。クタクタになるまで戦って、酒を飲んで、商売女を抱いた。
馬鹿だった。
せめて近くに隠れて見守っていればよかった。
久しぶりにロレッタ男爵から便りをもらって、懐かしさに封を切った。その中に、絶望が詰まっているとも知らず。
傭兵団を抜けてロレッタ男爵領に駆け込むと、領地の外れのコテージに、マウリーノが軟禁されていた。見張りなどあってもなくても同じだ。心の病で歩くこともできないからだ。
加害者と聞いていた。
それなのに⋯⋯。
あまりに変わり果てた姿に、加害者であってくれた方が良かったと、あってはならないことを考えた。
心が癒えるまでひとりで寝ませてやろうと思っていたら、女中が怒り狂って談判に来た。虐待の濡れ衣を着せられたが、お陰で医者を呼ぶことができた。やってきた医者は全身を隈なく診て、良人であるなら見ておけと、ヴィンチにマウリーノの菊座を見せた。何度も裂けて雑に治療された、とてもいやらしい孔だった。背中だけでなく、後孔も虐待の痕跡しかない。
涙が止まらなかった。
気絶したように眠ったまま診察を終えたマウリーノは、白い貌を月影で蒼くして、ひっそりと呼吸をしていた。
それからも、部屋の隅で壁に向かって謝り続けたり、何かに恐れて逃げ惑ったりした。
今、マウリーノは薄氷の上を歩くように、慎重に前に向かっている。些細なきっかけで深淵に落ち、溺れる。それをヴィンチが引き揚げる。
ジーンスワークの遠征に止むを得ず同行した際、思いがけず王太子妃とその姉、侯爵夫人と知己を得て、驚くほど回復した。特に侯爵夫人の魔兎がマウリーノの心を癒してくれた。
「リーノ、犬でも飼うか?」
さすがに獣魔は飼えないし、猫は気儘すぎてマウリーノに寄り添ってくれるかわからない。犬は従順で、時に番犬の代わりにもなってくれるだろう。
「抱っこして眠ったら、幸せだろうね」
マウリーノがふんわり笑ったので、いい犬がいたら迎えようと思ったが、すぐに言葉が続けられた。
「ひとりで散歩に連れて行けないから、まだ早いかな。それに犬の匂いがついたら、レアンが嫌がるかもしれない」
それもそうだ。ヴィンチは騎士団に復帰したので、仕事の時は女中とふたりで留守番をする。番犬になるような犬は、疲れやすいマウリーノでは散歩に連れて行けない。しばらくは騎士団の獣魔舎に邪魔するしかなさそうだ。
獣魔舎と言えば最近、王太子妃と侯爵夫人との茶話会の様子を聞いた。話題に上っていた香油がすぐに送られてきて、それがとても良かった。
「今夜は早めに風呂に入ろうな」
「⋯⋯はい、バル兄さま」
「そろそろ兄さまはやめてくれ。リーノはもう、俺の奥さんだろ?」
「⋯⋯はい、バル」
女中がいない夜はふたりで風呂に入る。体力をなくしたマウリーノはすぐに目眩を起こして溺れそうになるからだ。初めのうちは純潔でないと一緒に入るのを嫌がって泣いた。泣きながら謝るのをなだめすかして体を洗い、髪を洗ってやる。それだけだ。おとなしく浴槽に入ってくれるようになったのは、ジーンスワークにいってからだ。
王太子妃の侍女から香油が届いてからは、風呂上りにそれを背中に塗るようになった。香油はマウリーノの肌に馴染んで、引き攣れた皮膚を柔らかくしてくれる。鞭の痕は一生消えることはないが、香油で手入れを続ければ、寒季の痛みは緩和されるだろう。
風呂を沸かしている間に、マウリーノが手拭いと着替えをゆっくり用意する。貴族の息子がすることではない。足が萎えているので動きは緩慢だが、迷いのない仕草にヴィンチは不思議に思った。
「バル兄さまのお嫁さんになりたくて、花嫁修行してたんだ」
八年も前の話だとはにかんで言われて、思わず抱きしめた。侍女どころか女中も雇えない生活を想定して、それでもヴィンチに恋していた。
胸が詰まるのを隠すように、ヴィンチはマウリーノを着替えごと抱き上げて風呂場へ連れて行った。
風呂では戯れない。そんなことをすれば、マウリーノはすぐに立ちくらみを起こして倒れてしまうから、体が温まってほぐれたら、すぐに上がる。
寝台の上に裸のマウリーノをうつ伏せに寝かせたら、丁寧に香油でマッサージをする。色を乗せず、ひたすら柔く優しく皮膚の強張りが取れるようにすり込んでいくと、マウリーノがうとうとし始める。
香油でマッサージを始めてから、彼は朝までゆっくり眠るようになった。浅い眠りの間にうなされて涙を流すことが無くなったのが嬉しい。
しばらく背中を温めるように撫でさすっていると、マウリーノの唇から寝息が漏れた。すうすうと健やかなそれに安心する。
ヴィンチは寝室の明かりを消して裸のマウリーノの隣に滑り込む。自身も腰に布を巻いただけの姿で、素肌がぴったり触れ合った。雄が滾るが知らないフリをする。
ヴィンチはマウリーノの体に楔を埋めたことがない。マウリーノは自分が汚れているからだと泣いた。
「朝まででもさせて欲しいが、リーノが健康になってからだ。そうだなぁ、お前のここが朝に元気になれるようになったら、遠慮なく抱かせてもらう」
冗談めかしてピクリともしない花芯を撫でると、マウリーノは安心したようだった。
暖かい体がヴィンチにすり寄せられた。腕を回して、胸に抱き寄せる。すうすうと規則正しい寝息が、マウリーノの命を感じさせる。
生きて、自分の腕の中にいる。
それだけでいい。
ヴィンチはマウリーノと再会してから、かつて伸ばされた手を離したことを後悔していない日はない。縦も横も大きな男は、自分よりもずっと細くて頼りない存在が、愛しくてたまらない。
暁の獅子などと呼ばれても、自分を慕う少年ひとり救えなかった。
傷ついた愛しい人を一生守り抜く決意をして、ヴィンチは緩やかに眠りに落ちた。
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