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「チェスター伯爵子息コンラッド、我が婚約者をかどわかしたのはその方か!」

 ビリビリと紫電が弾けて、ブライトさまの声が怒気を孕んで響く。

 おれの髪を掴んで引き倒していたハスキー犬野郎は、威圧によろめいて尻餅をついた。ブチブチと髪の毛が引き抜かれる音がして、痛みに眉を顰めると、ブライトさまは一層目を吊り上げた。

「その手を離せ、この下郎が!」

「ひっ」

 ハスキー犬野郎は怒鳴られて、素直にと言うか、反射で手を離した。変な風に引っ張られていた頭が自由になって、首が楽になった。

 ブライトさまはおれを見て、一瞬眼差しを緩めたけど、すぐにハスキー犬野郎に向き直った。

「まっすぐ南へ向かわず、一度北上し、西を迂回して行くつもりだったのだろう? 騎士団に隠し通せると思ったか?」

「わ、わたしは国外追放のはず。間違ったことはしておりませんッ」

「法務大臣の沙汰は、チェスター伯爵の賄賂によるものだろう。余罪を追及せず国外追放に留め、わたしの婚姻後に恩赦する算段であるようだな。余罪はともかく、そなたが今、目の前で我が婚約者に暴力を振るっている事実は如何する? わたしはわたしの婚姻による恩赦を婚約者に対する暴力を振るった者に対してせねばならぬのか?」

 ブライトさまの声音は淡々としている。でも相変わらず体の周りは紫電がパチパチと音を立てていて、豪奢な黄金色の髪が逆立っていた。

「法務大臣か⋯⋯今頃罷免か、更迭か」

 ブライトさまが鼻で嗤った。ハスキー犬野郎は尻餅をついたまま、ヘナヘナとくずおれた。

「殿下⋯⋯。殿下のご婚約者だとは存じ上げなかったのです!」

 殿下って言うことは王族だと気付いたんだ。ブライトさまのご衣装は騎士団のものだ。ひるがえるロングコートの胸に総団長の徽章が輝いている。紫電をまとって発光しているようだ。現在の総団長が王族である事は知っていたらしい。そこは婚約者のお嬢さまとは違ったみたい。

「殿下ぁ?」

「ほえー、俺たち殿下の嫁さんに飯作ってもらってたのか」

「それ言ったら、その阿保ボン、別嬪さん召し上げて、保養地まで連れて行くって抜かしてたよな」

 おっさんたち、いらん情報垂れ流さないで! 

「食事? 召し上げる? ほう、わたしの可愛い華の精に食事を作らせたと? あまつさえ逃亡に帯同させるつもりであったと?」

 ブライトさま、疑問形が恐いです。⋯⋯どうしよう、恐いけどカッコいい。おれのこと大事だから、怒ってくれているんだよね。ダメじゃん、ほっぺた緩んじゃう。

「捕縛など温いな。今すぐその首、落としてくれようか」

 下げた剣に手をかける。ハスキー犬野郎は後ろに手をついて、尻で後退った。真っ青な顔で、ガタガタ震えている。床に水を引き摺った跡が残った。⋯⋯お漏らししたんだ。

 あんだけギラギラした目でおれを見て、暴力で絶対的優位にいた野郎が、情けなく尻尾を巻いている。おれ、馬鹿みたいだ。なんでこんな奴が怖かったんだろう。て言うか今でも恐いけど、いつまでも怖がっている価値もない。

 ないと言えば、ブライトさまの手を汚す価値も、もちろんない。それより、せっかく逢えたのにほったらかされるのは寂しい。いやいや、ダメじゃん。部活とアタシとどっちが大事とか言い出す、漫画に出てくるおバカなヒロインじゃないんだから。

 ブライトさまは騎士団のお仕事中!

 実際ブライトさまは、切るつもりなんかないと思う。わかりやすく脅しだし、戦意のない弱者を一方的に蹂躙する人じゃない。

 山小屋の外から、複数の馬の蹄と拍車の音がする。バタバタと音がして玄関から、複数の足音がした。現れたのは騎士団の制服で、先頭は騎士団長さまだった。その後ろのミカエレさまとロベルトさんは旅装に剣帯している。

「ひとりで勝手に飛んで行かないでくださいよ」

「メアリー嬢もいらっしゃるんですからね」

 騎士団長さまとロベルトさんが各々呆れたように言った。

「屋根が崩れて跡形もないじゃないですか。ハリーさまがお怪我でもなさったら、どうなさるおつもりです?」

「そんなヘマな事、わたしがすると思うか?」

 ミカエレさまが眉を寄せた。その表情カオすっごいご領主さまに似てる。

「こりゃまた、エラい別嬪さんが増えたなぁ」

「黒い髪の方は嫁さん向きじゃ無さそうだけど」

「銀髪は人妻っぽくね? 色気半端ねぇ」

 オイ、おっさんども、ちょい黙れや。言ってる事は全て正解だけど、今は気が抜けるからやめてくれ。おれの脳内以外からのツッコミは誰からも起こらず、おっさん達はコソコソと囁いている。

「ヴァーリ、捕縛しろ」

 ヴァーリって誰だっけ? 騎士団長さまがすぐに動いて思い出した。団長さま、エンドレ・ヴァーリってお名前だった。名前で呼ばないから、すっかり忘れてたよ。

 騎士団長さまは自らハスキー犬野郎に縄をかけた。王太子の婚約者に対する暴行事件の現行犯なら、直々に捕縛するのもありなんだろう。ミカエレさまとロベルトも冷たい眼差しでおっさん達を捕縛していた。あ、おっさん達、ぽけっとして縄を打たれてる。心なし、恍惚としているような⋯⋯。

 おっさん達はぽけっとしたまま、自分で歩いて連行されて、ハスキー犬野郎は無理やり引き起こされて、引きずられて行った。入れ違いに騎士がひとり駆けてきて、メアリーちゃんの保護を報告して去って行った。

「玻璃」

 甘やかに名前を呼ばれた。パチンと紫電が弾けて溶けるように消えると、へたり込んだままのおれの前で跪いた。背中に腕が回され、おでこがブライトさまの胸につく。

「遅くなってすまない」

 耳元で悔いるような響きが宿る声がする。

「ううん、来てくれてありがとう」

 おれもブライトさまの背中に腕を回す。逞しい体はおれの短い腕じゃ、うまく抱きしめ返せない。匂いと温もりに安心する。

 たった二晩会わなかっただけなのに、随分長く会ってなかった気がする。

「ね、キスがしたい」

 お仕事終わってなさそうだけど、ちょっとだけ。ダメかな?

 ブライトさまが笑った気配がした。

 背中にあった手が肩に移って、体を引き剥がされる。片手がスルリと顎を掬って上向かされた。唇がなぞられる。

「『キス』って何?」

 意味わかってる気がする。熱い瞳でおれを見下ろしながら唇をなぞる人が、理解していないはずがない。

「⋯⋯口付け⋯⋯⋯⋯」

 吐息が唇をかすめた。繰り返す小鳥のキス。チュッチュッと可愛い音がしていたのに、ペロリと舐められて唇を開いた。

「ん⋯⋯」

 鼻から甘えた声が漏れた。

 舌を絡めて歯列をなぞられ、唾液を呑み込む。頭がぼんやりして、お腹の奥がじんわりと熱くなった。

 体に力が入らなくなって、くったりとすがりついたけど、ブライトさまはキスをやめなかった。むしろますます激しく口内を舐るので、おれは一瞬、自分のオネダリを後悔した。

 みんなのところに早く行かなきゃ、誰か様子を見に来るんじゃね? こんなエッチなキスしてるの、誰かに見られたら、軽く死ねる。

「待って⋯⋯はんっ⋯⋯んちゅ、見られるのは、いや」

 必死に唇を離すと、ブライトさまはおれの話を聞く姿勢を見せてくれた。

「誰かに見られるのは、恥ずかしいです。いつもみたいな口付けは、誰も来ないところでがいいです」

 ギュッと抱きしめられる。ひゃっ、いきなり過ぎてビックリだ。

「君は純情なんだか大胆なんだか。もう離れないから、覚悟しておいで」

 言ってる意味がよくわからない。でも、もう離れないって言ったよね。もしかして、一緒に行けるんだろうか? おれは素直にブライトさまに尋ねた。

「辺境伯爵領まで、ご一緒出来るんですか?」

「そのつもりだ。宰相に文を飛ばして調整させることにするよ」

「誰かが困りませんか?」

「優しい子、可愛い」

 また小鳥のキス。

「大丈夫だよ。元々婚約から婚姻後一月までは、蜜月なんだ。仕事はどうしても、というものだけで、花嫁を新たな環境に慣れさせることが、最優先なんだ。だから、わたしは玻璃をいちばんに考えるよ」

 そっか、足入れ婚中だったっけ。婚約しかしてないけど、実質内縁関係だもんね。

「ハイネン子爵も心配している。一度子爵邸に戻ろう」

 メアリーちゃん! そうじゃん、おれブライトさまに会えて浮かれ過ぎて、メアリーちゃんのこと蔑ろにしちゃった。小さな女の子をほったらかすなんて、男の風上にもおけないね。

「はい。メアリーちゃんをはやくお父さまに返してあげなくちゃ」

 ブライトさまはおれを抱き上げた。

 メアリーちゃんとちょっとぶりの再会をして無事を喜び合い、馬上の人となった。もちろんひとりで乗れないので、ブライトさまと相乗りだ。馬にくくりつけてあった荷物から外套を取り出して羽織ると、おれをその中に包んでくれた。メアリーちゃんはロベルトさんが同じようにしている。彼女は小さなレディなので、奥様枠のロベルトさんが任された。

 ロベルトさんとミカエレさま、騎士団の四分の一がハイネン子爵邸にメアリーちゃんを送って行き、残りの四分の一はおれたちの護衛、半分は罪人を王都に移送することになった。おれとブライトさまは一旦旅籠に宿泊し、二、三日して落ち着いたら改めてハイネン子爵に挨拶に行くことになった。おれはともかく、王太子を突然お迎えするのは、子爵家では荷が勝ちすぎると判断したんだって。

 おっさんたちの中に鳥使いがいて、コンドルもどきが突撃してきてちょっとした騒ぎが起こったけど、騎士さまの中に獣王の瞳とやらを持つ人がいて、コンドルを手懐けてしまった。その人「鳥のモフモフは初めてだなぁ」ってニマニマしてた。かなりのモフラーと見た。

 おっさんたちとハスキー犬野郎は手枷と縄で繋がれて、街道まで自分の足で歩いていくらしい。そこから移送用の馬車(想像するに檻付き)に乗って王都まで運ばれるんだって。おっさんたちはともかく貴族のボンボンは街道まで歩けるんだろうか?

 罪人移送班より先に出発すると、騎士様たちが直立して見送ってくれた。おれじゃなく、総団長と団長を見送る形式だと思う。それに混じっておっさんたちが、手枷ごと手を振りながら「飯ごっそーさぁん」「また作ってなぁ」と緊張感のないことを言っていた。あいつらほんとに極悪犯か?

「ねぇ、玻璃。彼らに食事を振る舞ったのかい?」

「んー、なし崩し?」

「ふふ、疑問形なんだ」

 だっておれが作らなきゃ、おれもメアリーちゃんも、生肉食べさせられるところだったんだもん。

「食事抜きと食中毒と自炊だったら、自炊でしょ?」

「凄い三択だね」

「あと、実はお薬仕込まれるのが怖かったんです」

 睡眠薬とか摂取して、目が覚めたらどこかに売られてたとか、シャレになんないでしょ。

「自分で作れば、危険が減ると思って」

「玻璃の言う通りだ。でもわたしより先に彼らが君の食事を楽しんだと思うと、何か妬けるね」

 ポクポクと馬に運ばれながら、ブライトさまの外套の中で囁かれた。ひゃあ、耳に息が当たる! ちょっと待って、支えてくれている手が、お腹さすさすしてるぅ?

「ぶ、ブライトさま?」

 おさわりに気付いたことに気付いたブライトさまは、クスクス笑いながら太ももや背中も撫で回した。開き直っちゃいましたか⁈

「こんなところ(人目のあるところ)でなんて、ダメです」

「ここ(馬上)じゃなければいいの?」

 なんか微妙にニュアンスが違う気がする。

 空から運ばれたので地理がいまいち把握できていなかったけど、しばらく馬を歩かせると街道に抜けた。茂みは入り組んでいて、森の隠れ家までの道を巧妙に隠していた。この道だけじゃなくて、他にもいくつかルートがあって、逃走経路は確保してあったらしい。

 おれは救出されるのをただ待っていた。だから、ブライトさまたちがどんな捜索を行なったのか、まだ聞いていない。でも、聞く必要はないかな。だって、おれに大切なのは、二度と誘拐されないことだから。誘拐されたあとの捜索方法より、防犯意識の強化だ。

 ブライトさまの手がこれ以上悪戯しないように、手綱を持たない手を繋いだ。

 旅籠の前まで来ると侍女さんトリオが待っていた。三人は目をウルウルさせておれの無事を喜んでくれた。メアリーちゃんとはここで一旦お別れだ。次は落ち着いてからの挨拶かな。

「ジャックにも会いにいくよ」

 と言ったら、一瞬の沈黙。

「小さな男の子なんです」

 メアリーちゃんが慌てたように言った。

「ああ、確か庭師の息子でしたね」

「四歳の男の子と聞いています」

 ミカエレさまとロベルトさんもちょっと挙動不審気味だ。どうしたんだろう。

「そうか、小さな子か。なら土産を用意してやろうね」

 背後からブライトさまに抱きしめられた。お土産か、何がいいかな。

「ブライトさま。ぼくが選んでもいい?」

「もちろん」

 あれ、空気が緩んだ。ミカエレさまとロベルトさんがあからさまに肩から力を抜いていた。何かあったのかな。

「子爵への説明や日程の調整には、わたしも参ります。殿下がお寛ぎになられたら、午後にでも参りましょう」

 騎士団長さまが言った。子爵邸への訪問だけでなく、旅程の調整も必要だもんね。今後の方針をあらかた決めると、おれとブライトさまは侍女さんトリオに先導されて部屋に向かった。おれたちが建物に入ったのを確認しないと、ミカエレさまたちは出発できないからだ。

 部屋に入ると、まずは着物を脱いだ。昨日、大掃除をしたまんまの格好だから、埃だらけだ。このままで高級旅籠のソファーに腰を下ろすのは、気が引ける。スタンドカラーのシャツとスラックス姿になると、書生さんからD Kにジョブチェンジする。

 うわぁ今、気がついた。埃だらけのまんまで、ブライトさまにしがみ付いてた。ついでに言うと、昨日はお風呂に入ってない。さすがにメアリーちゃんと一緒に入れないし、おっさんどもの巣窟でふたりが離れるのは得策ではなかったんだもん。

 着物を脱いだおれの隣に、ブライトさまは当然のように座った。おれは慌ててちょっと隙間を開けて説明すると、ブライトさまは柔らかく微笑んだ。

「軽く食事をしてから、入浴すると良い。食事中に浴室の準備も整うだろう」

 すぐにソファーセットに朝食が用意された。ダイニングではなく、寛げるようにこちらにしてくれた。⋯⋯日本人的に言うなら、ソファーセットはテーブルが低すぎて食卓には向かないと思う。この高さ、おれが床に座ったらジャストなのに。

 いやいや、せっかくの気遣いに文句を言っちゃダメダメ。

 朝食には少し遅い時間、むしろブランチタイム。旅籠の皆さんには感謝です。大体の旅籠は昼食はレストランのみだから、こんな半端な時間なんて完全に旅籠側の好意だ。

 トロトロのオムレツをスプーンで掬う。フォークじゃ無理。しあわせの味がする。ほっぺたがほや~っとなる。パンもサラダも美味しい。シチューとスープの中間みたいな椀ものが絶品だ。

 トロトロのオムレツを食べていたら、目までトロトロして来た。昨夜あんまり寝てないし。

「眠いの? 良いよ、眠っておしまい」

「もうちょっと、食べてお風呂に入りたいです」

 お風呂直行すればよかった。空きっ腹じゃ倒れるかと思ったけど、食べたら眠気が⋯⋯。

「あんまりお腹いっぱいだと、お風呂は良くないよ」

「でも汚れたまんまじゃ、寝台も汚れちゃうから」

 カシャンと音がして、スプーンが落ちた。ダメじゃん、超行儀悪い。ばあちゃんがそこんとこ厳しかったから、胸の中で謝り倒す。

「おやすみ、玻璃」

 まだおやすみじゃないの。まだちゃんとお話ししてないし。食事してお風呂入って、落ち着いたらアジトの状況とか、メアリーちゃんのお母さんのこととか説明するつもりだったのに。

 頭がコクコクする。

 隣に座るブライトさまが、おれの体を引き倒して支えてくれる。上半身を広い胸に預けると力が抜けた。

 もうダメだ。

 おれは諦めて、夢の世界に落ちていった。
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