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王都にあるジーンスワーク辺境伯爵邸には、躾の行き届いた使用人が大勢いる。家宰のロックウェルさんはその最たるものである。背筋のピンと伸びたおじいちゃんで、城砦の内向きを取り仕切る家令のロベルトさんも頭が上がらないらしい。
そのロックウェルさんが難しい顔をして俺の前に立っていた。
「お風呂はひとりで入りたいです」
俺はしょんぼりしながら言った。だってこれから、俺の行動には全部、侍女か侍従がつくって言うんだ。侍女さんはいいよ、カナリーさんたちだもん。でも、侍従さんは怖い。
ご領主様のお屋敷に帰ってきて、なんと俺は気絶してしまったんである。精神的ストレスで失神って、漫画のヒロインだけだと思ってたのに、馬車が停まって、従僕さんが扉を開けてくれた瞬間パニックになって、気づいたらベッドの上だった。
その時はなにが起こったのかよくわからなかったけど、侍従さんや従僕さんを見るとパニックを起こすので、どうやら若い男がダメなようだ。
身の回りのあれこれは王宮からやってきた侍女さんトリオが仕切ってくれるけど(いや、それも自分で出来るんだけどさ)、お風呂だけは女性が世話するわけには行かないと、侍従を寄越してきたんだ。
「ですがハリー様、貴方様は王太子殿下の妃となられる方でございます。世話をされることに慣れてくださいませ」
ロックウェルさんが重々しく言ったけれど、首を縦に振れるわけがない。
「カナリーさんたちが良くしてくれます。彼女たちだけで充分です。お風呂はひとりで入ります」
「我儘も大概になさいませ。ご入浴を嫌がるなど、小さな子供ですか? 仕方ありませんな、アントニオ、いいからお連れしなさい」
ロックウェルさんが呼ばわると、侍従のお仕着せを着た背の高い男が入ってきて、俺と上司を見比べてどうしたものかと肩を竦めた。
俺はと言えば、必死に意識を保っているものの、ガタガタと震えて後退り、ソファーに膝カックンされてそのまま座り込んでしまった。
怖い怖い怖い!
侍女さんトリオは、ご領主様とるぅ姉のところに今後の方針とやらを話しに行った。ロックウェルさんはその隙をついてきたんだけど、おじいちゃんなら平気かと、部屋に入れてしまったんだ。ご領主様が信頼する家宰さんだし、追い返すのも失礼かと思って。
でも、侍従さんまで入って来るなんて!
「ハリー様、駄々を捏ねていないで、ご入浴の支度をなさいませ」
違う、お風呂が嫌なんじゃない! 侍従さん、アントニオさんが怖いんだ。もちろんアントニオさんは悪くない。でもでも、怖い怖い怖い。
「異世界からの迷い子と伺いましたが、異世界の方とは、皆様そのように我儘と思われても良いのですか?」
諭すようにロックウェルさんが言う。言ってることはすごく正しい。
ヤダヤダ、怖いんだ。助けて、ブライト様!
ここは俺のために用意された部屋だ。王都で一番安心できる空間のはずなんだ。冬のあったかい布団のように、幸せでいられるはずなんだ。なのにこんなにも怖い目にあっている。
王城ではいちばん怖い時にはブライト様がいてくれたのに、今は誰もいない。自分で自分を抱きしめるように縮こまり、イヤイヤと首を振る。とんだ駄々っ子だ。
『お風呂で、男の人に服を脱がされるのが怖いんだ』
ポツリと口からこぼれた。
るぅ姉にふたりきりのとき以外は、日本語はダメだと言われているけれど、シュザネット語を話す余裕がない。恐怖に支配されて、考えがまとまらない。
ハスキー犬野郎は、ブライト様が来なかったら、俺を裸に剥いただろう。ブライト様じゃなきゃイヤだ。ほかの男は怖いんだ。
「ハリー様、お国の言葉で誤魔化してはなりません。さぁ、アントニオ」
「うーん、今日のところは下がった方が良くないっすか?」
「お前まで甘やかしてどうする。それではハリー様のお為にならぬだろう。お連れしなさい」
再度促されてアントニオさんが一歩踏み出した。人の良さそうな顔が、困ったように眉を下げている。瞳がアイスブルーに光った気がした。その瞬間、俺の中でプツンと音がした。
ブライト様!
俺は窓に向かって走り、棧に足を掛けると夕闇にけぶる街に飛び出した。とにかくブライト様に逢いに行きたかった。ここが三階だなんてどうでもよかったし、先触れもなく王城の門扉を開けさせることができないことなんか、全く考えていなかった。
どこか遠くで叫ぶ声がする。違う、俺の声だ。俺が叫んでいるんだ。
落下の恐怖でなくアントニオさんへの恐怖、そして同時に、ゴーカンミスイになんの関係もない人を一方的に嫌悪することの罪悪感。
落ちるのは一瞬だった。
あたり一面花が咲き乱れ、柔らかな苔が大地を覆った。優しい風が俺の体を抱きとめて、苔の上にそっと下ろしてくれた。
なにが起こったんだろう?
一階の窓からモーリンさんが飛び出してくるのが見えた。顔が真っ青だ。その後ろに魔法陣を操るカナリーさんとマーサさんがいる。風と木の魔法使いのふたりに助けられたのだ。今更ながら、ブライト様が侍女さんトリオを俺に付けてくれた意味を知る。侍女としての能力だけでなく、魔法使いとしても一級だからだ。
窓から落ちたショックで我に返る。
俺はなんてことをしたんだろう。パニックになったからと言って、窓から逃げ出すなんて。侍女さんトリオが居なかったら今頃大怪我をしている。打ちどころが悪けりゃ、死んでたはずだ。
「ハリー様、大丈夫でございますか? なにがあったのですか⁈」
モーリンさんが俺の体をペタペタ触っている。これだけ触られても、女の人なら平気みたいだ。
カナリーさんとマーサさんのおかげで、怪我はひとつもない。けれど、見上げた三階の自室の窓に、ロックウェルさんとアントニオさんの姿を見て、再び体に震えが走った。彼らは身を乗り出して、俺の無事を確認していた。
「あんのクソジジイ。ハリー様のお部屋に男を入れやがりましたわね!」
モーリンさん、言葉悪いっす。
「モーリン、ハリー様をルーリィ様のお部屋へお連れして! マーサは殿下に遣いに行って! 私はジジイどもをジーンスワーク辺境伯様のところに連れて行くわ!」
カナリーさんも、口悪いっす。
あれよと言う間にるぅ姉の部屋へ押し込まれ、暖かい部屋の中で紅茶のカップを持たされた。陽が落ちて気温が下がっている中、上着も着ずに居たから体が冷えていた。
るぅ姉の部屋にいるのは、さすがに女性ばかりだ。部屋付き侍女は美しい所作でお茶を入れると、サッと退出した。深刻な空気を察して、分をわきまえたのだ。
「こんなによくできる侍女を育てたジジイが、なにをやっていやがりますの!」
モーリンさんが毒づいた。おれのヒアリング能力でもわかる。丁寧と乱雑が混じった、あまりよろしくない言葉遣いだ。
そこへ部屋の主人が帰ってきた。ご領主様のお部屋にいたるぅ姉は、カナリーさんが連れてきたロックウェルさんに話を聞いたらしい。日頃の淑女教育の成果は何処へやら、凄い勢いで走ってきたのだろう。肩で息をしていた。
「はーちゃん、よかった! どこも怪我はないわね!」
勢いをつけて抱きついて来たので焦ったが、モーリンさんが神業で紅茶のカップを回収してくれた。おかげで誰も火傷しなかった。
「ごめんなさい。僕の部屋が三階だって、頭から抜けてたの」
飛び降りようなんて思っていなかった。ただ、逃げたかっただけだ。けど、俺ってかなり危ないんじゃないか? 心療内科とかカウンセリングにかからなきゃいけないレベルの。
「るぅ姉、どうしよう。僕みんなに迷惑かけてる」
おれが勝手に怖がっているだけで、ロックウェルさんもアントニオさんも悪くないんだ。俺がブライト様の伴侶になるんなら、人に傅かれることも覚えなきゃいけない。今から慣れるよう、心遣いしてくれたに過ぎない。
俺の考えていることがわかるのか、るぅ姉が溜息混じりに言った。
「ロックウェルさんは焦ったのね。はーちゃんみたいな普通の子が、七日後には王太子様の求婚の御使者をお迎えしなきゃならないんだもの」
俺たちが王城を辞したとき、十日後の良き日に使者を出すことを告げられていた。王城から専属の侍女まで連れ帰ったので、家宰のロックウェルさんはそりゃ驚いたろう。民族的に幼く見えて、しかも訳もわからずぶっ倒れる、およそ健康とは思えない子供だ。
三日ほど様子を見て、決まった少ない人々に囲まれている俺を心配したに違いない。だって、俺の教育係のロベルトさんは、ロックウェルさんのお弟子さんだもの。
「あの方、厳しい顔してますが、ものすごい心配性なんです。石橋を叩いて叩いて叩かないと渡らないんです。多少小言をいただくかもしれませんが、裏にはちゃんと愛情がありますからね」
ロベルトさんが言ってたのを思い出す。
だから俺が王城に行っても恥をかかないように、侍女さんトリオに甘やかされ過ぎないよう、厳しく言ったんだ。
わかってる。わかってるけど、怖かった。
るぅ姉が隣に座って肩を抱いてくれた。俯くと涙がこぼれた。
やがて先触れが来て、間をおかずご領主様がロックウェルさんを連れてやって来た。ロックウェルさんはいつものピンと張った背筋じゃなく、なんとなく萎れていた。
「ハリーや、わたくしの落ち度じゃ。王城でのことは世に出れば花嫁の疵になるゆえ、爺やに言うておらなんだ。怖い思いをさせたの」
あぁ、そうか。変に噂が広がれば、未遂が未遂じゃないことになって、ブライト様に相応しくないって言われちゃうんだ。元々得体の知れない異世界人、これから反対の声を上げる人も出るだろう。その人たちにかっこうの排除理由を与えることになる。だから知ってる人は少ない方がいい。
「申し訳ございません。この爺、ハリー様のお世話に年甲斐もなく張り切っておりました。誰もが納得する素晴らしいお妃さまに⋯⋯など、見当違いなことを⋯⋯よもやそのように稚き容姿の方に無体を迫る輩がいたとは⋯⋯!」
怒りと無念と自分への失望だろうか、ロックウェルさんは呻くように言葉を絞り出した。
「ロックウェルさんは悪くないです。もちろんアントニオさんも。あ、アントニオさんに謝らなくちゃいけませんね」
「大丈夫っすー。気にしてないっすッて、アイタタ」
扉の向こうから、アントニオさんの声がして、よくわからないけど女の人の怒った声もする。教育的指導が入ったようだ。男の人の声にびくっとなるけど、アントニオさんはおれに配慮して中まで入って来ない。声まで怖がっては本当に失礼だ。
「あれはな、侍従のくせに腕っ節が強くて懐こい性格をしておってな。街をそぞろ歩くのに護衛としてうってつけじゃし、ハリーの良い兄替わりになると思うておったのじゃ」
俺たちが王都に随行すると決まった時に、領地に残った面々が「アントニオが良い」と決めたのだそうだ。ロックウェルさんの信頼も厚く、急遽決まった輿入れに、王城に送り出すことまで検討されていた。
俺が王城に泊まった初日、ひとり屋敷に帰っていたご領主様は、家宰さん、侍従長さんと、そんなことまで話していたらしい。アントニオさんは行儀が少々庶民的なので、俺のお妃教育をしながらそっちもなんとかする方針でまとまった、とかとか。
が、けろりとしていたはずの俺が夜会の会場で壊れてしまい、方針が駄々崩れしているってことだろ? やっぱり、俺が悪いんじゃん。
「僕、こんなのでブライト様のお側にいて良いのかな?」
出会ったばかりだし、ブライト様は俺のこと面倒くさくならないかな。そう思ったら、また涙が出てきた。
「また余計なこと考えてるでしょ。気にしないの。そもそも王太子様は、はーちゃんが怯えて縋るのに心臓撃ち抜かれてるんだから、甘えていれば良いの」
「でもお妃様って、お仕事あるんじゃないの? ほら、テレビで皇室の方のご公務って見たことあるよ」
「てれびが何かはわからぬが⋯⋯公務なら、できることからで良いじゃろう。孤児院の慰問などから始めれば良い。大勢の前に出たりするは、殿下と共にすれば良いよ」
「そうかな⋯⋯でも」
「差し出がましくも、発言をお許しください」
カナリーさんが丁寧に頭を下げた。彼女は出来る侍女さんなので、通常なら会話に割り込んだりしない。ご領主様が頷くと、カナリーさんは少し眉を下げて口を開いた。
「恐れながら、ハリー様がお輿入れをご辞退されますと、国が滅びると存じます」
「は?」
「で、あろうな」
「王太子殿下の根回しの早さを鑑みるに、ハリー様を逃すつもりは微塵もないと存じます。ましてや殿下を嫌ってとか他に思う方がいるではなく、第三者の悪意によってハリー様が身を引かれたとなれば、その第三者の首くらい、簡単に跳ねておしまいになるでしょう。王太子の権力はもちろん、騎士団総団長の地位も名誉職でなく、実力あってのこと。もしもハリー様が姿をお隠しになられましたら、その力を存分に振るってお探しなさることでしょう」
その過程でどれだけ人が路頭に迷おうが知ったこっちゃない、と?
「殿下はわたくしの弟子であるが、そなたらの養い親の弟子でもある。陛下の長子でさえなくば、魔女殿が後継に迎えたであろうの」
剣も魔法も規格外ってことか。
「魔法使いの気儘さを、剣士の忍耐と王族の理性で抑えておいででございます」
厳かとも言える口調で、カナリーさんが締めくくった。隣でモーリンさんが頷いている。
それって例えば、ハスキー犬野郎を裁判もなしに嬲り殺したりする可能性があるってこと? 忍耐と理性が良い仕事してるってことだよね。
でも、それほど愛されてるんだ。そう思ったらほっぺたが熱くなった。ブライト様のことを考えていたら、いつのまにか震えも止まっていた。我ながら現金だ。⋯⋯本人に会いたいな。
「はーちゃんたら、何考えてるのか丸わかりよ」
言わないで! もっと頭に血が上るから!
「そして王太子様、とんだヤンデレ予備軍ね!」
るぅ姉、俺もそう思った!
そのロックウェルさんが難しい顔をして俺の前に立っていた。
「お風呂はひとりで入りたいです」
俺はしょんぼりしながら言った。だってこれから、俺の行動には全部、侍女か侍従がつくって言うんだ。侍女さんはいいよ、カナリーさんたちだもん。でも、侍従さんは怖い。
ご領主様のお屋敷に帰ってきて、なんと俺は気絶してしまったんである。精神的ストレスで失神って、漫画のヒロインだけだと思ってたのに、馬車が停まって、従僕さんが扉を開けてくれた瞬間パニックになって、気づいたらベッドの上だった。
その時はなにが起こったのかよくわからなかったけど、侍従さんや従僕さんを見るとパニックを起こすので、どうやら若い男がダメなようだ。
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「ですがハリー様、貴方様は王太子殿下の妃となられる方でございます。世話をされることに慣れてくださいませ」
ロックウェルさんが重々しく言ったけれど、首を縦に振れるわけがない。
「カナリーさんたちが良くしてくれます。彼女たちだけで充分です。お風呂はひとりで入ります」
「我儘も大概になさいませ。ご入浴を嫌がるなど、小さな子供ですか? 仕方ありませんな、アントニオ、いいからお連れしなさい」
ロックウェルさんが呼ばわると、侍従のお仕着せを着た背の高い男が入ってきて、俺と上司を見比べてどうしたものかと肩を竦めた。
俺はと言えば、必死に意識を保っているものの、ガタガタと震えて後退り、ソファーに膝カックンされてそのまま座り込んでしまった。
怖い怖い怖い!
侍女さんトリオは、ご領主様とるぅ姉のところに今後の方針とやらを話しに行った。ロックウェルさんはその隙をついてきたんだけど、おじいちゃんなら平気かと、部屋に入れてしまったんだ。ご領主様が信頼する家宰さんだし、追い返すのも失礼かと思って。
でも、侍従さんまで入って来るなんて!
「ハリー様、駄々を捏ねていないで、ご入浴の支度をなさいませ」
違う、お風呂が嫌なんじゃない! 侍従さん、アントニオさんが怖いんだ。もちろんアントニオさんは悪くない。でもでも、怖い怖い怖い。
「異世界からの迷い子と伺いましたが、異世界の方とは、皆様そのように我儘と思われても良いのですか?」
諭すようにロックウェルさんが言う。言ってることはすごく正しい。
ヤダヤダ、怖いんだ。助けて、ブライト様!
ここは俺のために用意された部屋だ。王都で一番安心できる空間のはずなんだ。冬のあったかい布団のように、幸せでいられるはずなんだ。なのにこんなにも怖い目にあっている。
王城ではいちばん怖い時にはブライト様がいてくれたのに、今は誰もいない。自分で自分を抱きしめるように縮こまり、イヤイヤと首を振る。とんだ駄々っ子だ。
『お風呂で、男の人に服を脱がされるのが怖いんだ』
ポツリと口からこぼれた。
るぅ姉にふたりきりのとき以外は、日本語はダメだと言われているけれど、シュザネット語を話す余裕がない。恐怖に支配されて、考えがまとまらない。
ハスキー犬野郎は、ブライト様が来なかったら、俺を裸に剥いただろう。ブライト様じゃなきゃイヤだ。ほかの男は怖いんだ。
「ハリー様、お国の言葉で誤魔化してはなりません。さぁ、アントニオ」
「うーん、今日のところは下がった方が良くないっすか?」
「お前まで甘やかしてどうする。それではハリー様のお為にならぬだろう。お連れしなさい」
再度促されてアントニオさんが一歩踏み出した。人の良さそうな顔が、困ったように眉を下げている。瞳がアイスブルーに光った気がした。その瞬間、俺の中でプツンと音がした。
ブライト様!
俺は窓に向かって走り、棧に足を掛けると夕闇にけぶる街に飛び出した。とにかくブライト様に逢いに行きたかった。ここが三階だなんてどうでもよかったし、先触れもなく王城の門扉を開けさせることができないことなんか、全く考えていなかった。
どこか遠くで叫ぶ声がする。違う、俺の声だ。俺が叫んでいるんだ。
落下の恐怖でなくアントニオさんへの恐怖、そして同時に、ゴーカンミスイになんの関係もない人を一方的に嫌悪することの罪悪感。
落ちるのは一瞬だった。
あたり一面花が咲き乱れ、柔らかな苔が大地を覆った。優しい風が俺の体を抱きとめて、苔の上にそっと下ろしてくれた。
なにが起こったんだろう?
一階の窓からモーリンさんが飛び出してくるのが見えた。顔が真っ青だ。その後ろに魔法陣を操るカナリーさんとマーサさんがいる。風と木の魔法使いのふたりに助けられたのだ。今更ながら、ブライト様が侍女さんトリオを俺に付けてくれた意味を知る。侍女としての能力だけでなく、魔法使いとしても一級だからだ。
窓から落ちたショックで我に返る。
俺はなんてことをしたんだろう。パニックになったからと言って、窓から逃げ出すなんて。侍女さんトリオが居なかったら今頃大怪我をしている。打ちどころが悪けりゃ、死んでたはずだ。
「ハリー様、大丈夫でございますか? なにがあったのですか⁈」
モーリンさんが俺の体をペタペタ触っている。これだけ触られても、女の人なら平気みたいだ。
カナリーさんとマーサさんのおかげで、怪我はひとつもない。けれど、見上げた三階の自室の窓に、ロックウェルさんとアントニオさんの姿を見て、再び体に震えが走った。彼らは身を乗り出して、俺の無事を確認していた。
「あんのクソジジイ。ハリー様のお部屋に男を入れやがりましたわね!」
モーリンさん、言葉悪いっす。
「モーリン、ハリー様をルーリィ様のお部屋へお連れして! マーサは殿下に遣いに行って! 私はジジイどもをジーンスワーク辺境伯様のところに連れて行くわ!」
カナリーさんも、口悪いっす。
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「ごめんなさい。僕の部屋が三階だって、頭から抜けてたの」
飛び降りようなんて思っていなかった。ただ、逃げたかっただけだ。けど、俺ってかなり危ないんじゃないか? 心療内科とかカウンセリングにかからなきゃいけないレベルの。
「るぅ姉、どうしよう。僕みんなに迷惑かけてる」
おれが勝手に怖がっているだけで、ロックウェルさんもアントニオさんも悪くないんだ。俺がブライト様の伴侶になるんなら、人に傅かれることも覚えなきゃいけない。今から慣れるよう、心遣いしてくれたに過ぎない。
俺の考えていることがわかるのか、るぅ姉が溜息混じりに言った。
「ロックウェルさんは焦ったのね。はーちゃんみたいな普通の子が、七日後には王太子様の求婚の御使者をお迎えしなきゃならないんだもの」
俺たちが王城を辞したとき、十日後の良き日に使者を出すことを告げられていた。王城から専属の侍女まで連れ帰ったので、家宰のロックウェルさんはそりゃ驚いたろう。民族的に幼く見えて、しかも訳もわからずぶっ倒れる、およそ健康とは思えない子供だ。
三日ほど様子を見て、決まった少ない人々に囲まれている俺を心配したに違いない。だって、俺の教育係のロベルトさんは、ロックウェルさんのお弟子さんだもの。
「あの方、厳しい顔してますが、ものすごい心配性なんです。石橋を叩いて叩いて叩かないと渡らないんです。多少小言をいただくかもしれませんが、裏にはちゃんと愛情がありますからね」
ロベルトさんが言ってたのを思い出す。
だから俺が王城に行っても恥をかかないように、侍女さんトリオに甘やかされ過ぎないよう、厳しく言ったんだ。
わかってる。わかってるけど、怖かった。
るぅ姉が隣に座って肩を抱いてくれた。俯くと涙がこぼれた。
やがて先触れが来て、間をおかずご領主様がロックウェルさんを連れてやって来た。ロックウェルさんはいつものピンと張った背筋じゃなく、なんとなく萎れていた。
「ハリーや、わたくしの落ち度じゃ。王城でのことは世に出れば花嫁の疵になるゆえ、爺やに言うておらなんだ。怖い思いをさせたの」
あぁ、そうか。変に噂が広がれば、未遂が未遂じゃないことになって、ブライト様に相応しくないって言われちゃうんだ。元々得体の知れない異世界人、これから反対の声を上げる人も出るだろう。その人たちにかっこうの排除理由を与えることになる。だから知ってる人は少ない方がいい。
「申し訳ございません。この爺、ハリー様のお世話に年甲斐もなく張り切っておりました。誰もが納得する素晴らしいお妃さまに⋯⋯など、見当違いなことを⋯⋯よもやそのように稚き容姿の方に無体を迫る輩がいたとは⋯⋯!」
怒りと無念と自分への失望だろうか、ロックウェルさんは呻くように言葉を絞り出した。
「ロックウェルさんは悪くないです。もちろんアントニオさんも。あ、アントニオさんに謝らなくちゃいけませんね」
「大丈夫っすー。気にしてないっすッて、アイタタ」
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「恐れながら、ハリー様がお輿入れをご辞退されますと、国が滅びると存じます」
「は?」
「で、あろうな」
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