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番外編
月の終わりもあなたと。
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宰相補佐官補佐 × 宰相補佐官
ランバートとジョセフとは結婚して十年になる。公私共になくてはならない存在だった。なにかと存在が華やかな宰相閣下の影にあって、コツコツと丁寧な仕事に定評のある補佐官であるランバートは、后子殿下から『真っ先に働き方改革しなきゃ駄目な人認定』という、不名誉な称号をもらってしまった。
それを補うための補佐官補佐は、仕事の補助は当然として、生活能力を母親の胎の中に忘れてきたと称されるランバートの食生活を改善させた。ランバートが仕事に没頭しすぎると、口元まで菓子を運んでやる姿は、宰相府では見慣れたものだ。
誰も指摘しないのは、無意識で口を開けている補佐官が自分の恥ずかしい状況に気づいたら、補食をしなくなることがわかりきっているからだ。食の細いランバートから菓子を取り上げたら、あっという間に倒れてしまうだろう。
后子殿下が差し入れてくれた菓子はとても人気で、宰相府の文官たちはこぞって手に入れようとするものの、ランバートのぶんだけはそっと取り置いておく。⋯⋯でないとジョセフの無言の圧力が怖いからだ。
若いころのジョセフは、同期だった現在の騎士団長にも一目置かれるほどの騎士だった。体格にも恵まれて腕も立ち、真面目で書類仕事も出来た。身体を動かすこと以外を面倒くさがる騎士が多い中、警邏隊詰所の会計の一切を担っていた程度には、頭が良い。
怪我をして騎士を廃業したものの、その事務能力を買われて宰相補佐官補佐という、いささから呼びにくい職務に就くために宰相にスカウトされたという。
基本的に武張ったことには向かない宰相府の文官の中で、元騎士のジョセフは異質だった。文官になっても怠らない鍛錬のため、逞しい身体付きは騎士だったころと変わらない。利き手の腱を切断して剣が持てなくなったと言いながら、体術に関しては未だ騎士団長から若手の指南を頼まれるほどだ。
そんなジョセフに物理的な身長差にものを言わせて遥か高みから見下ろされると、彼の大事な宰相補佐官のための菓子は、なにがなんでも残しておかねばならなかった。無論彼には別に威圧などしている心算はない。ただ、デカイだけだ。
「ランバートさん、休憩にしましょう」
「んー」
ジョセフの提案にランバートが生返事をした。月末はいつもこうだ。月毎に書類を整理して年度毎に棚に並べることで、後々のためになるという。そのために毎月の月末は少し忙しい。
いつだか若い文官が、古い資料など誰も見ないから、とりあえずまとめておけばいいと言ったことがある。その文官はキツくお灸を据えられた。リュシフォード王が即位した十三年前から宰相府に務める古参の文官は、一ヶ月のあいだ不眠不休で、たった一枚の書類を探したことがあるという。
そんなこともあって、書類は毎月きちんと決まった書式にまとめて資料庫の書架に保管される。その最後の確認をするのが宰相補佐官の仕事である。
各所から届けられた書類に目を通し、不備があれば突き返し、問題がなければ宰相閣下に届ける。それだけ聞くと単純な仕事であるが、どこにでも時間に余裕を持たない輩はいる。少なくはない駆け込み提出のせいで、毎月末ランバートは残業を強いられている。
ランバートは時間が足りなくなると、まず食事の時間を省く。食堂で過ごす四半刻(約三十分)が勿体ないというのが理由だ。仕事に集中しすぎて時計も見ないので、気づけば夕方になっていることもザラだ。それでもランバートが倒れないのは、宰相補佐官補佐といういささか呼び難い役割を果たしているジョセフがいるからだ。
ジョセフはランバートの夫でもある。十年前に二年間の交際を経て結婚した、万年新婚夫婦と揶揄されるほどの仲良し夫婦だ。面と向かってそう言われると夫と妻の反応は二極化する。夫は爽やかな顔貌に満面の笑みを浮かべて頷き、妻は白い肌を真っ赤に染めて右往左往し始めるといった具合だ。そしてその妻を、心底愛おしげに夫が抱き寄せるところまでがお約束である。
そんな愛おしい妻が生返事しか返さないのを確認すると、ジョセフはお茶を珈琲に取り替えた。華奢なティーカップとソーサーのセットを片付けて、ぽってりした可愛らしいマグカップに珈琲を注ぎ、たっぷりのミルクを追加した。后子殿下の差し入れのマドレーヌと一緒にトレイに乗せて補佐官の席まで運ぶ。執務室の中で二番目に立派な机は書類の山に埋もれていた。
そうしてジョセフは書類に埋もれる妻の傍に陣取ると、マドレーヌを太い指で摘んで妻の唇に押し当てた。小さな口が自然に開かれて、マドレーヌが齧り取られる。唇に着いた小さなカケラをちろりと舐めとった。
ランバートはゆっくり咀嚼しながら真剣な目で書類を読み込み、紙片になにかを書き付けて書類の端に貼った。恐らく不備を見つけて修正箇所を指摘したのであろう。差し戻しのケースに束ねた書類を突っ込んだタイミングでマグカップが差し出されると、手元を見もせずに受け取って一口含んでカップを突き返す。ジョセフはそれを受け取ると、再びマドレーヌを差し出した。
ランバートは一口が小さいので、トレイの上が空になるまでにかなりの時間がかかる。そうして午後のお茶の時間を夫に給餌されて終えると、脳が糖分を摂取したおかげか少し仕事が捗っているようだ。
ジョセフはトレイを片付けると差し戻しの書類を各部署に突き返して周り、さりげなく圧力をかける。月の末日まで抱え込んでおいて、不備だらけなど言語道断である。
そうしてなんとか今月も乗り越えた。最後の書類を決裁済みのケースに入れてあるものと揃えて綴る。
「⋯⋯眠い」
とっくに宰相府の執務室からは人が消え、残っているのはランバートとジョセフだけだ。部屋の明かりも半分消えていて、窓から見える景色も暗い。
「お疲れさまでした」
「ジョセフもね」
「あなたのほうがよっぽどですよ」
自分は鍛えてますから、とジョセフは微笑んだ。男っぽい爽やかな顔貌が、ランバートだけに向けられている。
「今日は馬車を借りましょうね」
「馬車の中で寝てしまいそう」
あまりに夜が遅くなると夜道が危険なため、文官は馬車を借りることができる。数年前に后子殿下が、『シュウデン過ぎたらタクシーチケットを出さなきゃね』と謎の言葉とともに馬車の貸し出しを決めた。
まだそこまで遅い時間でもないし元騎士が共にいれば、危険なことなどなにもない。それでも馬車を借りるのが許されるのは、ランバートが宰相府で最も忙しい男だからだ。
「寝てください」
ジョセフが微笑んで言った。
「⋯⋯我慢したいのだけれど」
ランバートは唇を尖らせた。
結果として、ランバートは馬車の中で眠ってしまった。チャプチャプと水が跳ねる音で目が覚めて、ぼんやりした頭で状況を確認する。微温い湯の中でジョセフに抱き抱えられていた。自宅の浴室である。当然ふたりとも服など着ていない。
「⋯⋯我慢したかったのに。このままでは本当に、ジョセフがいないと生きていけなくなってしまうよ」
だから、ちゃんと目を開けたまま自宅に辿り着いて、入浴くらいひとりでしなければ。月末毎にそう決意するのに、結局全ての世話をジョセフにさせてしまうのだ。
「俺がいないと生きていけないなんて、お誘いを受けてると思っていいんですか?」
「恥ずかしいことを言っては嫌だ。そういうことは明るい場所では言わないものでしょう?」
浴室は明るい。ジョセフは素直に引き下がった。恥ずかしがり屋の妻は明るい場所での閨事は、本気で泣いて嫌がって、舌まで噛みそうなほど混乱に陥る。今だってちょっとした軽口なのに、すでに湯に温まったせいではなく赤く火照って、視線がウロウロしている。
寝台の中では恥ずかしがりながらも応えてくれるし、明るい浴室で世話をされるのにもようやく慣れたけれど、その両方が一緒になると途端に恐慌をきたす。面倒そうにも思えるが、そんなこともないとジョセフは笑う。自分にしか見せない姿だとわかっているからだ。
思えばはじめて閨を共にしたのは、本当に結婚初夜だった。付き合って二年、礼儀正しい口付けとエスコート。長い甘美な地獄を味わった後の花嫁との夜は、忍耐とそれ以上の幸福をジョセフにもたらした。そしてその幸福は今も継続中だ。
「もう遅い時間なので、夕食は軽くつまめるものにしました。明日と明後日は連休の申請が通りましたよ」
月末締めのあとの連休の申請が通らなかったことはない。なぜなら、それだけの仕事をしているからだ。
「連休じゃなくてもいいのに」
仕事の虫が唇を尖らせた。ジョセフは彼の背後でくすくす笑った。言わないけれど、明日の休暇はジョセフのご褒美で、明後日の休暇はランバートの休養のためだ。月末はいつもふたり揃って残業だから、この五日間は口付けを交わすのみだったから、明日の夜は寝台の上で堪能するつもりだ。元騎士の体力で文官の妻の身体を愛すると、どうしても翌朝は起きられなくなるからこその連休だというのに、何も分かってないのが可愛い。
少し眠ったおかげで意識がはっきりしてきたランバートを、湯上がり用の沐浴布にくるんで抱き上げる。
「もう目が覚めたから、自分でできるよ」
「俺にさせてください。妻を甘やかす楽しみを奪わないでください」
「⋯⋯恥ずかしいのに」
「頑張って慣れましょう。夫婦なんですから、夫に甘やかされるのは妻の義務ですよ」
顳顬にチュッと親愛のキスをしてから床に下ろす。手早く身支度を済ませると、ダイニングではなくソファーに腰を落ち着ける。すでに食べるものはローテブルに並んでいたので、特に準備するものはないようで、ジョセフは躊躇いなくランバートを膝に乗せた。
ランバートの基準は少しおかしくて、膝に座るのは抵抗されない。国王陛下が隙あらば后子殿下を膝に乗せているのを見ているのと、彼の実家が大家族なのが原因だろう。子爵家では、年長者の膝の上には常に誰かしら子どもが乗っていて、抱っこするのもされるのも、家族なら当然だと思っている節がある。
そうして膝に乗ったまま、帰りに購入してきたのだろう惣菜をジョセフの手で口に運ばれて、お返しに彼の口にも運んでやる。この場に第三者がいたのなら、それぞれ自分で食べろと突っ込んだかもしれない。
満腹になって再びランバートの目蓋が落ちてくると、ジョセフは洗面台で口を濯がせてから寝室に運んだ。全ては抱き上げてのことで、ランバートは馬車に乗ってから後は、自分の足で歩いたのは風呂上がりの数歩だけだった。
「おやすみなさい、ランバートさん」
「んぅ」
「明日の夜は覚悟しておいてくださいね」
「ん⋯⋯」
ジョセフは灯りを着けないままの寝室でランバートの額に口付けを落とした。
そんなふたりの日常は、宰相の代替わりと共に補佐官の地位を退く日まで続くのだった。
〈 おしまい 〉
⁂ ⁂ ⁂ ⁂ ⁂
補佐官が恥ずかしがりすぎて、えちえちを読者様に見せるのを嫌がりました(笑)。補佐官補佐はやぶさかではないと申しておりますので、結婚前後のアレコレを書こうと思いますが、時系列的に12年~10年前なのでパン屋の倅の番外編として更新しようかと思います。
ランバートとジョセフとは結婚して十年になる。公私共になくてはならない存在だった。なにかと存在が華やかな宰相閣下の影にあって、コツコツと丁寧な仕事に定評のある補佐官であるランバートは、后子殿下から『真っ先に働き方改革しなきゃ駄目な人認定』という、不名誉な称号をもらってしまった。
それを補うための補佐官補佐は、仕事の補助は当然として、生活能力を母親の胎の中に忘れてきたと称されるランバートの食生活を改善させた。ランバートが仕事に没頭しすぎると、口元まで菓子を運んでやる姿は、宰相府では見慣れたものだ。
誰も指摘しないのは、無意識で口を開けている補佐官が自分の恥ずかしい状況に気づいたら、補食をしなくなることがわかりきっているからだ。食の細いランバートから菓子を取り上げたら、あっという間に倒れてしまうだろう。
后子殿下が差し入れてくれた菓子はとても人気で、宰相府の文官たちはこぞって手に入れようとするものの、ランバートのぶんだけはそっと取り置いておく。⋯⋯でないとジョセフの無言の圧力が怖いからだ。
若いころのジョセフは、同期だった現在の騎士団長にも一目置かれるほどの騎士だった。体格にも恵まれて腕も立ち、真面目で書類仕事も出来た。身体を動かすこと以外を面倒くさがる騎士が多い中、警邏隊詰所の会計の一切を担っていた程度には、頭が良い。
怪我をして騎士を廃業したものの、その事務能力を買われて宰相補佐官補佐という、いささから呼びにくい職務に就くために宰相にスカウトされたという。
基本的に武張ったことには向かない宰相府の文官の中で、元騎士のジョセフは異質だった。文官になっても怠らない鍛錬のため、逞しい身体付きは騎士だったころと変わらない。利き手の腱を切断して剣が持てなくなったと言いながら、体術に関しては未だ騎士団長から若手の指南を頼まれるほどだ。
そんなジョセフに物理的な身長差にものを言わせて遥か高みから見下ろされると、彼の大事な宰相補佐官のための菓子は、なにがなんでも残しておかねばならなかった。無論彼には別に威圧などしている心算はない。ただ、デカイだけだ。
「ランバートさん、休憩にしましょう」
「んー」
ジョセフの提案にランバートが生返事をした。月末はいつもこうだ。月毎に書類を整理して年度毎に棚に並べることで、後々のためになるという。そのために毎月の月末は少し忙しい。
いつだか若い文官が、古い資料など誰も見ないから、とりあえずまとめておけばいいと言ったことがある。その文官はキツくお灸を据えられた。リュシフォード王が即位した十三年前から宰相府に務める古参の文官は、一ヶ月のあいだ不眠不休で、たった一枚の書類を探したことがあるという。
そんなこともあって、書類は毎月きちんと決まった書式にまとめて資料庫の書架に保管される。その最後の確認をするのが宰相補佐官の仕事である。
各所から届けられた書類に目を通し、不備があれば突き返し、問題がなければ宰相閣下に届ける。それだけ聞くと単純な仕事であるが、どこにでも時間に余裕を持たない輩はいる。少なくはない駆け込み提出のせいで、毎月末ランバートは残業を強いられている。
ランバートは時間が足りなくなると、まず食事の時間を省く。食堂で過ごす四半刻(約三十分)が勿体ないというのが理由だ。仕事に集中しすぎて時計も見ないので、気づけば夕方になっていることもザラだ。それでもランバートが倒れないのは、宰相補佐官補佐といういささか呼び難い役割を果たしているジョセフがいるからだ。
ジョセフはランバートの夫でもある。十年前に二年間の交際を経て結婚した、万年新婚夫婦と揶揄されるほどの仲良し夫婦だ。面と向かってそう言われると夫と妻の反応は二極化する。夫は爽やかな顔貌に満面の笑みを浮かべて頷き、妻は白い肌を真っ赤に染めて右往左往し始めるといった具合だ。そしてその妻を、心底愛おしげに夫が抱き寄せるところまでがお約束である。
そんな愛おしい妻が生返事しか返さないのを確認すると、ジョセフはお茶を珈琲に取り替えた。華奢なティーカップとソーサーのセットを片付けて、ぽってりした可愛らしいマグカップに珈琲を注ぎ、たっぷりのミルクを追加した。后子殿下の差し入れのマドレーヌと一緒にトレイに乗せて補佐官の席まで運ぶ。執務室の中で二番目に立派な机は書類の山に埋もれていた。
そうしてジョセフは書類に埋もれる妻の傍に陣取ると、マドレーヌを太い指で摘んで妻の唇に押し当てた。小さな口が自然に開かれて、マドレーヌが齧り取られる。唇に着いた小さなカケラをちろりと舐めとった。
ランバートはゆっくり咀嚼しながら真剣な目で書類を読み込み、紙片になにかを書き付けて書類の端に貼った。恐らく不備を見つけて修正箇所を指摘したのであろう。差し戻しのケースに束ねた書類を突っ込んだタイミングでマグカップが差し出されると、手元を見もせずに受け取って一口含んでカップを突き返す。ジョセフはそれを受け取ると、再びマドレーヌを差し出した。
ランバートは一口が小さいので、トレイの上が空になるまでにかなりの時間がかかる。そうして午後のお茶の時間を夫に給餌されて終えると、脳が糖分を摂取したおかげか少し仕事が捗っているようだ。
ジョセフはトレイを片付けると差し戻しの書類を各部署に突き返して周り、さりげなく圧力をかける。月の末日まで抱え込んでおいて、不備だらけなど言語道断である。
そうしてなんとか今月も乗り越えた。最後の書類を決裁済みのケースに入れてあるものと揃えて綴る。
「⋯⋯眠い」
とっくに宰相府の執務室からは人が消え、残っているのはランバートとジョセフだけだ。部屋の明かりも半分消えていて、窓から見える景色も暗い。
「お疲れさまでした」
「ジョセフもね」
「あなたのほうがよっぽどですよ」
自分は鍛えてますから、とジョセフは微笑んだ。男っぽい爽やかな顔貌が、ランバートだけに向けられている。
「今日は馬車を借りましょうね」
「馬車の中で寝てしまいそう」
あまりに夜が遅くなると夜道が危険なため、文官は馬車を借りることができる。数年前に后子殿下が、『シュウデン過ぎたらタクシーチケットを出さなきゃね』と謎の言葉とともに馬車の貸し出しを決めた。
まだそこまで遅い時間でもないし元騎士が共にいれば、危険なことなどなにもない。それでも馬車を借りるのが許されるのは、ランバートが宰相府で最も忙しい男だからだ。
「寝てください」
ジョセフが微笑んで言った。
「⋯⋯我慢したいのだけれど」
ランバートは唇を尖らせた。
結果として、ランバートは馬車の中で眠ってしまった。チャプチャプと水が跳ねる音で目が覚めて、ぼんやりした頭で状況を確認する。微温い湯の中でジョセフに抱き抱えられていた。自宅の浴室である。当然ふたりとも服など着ていない。
「⋯⋯我慢したかったのに。このままでは本当に、ジョセフがいないと生きていけなくなってしまうよ」
だから、ちゃんと目を開けたまま自宅に辿り着いて、入浴くらいひとりでしなければ。月末毎にそう決意するのに、結局全ての世話をジョセフにさせてしまうのだ。
「俺がいないと生きていけないなんて、お誘いを受けてると思っていいんですか?」
「恥ずかしいことを言っては嫌だ。そういうことは明るい場所では言わないものでしょう?」
浴室は明るい。ジョセフは素直に引き下がった。恥ずかしがり屋の妻は明るい場所での閨事は、本気で泣いて嫌がって、舌まで噛みそうなほど混乱に陥る。今だってちょっとした軽口なのに、すでに湯に温まったせいではなく赤く火照って、視線がウロウロしている。
寝台の中では恥ずかしがりながらも応えてくれるし、明るい浴室で世話をされるのにもようやく慣れたけれど、その両方が一緒になると途端に恐慌をきたす。面倒そうにも思えるが、そんなこともないとジョセフは笑う。自分にしか見せない姿だとわかっているからだ。
思えばはじめて閨を共にしたのは、本当に結婚初夜だった。付き合って二年、礼儀正しい口付けとエスコート。長い甘美な地獄を味わった後の花嫁との夜は、忍耐とそれ以上の幸福をジョセフにもたらした。そしてその幸福は今も継続中だ。
「もう遅い時間なので、夕食は軽くつまめるものにしました。明日と明後日は連休の申請が通りましたよ」
月末締めのあとの連休の申請が通らなかったことはない。なぜなら、それだけの仕事をしているからだ。
「連休じゃなくてもいいのに」
仕事の虫が唇を尖らせた。ジョセフは彼の背後でくすくす笑った。言わないけれど、明日の休暇はジョセフのご褒美で、明後日の休暇はランバートの休養のためだ。月末はいつもふたり揃って残業だから、この五日間は口付けを交わすのみだったから、明日の夜は寝台の上で堪能するつもりだ。元騎士の体力で文官の妻の身体を愛すると、どうしても翌朝は起きられなくなるからこその連休だというのに、何も分かってないのが可愛い。
少し眠ったおかげで意識がはっきりしてきたランバートを、湯上がり用の沐浴布にくるんで抱き上げる。
「もう目が覚めたから、自分でできるよ」
「俺にさせてください。妻を甘やかす楽しみを奪わないでください」
「⋯⋯恥ずかしいのに」
「頑張って慣れましょう。夫婦なんですから、夫に甘やかされるのは妻の義務ですよ」
顳顬にチュッと親愛のキスをしてから床に下ろす。手早く身支度を済ませると、ダイニングではなくソファーに腰を落ち着ける。すでに食べるものはローテブルに並んでいたので、特に準備するものはないようで、ジョセフは躊躇いなくランバートを膝に乗せた。
ランバートの基準は少しおかしくて、膝に座るのは抵抗されない。国王陛下が隙あらば后子殿下を膝に乗せているのを見ているのと、彼の実家が大家族なのが原因だろう。子爵家では、年長者の膝の上には常に誰かしら子どもが乗っていて、抱っこするのもされるのも、家族なら当然だと思っている節がある。
そうして膝に乗ったまま、帰りに購入してきたのだろう惣菜をジョセフの手で口に運ばれて、お返しに彼の口にも運んでやる。この場に第三者がいたのなら、それぞれ自分で食べろと突っ込んだかもしれない。
満腹になって再びランバートの目蓋が落ちてくると、ジョセフは洗面台で口を濯がせてから寝室に運んだ。全ては抱き上げてのことで、ランバートは馬車に乗ってから後は、自分の足で歩いたのは風呂上がりの数歩だけだった。
「おやすみなさい、ランバートさん」
「んぅ」
「明日の夜は覚悟しておいてくださいね」
「ん⋯⋯」
ジョセフは灯りを着けないままの寝室でランバートの額に口付けを落とした。
そんなふたりの日常は、宰相の代替わりと共に補佐官の地位を退く日まで続くのだった。
〈 おしまい 〉
⁂ ⁂ ⁂ ⁂ ⁂
補佐官が恥ずかしがりすぎて、えちえちを読者様に見せるのを嫌がりました(笑)。補佐官補佐はやぶさかではないと申しておりますので、結婚前後のアレコレを書こうと思いますが、時系列的に12年~10年前なのでパン屋の倅の番外編として更新しようかと思います。
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