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1巻

1-3

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 姉上は夫となったアレンジロ王が政務をしている時間を、僕への見舞いにあてた。なんと王自ら彼女をエスコートして王太子宮に送り届け、夕方に迎えに来る。つがいへの甘やかしは獣人族の男の権利らしい。
 姉上は常に三名の侍女を引き連れていた。彼女は身の回りのことは自分でできるし、王太子宮にも侍従がいる。それなのに三名もの侍女がついてくるのは、アレンジロ王がジェインネラ姉上を心配しすぎているからだ。
 王宮で働く小型獣人の女性のほとんどは、唯一の側妃である姉上を世話するために集められた。
 それにしても不思議だ。小型獣人の女性はそれなりにいるのに、大型獣人との婚姻では子どもができないなんて。そしてもっと不思議なのは、人族となら性別すらりょうして子どもができちゃうってことだ。未だに信じられない。
 今日はリオンハネスの城に住むようになって初めて、庭に出た。王太子宮の庭はあまり手をかけられていないようで野生味あふれる佇まいだ。それがリカルデロ王太子っぽくて面白い。
 リカルデロ王太子といえば、僕が王太子宮に住んでいることに気づいているかも怪しかった。ここに寄りつきもしないから。
 もともとここには住まずに軍の宿舎にある将校用の部屋を使っていて、現在はヴェッラネッラ王国に出かけて後処理をしているらしい。
 僕が住むことになって突貫で無人の宮を整えたのだから、庭が野生味にあふれすぎていても仕方がないだろう。ほんぽうに伸びたたくましいつるが元気で、僕は結構好きだ。
 たくさん歩くと疲れるので、僕と姉上は四阿あずまやでお茶を飲みながらおしゃべりした。弱った身体のために薄くれられた紅茶と柔らかな焼き菓子が美味しい。

「わたくし、父と夫をいっぺんに手に入れた気持ちなの」

 姉上が恥ずかしそうに言う。はにかむ様子は柔らかで可愛らしい。以前は優しさの向こうに張り詰めたものを隠した笑顔だった。
 姉上は十八歳。王妃様の目を盗んで僕を生かそうと手を尽くすのは、どれだけ大変だっただろう。
 僕らは親との縁が薄い。母上は早くに亡くなったし、父上はアレだ。

「陛下は姉上にメロメロですもんね」
「嫌だわ、クリフったら」
「そのおかげで気兼ねなく姉上に会えるし、僕も息子のように可愛がってもらっています」

 後宮はそんなことが許される場所じゃない。ひとえにアレンジロ陛下の寛大さのおかげだ。

「リカルデロ殿下の妻なら、息子で間違いないのではなくて?」
「殿下ねぇ。僕がここに住むようになってから、一度も帰ってきませんよ」

 主人不在に居候いそうろうが大きな顔をしている罪悪感。なるべく隅っこでひっそりしていたいが、なにしろ毎日姉上をエスコートしてくる陛下とお会いする。それなりの格好をしなくちゃならなくなった。
 側妃のための予算は、今まで妃がいなかったから莫大に余っているとかなんとか……。ヴェッラネッラ王国の阿呆父上に、アレンジロ陛下の爪の垢をせんじてやってほしい。あぁそうだ、リカルデロ王太子がヴェッラネッラにいるのなら、民のために城の備蓄倉庫を開放してくれないかな。

「僕もちょっとは身体に肉がついたし、何か簡単な仕事がもらえるといいんだけど」

 カサカサでしぼんでいた肌は、急にふとって肉割れが出ないようにと、侍従さんたちが丁寧にマッサージしてくれる。メンズエステなんて経験がないから遠慮したいが、彼らの仕事だから奪うなと説教された。誰にって? ヤッカさんにだよ。
 でも人にかしずかれることが今までなかったから、四六時中ちゃんとした大人、しかも複数人に世話をされるのってそれなりにストレスだ。
 僕の食欲が落ちたのを機に、専属に年齢の近い小姓さんがつけられた。僕が気兼ねしなくても済むようにって配慮だ。ままを言って申し訳ないが、おかげで気が楽になる。
 これ以上食べる量が減ると寝たきりに逆戻りだと心配されたようだ。重ね重ね申し訳ない。
 とにかく姉上の献身と裏方に回った侍従さんたちの苦労は、少しずつ実を結び始めていた。毎日食べられる量が増えていく。美味しいお肉だって、脂身が丁寧に処理してあればお腹を壊さない。

「お仕事はまだ早いのではなくて?」

 姉上は心配そうだ。けれど彼女だってそろそろ公務が始まる。国王は政務、妃は福祉活動に尽力するのがらいだそうなので、姉上の仕事はそれがメインになるだろう。
 陛下には正妃、つまり王妃がいらっしゃらない。リカルデロ殿下の母上が亡くなられたからだ。王妃代行みたいなこともしなくちゃならないかも。

「そのうちどこかに下げ渡されるだろうし、姉上のお手伝いでもさせてもらおうかな」
「わたくしと一緒なら、どこかで倒れていないか心配しなくても良いわ。でもね、クリフ。下げ渡されることなんて考えてはダメよ」

 カップを置いた姉上が、僕の眉間のたてじわを指先でゆるめた。

「こんなガリガリ、欲しがる人がいなそうだけどね。ほら、謁見の間の話は聞いた? ザワザワして誰も手を上げなかったんだよ。仕方がないから宰相様が王太子宮預かりにって言い出したんだ」

 熊耳の宰相様は、やはりヴェッラネッラ王国に残って代官をしている熊耳さんと血縁だった。従兄弟だそうだ。
 それはともかく、人族の王族をすぐに妻に迎えなくても、小さな姫たちのように養育して嫁に出すことで偉い人に恩を売ろうという考えもあったはずだよな。僕はそれすら面倒なくらい、今にも死にそうで不細工なんだ。

「わたくしが陛下に伺ったのとは、ちょっと違っていてよ」
「そうなの?」
「あなたは殿下の運命かもしれない、と」
「はぁ? ないないない!」

 出会って数日の陛下と姉上たちとは、あまりに違うじゃないか。
 殿下はヴェッラネッラで初めて会った時、僕の臭いを嗅いで「旨そう」って言ったんだぞ。獣人族では鉄板の冗談かもしれないが、人族の僕はビビるっての!
 僕はお腹を抱えて笑った。こんなに笑ったのはいつぶりだろう。母上が亡くなる前、姉上と三人でピクニックに行った時? それとも前世で溺れる直前のバーベキュー?

「楽しそうだけれど、ちゃんとお考えなさい。それにそんなに大きな声で笑っては、胸が痛くなってしまってよ」

 胸は痛くならなかったが、腹筋がやられた。全身の筋肉が衰えまくっている枯れ木のような身体は、バカ笑いさえ許してくれないらしい。しまいには姉上も上品にクスクス笑って、庭の小さなお茶会は楽しく閉幕した。


 それからしばらくして、姉上は国王の側妃として慰問活動や奉仕活動に力を入れることになる。
 リオンハネス王国でヴェッラネッラの王族は嫌われるかもしれないなんて懸念は、あっさりとふっしょくされた。国力の差がありすぎて、ヴェッラネッラ王国軍はリオンハネス王国軍の本隊と衝突する前に全滅したらしい。国境を越えられることもなく、国内の被害はゼロ。ヴェッラネッラとは反対側の国境付近では、戦争をけしかけられたことさえ知らない民もいるそうだ。
 絶対的強者の獅子王の側妃である小さな人族の姫は慰問した先々で歓迎された。
 美人で飾らない姉上は、お年寄りの話を根気良く聞いたし、託児所では汚れることもいとわずに泥だらけの子どもを抱っこする。好かれる要素しかないね! 僕の姉上は最高だ。
 僕ら姉弟は二人で慰問先で出す炊き出しのメニューを考えたり、子どもたちを楽しませる遊びを提案したりする。姉上が神様の経典と呼ぶ前世の記憶から引っ張り出すレクリエーションは、子どもたちに大人気だ。
 小型獣人はだくさんの働き者が多く、働けない小さな子どもは教会が開く託児所に預けられる。保育所のようなシステムがあるなんてすごい。リオンハネス王国は出生率が低い大型獣人の子どもだけでなく、多産の小型獣人の子どもも大切にしている。
 そんな小さな子どもたちとの鬼ごっこはハードだ。よちよち歩きの子との追いかけっこでさえ、僕にはアスリートのトレーニングのように感じられる。小型獣人の子どもたちはうさぎねずみ、それに猫、よちよちちゃんといえどすばしっこい。

「そくひさまのおとうとさま! がんばってぇ」
「そくひさまのおとうとさまも、そくひさまなんだって!」
「そくひさまのおとうとさまの、そくひさま?」

 舌足らずな子どもたちに応援されるのを楽しんだ。
 子どもたちと遊んだ日は、食事が進むしたっぷり眠れた。太陽の光を浴びて少し日に焼けた気もする。小姓君は火照ほてった鼻の頭を冷やしながら日焼けを嘆いたが、食事の量が増えたのを喜んだ。
 そして驚くことに、僕に成長期が来た!
 ミシミシギシギシと身体がきしみ、夜通し痛みにうめくこと一ヶ月。苦しんだ割には伸びなかったものの、ついに姉上の身長を超えた。手足がひょろひょろと長くなって不恰好だが、もうちょっと肉がついたら見られるようになるだろう。

「ジェインネラ妃に似てこられましたね」
「そりゃ姉弟だもの」

 僕はヤッカさんと並んでりょういんに向かって歩く。侍従と護衛もそれなりについているが、何かあったらヤッカさんがなんとかしてくれるだろう。他力本願で悪いけど、僕は剣術なんて習ったことがない。
 季節はすっかり移り変わり、秋も深まってきた。冬が来て春になったら僕は叔父さんになる。リオンハネス王家に二十四年ぶりの子どもが生まれるのだ。
 僕が成長痛でうんうんうなっていた頃、姉上は悪阻つわりに苦しんでいた。アレンジロ陛下は歓喜と心配でおかしなことになっていて、格好いい百獣の王の威厳をどこかに投げ飛ばす。心配しすぎて姉上を部屋から出したがらないんだって。
 そんなわけで僕は姉上の付き添いからみょうだいに昇格して、りょういんや託児所を慰問していた。知り合いも随分と増えた。

「リカルデロ殿下もヴェッラネッラからお帰りになったのでしょう?」

 ヤッカさんは殿下の副官なので、ここにいるということはそうだよね。

「おや、いつの間にか殿下とお呼びですか?」
「そりゃ、ヴェッラネッラはリオンハネスのとびになったし、僕はもう陛下と殿下の臣民だもの」

 父上は陛下と呼ぶのもおこがましいおっさんだったし、王妃様は王妃様という生き物だ。敬称で呼んでいたのは惰性であって、うやまう気持ちはまるでなかったよ。

「そうですか。では、殿下にお会いになりたいとは思われませんか?」
「別に。最初からリカルデロ殿下は側妃はいらないとおっしゃってましたよね。それに枯草が枯枝になった程度の貧相な男があんな美丈夫に挨拶に行くなんて、あり得ませんよ」

 僕のことなんて忘れているに決まっている。そうでなけりゃ、面倒な側妃なんてさっさと臣下に褒賞として下げ渡されているだろう。下手に挨拶して存在を思い出されたら困る。僕は姉上の赤ちゃんを抱っこしたい。どうせなら、アレンジロ陛下の後宮の侍従になりたいんだけどな。

「あなたはお綺麗になられましたよ」

 ヤッカさんの声音は優しい。

「ふふふ、ヤッカさんは僕が一番貧相だった頃をご存知ですからね」

 ヴェッラネッラからの道中、枯草のような僕を一番近くで見ていたんだ。確かにあの頃と比べたら、百倍は見栄えが良くなったと思う。

「クラフトクリフ様はジェインネラ妃を美しいと思われますか?」

 突然どうした? 姉上が美しいのは誰の目にも明らかだろうに。

「もちろん。リオンハネス王国に来てから侍女さんたちにお世話になって、ますます綺麗になったと思う。髪の毛も艶々つやつやでお肌もなめらかで、お子をさずかってからはもともと優しい表情がさらに柔らかくなってきてね――」

 姉上自慢は止まらない。この世界にシスコンという言葉はない。だれはばかることなく、姉上賛美をしようじゃないか。

「落ち着いてください」

 ヤッカさんが若干引いている。

「その美しいジェインネラ妃に、あなたはそっくりにおなりなんですよ?」
「そりゃ姉弟だもの」

 二回目だ、このくだり。

「ご自分が美しいとは思われませんか?」
「はぁ?」

 僕が美しい? この貧相な枯枝が?

「またまたぁ」

 へらりと笑ってしまう。ついでにヤッカさんの片腕をぺしりと叩いた。

「そんな嬉しがらせを言ったって、なんにも差し上げるものがありませんよ! 僕の持ち物なんて何一つないんですから」

 住んでいる王太子宮にあるものは、全てリカルデロ殿下のものだ。そうでなければ、王国の。身につけている衣類だって、王太子の側妃のための経費で用意されたものであってわば貸与品だ。コンビニのユニフォームと一緒だと思っている。

「失礼ですが、殿下から個人的な贈り物は何かありましたか? たとえばジュエリーとか」
「なんで? もらう理由がありませんよ?」

 そんなものをもらってどこで使うの? 女の子ならともかく、僕、男だよ? 

「……馬鹿王太子め」

 ヤッカさんは時々口が悪い。リカルデロ殿下の学友兼目付け役として幼い頃からそばはべり、現在では国軍大将の副官を勤めているせいだろう。僕の様子を度々見に来て殿下に報告もしているし、公私共に立派な女房役だよね。名前だけの側妃の僕とは大違いだ。
 そろそろりょういんに着く。普通に歩くだけなら息切れしなくなった。半年前にはこんなに健康になれるなんて思いもしなかったよ。

「ごきげんよう、クラフトクリフ妃」
「こんにちは」
「側妃様、素敵な天気ですね」
「そうですね」

 最近ではボランティアで参加してくれる若い貴族が増えている。僕が来る時間に合わせて待っている人もいて、力仕事をお願いしていた。枯枝レベルの貧相さでは持ち上げられないあれこれも、大型獣人の青年たちなら片手間だ。いつぞやヤッカさんが言っていたように、鉱山の採掘業が苦にならないのがよくわかる。
 筋肉モリモリの青年たちに軽く挨拶を返していると、ヤッカさんが「彼らは?」とたずねた。

「奉仕活動参加者? 希望者?」

 疑問系なのは僕が来る日にしか現れないからだ。神父様が苦笑して教えてくれたので間違いない。

「リカルデロ殿下に取り入ろうとしているのかも」

 おのずと僕の返事は簡単なものになる。

「あなたをしてもらいたがっているのかもしれませんよ?」
「この枯枝を? ガリガリで目ばかりギョロギョロしてるのに?」

 僕は姉上と似ている。黒髪と青い瞳と白い肌。目鼻の配置も同じだ。でも、それだけ。同じ品種のだって個性があるってこと。

「ん? 僕がされれば、姉上やお子に伝手つてができるのか……そっち狙いなら、あり得るな」

 僕は拳を握って親指を突き出し、下唇に添える。爪の先を前歯でカチカチ鳴らすのは考える時の癖だ。前世ではガジガジ噛んでいたので、ちょっとは成長したと思いたい。

「そういうのはこちらで排除しますのでクラフトクリフ様は本気の相手だけ気をつけてください」

 ヤッカさんは心配性だ。幼い頃から仕えているリカルデロ殿下のしゅうぶんを避けたい気持ちはよくわかる。殿下がどう思っていようと、僕が住んでいるのは王太子宮だもの。
 僕はしっかりとうなずいた。
 りょういんでの奉仕活動は、予定より早く終わった。シーツを取り替えるためにお年寄りの身体を抱き起こすのは、人族の中でも非力な僕では無理だ。獣人のおじいちゃんはすっごく体格がいい。
 けれども今日は、青年貴族のボランティアに加えて、ヤッカさんとその部下という現役軍人が一緒だ。僕が何かを指示するまでもなく、ヤッカさんが青年貴族たちにも次々と仕事を与えた。おかげであっという間に終わったのだ。
 青年貴族たちはこの後にも予定があるようで、ペコペコ頭を下げてそそくさと帰っていく。いつもは話しかけてくるのに。

「お世話になりました~」

 お礼くらいは言わねば。
 ふと見ると、青年たちの背中をにらむように見送るヤッカさんの耳と尻尾がピンと立っていた。

「ふん、気概のない」

 不機嫌そうに言う彼の毛並みは、真っ黒で艶々つやつやしていて天鵞絨ビロードのようだ。くろひょうって綺麗なんだよね。細いけど鍛えられていて、しなやかなむちみたい。
 でも、僕がなりたいのはぜん、ムキムキだ。いつかリカルデロ殿下やアレンジロ陛下みたいになれたらいいのに。

「ねぇヤッカさん。ちょっと寄り道したいんだけど、いいですか?」

 いつもの侍従と護衛だけなら言わないことを頼む。行きたいのはヤッカさんの職場だ。

「リカルデロ殿下が訓練していると聞きました。軍の練兵場の隅っこで、ちらっとだけ見てみたいんです」

 具体的に理想の体格をイメージしながら運動すると効果覿てきめんだと聞いたことがある。もちろん前世で。

「隅とは言わずに、正面からお会いになればいいのですよ」
「隅っこがいいです! お会いしたいわけじゃないんです」

 認識されて存在を思い出されたら困る。姉上のお子を抱っこするまでは王太子宮にいたい、されたくない。相手も僕なんてもらっても持て余すだろう? 自己中心的ですみませんね。

「なんとけなな……」

 後ろで小姓君と護衛がコソコソ言っている。いや、違うから。

「では、あまり目立たぬようにしましょう。練兵場にいるのは体格のいい男がほとんどですから、万が一襲われでもしては大変です」
「無断侵入で捕まりたくはないな」
「そういう話ではありません。獣人族は鼻がいいので、あなたの甘い匂いに釣られて見境いをなくすかもしれないんです」
「……甘い匂い? あ、最近いい匂いのする香油でマッサージしてもらってるんですよ!」

 おかげで乾燥肌がマシになってきた。去年の今頃はカサカサで白い粉をふいていただけじゃなく、寝ている間に引っ掻いて血だらけだったんだよね。僕にはもったいないほどのいい香油だけど、確かにいい匂いだ。

「僕にはいい匂いだけど、香料が嫌いな人はいますものね」

 前世だって、柔軟剤や車の芳香剤が苦手な人は大勢いた。獣人族は人族より過敏そうだから配慮は大切だ。

「ヤッカさんがいてくれる今日しかないと思ったんですが……」

 残念だ。一人で行くのは、いささかハードルが高い。なんとなくしょぼくれてしまう。

「ん、んッ」

 部下さんが咳払いをしてヤッカさんをつついた。上官にそれってありなの、と思ったが、ヤッカさんのリカルデロ殿下に対する態度も大概なので許されるのだろう。

「正面からは嫌なのですね? こっそりというなら、本当に短時間で済ませますよ」
「いいんですか!?」
「……そんなに嬉しいんですか」

 嬉しいとも! ヤッカさんの気が変わらないうちに行きたいな。本当にちらっとで構わない。一瞬だけ理想的な筋肉を目に焼きつけておきたいだけなのだから。

「はいっ」

 我ながらいい返事である。喜びが顔に出すぎているようだが、自分では見えないので気にしない。

「わかりました。では練兵場の裏手からそっと入りましょう」
「ありがとうございます!」

 やった! 筋肉の観察ができる! 気持ち早足になったが、もともと僕の歩みに合わせてゆっくりだったので誰も慌てない。息切れもせずに歩いていると、ヤッカさんがしみじみつぶやいた。

「本当に健康になられましたね」

 おそらくヴェッラネッラからリオンハネスへの道中を思い出しているんだろう。あの時は乗り物酔いがつらすぎて、馬車から捨ててくれって本気で思ったもん。

「いやぁ、その節は……」
「だからでしょうね。体臭が強くなっているんですよ」
「汗臭い?」
「そうではなくて……人族とは、かように感覚が鈍いのですか?」
「何を言われているのかよくわかりませんが、人族でひとくくりにしないでください」

 馬鹿にされているわけではなさそうだが、嘆いてはいるらしい。汗臭くないなら問題なかろう。


 練兵場は石垣造りの塀に囲まれたようさいみたいだった。柵の隙間から見学するとかの次元じゃない。ちゃんと門をくぐって中に入らないと様子がさっぱりわからない造りになっている。
 そりゃそうか。軍の施設なんて秘密ばかりだ。
 高い塀を見上げて、僕は圧倒された。やっぱり訓練を見たいと強請ねだるなんて非常識だったろうか。ヤッカさんの顔パスで門番をクリアしたが、今になって心臓が破裂しそうなほど緊張してきた。僕が塀ばかりを気にしているのに気づいて、ヤッカさんが肩をすくめる。

「頑丈にしておかないと、訓練中に壁が破壊されますから」
「軍事機密を秘匿するための塀じゃないんですか?」
「いいえ、王都の民に迷惑をかけないためです」

 破壊、迷惑、穏やかでないワードが出てきたぞ。どういうことなんだと首をかしげながら歩いていると、突然目の前に人が飛んできたのをヤッカさんが叩き落とした。

「ヒッ」

 悲鳴を呑み込む。飛んできたっていうか吹っ飛ばされてきた人は、尖った耳とふさふさした尻尾を持った大柄な男性だった。こんな大きな人が飛んでくるって、どういうことだ。

「うらぁッ!」

 男性が雄叫おたけびを上げる。反動をつけて起き上がり、ヤッカさんには見向きもしないで自分が飛んできた方向へ走っていった。僕にできたのはポカンと口を開けることだけだ。
 男性の向かった先では、上半身裸の男性たちが組み手をしている。投げ飛ばされたり地面に叩きつけられたり、これは乱闘というのではないの? その中心にごうしゃな黄金のたてがみを太陽の光に輝かせる、一際たくましいリカルデロ殿下がいた。

「殿下だ……格好いい…………」

 吐き出した息は、我ながら熱っぽかったと思う。
 だって筋肉だよ!? 僕もあんなたくましい男になりたい! ぜひとも兄貴と呼ばせてもらいたい!! 筋トレメニュー、どんなのがいいかな!? いや、その前にこの貧相な身体はストレッチからだね!
 ふすふすと鼻が鳴りそうになるのを必死に我慢する。ヤッカさんが気味悪げに見ている気がするが、筋肉の前にはさいな問題だ。

「落ち着いてください。興奮すると匂いが立ちます」
「えッ? ごめんなさい」

 興奮しすぎて汗かいちゃったかな。腋にじんわりと汗が染みてきたかも。制汗スプレーが欲しい。ミントオイルとアルコールで作れる気がする。霧吹きは存在しているから頑張ればいける?
 僕が脳裏で変なシミュレーションをしていると、ヤッカさんがふぅと息を吐いた。

「見学はおしまいにしたほうが良さそうです」

 彼の視線の先では、リカルデロ殿下が絶好調で暴れている。

「殿下ーーッ! 急にどうしたんすかッ?」
「練兵場で殿下と言うな!」
「そんなら、大将! なんで急にたぎってんですかッ!」
何故なぜだろうな!!」

 さっきよりも訓練が激しくなった?
 リカルデロ殿下の盛り上がった胸筋から湯気が立ち上っている。噴き出した汗が蒸発しているのだろう。野生馬が躍動するような力強さに胸がドキドキした。……あっ、馬じゃなくて獅子だ。

「クラフトクリフ王子、この場を離れましょう」

 ヤッカさんの手が腰に回る。強制退去させられるようだ。

「これ以上殿下が興奮すると、王子の身が危険です」
「こっちに向かってくるとか?」
「そうです」

 それは怖い。屈強な兵士たちをガンガン放り投げているリカルデロ殿下に突進されたら、秒で死ねる。せっかく断頭台を回避して健康になったんだから、頑張って長生きせねば。

「わかりました。見学させてくださってありがとうございます」

 礼を言ってきびすを返す。ヤッカさんの手は腰に回ったままだ。

「僕、もう転びませんよ」
「私の匂いで誤魔化しているんです。マーキングしたと誤解されると私の生命が危ないので、静かにしてもらえませんか?」

 彼が何を言っているのかわからない。言葉は耳に入ってくるんだけど、意味不明だ。僕が汗臭いのをヤッカさんが誤魔化していて、それがバレると死にそうになるの? 誤魔化さないといけないほど汗臭い? 体臭は獣人族のほうが濃そうなんだけどな……
 僕にもわかるように説明してほしいが、ヤッカさんの強張った表情を見ると結構深刻な状況みたいだ。僕はおとなしくヤッカさんに連れられて練兵場を出る。入った時と同様に彼の顔パスだった。

「ヴェッラネッラの王族はジェインネラ妃を筆頭に、すでに幾人かがご懐妊されています」

 練兵場から離れるとヤッカさんの手が離れた。その口から僕が知らない情報がもたらされる。

「姉上以外にも? もしかして、王子の誰かが?」

 男でも子が産めると聞いているので、ちょっとビビる。
 僕は第七王子で、王太子の長兄は父上と一緒に行方不明だ。リオンハネスにいるヴェッラネッラの成人した王子は五人。僕が誕生日を迎えたら六人になる。

「いいえ、元側妃方です。つがいになった王子もおられますが、はらが出来上がるまでには時間が必要です」

 小さな王子王女に付き添ってきた父上の側妃が、子連れで再婚したとぼんやりと聞いた。そのうちの二人が懐妊したらしい。あの王妃様に気を遣いながら愚王である父上の奥さんをしているより、全力で妻を守る獣人族との結婚生活のほうが幸せだろうな。幼い連れ子も大事にしてくれるなら、ほだされもするだろう。
 ていうか、やっぱり奥さん枠の王子もいるんだ……。ちょっと遠い目をするのは許してほしい。
 僕がお嫁さんをもらうことなんて考えたこともなかったが、お嫁さんになることはもっと考えたことがなかった。王太子宮に納められたとはいえ、リカルデロ殿下は帰ってこないからほぼ居候いそうろう状態だし。
 それが、現実に従兄弟王子が獣人族の男性と結婚したと聞いて、他人事だと思っていたものが一気に身近になる。

「僕が下げ渡される日も近いかもしれないですね」

 そう言うと、ヤッカさんがあからさまに顔をしかめた。何かを言いかけ三度ほど口を開いて閉じる。

「いいえ。今は目立った国際的な騒乱も起こっていませんから、褒賞を受けるほどの手柄を立てる機会を得る者はいないでしょうね」

 取ってつけたような理由だな。本当の理由は別にありそうだ。
 それにしても国際的な騒乱か……リカルデロ殿下が頻繁にヴェッラネッラ王国に足を運ぶのは、父上を捜すためだと聞いた。あんな男を父と呼ぶのは心底嫌だが、他に呼びようがない。

「父上を捕まえた人にご褒美?」

 いや、僕がご褒美なんて、うん、ないない。

「ホーツヴァイ王の潜伏場所を発見した程度で、それはないです」

 ヤッカさんの声は冷たい。


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