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1巻
1-2
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うっわぁ、間近で聞くと胃の底がひっくり返りそうな美声だ。冷え切った身体が一瞬、ぽわんと温まった気さえする。
ゴツゴツした指がカサついた僕の唇を撫でた。ひび割れの上で乾いた血の粉がパラパラと落ちる。
彼は大きな身体を屈めて僕の顔を覗き込んだ。金色の瞳がキラキラしている。姉上の青い瞳が世界で一番綺麗だと思っていたけど、こんなに綺麗な色があるんだ。
馬鹿みたいに口を開けている自覚はある。でも動けなかった。
獰猛な肉食獣の王太子は強者だから目を逸らさないし、僕は緊張で固まっている。いつまで見つめ合っていたらいいんだ。失神した王妃様が羨ましい!
その時、王太子がくんと鼻を鳴らした。臭いを嗅いでいるのだろうか?
ごめんなさい、僕、臭ってます!? まともにお風呂に入らせてもらっていないんですぅ。風呂好き民族である心の男子大学生が号泣している。恥ずかしくて現実にも泣きそうだ。
「味見」
不意に王太子の目がすっと細められて、ほっぺたに舌が伸びてきた! ちろりと舐められて、身体がギュンと強張る。自分で言うのも悲しいが、今めちゃくちゃ不潔なんだけど!
ガチガチに固まっていると、王太子は首を傾げて何かを考える素振りをした。
「あなたが退出しないと誰も退出できませんよ」
「そりゃ、すまんな」
猫耳の兵士がリカルデロ王太子を促して、ようやく視線が外れる。僕の身体からどっと力が抜けた。ここまで来るのにもとてつもない力を使ったので、疲労困憊だ。
それにしても猫耳さん、ただの兵士じゃないね。王太子様に対してフランクすぎるし、リカルデロ王太子も気にしていない。
「彼が何か?」
「いや、旨そうな匂いがした気がして」
「で、気のせいだったんですか?」
「旨そうは旨そうだったが、ガリヒョロに興味はない」
旨そうって、なんの比喩だよ。獣人族が人族を食べるなんて思っちゃいないけど、あちこちから悲鳴を呑み込む気配がする。いや、部屋にあった獣人族に関する本は、ずっと昔に禁書になってほとんど燃やされたと聞いた。僕を蔑む王妃様の子どもたちの悪口に、「獣人族に食べられてしまえ」っていうのもある。彼らは獣人族をそういうものだと教えられているわけだ。
十把一絡げに肉食獣扱いしなくてもいいだろうに。羊や兎の獣人をモフモフさせてもらえたら幸せになれそうだしね。
待て、リオンハネスの王族は獅子だった。めちゃくちゃ肉食獣じゃないか。
「じゃあな、今夜からはちゃんと食って寝ろよ」
王太子はそう言って僕から離れる。
それはヘンゼルとグレーテル計画なのですかね? 獣人族特有の冗談なのを願う。食べられないとわかっていても、なかなか刺激的だな。
面食らっていると、リカルデロ王太子はヒラヒラと手を振って今度こそ謁見の間を出ていった。
それから三日後。
ヴェッラネッラの王族は数十台の馬車に分乗してリオンハネス王国に旅立った。
罪人や戦後処理のために必要な人員は残していると聞く。それにしても馬車の数が多すぎじゃないかと思ったが、ボタン一つ自分で外せない人たちにはお世話係がそれなりに必要だ。兵士が我が儘王女の世話をするより、多少人数が増えても侍女や女中を連れていったほうがいいと判断したらしい。
さて、そんなこんなで王族は旅立ったわけだが、僕はヴェッラネッラの城に残っている。体調を崩したからだ。もともと栄養失調で、体調が良い日なんてほとんどない。だから多少の怠さや眩暈はどうってことないんだけれど、情けない話だが、お腹を壊したのである。
事の経緯はこうだ。
ちゃんとした部屋を持たない僕と姉上は、客間に通され、まずは風呂と食事を用意された。
お風呂だよ、お風呂! どうせ王太子にほっぺたを舐められるなら、風呂上がりが良かったな! いや、舐められないに越したことはないけど。
それから何年ぶりかで室内履きに足を入れる。久しぶりすぎて窮屈だ。僕の足の裏は分厚くなってひび割れているので、滲んだ血で汚れるのが申し訳ない。
姉上にはヴェッラネッラの女中と小間使いがつき、僕の世話は猫耳さんがした。といっても采配するだけで、実際にあれこれ用意するのは小間使いだし、僕は身の回りのことは自分でできる。
身綺麗になってからとった食事は、涙が出るほど美味しかった。熱々のスープが沁みる。
久しぶりすぎて火傷したけどね! 舌の上でとろける肉の脂は思い出しても涎が出そう……
ところが、粗食に慣れた僕のお腹は、美味しい脂を消化できなかったのである。
あぁ、前世で最後に食べたバーベキューの串焼き肉の思い出が、壊れていく……。うんうん唸りながら姉上を見送って、ようやく落ち着いたのはさらに三日後だ。後になって、あれ以上下痢が続いたら危なかったと聞く。前世の知識を持っていて良かった。脱水の危険は理解していたので、苦しみながらも水は飲んでいたおかげで助かったのだ。
姉上に遅れること数日。
僕は今、自分のために用意された馬車に猫耳さんと向かい合って乗っている。
彼はリカルデロ王太子の側近だった。それも高座に上がっても許されるほどの。
「猫耳さん」
「……豹です」
猫科の大型獣だった……。猫ちゃん扱いは失礼だったな。
「豹耳さん?」
「ヤッカとお呼びください」
名乗られたので、名乗り返す。
「クラフトクリフ・ダリ・ヴェッラネッラです」
「存じています」
世話になっていながら挨拶していなかったのを思い出す。
捕虜の情報くらいチェックしているよね。僕はとくに詳しく調査されたに違いない。本当に王族なのかも含めて。こうしてリオンハネス王国に向かう馬車に乗せられたってことは、それが証明されたのだろう。
「姉上のことを聞きたいんですが……」
僕が体調を崩して出立が遅れると決まった時、姉上は当然ながら僕と同行したいと申し出た。その願いは叶えられず、ベッドで唸っている僕の額にキスを落として他の王族と共に旅立ったのだ。
「僕と一緒じゃダメだったんですか? 姉上も自分のことは自分でできますし、侍女が少なくてもなんとかなりますよ」
もともと姉上には侍女なんてつけられていない。小間使いに頼み事をするのがせいぜいだ。虐められたり無視されたりしていた兄弟と一緒なのは、辛いんじゃないんだろうか。この馬車に姉上くらいなら乗れたんじゃないかと思う。
「この馬車の警備は非常に手薄です。ジェインネラ姫は美しすぎて、一個中隊でもつけねば安心できません」
ヤッカさんは爽やかなイケメン顔を渋く歪めて言い切った。確かに髪を結って相応のドレスを着た姉上は、物語に出てくるお姫様みたいだ。本物の王女をお姫様みたいっていうのも変だけど。
「美しい白鳥ですが、家鴨の群れに紛れていれば幾分かは誤魔化せます」
「家鴨……」
「たまにガァガァうるさい鵞鳥も交じっていますけれどね」
脳裏に第四王女が浮かんだので振り払う。
姉上の安全のために本隊に入れたのなら、納得するしかない。それに、率先して姉上を冷遇していた王妃はヴェッラネッラに残った。親玉がいなけりゃ、多少は静かだろう。
「さて、クラフトクリフ様の預け先ですが、リオンハネスの王宮に辿り着く頃には決定していると思われます」
欠席裁判になるのは仕方がない。僕がお腹を壊したせいだ。
「処遇について質問してもいいですか?」
「もちろん。ご自分のことですから」
身分が高そうなヤッカさんが僕についているのは、説明のためだろう。
「僕は見ての通り、体力がありません。鉱山の採掘などには向かないと思いますが、どんなところに行かされそうですか?」
「鉱山?」
「罪人にタダ飯を食らわせておくよりは、労働力が不足している場所で働かせたほうがいいですよね?」
知らんけど。父上は罪とも言えない罪を論らって、臣下を簡単に鉱山行きにしていた。姉上が泣きそうな顔でそんな話を聞かせてくれたんだ。敵国の王族の扱いも同じなんじゃないかな。
「鉱山が過酷?」
うん? 反応がおかしいぞ?
ヤッカさんは怪訝な表情で眉根を寄せている。
「多少危険が伴いますが、金を稼げるいい仕事として大型の種族には人気ですよ」
体格と体力が違いすぎた!
「……じゃあどうして、わざわざ俺たちを連れていくんですか?」
王妃様みたいにヴェッラネッラの牢に入れれば良かったのに。それなりに数のいる王族を全て移送するのは大変だぞ。
探るようにヤッカさんの目を見ると、彼は一呼吸置いてから口を開いた。
「有り体に言えば、集団見合いのためです」
「はあぁあ!?」
うちなる男子大学生が表に出てきたのは許してくれ。幸い、ヤッカさんに気にした様子はない。
「リオンハネス王国に連れていくのは、ヴェッラネッラ王族の血を絶やすためじゃないんですか?」
リオンハネス国内に、ヴェッラネッラ王家の血をばら撒いてもいいのだろうか。
「我がリオンハネスは、いつ頃からでしょうか……近年、大型種の女性が生まれにくくなっているのです。獣人族は頑健で強靭な種族ですが、繁殖がとても難しい……」
「はあ」
「大型種の男と小型種の女性との間に愛があっても、子どもは生まれません」
唐突にお国の事情が語られ始める。つい最近まで戦をしていた国の王子に話していいものなんだろうか。とはいえ、なかなか興味深い内容だ。
「人族の女性との間なら、可能なのですか? 生まれた子どもは代を重ねていくと獣性が薄れていきそうですが」
女性が生まれにくいってことは、人族が産んだ子どもも男児が多いってことでしょ。成長して人族と子どもを作るのを繰り返したらそうならない?
「なかなか鋭いですね……ですが、そうはならないんですよ。不思議なことに、生まれる子どもは人族の特徴を持ちません」
「は?」
「神の気まぐれなのか魔物の呪いなのかわかりませんが、父親の種族の子が生まれます」
「ゆ、優勢遺伝子極まれり……」
「ですからクラフトクリフ王子、あなたがお産みになるとして、お子様も獣人の男児です」
へぇ、そうなんだ……?
「ちょい、待って!」
聞き流しかけたけど、なんかすごいことを言っていないか?
「僕が産む? ちょっと栄養足りてないガリガリっぷりで性別が行方不明かもしれないけど、男だよ!? ヤッカさんも王子って呼んでるよね!?」
思わず立ち上がり、天井に頭をぶつけた。さらに、移動する馬車の揺れで尻餅をつく。コントか!?
「それが素ですか?」
「あ」
リオンハネスに入国する前に、色々やらかした気がする。
「まぁいいでしょう」
「いいんだ……?」
ヤッカさんが微笑んだ。笑顔がちょっと優しくなった気がする。満足な教育を受けさせてもらえなかった側妃腹の王子だから、大目に見てもらえているんだろうな。
「続きを話しても?」
「お願いします」
律儀に確認を取ってから、彼が再び口を開く。
にわかには信じがたいことだが、人族は男女問わず大型の獣人族の子どもを産めるらしい。
「人族の王家が獣人族を排除しようとしたのは、男の身で孕まされることを忌み嫌ったせいもあると思われます」
それで獣人族を排除したのか。それにしたって男なら誰でもいいわけじゃあるまいに、戦なんて極端なことをしたものだ。
「それにしても、獣人族が人族を食べるという誤解はどこから?」
「誤解だと知ってくれていましたか。嬉しいです。理由ですか……我らと番った人族には二度と会えないせいでしょうね。人族の国が我らを拒み入国させないとなれば、花嫁は一人で里帰りしなければなりませんが、獣人族は番った相手とは片時も離れていたくない者が多いため、共に行けないのならば里帰りなど許しません。出国すら不可能になります」
人族の国に残された家族は花嫁を死んだものと思わなければ辛いのだろう。そんな事実と嘘が絡まって、今のようになったのか。
「人族に子どもを産んでもらいたいのはわかりました。戦利品の王族をどうするのかは、リオンハネスの自由だってことも理解しています。でも願いが聞き届けられるのなら、馬鹿な父上に搾取されていた国民には慈悲をください」
ヴェッラネッラ王族の贅沢な生活の陰で、民は搾取されていた。だから彼らは、守ってくれない自国の王族より、リオンハネス王国を選んだと聞いている。
「子どもを作る道具になるのは、王族だけでいい……」
若い側妃に抱かれていた赤ちゃんが脳裏に浮かぶ。父王の顔も知らずに育つだろう幼い姫。謁見の間で初めて見たあの子は、僕の腹違いの妹だ。
ギュッと引き攣れるような痛みを覚えて、僕は胸を押さえる。そんな僕に浴びせられたのは、存外軽い声音だった。
「何をおっしゃっているのですか? 道具なんて心外ですね。我々はパートナーを大事にします。まずは匂いを嗅ぐところからです。だから集団見合いと言ったんですよ」
加えてリオンハネスでは女性と子どもは宝のように扱われるのだとか。
「あの……人族の男性は全員、扱いは女性枠なんですか?」
ちらっと見た王弟――僕の叔父さんは、妻子持ちの普通のおっさんだった。ついでに言うと頭髪は寂しくて、お腹は風船みたいにまん丸。その姿を思い出して、チベットスナギツネみたいな顔になったのは仕方がない。
「安心してください。妻候補は適齢期の男女に限られますし、すでに伴侶がいる者は除外します」
ですよね! 流石にあの年齢で出産は気の毒だ。性別どうこうより、もうすぐ五十歳だもんね。
「幼年者は相性のいい貴族家で養育し、成長後に婚姻先を探すことになります。我々としては亡国の王族を手厚く遇して、ヴェッラネッラの人族に受け入れてもらうのが目的です。双方の民が垣根なく交流し、いずれ異種族間の婚姻が当たり前にしたいのですよ」
緩やかな侵略だな。獣人族と人族の間には、獣人しか生まれないんだろう?
でも、仕掛けたのはヴェッラネッラだから、甘んじて受け入れるしかない。
「最後に一つ、お伝えします。相愛の番関係でなければ、人族の男性は孕み胎を持てません」
ヤッカさんが僕に教えたことは、リオンハネスの王城で王族全員に伝えられているそうだ。
「最終的な孕み方は番に聞いてください」
「は、孕み方……」
ヤッカさん、言い方! その前に番……
ハードルが高いな。戦利品として乱暴に扱われる覚悟はしても、愛し愛されっていうのは想像がつかない。前世で彼女がいた記憶はないし、今世だって一生飼い殺しだと思っていた。生きているだけで精一杯で、愛とか恋とか考えたことはない。それに僕が受け入れる前提だろう?
「例えばなんですが……僕の番がリカルデロ王太子みたいな人だったとして、初夜で死にません?」
僕が名前を知っている獣人族は、リカルデロ王太子とヤッカさんの二人。当人に聞くことではないので例え話に登場させるのは王太子だ。体格差がありすぎて潰される未来しか見えない。熊獣人っぽい代官さんクラスだと、ぺちょっと情けない音を出してペッチャンコになる自信がある。
「大事な番を苦しませるなんて、獣人族の風上にも置けません」
ヤッカさんの目が細められた。ちょっとした不安だったのに、僕の質問は獣人族にとって心外だったようだ。
「そうですか。ところで、獣人の妻候補から外れた場合の就職先などはありますか?」
王弟や公爵たちが働くところも必要だと思うんだ。そこに僕が入ったっていいだろう。
「妻候補はともかくとして、あなたはまずは目方を増やしましょう。働くのはそれからです」
至極真っ当なことを言われた。ヤッカさんの目が僕を労るように優しく細められる。頑張る幼児を見守る眼差しだ。ご飯を食べるだけで体調を崩すようじゃ、何もできないもんね。
そんなふうにリオンハネスへの道中を進んだのだが、ヤッカさんの計画はくるいまくった。何故なら整備された街道を外れた途端、僕が馬車に酔ったのである。重ね重ね申し訳ない。死んだことにしてどこかに捨てていってくれと頼んでみたが、それが許されるはずがない。
ようやく王城に着いた時には、僕はヴェッラネッラでお腹を壊した時よりも酷い有様だった。体重はさらに減り、青白かった顔は土気色。鏡を見せられて絶句したね! ゾンビ映画のエキストラのようだった。用意してもらった服も着られず、寝巻き姿で入城しちゃったよ。
今、僕を抱えているのはヤッカさんだ。ヴェッラネッラのお城で抱っこは遠慮したのに、口を開くのも億劫だったので文句を言うどころじゃない。
せめて二、三日の休養が欲しかった。もうちょっとマシになってからリオンハネスの王様に会いたかったよ。どうせ他の王族より十日も遅れているんだ。今更数日追加されたって誰も気にしないだろう?
謁見の間はヴェッラネッラのキラキラした空間とは違い、無骨で格好良かった。僕のためにゆったりした寝椅子が用意されている。ただ、玉座の真正面なのは勘弁してくれ。
それにしても椅子まで用意されているなんて、特別待遇だな。そんなフカフカした座面に、僕は横たわるように座らされた。
「この国の貴族が立っているのに、不敬では?」
なんとか声を絞り出す。
広間の両側には大勢の獣人族がいる。大型種から小型種まで様々だ。小柄な兎耳さんや猫耳さんの中には女性の姿も見えるが、大型獣っぽい人々は男性ばかり。
先に辿り着いたヴェッラネッラの王族は、すでに行き先が決まったのだろうか?
「申しましたでしょう? リオンハネスで子どもの虐待は重罪です。あなたは病気の子どもにしか見えません」
ヤッカさんは僕の問いかけに答えながら、寝巻きの裾を整えた。
それからすぐにリオンハネス国王と思しき、がっしりした体躯の男性が登場する。名前は確かアレンジロだったはず。年齢は父上よりうんと若く見える。国王の隣にはリカルデロ王太子がいて、二人並ぶと派手な金髪が眩しい。アレンジロ王の金髪には白いものも交じっているが、獅子の鬣は豊かだ。
王太子、相変わらずイケメンだなぁ。いいな、僕もご飯を食べられるようになって鍛えたら、ゴリゴリのマッチョになれるだろうか。
「旨そうな匂いがすると思ったら、お前か」
国王が玉座に腰を下ろす前に、王太子がカツカツと靴音も高らかにやってきた。ゴージャスな金髪を僕に垂らすように鼻を寄せると、すんすんと匂いを嗅ぐ。ついでにペロリとほっぺたを舐められる。うひー、また味見された!
「腹が減る匂いだが薄いな」
空気が揺れた気がした。謁見の間を取り囲む獣人族たちが一斉に息を呑んだ気配がする。ビリビリと肌を刺すような強い視線が僕たちに集中していた。
「食べるところ、ないですよ。骨と皮です。あ、出汁は取れるかも?」
「本当に食うわけあるか」
リカルデロ王太子がニヤリと笑うと、尖った八重歯が覗く。獅子でも犬歯というのだろうかと、僕はぼんやり考えた。それにしても腹が減る匂いだなんて物騒だ。肉食大型獣なりの冗談なのだろうか。
王太子は僕のパサついた髪の毛をくしゃりと掻き回してから、今度は首筋を舐め上げる。
「うひゃっ」
「匂いは旨そうだが、まだまだだな」
間抜けな僕の声が広間に響き、リカルデロ王太子はくつくつと喉の奥で笑った。国王が大きな口を開けて笑い、王太子の肩をバンバンと叩く。王太子は鬱陶しそうにそれを払いのけているが、じゃれるような気安い態度だ。
隠れて眺めたヴェッラネッラの父上は、いつだってイライラと神経質そうに子どもたちを見ていた。なのに、アレンジロ王とリカルデロ王太子は普通の父子に見える。
国王は玉座に腰を下ろし、王太子は一段下がった階段みたいな場所に立って謁見の間を見下ろす。高座の下には熊っぽい大きな男性がいて、ざわつく広間の中をぐるりと見渡した。彼はヴェッラネッラの代官になった熊さんの血縁かもしれない。
熊耳さんの一瞥で謁見の間が静かになった。
「ヴェッラネッラの第七王子を迎えたい者は申し出よ」
朗々と響く声で熊耳さんが言うが、みんな隣り合った人とコソコソ話しているだけで誰一人、名乗り出ない。子どもの虐待が許されない国だもんね。僕みたいなのを引き取って面倒なことになるのはごめんだろう。
「まぁ、誰も手が出せませんよね」
ヤッカさんが耳をぴくぴくさせながら言った。豹の耳には彼らの会話が聞き取れているらしい。時間がゆっくり流れていく。
そろそろ目を開けているのが辛くなってきた。僕のことはどうでもいいから、姉上がどうしているのかだけ聞きたい。そうしたら、安心して気絶ができるのに。
しばらくして熊耳さんが再び口を開く。
「ではリカルデロ王太子、クラフトクリフ殿はあなたの宮に」
は? 聞き捨てならぬ言葉に覚醒する。
それは王太子宮なのでは? 僕に拒否権はないが、庶民にほど近い男爵家あたりで妥協してもらえると嬉しい……
「勝手に決めるな。俺は側妃なんて面倒なものはいらない。戦利品を手に入れる権利は放棄すると言ったはずだ」
リカルデロ王太子が言葉通り面倒くさそうに言ったので、僕はうむうむと頷いた。
お願いします、そのまま我を通してください。
「父上が側妃を迎えたんだ。そのうち弟が生まれるだろう。俺は後腐れのない相手とそれなりに楽しめれば充分だ」
国王の宮にも誰か納められたのか。リカルデロ王太子のお父上だからそれなりの年齢だろうけど、うちの父上だって六十歳を過ぎているのに、若くて綺麗な側妃を侍らせていた。まだ赤ん坊の姫までいるんだからお盛んだ。ポヨンポヨンのタプタプのおっさんがそうなのだから、鍛えて厚みのある体躯と精悍な顔付きのアレンジロ王に側妃がいたっておかしくない。
「母上亡き後、二十年近く独り身だったんだ。しばらく蜜月で後宮に籠もっても誰も文句は言わないさ」
王太子が遊ぶと宣言するのはどうかと思うが、その言葉には父王への気遣いが感じられた。
そうか、リカルデロ王太子も母上を亡くされているんだな。
子どもが生まれにくい上に女性が少ないという問題は、重々しく彼らの未来を押し潰そうとしている。王族も少なそうだし、何から何までヴェッラネッラと違う。
「リカルデロよ、我が後宮に納めた姫は弟をひどく案じておってな」
アレンジロ王が楽しげに息子に話しかけた。何故か視線を僕に向けて……
リカルデロ王太子に話しかける体で僕に聞かせているのだろう。後宮に納められた姫……まさかね?
「クラフトクリフ王子を城の外に出すと、ジェインネラに会わせてやれなくなる。お前の宮にいるのがちょうど良い」
やっぱり姉上か!
同母の姉弟の贔屓を抜いても、ジェインネラ姉上は美しい。ヤッカさんが護衛の心配をするほどだ。ケバケバしい第四王女なんて存在が霞む。姉上が王の後宮に行くのは自然な流れのように思う。
「可愛い番の泣き顔を見たくないのは、我ら獣人族なら当然であろう」
アレンジロ王がしたり顔になる。僕はあんぐりと口を開いたまま彼を見ていた。
間抜け面を晒しているが、驚きすぎて固まったのだ。獣人族と人族の番がそんなに簡単に決まるだなんて思わなかった。番とは書類に署名した夫婦というだけじゃなく、謂わば神様からの天啓のような相手なんだって。
リカルデロ王太子もヤッカさんも平然としている。謁見の間にいる獣人族たちも知っていたようだ。
「だったらジェインネラ王女と一緒に、父上の宮に納めれば良いだろう。では、そういうことでよろしく頼む」
待って! 行かないで! 男爵家あたりを斡旋してくれ! 王太子宮から国王の後宮へのチェンジは勘弁してほしい。
颯爽と謁見の間を後にするリカルデロ王太子を、僕は呆然と見送る。亡国の王子が自らの預け先を指定できるわけもない。はっはっと口から変な息が漏れた。
王太子が出ていき、謁見の間に騒めきが戻る。彼らの視線は再び僕に集中した。二十年ぶりに側妃を迎えたアレンジロ王の後宮に、もう一人納められることになるのを驚いているのだろうか。
「静かに!」
熊耳さんが場を静める。そしてアレンジロ王が立ち上がった。
「姉弟で寵を争わせるのは忍びない。クラフトクリフ王子はやはり王太子宮に納めるが良い。王子もそれで良いな? ジェインネラの慰めになってやってくれ」
姉上の慰めになるのは願ったりだ。むしろ今すぐ会いたい。
でも国王の後宮に納められるのは免れたものの、王太子宮に入ることは決定してしまった。アレンジロ王は形だけ僕に確認を取ったが断れるわけがない。
ダメだ、意識が朦朧とする。体力も気力も限界だ。遠くで熊耳さんが何か言っているのが聞こえる。
僕の意識はそこで途切れた。
2
結果的に僕は王太子宮で平和に過ごすことになった。
なにしろ宮の主が渡ってこない。たまにヤッカさんが来るものの、それ以外は最低限いる王太子宮つきの侍従たちにしか会わなかった。大型獣人の女性はとても少ないと聞いていた通り、たまに見かける侍女は小柄な人ばかりだ。
謁見の間で力尽きた僕は、その後七日間も目を覚まさなかったらしい。
時間感覚がないので、自分では普通に寝て起きた状態で喉が渇いたなぁと思いながら「お水欲しい」と呟いたのを覚えている。そうしたら、枕元で青白い顔色の姉上がほろほろと涙をこぼしていた。
「良かった……あなたの青い瞳が二度と見られないのではないかと思っていたのよ」
そう言って額にキスをしてくれたのだ。
目覚めた場所はアレンジロ王の後宮で、姉上曰く、我が儘を言って僕を運び込んでもらったらしい。ほったらかしの王太子宮の支度が間に合わないこともあって、アレンジロ王が許可を出したのだそうだ。
それから十日ほど姉上と後宮の侍女に世話をしてもらい、ベッドで身を起こす程度には元気になった。その間に新側妃のための支度が王太子宮で行われ、僕の心情は脇にほっぽられたまま、恙なく引っ越したのだ。
ゴツゴツした指がカサついた僕の唇を撫でた。ひび割れの上で乾いた血の粉がパラパラと落ちる。
彼は大きな身体を屈めて僕の顔を覗き込んだ。金色の瞳がキラキラしている。姉上の青い瞳が世界で一番綺麗だと思っていたけど、こんなに綺麗な色があるんだ。
馬鹿みたいに口を開けている自覚はある。でも動けなかった。
獰猛な肉食獣の王太子は強者だから目を逸らさないし、僕は緊張で固まっている。いつまで見つめ合っていたらいいんだ。失神した王妃様が羨ましい!
その時、王太子がくんと鼻を鳴らした。臭いを嗅いでいるのだろうか?
ごめんなさい、僕、臭ってます!? まともにお風呂に入らせてもらっていないんですぅ。風呂好き民族である心の男子大学生が号泣している。恥ずかしくて現実にも泣きそうだ。
「味見」
不意に王太子の目がすっと細められて、ほっぺたに舌が伸びてきた! ちろりと舐められて、身体がギュンと強張る。自分で言うのも悲しいが、今めちゃくちゃ不潔なんだけど!
ガチガチに固まっていると、王太子は首を傾げて何かを考える素振りをした。
「あなたが退出しないと誰も退出できませんよ」
「そりゃ、すまんな」
猫耳の兵士がリカルデロ王太子を促して、ようやく視線が外れる。僕の身体からどっと力が抜けた。ここまで来るのにもとてつもない力を使ったので、疲労困憊だ。
それにしても猫耳さん、ただの兵士じゃないね。王太子様に対してフランクすぎるし、リカルデロ王太子も気にしていない。
「彼が何か?」
「いや、旨そうな匂いがした気がして」
「で、気のせいだったんですか?」
「旨そうは旨そうだったが、ガリヒョロに興味はない」
旨そうって、なんの比喩だよ。獣人族が人族を食べるなんて思っちゃいないけど、あちこちから悲鳴を呑み込む気配がする。いや、部屋にあった獣人族に関する本は、ずっと昔に禁書になってほとんど燃やされたと聞いた。僕を蔑む王妃様の子どもたちの悪口に、「獣人族に食べられてしまえ」っていうのもある。彼らは獣人族をそういうものだと教えられているわけだ。
十把一絡げに肉食獣扱いしなくてもいいだろうに。羊や兎の獣人をモフモフさせてもらえたら幸せになれそうだしね。
待て、リオンハネスの王族は獅子だった。めちゃくちゃ肉食獣じゃないか。
「じゃあな、今夜からはちゃんと食って寝ろよ」
王太子はそう言って僕から離れる。
それはヘンゼルとグレーテル計画なのですかね? 獣人族特有の冗談なのを願う。食べられないとわかっていても、なかなか刺激的だな。
面食らっていると、リカルデロ王太子はヒラヒラと手を振って今度こそ謁見の間を出ていった。
それから三日後。
ヴェッラネッラの王族は数十台の馬車に分乗してリオンハネス王国に旅立った。
罪人や戦後処理のために必要な人員は残していると聞く。それにしても馬車の数が多すぎじゃないかと思ったが、ボタン一つ自分で外せない人たちにはお世話係がそれなりに必要だ。兵士が我が儘王女の世話をするより、多少人数が増えても侍女や女中を連れていったほうがいいと判断したらしい。
さて、そんなこんなで王族は旅立ったわけだが、僕はヴェッラネッラの城に残っている。体調を崩したからだ。もともと栄養失調で、体調が良い日なんてほとんどない。だから多少の怠さや眩暈はどうってことないんだけれど、情けない話だが、お腹を壊したのである。
事の経緯はこうだ。
ちゃんとした部屋を持たない僕と姉上は、客間に通され、まずは風呂と食事を用意された。
お風呂だよ、お風呂! どうせ王太子にほっぺたを舐められるなら、風呂上がりが良かったな! いや、舐められないに越したことはないけど。
それから何年ぶりかで室内履きに足を入れる。久しぶりすぎて窮屈だ。僕の足の裏は分厚くなってひび割れているので、滲んだ血で汚れるのが申し訳ない。
姉上にはヴェッラネッラの女中と小間使いがつき、僕の世話は猫耳さんがした。といっても采配するだけで、実際にあれこれ用意するのは小間使いだし、僕は身の回りのことは自分でできる。
身綺麗になってからとった食事は、涙が出るほど美味しかった。熱々のスープが沁みる。
久しぶりすぎて火傷したけどね! 舌の上でとろける肉の脂は思い出しても涎が出そう……
ところが、粗食に慣れた僕のお腹は、美味しい脂を消化できなかったのである。
あぁ、前世で最後に食べたバーベキューの串焼き肉の思い出が、壊れていく……。うんうん唸りながら姉上を見送って、ようやく落ち着いたのはさらに三日後だ。後になって、あれ以上下痢が続いたら危なかったと聞く。前世の知識を持っていて良かった。脱水の危険は理解していたので、苦しみながらも水は飲んでいたおかげで助かったのだ。
姉上に遅れること数日。
僕は今、自分のために用意された馬車に猫耳さんと向かい合って乗っている。
彼はリカルデロ王太子の側近だった。それも高座に上がっても許されるほどの。
「猫耳さん」
「……豹です」
猫科の大型獣だった……。猫ちゃん扱いは失礼だったな。
「豹耳さん?」
「ヤッカとお呼びください」
名乗られたので、名乗り返す。
「クラフトクリフ・ダリ・ヴェッラネッラです」
「存じています」
世話になっていながら挨拶していなかったのを思い出す。
捕虜の情報くらいチェックしているよね。僕はとくに詳しく調査されたに違いない。本当に王族なのかも含めて。こうしてリオンハネス王国に向かう馬車に乗せられたってことは、それが証明されたのだろう。
「姉上のことを聞きたいんですが……」
僕が体調を崩して出立が遅れると決まった時、姉上は当然ながら僕と同行したいと申し出た。その願いは叶えられず、ベッドで唸っている僕の額にキスを落として他の王族と共に旅立ったのだ。
「僕と一緒じゃダメだったんですか? 姉上も自分のことは自分でできますし、侍女が少なくてもなんとかなりますよ」
もともと姉上には侍女なんてつけられていない。小間使いに頼み事をするのがせいぜいだ。虐められたり無視されたりしていた兄弟と一緒なのは、辛いんじゃないんだろうか。この馬車に姉上くらいなら乗れたんじゃないかと思う。
「この馬車の警備は非常に手薄です。ジェインネラ姫は美しすぎて、一個中隊でもつけねば安心できません」
ヤッカさんは爽やかなイケメン顔を渋く歪めて言い切った。確かに髪を結って相応のドレスを着た姉上は、物語に出てくるお姫様みたいだ。本物の王女をお姫様みたいっていうのも変だけど。
「美しい白鳥ですが、家鴨の群れに紛れていれば幾分かは誤魔化せます」
「家鴨……」
「たまにガァガァうるさい鵞鳥も交じっていますけれどね」
脳裏に第四王女が浮かんだので振り払う。
姉上の安全のために本隊に入れたのなら、納得するしかない。それに、率先して姉上を冷遇していた王妃はヴェッラネッラに残った。親玉がいなけりゃ、多少は静かだろう。
「さて、クラフトクリフ様の預け先ですが、リオンハネスの王宮に辿り着く頃には決定していると思われます」
欠席裁判になるのは仕方がない。僕がお腹を壊したせいだ。
「処遇について質問してもいいですか?」
「もちろん。ご自分のことですから」
身分が高そうなヤッカさんが僕についているのは、説明のためだろう。
「僕は見ての通り、体力がありません。鉱山の採掘などには向かないと思いますが、どんなところに行かされそうですか?」
「鉱山?」
「罪人にタダ飯を食らわせておくよりは、労働力が不足している場所で働かせたほうがいいですよね?」
知らんけど。父上は罪とも言えない罪を論らって、臣下を簡単に鉱山行きにしていた。姉上が泣きそうな顔でそんな話を聞かせてくれたんだ。敵国の王族の扱いも同じなんじゃないかな。
「鉱山が過酷?」
うん? 反応がおかしいぞ?
ヤッカさんは怪訝な表情で眉根を寄せている。
「多少危険が伴いますが、金を稼げるいい仕事として大型の種族には人気ですよ」
体格と体力が違いすぎた!
「……じゃあどうして、わざわざ俺たちを連れていくんですか?」
王妃様みたいにヴェッラネッラの牢に入れれば良かったのに。それなりに数のいる王族を全て移送するのは大変だぞ。
探るようにヤッカさんの目を見ると、彼は一呼吸置いてから口を開いた。
「有り体に言えば、集団見合いのためです」
「はあぁあ!?」
うちなる男子大学生が表に出てきたのは許してくれ。幸い、ヤッカさんに気にした様子はない。
「リオンハネス王国に連れていくのは、ヴェッラネッラ王族の血を絶やすためじゃないんですか?」
リオンハネス国内に、ヴェッラネッラ王家の血をばら撒いてもいいのだろうか。
「我がリオンハネスは、いつ頃からでしょうか……近年、大型種の女性が生まれにくくなっているのです。獣人族は頑健で強靭な種族ですが、繁殖がとても難しい……」
「はあ」
「大型種の男と小型種の女性との間に愛があっても、子どもは生まれません」
唐突にお国の事情が語られ始める。つい最近まで戦をしていた国の王子に話していいものなんだろうか。とはいえ、なかなか興味深い内容だ。
「人族の女性との間なら、可能なのですか? 生まれた子どもは代を重ねていくと獣性が薄れていきそうですが」
女性が生まれにくいってことは、人族が産んだ子どもも男児が多いってことでしょ。成長して人族と子どもを作るのを繰り返したらそうならない?
「なかなか鋭いですね……ですが、そうはならないんですよ。不思議なことに、生まれる子どもは人族の特徴を持ちません」
「は?」
「神の気まぐれなのか魔物の呪いなのかわかりませんが、父親の種族の子が生まれます」
「ゆ、優勢遺伝子極まれり……」
「ですからクラフトクリフ王子、あなたがお産みになるとして、お子様も獣人の男児です」
へぇ、そうなんだ……?
「ちょい、待って!」
聞き流しかけたけど、なんかすごいことを言っていないか?
「僕が産む? ちょっと栄養足りてないガリガリっぷりで性別が行方不明かもしれないけど、男だよ!? ヤッカさんも王子って呼んでるよね!?」
思わず立ち上がり、天井に頭をぶつけた。さらに、移動する馬車の揺れで尻餅をつく。コントか!?
「それが素ですか?」
「あ」
リオンハネスに入国する前に、色々やらかした気がする。
「まぁいいでしょう」
「いいんだ……?」
ヤッカさんが微笑んだ。笑顔がちょっと優しくなった気がする。満足な教育を受けさせてもらえなかった側妃腹の王子だから、大目に見てもらえているんだろうな。
「続きを話しても?」
「お願いします」
律儀に確認を取ってから、彼が再び口を開く。
にわかには信じがたいことだが、人族は男女問わず大型の獣人族の子どもを産めるらしい。
「人族の王家が獣人族を排除しようとしたのは、男の身で孕まされることを忌み嫌ったせいもあると思われます」
それで獣人族を排除したのか。それにしたって男なら誰でもいいわけじゃあるまいに、戦なんて極端なことをしたものだ。
「それにしても、獣人族が人族を食べるという誤解はどこから?」
「誤解だと知ってくれていましたか。嬉しいです。理由ですか……我らと番った人族には二度と会えないせいでしょうね。人族の国が我らを拒み入国させないとなれば、花嫁は一人で里帰りしなければなりませんが、獣人族は番った相手とは片時も離れていたくない者が多いため、共に行けないのならば里帰りなど許しません。出国すら不可能になります」
人族の国に残された家族は花嫁を死んだものと思わなければ辛いのだろう。そんな事実と嘘が絡まって、今のようになったのか。
「人族に子どもを産んでもらいたいのはわかりました。戦利品の王族をどうするのかは、リオンハネスの自由だってことも理解しています。でも願いが聞き届けられるのなら、馬鹿な父上に搾取されていた国民には慈悲をください」
ヴェッラネッラ王族の贅沢な生活の陰で、民は搾取されていた。だから彼らは、守ってくれない自国の王族より、リオンハネス王国を選んだと聞いている。
「子どもを作る道具になるのは、王族だけでいい……」
若い側妃に抱かれていた赤ちゃんが脳裏に浮かぶ。父王の顔も知らずに育つだろう幼い姫。謁見の間で初めて見たあの子は、僕の腹違いの妹だ。
ギュッと引き攣れるような痛みを覚えて、僕は胸を押さえる。そんな僕に浴びせられたのは、存外軽い声音だった。
「何をおっしゃっているのですか? 道具なんて心外ですね。我々はパートナーを大事にします。まずは匂いを嗅ぐところからです。だから集団見合いと言ったんですよ」
加えてリオンハネスでは女性と子どもは宝のように扱われるのだとか。
「あの……人族の男性は全員、扱いは女性枠なんですか?」
ちらっと見た王弟――僕の叔父さんは、妻子持ちの普通のおっさんだった。ついでに言うと頭髪は寂しくて、お腹は風船みたいにまん丸。その姿を思い出して、チベットスナギツネみたいな顔になったのは仕方がない。
「安心してください。妻候補は適齢期の男女に限られますし、すでに伴侶がいる者は除外します」
ですよね! 流石にあの年齢で出産は気の毒だ。性別どうこうより、もうすぐ五十歳だもんね。
「幼年者は相性のいい貴族家で養育し、成長後に婚姻先を探すことになります。我々としては亡国の王族を手厚く遇して、ヴェッラネッラの人族に受け入れてもらうのが目的です。双方の民が垣根なく交流し、いずれ異種族間の婚姻が当たり前にしたいのですよ」
緩やかな侵略だな。獣人族と人族の間には、獣人しか生まれないんだろう?
でも、仕掛けたのはヴェッラネッラだから、甘んじて受け入れるしかない。
「最後に一つ、お伝えします。相愛の番関係でなければ、人族の男性は孕み胎を持てません」
ヤッカさんが僕に教えたことは、リオンハネスの王城で王族全員に伝えられているそうだ。
「最終的な孕み方は番に聞いてください」
「は、孕み方……」
ヤッカさん、言い方! その前に番……
ハードルが高いな。戦利品として乱暴に扱われる覚悟はしても、愛し愛されっていうのは想像がつかない。前世で彼女がいた記憶はないし、今世だって一生飼い殺しだと思っていた。生きているだけで精一杯で、愛とか恋とか考えたことはない。それに僕が受け入れる前提だろう?
「例えばなんですが……僕の番がリカルデロ王太子みたいな人だったとして、初夜で死にません?」
僕が名前を知っている獣人族は、リカルデロ王太子とヤッカさんの二人。当人に聞くことではないので例え話に登場させるのは王太子だ。体格差がありすぎて潰される未来しか見えない。熊獣人っぽい代官さんクラスだと、ぺちょっと情けない音を出してペッチャンコになる自信がある。
「大事な番を苦しませるなんて、獣人族の風上にも置けません」
ヤッカさんの目が細められた。ちょっとした不安だったのに、僕の質問は獣人族にとって心外だったようだ。
「そうですか。ところで、獣人の妻候補から外れた場合の就職先などはありますか?」
王弟や公爵たちが働くところも必要だと思うんだ。そこに僕が入ったっていいだろう。
「妻候補はともかくとして、あなたはまずは目方を増やしましょう。働くのはそれからです」
至極真っ当なことを言われた。ヤッカさんの目が僕を労るように優しく細められる。頑張る幼児を見守る眼差しだ。ご飯を食べるだけで体調を崩すようじゃ、何もできないもんね。
そんなふうにリオンハネスへの道中を進んだのだが、ヤッカさんの計画はくるいまくった。何故なら整備された街道を外れた途端、僕が馬車に酔ったのである。重ね重ね申し訳ない。死んだことにしてどこかに捨てていってくれと頼んでみたが、それが許されるはずがない。
ようやく王城に着いた時には、僕はヴェッラネッラでお腹を壊した時よりも酷い有様だった。体重はさらに減り、青白かった顔は土気色。鏡を見せられて絶句したね! ゾンビ映画のエキストラのようだった。用意してもらった服も着られず、寝巻き姿で入城しちゃったよ。
今、僕を抱えているのはヤッカさんだ。ヴェッラネッラのお城で抱っこは遠慮したのに、口を開くのも億劫だったので文句を言うどころじゃない。
せめて二、三日の休養が欲しかった。もうちょっとマシになってからリオンハネスの王様に会いたかったよ。どうせ他の王族より十日も遅れているんだ。今更数日追加されたって誰も気にしないだろう?
謁見の間はヴェッラネッラのキラキラした空間とは違い、無骨で格好良かった。僕のためにゆったりした寝椅子が用意されている。ただ、玉座の真正面なのは勘弁してくれ。
それにしても椅子まで用意されているなんて、特別待遇だな。そんなフカフカした座面に、僕は横たわるように座らされた。
「この国の貴族が立っているのに、不敬では?」
なんとか声を絞り出す。
広間の両側には大勢の獣人族がいる。大型種から小型種まで様々だ。小柄な兎耳さんや猫耳さんの中には女性の姿も見えるが、大型獣っぽい人々は男性ばかり。
先に辿り着いたヴェッラネッラの王族は、すでに行き先が決まったのだろうか?
「申しましたでしょう? リオンハネスで子どもの虐待は重罪です。あなたは病気の子どもにしか見えません」
ヤッカさんは僕の問いかけに答えながら、寝巻きの裾を整えた。
それからすぐにリオンハネス国王と思しき、がっしりした体躯の男性が登場する。名前は確かアレンジロだったはず。年齢は父上よりうんと若く見える。国王の隣にはリカルデロ王太子がいて、二人並ぶと派手な金髪が眩しい。アレンジロ王の金髪には白いものも交じっているが、獅子の鬣は豊かだ。
王太子、相変わらずイケメンだなぁ。いいな、僕もご飯を食べられるようになって鍛えたら、ゴリゴリのマッチョになれるだろうか。
「旨そうな匂いがすると思ったら、お前か」
国王が玉座に腰を下ろす前に、王太子がカツカツと靴音も高らかにやってきた。ゴージャスな金髪を僕に垂らすように鼻を寄せると、すんすんと匂いを嗅ぐ。ついでにペロリとほっぺたを舐められる。うひー、また味見された!
「腹が減る匂いだが薄いな」
空気が揺れた気がした。謁見の間を取り囲む獣人族たちが一斉に息を呑んだ気配がする。ビリビリと肌を刺すような強い視線が僕たちに集中していた。
「食べるところ、ないですよ。骨と皮です。あ、出汁は取れるかも?」
「本当に食うわけあるか」
リカルデロ王太子がニヤリと笑うと、尖った八重歯が覗く。獅子でも犬歯というのだろうかと、僕はぼんやり考えた。それにしても腹が減る匂いだなんて物騒だ。肉食大型獣なりの冗談なのだろうか。
王太子は僕のパサついた髪の毛をくしゃりと掻き回してから、今度は首筋を舐め上げる。
「うひゃっ」
「匂いは旨そうだが、まだまだだな」
間抜けな僕の声が広間に響き、リカルデロ王太子はくつくつと喉の奥で笑った。国王が大きな口を開けて笑い、王太子の肩をバンバンと叩く。王太子は鬱陶しそうにそれを払いのけているが、じゃれるような気安い態度だ。
隠れて眺めたヴェッラネッラの父上は、いつだってイライラと神経質そうに子どもたちを見ていた。なのに、アレンジロ王とリカルデロ王太子は普通の父子に見える。
国王は玉座に腰を下ろし、王太子は一段下がった階段みたいな場所に立って謁見の間を見下ろす。高座の下には熊っぽい大きな男性がいて、ざわつく広間の中をぐるりと見渡した。彼はヴェッラネッラの代官になった熊さんの血縁かもしれない。
熊耳さんの一瞥で謁見の間が静かになった。
「ヴェッラネッラの第七王子を迎えたい者は申し出よ」
朗々と響く声で熊耳さんが言うが、みんな隣り合った人とコソコソ話しているだけで誰一人、名乗り出ない。子どもの虐待が許されない国だもんね。僕みたいなのを引き取って面倒なことになるのはごめんだろう。
「まぁ、誰も手が出せませんよね」
ヤッカさんが耳をぴくぴくさせながら言った。豹の耳には彼らの会話が聞き取れているらしい。時間がゆっくり流れていく。
そろそろ目を開けているのが辛くなってきた。僕のことはどうでもいいから、姉上がどうしているのかだけ聞きたい。そうしたら、安心して気絶ができるのに。
しばらくして熊耳さんが再び口を開く。
「ではリカルデロ王太子、クラフトクリフ殿はあなたの宮に」
は? 聞き捨てならぬ言葉に覚醒する。
それは王太子宮なのでは? 僕に拒否権はないが、庶民にほど近い男爵家あたりで妥協してもらえると嬉しい……
「勝手に決めるな。俺は側妃なんて面倒なものはいらない。戦利品を手に入れる権利は放棄すると言ったはずだ」
リカルデロ王太子が言葉通り面倒くさそうに言ったので、僕はうむうむと頷いた。
お願いします、そのまま我を通してください。
「父上が側妃を迎えたんだ。そのうち弟が生まれるだろう。俺は後腐れのない相手とそれなりに楽しめれば充分だ」
国王の宮にも誰か納められたのか。リカルデロ王太子のお父上だからそれなりの年齢だろうけど、うちの父上だって六十歳を過ぎているのに、若くて綺麗な側妃を侍らせていた。まだ赤ん坊の姫までいるんだからお盛んだ。ポヨンポヨンのタプタプのおっさんがそうなのだから、鍛えて厚みのある体躯と精悍な顔付きのアレンジロ王に側妃がいたっておかしくない。
「母上亡き後、二十年近く独り身だったんだ。しばらく蜜月で後宮に籠もっても誰も文句は言わないさ」
王太子が遊ぶと宣言するのはどうかと思うが、その言葉には父王への気遣いが感じられた。
そうか、リカルデロ王太子も母上を亡くされているんだな。
子どもが生まれにくい上に女性が少ないという問題は、重々しく彼らの未来を押し潰そうとしている。王族も少なそうだし、何から何までヴェッラネッラと違う。
「リカルデロよ、我が後宮に納めた姫は弟をひどく案じておってな」
アレンジロ王が楽しげに息子に話しかけた。何故か視線を僕に向けて……
リカルデロ王太子に話しかける体で僕に聞かせているのだろう。後宮に納められた姫……まさかね?
「クラフトクリフ王子を城の外に出すと、ジェインネラに会わせてやれなくなる。お前の宮にいるのがちょうど良い」
やっぱり姉上か!
同母の姉弟の贔屓を抜いても、ジェインネラ姉上は美しい。ヤッカさんが護衛の心配をするほどだ。ケバケバしい第四王女なんて存在が霞む。姉上が王の後宮に行くのは自然な流れのように思う。
「可愛い番の泣き顔を見たくないのは、我ら獣人族なら当然であろう」
アレンジロ王がしたり顔になる。僕はあんぐりと口を開いたまま彼を見ていた。
間抜け面を晒しているが、驚きすぎて固まったのだ。獣人族と人族の番がそんなに簡単に決まるだなんて思わなかった。番とは書類に署名した夫婦というだけじゃなく、謂わば神様からの天啓のような相手なんだって。
リカルデロ王太子もヤッカさんも平然としている。謁見の間にいる獣人族たちも知っていたようだ。
「だったらジェインネラ王女と一緒に、父上の宮に納めれば良いだろう。では、そういうことでよろしく頼む」
待って! 行かないで! 男爵家あたりを斡旋してくれ! 王太子宮から国王の後宮へのチェンジは勘弁してほしい。
颯爽と謁見の間を後にするリカルデロ王太子を、僕は呆然と見送る。亡国の王子が自らの預け先を指定できるわけもない。はっはっと口から変な息が漏れた。
王太子が出ていき、謁見の間に騒めきが戻る。彼らの視線は再び僕に集中した。二十年ぶりに側妃を迎えたアレンジロ王の後宮に、もう一人納められることになるのを驚いているのだろうか。
「静かに!」
熊耳さんが場を静める。そしてアレンジロ王が立ち上がった。
「姉弟で寵を争わせるのは忍びない。クラフトクリフ王子はやはり王太子宮に納めるが良い。王子もそれで良いな? ジェインネラの慰めになってやってくれ」
姉上の慰めになるのは願ったりだ。むしろ今すぐ会いたい。
でも国王の後宮に納められるのは免れたものの、王太子宮に入ることは決定してしまった。アレンジロ王は形だけ僕に確認を取ったが断れるわけがない。
ダメだ、意識が朦朧とする。体力も気力も限界だ。遠くで熊耳さんが何か言っているのが聞こえる。
僕の意識はそこで途切れた。
2
結果的に僕は王太子宮で平和に過ごすことになった。
なにしろ宮の主が渡ってこない。たまにヤッカさんが来るものの、それ以外は最低限いる王太子宮つきの侍従たちにしか会わなかった。大型獣人の女性はとても少ないと聞いていた通り、たまに見かける侍女は小柄な人ばかりだ。
謁見の間で力尽きた僕は、その後七日間も目を覚まさなかったらしい。
時間感覚がないので、自分では普通に寝て起きた状態で喉が渇いたなぁと思いながら「お水欲しい」と呟いたのを覚えている。そうしたら、枕元で青白い顔色の姉上がほろほろと涙をこぼしていた。
「良かった……あなたの青い瞳が二度と見られないのではないかと思っていたのよ」
そう言って額にキスをしてくれたのだ。
目覚めた場所はアレンジロ王の後宮で、姉上曰く、我が儘を言って僕を運び込んでもらったらしい。ほったらかしの王太子宮の支度が間に合わないこともあって、アレンジロ王が許可を出したのだそうだ。
それから十日ほど姉上と後宮の侍女に世話をしてもらい、ベッドで身を起こす程度には元気になった。その間に新側妃のための支度が王太子宮で行われ、僕の心情は脇にほっぽられたまま、恙なく引っ越したのだ。
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