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1巻

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 ゆらゆらと水中にただようように微睡まどろむ。薄く目を開けると、揺らめく青いカーテンが見える。あぁ、水の色だ。
 僕が水底に沈んだのは、とある夏休みのことだった。大学のサークル仲間と河原にキャンプに行ったのだ。
 絶好のキャンプ日和びより。青い空と森の緑のコントラストが綺麗だったな。川が増水するなんて、誰も思っていなかった。持ち込んだビールをたらふく飲んだ先輩が、ふざけて川に飛び込む。けれど、穏やかに見えた川面かわもの下は濁流で。今思えば、上流で雨が降ったのだろう。そんなことに気づきもせず、焦った僕は先輩を助けようと川に入った。
 泥のように汚れた水が最後の記憶だ。どうせなら綺麗な青い湖が良かったなんて、どうしようもないことを思ったのを強く覚えている。
 そんな夢を見た。
 前世の夢だ。溺れる前に食べたバーベキューの串焼き肉が恋しい。それほどお腹が空いている。最後に食べたのは、昨日の朝食だった。今朝は何かもらえるだろうか。
 ヴェッラネッラ王国の王子として生まれたのに、今日の食事の心配をしなけりゃならない。それが僕の日常だ。
 のそのそと硬いベッドから起き上がり、冷たい石造りの床を裸足はだしで歩く。スリッパなんてない。僕には与えられていないからだ。スリッパどころか食事も満足にもらえていない。
 寝室から出ると、ちょうど居間の扉が開くところだった。寝室といっても、三畳ほどのウォークインクロゼットみたいな場所を勝手に寝床に決めているだけ。

「おはよう、クリフ。今日はりんごが手に入ったわ。デザート付きよ」

 姉上がトレイを掲げて軽やかに言う。給仕の真似事なんて王女がすることじゃない。

「姉上……また、王妃様に『これだからせんの者は』ってののしられるよ」

 ジェインネラ姉上はとても美しい。王妃様は僕らの亡くなった母上にそっくりな姉上が大嫌いだ。だから嫌がらせで、姉上は町娘よりみすぼらしい格好をさせられている。もっとも、姉上は長い黒髪をおさげに編んで洗いざらしのリネンのワンピースを着ていても極上の美人だ。

「王妃様のお話はめましょう。気がるわ。りんごは夕食用に隠しておくとして、パンとスープは今のうちに食べておしまいなさいな」
「いつもありがとう」

 僕は姉上にお礼を言って小さな椅子に腰かけた。スプーンに伸ばした自分の手が、骨と皮だけなのがやるせない。王妃様の虐待のたまものだ。
 姉上は父王が政略結婚の駒にすると明言しているので、美貌を損なわせるわけにはいかない。代わりに僕をいじめることに、王妃様は人生の楽しみを見出しているようだ。

「ありがとうなんて言わないで、わたくしの可愛いクラフトクリフ。もっとたくさん持ってこられたら良かったんだけど」

 姉上のキラキラ輝く青い瞳が涙でうるむ。
 僕らは母上が亡くなってから、二人で手を取り合って生きてきた。僕の中に眠る、前世の知識をかてとして。
 ぶっちゃけ母上が存命だった頃から、知恵という名の僕の前世の記憶は大活躍だった。社会経験はほとんどない大学生までの知恵だったが、軟禁されて育った僕を大いに助けてくれた。
 僕らの食事が抜かれ出した際は、何かの催しもので父王に挨拶する場で無邪気をよそおって『姉上はこんなに美しいのだから、いつかよその大きなお国にお嫁に行ってしまうのでしょうね』と言ってやったのだ。
 あの時の王妃様のはんにゃのような表情は忘れられない。国王である父上は僕の言葉を聞いた途端に顔色を変えた。姉上の使い道を瞬時に算段したのだ。変なところにとつがされる危険はあるが、数年の時間稼ぎができた瞬間だった。
 一方、僕はほったらかされた。七番目の王子の使い道は思いつかなかったらしい。
 父上は姉上の様子を見るようになり、王妃様は継娘の食事を抜けなくなる。代わりに僕への虐待が加速した。
 僕の食事は基本的にない。姉上が自分の食事を分けてくれるので、食いつないでいる。以前はもっと堂々と持ってきてくれていたが、最近の姉上の食事は監視されているらしい。残すと監視役の王妃様の侍女が給仕をする小間使いをせっかんすると聞いている。姉上自身を痛めつけるわけにはいかないし、優しい姉上を追い詰めるには小間使いに身代わりをさせたほうが効果的だ。
 王妃様はよっぽど僕らの母上が嫌いなんだな。彼女だってそこそこ美人なのに、意地悪を思いついた時のその表情は、じめっとしていて気持ち悪い。

「スープ、よく持ってこられたね」
「使用人が食べるまかないよ。小間使いに分けてもらったの」

 姉上はたまに見せ物よろしく夜会に出席させられていた。その時に殿方にちょっとしたアクセサリーをもらうことがある。それを小間使いに小遣い代わりに下げ渡して、見返りに食事を横流ししてもらっているんだ。

「わたくしの食事に出される具のないスープでは、お腹に溜まらないでしょう?」

 確かに透き通った上澄みだけのスープじゃダメだな。けれど、肉だ野菜だとメインディッシュをかすってくるのは難しい。
 まかない用のスープは肉も野菜もごっちゃに煮込まれていてシチューみたいだ。ほんのり温かさが残っている。これはかなりいい部類に入った。

「うん? ちょっと味が変わった?」

 僕の舌はわびしい食事をたんのうするために、さいな味の変化を感じられるようになっていた。知らないスパイスが入っている気がする。

「フラッギンから珍しい香辛料が入ってきたのよ」
「フラッギンって、隣国の?」

 フラッギンは僕らが住んでいるヴェッラネッラ王国と国境を隣接する国だ。あの国も王制をとっている。
 両国は主に人族が住んでいるが、くにには獣人族がいるそうだ。父上や王妃様は獣人に対して差別的な発言しかしない。
 それはさておき、フラッギン王国とは隣り合わせではあるけれど、仲が良いとは聞いたことがない。むしろ境界線を争っていを繰り返しているはずだ。
 僕は姉上からこっそり差し入れられたノートで勉強して、それを知っていた。

「お父様は最近、国外に目を向けていらっしゃるわ。民は貧困にあえいでいるというのに、何を考えていらっしゃるのかしらね」

 ゆっくりと食事をする僕を見ながら、姉上はため息をつく。
 僕はろくなものを食べさせてもらえていないし、姉上はリネンの寝衣みたいなワンピースしか与えられていない。夜会の時はドレスが用意されるみたいだけど、それだって上に四人いる姉上たちのおさがりだ。
 王妃様は母上以外の側妃たちには寛容だ。僕らの母上が亡くなって十年経つのに執念深い。
 父上は王妃様と五人の側妃の間に王子が八人、王女が十一人。国民がひもじい思いをしているのに、僕ら以外の王族は我が世の春をおうしている。

「国外に目を向ける?」

 姉上は国民の生活をうれいているようだ。

「まさか戦でも始める気?」
「そう聞いたわ。お父様にはっきり言われたもの。最も戦功を上げた者に、わたくしをするのだそうよ」
?」

 ついに時間稼ぎが終わってしまった。姉上は降嫁ではなく褒美として下げ渡される。相手が既婚者でも構わないってことか。実の娘になんたる仕打ちだ。

「ええ。でも、大丈夫よ。多分なんて実現しないわ。どうせ負け戦ですもの」

 父上はどこと戦うつもりなんだろう。フラッギンじゃなさそうだ。香辛料を輸入するくらいだし。
 首をひねっていると、廊下でガヤガヤと人の気配がした。ここは王子の居室らしからぬやすしんなので壁が薄い。かしましいおしゃべりは王妃様の末娘である第四王女のものだ。
 僕は朝食をトレイごと戸棚に隠した。見つかると金切り声を上げられるからね。何度も酷い目にあって学習している。

「ジェインネラ! クラフトクリフのところにいるのはわかっているのよ! 出ていらっしゃい!」

 出ていらっしゃいと言いながら、ズカズカ入室してきたのは王妃様と第四王女だった。王女の名前は覚えていない。異母姉に対して薄情だと言うな。つばを吐きかけてくる人の名前なんてどうでもいい。

「相変わらず狭くてほこりっぽい部屋だこと」

 王妃様があごをツンと上げて言った。唇の端がニュッと吊り上がって半眼で僕たちを見下ろす。隠しきれない愉悦が透けて見えた。失礼だな。狭いのはどうしようもないが、ほこりっぽくはないぞ。なにしろ部屋から出してもらえない僕は、掃除しかすることがないからね!

「ふん、目ばかりギョロギョロして気色悪い。なぁに、そのキラキラした瞳。くり抜いてあげましょうか?」

 これは褒められているのか? ビー玉を欲しがる子どもみたいなことを言われても嬉しくない。腹は立つが反応すると面白がられるから、じっと我慢だ。

「何かご用ですか?」
「生意気な口ね」

 姉上がおっとりと尋ねると、第四王女が目を吊り上げた。絹のドレスを着た第四王女よりも、リネンのワンピースを着た姉上のほうが気品がある。底意地の悪さって隠しようがないんだな。

「陛下がついに進軍なさいました。あけぼの将軍がお前を迎え入れる準備をしているそうよ。ほほほ、英雄色を好むと申します。お前のために狐の毛皮でえりきを作ってくれるのですって」
「うふふ、薄汚い獣人族の尻尾は、あなたにお似合いね」

 言うだけ言って、母娘はさっさと出ていった。何しに来たんだ?
 僕たちは情報に飢えている。大事なことはとくに知らされない。でも例外がある。僕たちが不幸になりそうなことは、嬉々として王妃様が教えに来るのだ。今も、彼女たちは嫌がらせのつもりだろうが、ポロリと重要な情報を落としていった。

あけぼの将軍ねぇ」

 激しくダサい二つ名、誰がつけたんだろう。彼は将軍というよりバーサーカーらしい。一揆の鎮圧におもむいて農具を手にした農民を皆殺しにした挙句、自軍の兵士も斬りまくったと聞く。死に別れた三人の妻は病死と届けられているが、誰も信じちゃいない。四人目も行方不明だそうだが、もういないというのが使用人の噂話だ。
 この部屋は洗濯小屋に近いし隙間だらけだから洗濯係の話がよく聞こえる。彼女たちは手を動かしながら口もよく動かすので、情報を仕入れるのにはぴったりだ。
 そんなあけぼの将軍のところに嫁に行くなんて、死にに行くようなものだ。

「姉上、本当にされそうになったら、僕を放って逃げてね」

 枯れ木のような僕の手足。柔軟は欠かさないし部屋の中を掃除しがてら身体を動かしているが、走ったり跳んだりできるとは思えない。エネルギーが足りずいつも寒いし、走れば三歩で足がもつれる自信がある。おぼろげな記憶の中にいる幼い僕は、今の僕と比べてとても健康だった。あの身体があれば姉上と一緒に逃げられるのかな。

「お馬鹿さん。わたくしのたった一人の可愛い弟。言ったじゃない。どうせ負け戦だと。わたくしは皆と一緒に断頭台に登るだけ」

 あけぼの将軍を大将にして向かった先は、獣人の王が治める国だろう。第四王女が狐の毛皮と言っていたから、間違いない。
 僕の部屋にある書物には獣人について書かれたものもある。種族によって特性はあるが、ほとんどの獣人が人族よりもきょうじんな肉体を持っているという。人族が安心して暮らしていられるのは、獣人族が縄張り――国から出ないおかげと書いてあった。その本は人族に都合の悪いことばかりが書いてあるため、禁書扱いされている。この部屋にはそんな古い本が投げ込まれているのだ。

「あなたこそ、お逃げなさい。どう見たって王族には見えないもの。お目こぼしされるかもしれないわ」

 洗いざらしのリネンのワンピースを着た姉上は、品良く微笑ほほえんだ。

「あなたの頭の中には、神様の経典が宿っているわ。逃げられさえすれば、生き延びることもできるでしょう」

 僕は幼い頃からおよそ子どもらしくない子どもだった。前世の記憶のおかげで、せっかんしようとする王妃様からうまいこと逃げてきたのだ。そんな僕を母上も姉上も受け入れて愛してくれた。
 神様の経典というのは前世の記憶のことだ。母上はそう言って、僕の頭を撫でてくれた。その母上が亡くなった原因は不明だが……まぁ、お察しだよね。
 幼かった僕は前世の記憶をもってしても、いつくしんでくれた母上を守れなかった。十七歳の今なら姉上を救えるだろうか? 僕だけ逃げるなんて選択はない。姉上を逃がすか、そうでなければ一緒に断頭台だ。
 しかし、そんな覚悟は呆気なく散る。
 小間使いに案内された獣人族の兵士が僕の部屋を訪れたのは、開戦からわずか一ヶ月後のことだった。
 戦況については全く耳に入らず、僕の食事は相変わらずまかないの横流しで、姉上の食事もあまり変わらない、一方、父上たちは常に贅沢していると聞いていた。
 だから獣人族の兵士が突然僕の部屋にやってきた時、文字通り飛び上がったんだ。
 部屋に来たのは尖った耳を持つ黄金の瞳の兵士で、その腰で黒くて長い尻尾が揺れている。どことなく猫っぽい。案内してきた城の小間使いはガタガタと震えていた。

「なんと可哀想に。この方、本当に王子なんですか?」
「だ、第七王子のクラフトクリフ殿下です!」

 兵士が疑ったのは当然だ。僕は全く王族に見えない。使用人棟の端っこの物置き部屋を与えられて、擦り切れた寝巻きをだらりと着込んだ姿。散髪をしたのはいつだったかな?
 いつも食料を横流ししてくれるこの小間使いが可哀想になって、僕は少し助け舟を出す。

ままははに虐待されていたのです」

 兵士に向かってニッコリ笑った。兵士が一瞬ひるむ。目ばかり大きいガリガリ男の笑顔はさぞかし不気味だろう。

ままははとはディボラ王妃のことですか?」

 兵士は少し考える素振りを見せてから、言葉を選ぶようにゆっくり問いかけてきた。
 ままははの名前なんかろくに覚えちゃいないが、他に王妃はいないので素直にうなずく。嘘をついたって意味がない。母上亡き今、僕と姉上は奥向きの最高権力者である王妃様の管轄下にある。

「なんと酷いことを……幼い子どもは一族で可愛がるものだろう」

 兵士が表情をゆがめた。シュッとしたイケメンだけど、取り澄ました感じはない。僕を哀れに思って怒っている。いい人だな。

「では第七王子、私と一緒に謁見の間へ出向いていただきます」
「僕がこの部屋から出ると、ジェインネラ姉上の足の裏に焼きごてが入れられるんです。王妃様にちゃんとりなしてくれると約束していただかないと、部屋からは出ません」
「……もちろんです。王妃には何もさせません」

 すでにこの城がヴェッラネッラ王家のものじゃないのはわかっている。王妃様は好き勝手に振る舞えないはずだ。
 でもさ、ちょっとくらい告げ口したっていいと思わない? 嘘は一つも言っていないからね。
 兵士が請け負ってくれたので、僕は安心して足を踏み出した。それにしても、これだけキッパリ言い切るなんて、彼は下っ端ではないのかも。
 僕の着ている寝巻きはダブダブで、ずり落ちる首周りをピンで留めている。裾はドレスのようにっているので、両手でたくし上げた。ペタペタとれんタイルの廊下を歩いていると、兵士がギョッとした表情で僕の足元を凝視する。

裸足はだし……?」
「靴があるにはあるんですが、八歳の頃に窮屈になってしまって」
「失礼ですが、今はおいくつですか?」
「十七歳です」
「十……七歳?」

 表情が「嘘だろう」と語っている。さっきは「幼い子ども」とも言われたな。

「小さいのは栄養が足りていないからです」
「そうでしょうね。いえ、それは今はどうしようもありません。私が驚いたのは、十年近くも靴を与えられていなかったほうです」

 兵士はこめかみを押さえた。

「王都に辿り着くまでに、荒れた農村をいくつか見ました。我らに抗うでもなく、むしろ歓迎すらして素通りさせてくれました……よほど圧政に苦しんでいたのでしょう。それでもあなたほど痩せた子どもは見ませんでした」
「それは良かった。僕より痩せた子がいたら、生命に関わりますからね」

 我ながらよく生きていると自分に感心しているところだ。それにしても素通りか。そりゃ開戦からあっという間に王都まで辿り着くよね。
 ペタペタカツカツ、二人の足音が廊下に響く。

「あの……抱いてお連れしてもいいですか?」
「恥ずかしいから、嫌です」
裸足はだしの足音が気になります」

 足音より呼吸の乱れを気にしてくれ。僕はほとんど部屋を出ないため、こんなに長く歩くのは久しぶりだ。歩くだけで気道が痛い。これから断頭台に登る日程調整に入るわけだろう? その前に太陽の下で思いっきり駆けてみたいが、三歩で転ぶか肺が潰れて苦しい思いをするかだな。
 僕が謁見の間に着いたのは、全ての王族の最後だった。本当なら身分の低い者から入って、身分の高い者を待たせないようにするものだけど。などと思ったが、僕の身分は本来ならそんなに低くはない。王弟の息子や降嫁した王女の子どもたちは僕より下だもの。
 姉上が僕に気づいて花の顔容かんばせを絶望にゆがめた。
 ダメだよ、悲しい表情をしないで。僕だけ逃げるなんて、そうは問屋が卸さないよ。
 向こうで王妃様とその子どもたちの集団がにんまりしている。集められた王族が全員ではないと申告したのは彼女たちか。いつもいないモノとして扱うのに、こんな時だけ都合の良いことだ。
 玉座には大きな男性が座っていた。

「うわぁ、ゴージャスゥ」

 思わず口に出してしまう。良かった、誰も聞いていないようだ。
 玉座の男性はとても体格がいい。堂々としていて格好が良かった。幼い日に見た父上が座っている姿は、玉座が豪華すぎて埋もれている感が満載だったのに。男性のごうしゃな金髪は結われもせず垂らされている。ゴージャスに渦巻く様子は黄金の滝みたい。遠目でよく見えないが、きっとあの金髪の中には獣耳があるんだろう。
 彼がリオンハネス王国の将軍かな。行儀悪く足を組んで、そこに肘をついている。謁見の間というおおやけの場なのにとてもさまになっていた。格好いい男は行儀が悪くても格好いいんだな。
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 玉座のある高座の下にいた熊のように大きな人が、しゃくじょうみたいなものでガンッと床を打った。謁見の間に集められた王族と高位貴族の視線が集中する。注目の合図だったようだ。

「このお方はリオンハネス王太子、リカルデロ殿下である」

 朗々と響く声に、僕は驚いた。戦支度のこしらえを見て将軍だと思っていたのに、まさか王族が真っ先に乗り込んでくるなんて。うちのボンクラ王太子に、爪の垢をせんじてやってくれ!
 リカルデロ王太子は微動だにせず、一言も発しない。ただ壇上から僕たちを見下ろしているだけだ。ビリビリとした威圧感がすごい。
 そんなわけもないのに、目が合った気がした。まるでライブ会場で推しアーティストから視線をもらったファンのような気持ちになる。
 熊似の人は、これから自分がリオンハネスの代官として城を管理すると宣言した。それから僕たちのこれからのことも。
 王族は全て、リオンハネスの王城に連れていかれる。王家の血を引かない側妃はその対象ではないが、幼い王女たちのために同行しても良いらしい。
 断頭台は回避されたのか? それともリオンハネス王国で裁判でもある?
 手間暇かけて自分の国に連れていく価値が僕らにあるとは思えない……とくにあの辺で大騒ぎしている第四王女。

「お母様も一緒にいらっしゃるのですよね!?」

 空気を読まない金切り声が響く。王妃様は微笑ほほえんで娘をさとした。

「あなたはもう成人よ。王女の誇りを持ってリオンハネスに参りなさい。母は涙を呑んでこの城であなたの無事を祈ります」

 涙を流しながら気丈に振る舞う演技がとてもお上手ですね。
 彼女は侯爵家の出身だったかなぁ。確かに王家の血は薄いが、王妃だぞ? 旦那も息子も逃げた今、この場で壇上のリオンハネス王国の王太子に礼を尽くすのは、彼女の仕事だ。
 王妃様の態度はそれがわかっているとは思えないもの。

「お母様! わたくしをお見捨てになるの!?」

 絶望感をただよわせた王女の声だが、王妃様が見捨てようとしているのは王女だけじゃない。リオンハネスに移送されて戦利品として配られるかもしれない王族と、リオンハネスの代官が行う統治に利用されるヴェッラネッラに残される貴族、そして国民全てだ。
 王妃様は王族たちの冷めた視線など意に介さず、悠々としている。泣いてはいるが、僕の目に映る姿は自分に酔って悲劇のヒロインごっこに興じるおばさんでしかない。
 体力のない僕はそろそろ立っているのがつらくなってきた。王妃様と第四王女の茶番劇にも飽きる。それは僕だけじゃなかったようだ。

「おい、ディボラ王妃。虫のいいこと言ってんじゃねえ」

 玉座からビリビリとお腹に響く、低くて甘い声がした。
 なんだこれ!?
 初めて聞いたリカルデロ王太子の声は、とんでもなく魅惑的だ。
 彼がごうしゃな金髪を輝かせて立ち上がる。でかい。
 僕は端の、玉座まではそこそこの距離がある位置に立っていた。これだけ離れていても体格の良さが見て取れるなんて、相当背が高いはずだ。

「王妃と側妃じゃ立場が違う。第一お前は罪人だ。我が国では子どもへの虐待は重罪、監獄行きが妥当だろう。端にいる小さいののこと、お前がいじめてんだってな」

 いつの間にか、僕をここに連れてきた兵士が王太子の隣に立っている。あの猫耳さんを通じて僕の情報が耳に入ったのだろう。
 リカルデロ王太子が僕を見た。さっきみたいに気のせいじゃなく、絶対に。
 謁見の間の人々の視線を一身に浴びているのに、王太子の強い眼差まなざしだけを意識してしまう。黄金の巻き毛が覇気を噴き出しているようだ。
 そういえばリオンハネスは獅子王が治める国だ。リカルデロ王太子も獅子の獣人だろう。百獣の王かぁ。なんだか格好いいな。

「獣風情が法を語るでない! わたくしはヴェッラネッラの王妃ディボラである。貴人に相応ふさわしい待遇を要求いたします!」

 王妃様が居丈高に叫ぶ。
 敗戦国の者の態度じゃないなぁ。さっき自分で責任ある立場を否定したばかりじゃないか。そもそも誰よりも着飾っているのが変なんだけど。ちょっとくらい謙虚に見せる努力が必要じゃないか。今まで自分より偉い人が夫だけだったから、この場で一番偉いのは自分だと思っていないだろうな。
 リオンハネス王国とヴェッラネッラ王国は対等じゃない。一ヶ月前とは違う。進軍して返り討ちにあっただけなら、優劣があっても独立した国同士。でも国王と王太子が揃って逃げた時点で、国際的な信用は地に落ちた。
 この王妃様に、リカルデロ王太子も熊っぽい代官も利用価値を見出しはしないだろう。自滅したなぁ。
 数名の側妃が青ざめている。今にも倒れそうだ。一番若い側妃は腕に抱いた赤ちゃんをギュッと抱き締めていた。王妃様の振る舞いが自分の子の立場を悪くしないか、不安で仕方がないんだ。

「敗戦国の王妃の態度ではないな。裁判が嫌なら、今すぐ首をねてやる」

 リカルデロ王太子がうなるようにそう言うと、王妃様は静かになった。「ひっ」と喉をらせた後、失神する。第四王女が盛大に悲鳴を上げて、倒れた母親にすがった。リオンハネス王国の兵士が何人か耳を伏せる。こんな時なのに、ちょっと可愛い。
 僕らでさえびっくりする大声なんだ。優れた耳を持つ獣人にとっては聴力破壊音だよね。

このたびの戦に関与した者や非人道的行為を行っていた者は、我が国の法でさばきます。移送は三日後です。あなたがたは自室に軟禁となりますが受け入れていただきます」

 熊の代官がくくったが、それを邪魔したのは第四王女だ。

「わたくしたちは戦利品ということなの? ならばお父様とお母様の娘として、わたくしは当然、王の後宮か王太子の宮に預けられるのよね!?」

 彼女はかんだかく叫んでおおな身振り手振りをしてみせる。豊かな胸がふるんと揺れた。色仕掛けのつもりなんだろうか。
 母親である王妃様がリカルデロ王太子の機嫌を損ねたばかりだぞ?
 この王女と半分血が繋がっていると思うと頭が痛い。案の定、王太子の機嫌はさらに悪くなったようだ。

「お前みたいなキンキン声の女、願い下げだ。それでなくても頭から香水の池に飛び込んだみたいな臭いがする。耐えられる気がしない。俺は戦利品なんていらない」

 面倒くさそうに言ったリカルデロ王太子は、マントをなびかせて高座から降りる。彼の退出でこの場はお開きだ。
 しかし何故なぜか、王太子は謁見の間の中央に伸びるカーペットから外れる。ずんずんと大股で僕の前までやってきた。
 近くで見ると本当に大きい。百九十センチくらいあるんじゃない?

「相当酷く虐待されていたみたいだな。近くで見ると骨と皮だ。髪もパサパサだし、唇も割れてる。あぁでも、その青い瞳は美しいな」

 リカルデロ王太子がぼそりとつぶやく。


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綺沙きさき(きさきさき)
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旧題:悪役令息の役目も終わったので第二の人生、歩ませていただきます 〜一年だけの契約結婚のはずがなぜか公爵様に溺愛されています〜 【元・悪役令息の溺愛セカンドライフ物語】 *真面目で紳士的だが少し天然気味のスパダリ系公爵✕元・悪役令息 「ダリル・コッド、君との婚約はこの場をもって破棄する!」 婚約者のアルフレッドの言葉に、ダリルは俯き、震える拳を握りしめた。 (……や、やっと、これで悪役令息の役目から開放される!) 悪役令息、ダリル・コッドは知っている。 この世界が、妹の書いたBL小説の世界だと……――。 ダリルには前世の記憶があり、自分がBL小説『薔薇色の君』に登場する悪役令息だということも理解している。 最初は悪役令息の言動に抵抗があり、穏便に婚約破棄の流れに持っていけないか奮闘していたダリルだが、物語と違った行動をする度に過去に飛ばされやり直しを強いられてしまう。 そのやり直しで弟を巻き込んでしまい彼を死なせてしまったダリルは、心を鬼にして悪役令息の役目をやり通すことを決めた。 そしてついに、婚約者のアルフレッドから婚約破棄を言い渡された……――。 (もうこれからは小説の展開なんか気にしないで自由に生きれるんだ……!) 学園追放&勘当され、晴れて自由の身となったダリルは、高額な給金につられ、呪われていると噂されるハウエル公爵家の使用人として働き始める。 そこで、顔の痣のせいで心を閉ざすハウエル家令息のカイルに気に入られ、さらには父親――ハウエル公爵家現当主であるカーティスと再婚してほしいとせがまれ、一年だけの契約結婚をすることになったのだが……―― 元・悪役令息が第二の人生で公爵様に溺愛されるお話です。

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