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蛇の足的な。

宰相閣下、企む。

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 エスターク王国の若き宰相閣下は、ガウィーニ伯爵ルシオと言う。若いと言っても国王陛下そのひとが若いためそれが浮き立って見えるほどではない。
 眼鏡の奥の切れ長の瞳がスゥッと細められ、冷たく微笑む姿は氷の彫像のようだ。后子ごうし殿下曰く『薄寒い笑み』は、彼の代名詞と言っていい。その薄寒い笑みを浮かべて眺めているのは、宰相補佐官ランバートが差し出した某貴族の不正の証拠である。ざっと目を通して誰に処理をさせるのかとメモを挟んで、処理済みの箱に入れていく。
 新たな書類に目を通し上から下まで流し見て⋯⋯その面貌から一切の表情が抜け落ちた。整いすぎた玲瓏たる美貌から薄寒い笑みすら失って、生命の息吹が消えてしまったかのようだ。

「エリック、この書類は内務府行きが紛れてしまったもののようだね」

 名指しで問われて宰相府の事務官であるエリックは、もともと真っ直ぐ伸ばしていた背筋を更に伸ばした。宰相閣下の無表情はとても心臓に悪い。差し出された書類を恭しく受け取ると、エリックは視線を落とす。上司の顔を見なくて済んでホッとする。

「ピヒナ侯爵令嬢の嫁ぎ先候補ですか。内務大臣がいい婿がねを探しておられると聞いていましたが⋯⋯」

 事務官が一読して一言発した瞬間、宰相執務室の温度が一気に下がった。無論比喩だが、エリックは書類から宰相閣下に視線を戻して後悔する。閣下の整いすぎた面貌から表情が抜け落ちた上、冷気まで漂っているようだ。

「そう言えば陛下が、大臣殿に見合いの斡旋を促していましたね」

 見出された王弟殿下のお披露目会を利用して、侯爵位簒奪の悪漢を捕縛した。正当な幼侯爵オリヴァー・ピヒナの姉アイリスは、侯爵家を乗っ取っていた叔父から真の後継者たる弟を守った女性と紹介されて、今や社交界の花である。美しいというよりは可愛らしく、どこか自信なさげな様が庇護欲を刺激する女性だ。

 内務大臣たるザカリー伯爵は見合いの斡旋が趣味のような気のいい老爺だった。不遇を乗り越えた可憐な令嬢を幸せにしてやらねばならぬと、俄然張り切っているのだろう。

「エリック、今日のリューイ殿下の講義は、お茶会の作法でしたね?」
「はいッ」

 無表情で問われてエリックの返事はひっくり返った。リュシフォード王の異母弟リューイ王子は五歳になったばかりだ。エリックの弟フレッドは、その学友として王城に招かれている。むしろルシオがリューイの周りの地盤固めのために、部下の身内を送り込んだと言う方が正しい。フレッドは子爵家の三男で、リューイ王子の側近候補としては身分が低いが宰相閣下の推薦で学友に選ばれた。そしてこんなとき、情報収集のために利用されている。幼な子が知る由もないが。

「今日のお茶会には、アイリス嬢とイゾルデ嬢も招待されておられます」

 エリックは朝食の席で楽しそうに話していた弟を思い出しながら言った。弟のフレッドは『イリスおねえちゃまとイジーおねえちゃまに、しょうたいじょうをだしたんだよ』とニコニコしていた。

「ほう⋯⋯イリス。あなたの弟はアイリス嬢とイゾルデ嬢を愛称で呼んでいるのだね」
「殿下の学友たちはみんなそうですよ」

 ルシオの目が眼鏡の奥ですうっと細められたのを見て、エリックは背筋に怖気が走った。瞬時に視線を下げる。王弟殿下の学友たちは、彼の弟を含めて全員幼い子どもである。そんな彼らに対してではないだろうが、アイリス・ピヒナが絡むと感情が揺らぐようだ。

「そう言えば⋯⋯」

 エリックがふと思い出したように呟いた。

「内務大臣がアイリス嬢の結婚相手を探していますが、いっとき閣下のお屋敷に身をお寄せになっていましたよね。状況が状況でしたが、未婚の女性が保護される場所としては不適切では? 閣下のなさることにしては詰めが甘⋯⋯?」

 彼は途中で口を閉じた。お調子者だが真面目な一面も持つエリックは、錆びたカラクリ人形のようにギギギと頭を上げて上司を見た。

 微笑んでいる!

「ええ。我が家は未婚女性が保護されて住まうにはとても不適切な場所でしょうね。なにしろ先代伯爵夫妻は隠居して領地に引っ込んでいるし、私の姉は嫁いだ上に普段は王城に賜った私室で生活しているわけだから」

 ルシオに保護された当初のアイリス嬢は一介の侍女であったが、すぐに侯爵令嬢と判明した。ルシオはその後も姉たる女官長に預けることもせず、屋敷の奥深くで淑女教育を施した。男の独り住まいに保護されていたのは、高貴な女性にとっては致命傷になり得る。無論独り住まいといっても使用人はいるのだが、一般的に数に入れない。それがわからぬルシオではないだろうに。

 つまるところ⋯⋯。

「あなた、未来の妻を育てていましたね⁈」

 迂闊なエリックは思わず上司の顔に指を突きつけた。そして自らの無礼千万な行為に気づいて真っ青になった。

「ふふ、それがどうかしたか?」

 蛇が鼠を甚振るようなやわやわと締め上げられる心地がして、エリックは背後にいるはずの同僚の気配を探った。誰もいない。早々に逃走したようだ。

「⋯⋯教授にお伺いを立てましょうか? 宰相閣下がリューイ殿下の学習の進捗を確認するために、お茶会の見学が可能かどうか」
「ふむ、お前もなかなか使えるようになってきたね」

 エリックは必死に声を絞り出した。ルシオが満足そうに頷く。使える文官認定されるのはありがたいが、直接目をかけられるのは遠慮したいのが彼の本音だ。補佐官ランバートと書記官ギルバートの激務は周知の事実だ。

「教授の許しが出たら、お前も共に見学をしよう。末弟の様子を母御に伝えてやるがいい」

 鷹揚に言われたが、日々学習の様子は侍従によって帳面にまとめられている。エリックがわざわざ参観する必要はない。それでも彼は空気を読んで「ありがとうございます」と頭を下げた。それは午後からも宰相閣下のお供をすることが決定した瞬間だった。

 ルシオは事務官エリックを伴って王子宮の一室に向かった。彼らは茶会の招待客ではなく、見学者だ。すでに始まっているところに静かに入って行くと、幼い王弟殿下が気づいてパッと表情を明るくした。

「ルシオ、いらっしゃい。おせきのごよういは、いりますか?」
「ありがとうございます、リューイ殿下。今日は飛び入りのお支度の練習はいりませんよ」
「はぁい」

 リュシフォード王の異母弟は、もうすぐ王の妻になる予定の叔父に似て愛らしい。複雑な家庭ではあるが、健やかに伸びやかに育っている。ルシオは次代の恙無い成長に目を細め、その後さりげなく席に着くふたりの令嬢に視線を向けた。ホーパエル伯爵令嬢が優雅に微笑み、ピヒナ侯爵令嬢アイリスはそれを手本にぎごちなく笑った。ルシオはあくまでも見学者だ。席を立ってのカーテシーはしない。

 茶会は子どもたちが和気藹々として楽しく時間が過ぎ、時に完璧な淑女教育が行き届いたホーパエル伯爵令嬢の誘導が入る。イゾルデは現在親元を離れてピヒナ侯爵家に身を寄せている。長く淑女教育から離れていたアイリスの手本になるためだが、子どもたちにもいい教授代わりのようだ。

「そうだ、ご令嬢方。そろそろ寒さが厳しくなります。王城の中庭の冬支度はご覧になったことがありますか?」
「いいえ」
「ではお茶会を終えられたらピヒナ侯爵がおさらいをなさっている間、庭の散策でも致しませんか?」

 いつもは幼侯爵がお茶会のおさらい会をしている時間、令嬢たちは控え室でお喋りをして過ごす。それも淑女教育の一環である。

「まぁ、素敵です。イリス、ご一緒しましょうか」
「は、はい」

 イゾルデが微笑んでアイリスを促した。令嬢たちの付添人もしたり顔で頷いている。そうしてルシオは茶会後の約束を取り付けると、ひとまず執務室に戻ったのだった。その間、彼の後ろに控えていたエリックは、弟の様子を見守るどころではなかった。


 茶会の後少しの休憩時間を空けて、ルシオは令嬢たちの控え室を訪れた。もちろん先触れをして。彼は部屋に迎え入れられて、イゾルデから丁寧な詫びを入れられた。
「申し訳ございません。せっかくお誘いいただきましたのに、ホーパエル家のことで補佐官様とお話をしなくてはならなくなりました。ですがせっかくお時間をとってくださいましたもの。アイリス嬢を案内して差し上げてくださいませ」

「イ、イジー!」
「ダメよ、イリス。声を荒立てては」
「⋯⋯はい」

 突然名前を出されたアイリスが慌てふためくと、イゾルデは微笑んで指導した。それを見たルシオが満足そうに頷いた。アイリスへの順調な淑女教育と、聡いイゾルデの両方への満足だ。イゾルデはルシオの意を汲んでアイリスをひとりで送り出そうとしている。もちろん付添人は共に来るのだが、一歩控えているものだ。

「では尚更、ひとりでお待ちになるのも退屈でしょう。ご一緒していただけますか、お嬢様?」

 その場に宰相府の面子がいたならば、泡を噴いて倒れたことだろう。ルシオの柔らかな微笑みには、氷の棘は微塵も感じられない。薄寒い微笑みが通常運転の上司を見たら魂消たに違いない。
 それはともかくアイリスはピヒナ侯爵令嬢である。家格で言ったら当然アイリスが上だが、ルシオは伯爵家の現当主であり宰相の位に就いている。家長の庇護下にある令嬢に『お嬢様』と謙る必要はないのだ。国王陛下と共に政の頂に立つ青年が、ひとりの令嬢に礼をした。アイリスはぽかんと口を開けて突っ立ったままで、となりに立つイゾルデがそんな彼女の腕にそっと手を伸ばした。

「イリス、お受けしたらどうかしら? わたくしもあなたをひとりでお待たせするのは心苦しいわ」
「イ、イジー」
「ね?」

 イゾルデは麗しく微笑んだ。それに励まされるように、アイリスが背中をしゃんと伸ばしてルシオに向き直る。

「ガウィーニ伯爵、お誘いいただいて嬉しゅうございます」

 瞳を潤ませて頬を真っ赤に染めて小さく震えるアイリスの姿は、とても可愛らしい。

「それでは参りましょうか」

 ルシオはアイリスの手を取って、自分の腕に導いた。社交に不慣れな令嬢はおずおずとエスコートに身を預ける。

「イゾルデ嬢、恙無く用を済ませて参られよ」
「はい」

 イゾルデに見送られて、ふたりは王城の中庭に向かって歩き出した。三歩ほど下がってアイリスの付添人がついて行く。実に礼儀正しい未婚男女の在り方である。
 中庭は秋の花も終わり、庭師たちが雪に備えて入念に準備をしている。木々が雪の重みで折れたりしないようにロープを張ったり藁で覆ったりしている。半分藁で覆われた樹木を見て、アイリスは小さく「まぁ」と声を上げた。忙しく働いている庭師は高貴な存在には慣れっこである。一瞬だけ手を止めて頭を下げた後、すぐに仕事を再開する。

「王都は雪がたくさん降るわけではありませんが、こちらの庭に植っているものは寒さに弱いですし、何代か前の王族の記念植樹もありますから」

 実のところ王族所縁の樹木が枯れたとあっては責任の押し付けどころが面倒なのだ。なまじ丹精込められているだけに、植え替えるのにも労力がいる。それなりに深く根を張っているものを掘り返すのは王城の庭師だけでは難しい。外から人足を呼び込むとなると、警備上の問題も発生する。
 そんなルシオの事務的な脳内補完をよそに、アイリスはほんわりと微笑んだ。

「枯れたら可哀想ですものね」
「⋯⋯可哀想ですか。アイリス嬢は優しいですね」

 ルシオは植物の感情の機微など考えたこともなかったが、傍らの少女めいた女性が嬉しそうなのを見て頷いた。暫く他愛もない言葉を交わしながらそぞろ歩く。初めて会ったときには痩けていたアイリスの頬がまろみを帯びている。ルシオが身長差によってそれを見下ろしていると、不意に顔を上げたアイリスが赤い頬のまま口を開いた。

「ガウィーニ伯爵、お姉様はお元気でいらっしゃいますか?」
「お姉様⋯⋯あぁ、うちの姉なら王太后殿下の元でエルフィン様の教育に力を注いでおりますよ」
「まぁ、リーチェお姉様のご指導なら、エルフィン様もご安心ですね」
「リーチェお姉様?」

 ルシオの姉は王城で女官長として女官を統べている。名をベアトリーチェといった。ルシオは自分でも姉弟の性格はよく似ていると理解している。気に入らない者にリーチェお姉様などと気安く呼ばせる女性ではない。

「はい、『実の姉とも思って頼みにしてください』と、おっしゃってくださって」
「随分親しくおなりですね」

 姉もこの女性を気に入っているらしい。ルシオは柔らかに微笑んだ。⋯⋯が、次の瞬間、その微笑みは固まった。

「ガウィーニ伯爵、あの、その、お兄様とお呼びしてはいけませんか?」

 ルシオの脳裏で、主君の恋人がおっとり微笑む姿が浮かんだ。かの人もリュシフォード陛下の好意に気付かずに『お兄ちゃん』などと惚けたことを言っていた。

「叔父や従姉妹から助け出していただいて、感謝してもしたりないのです。こんなに頼もしいお兄様がいてくださったら素敵だと⋯⋯」
「それはご遠慮ください」

 淑女の言葉を遮るなど紳士の風上にも置けないが、うかうかしていては国王陛下の二の舞である。ビクリと身をすくめたアイリスの手を優しく取って、ルシオは跪いた。

「兄とは言わず、夫候補に加えてくださいませんか? もちろん、候補で終わるつもりは微塵もありませんよ」
「は? え? お、夫?」
「そう、私があなたの夫です」

 宰相閣下たるルシオ・ガウィーニ伯爵は、誰もが忘れがちだが玲瓏たる美貌の持ち主である。ただ冷笑のせいで魅力が半減しているのが現状だった。しかし柔らかな微笑みを浮かべるとその威力は絶大だ。

「伯爵の身で侯爵令嬢をお迎えするには不足がありますが、一生お守りします。どうか『はい』と頷いてください」

 ルシオはよくわかっていた。アイリスが自分に対して『不足』だなどと思うはずがないことを。侯爵令嬢として自信を持たぬ彼女は、自己肯定感が低い。宰相の位に立つルシオを下に見ることはできないだろう。

「ふ、不足だなんて、そんな。こちらこそ、恐れ多くて⋯⋯」
「不足ではないと?」
「も、もちろんでございます!」
「ではお受けくださるのですね」
「は、はいぃッ! って、いえ、その、違⋯⋯ッ」

 ルシオはアイリスに否定の言葉を最後まで言わせなかった。捧げ持った彼女の手のひらに口付けを落としたのだ。途端にアイリスは動きを止めて、「あうあう」と口の中でなにかを言いかけては飲み込んでしまった。

 手のひらへの口付けは『愛の懇願』である。

「どうか⋯⋯『はい』と言って」
「⋯⋯⋯⋯はい」

 美貌の宰相の懇願するように震える声を、アイリスは無碍にできなかった。優しくて美しくて頼りになる男が、自分の前に跪いている事実に慄いている。ルシオは戸惑いと羞恥に震えるアイリスを愛おしげに見つめて、朝の不機嫌な様子など微塵も見せず微笑んだ。

 その黒い腹の内を隠して。

 それから婚姻までの期間、ルシオは実に礼儀正しく手順を踏んだ。宰相府の面々は宰相閣下の上機嫌を恐ろしげに眺め、その様子を仕事に打ち込むことで見ないふりをしたのだった。

〈おしまい〉
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