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パン屋の倅が知らない話。
《閑話》パン屋の倅が知らない話。⑧
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ディンチ伯爵は、宰相からの呼び出しにすぐに応じた。国王の執務室の隣にある、宰相執務室に真っ直ぐ入ると、憔悴し切った真面目な顔を深く下げた。
「育て方を間違った⋯⋯いや、手がかからないとほったらかして、育てていなかったと言うべきかな」
長い話になりそうだった。
宰相閣下は外務大臣にソファーを勧めて、自分も向かいに腰を落ち着けた。ランバートはちょっとだけ悩んでから、意を決してお茶を淹れた。大臣を捕縛するかどうかはこれから決める。まだ彼は罪人ではない。
書記官のギルバートが入室してきて、準備が整った。
「ディンチ伯爵、あなたの息子は見逃すことはできませんよ」
「馬鹿なことを言う。私がそれを望んでいるとでも思うか」
宰相閣下が念を押すように言う。
こんな状況でも身なりはきちんと整えて、背中を真っ直ぐ伸ばしたディンチ伯爵は、硬い口調で言った。
「息子を、うまく使ってやってくれ。真面目で頑固で阿呆な息子だが、馬鹿ではない。陛下の権威を取り戻すには、ちょうどいい贄になるだろう」
沈黙が執務室を支配した。
ランバートは衝撃を受けて伯爵を見つめる。
この方は、なんと言ったのだろうか?
「ザカリー伯爵と長く働きかけてはきたが、結局前王陛下の御代にはどうにも出来なかった。元元老院のあの方々は、公にはされなかったが既に墓の下なのだろう? 大々的に処罰すれば、爵位持ちが三分の一、いなくなるだろう。諸外国にエスタークの城は砂上の楼閣だとバレてしまう。陛下は賢王の才をお持ちだが、まだお若い」
「⋯⋯ディンチ伯爵家は、見せしめになろうと言うのですか?」
「ふふ、どうかな」
宰相閣下がかすれた声で問うと、伯爵は口元を緩めた。不思議と凪いだ瞳は、枯れた芝に伏したコーディアルとよく似ている。ランバートはありえないことに思い至って、大きく喘いだ。
「コーディアル殿は⋯⋯まさか」
閣下も同じ考えにたどり着いたのか、白い面貌をさらに白くして、わずかに目を開いた。
「昨夜、息子と酒を酌み交わしたのだよ。信じられるか? なんと四年ぶりだ。珍しくコーディが相談があると言うのでな。⋯⋯畏れ多くも陛下のご婚約者に秘密の恋人になりたいと申し込んだというではないか」
ランバートはそれを聞いて変に安心した。初めからすべて、伯爵が仕組んだのかと恐ろしくなっていたが、横恋慕は息子が勝手に募らせたものだった。⋯⋯安心していいものでもないが。
「息子はエルフィン様に言われて、かの方が心から陛下を慕っていらっしゃることは理解したらしい。だが、どこで吹き込まれたか陛下のことを酷く貶めるのでな⋯⋯」
どこでって、最初に勤めた財務府だろう。あそこの二代前の大臣は墓の下のナナシ元子爵だ。成人したばかりのコーディアルは反スニャータ派に流されないまでも、その思想を身近に生活していたはずだ。
外務官になってからも真面目な気質が優って、色々疑問を持ちながらも仕事は仕事として、律儀に王太后陛下とスニャータの間を取り持ったのだろう。
宰相閣下は白い面貌で宙を見据え、補佐官は俯いて拳を握った。書記官の手は度々止まり、その手が動き出したとき、筆圧は常よりも強かった。
「若い世代にはあまり知らされていない、前々王陛下の御代からのあらましを聞かせてやったよ」
あぁ、真面目な彼は。
「初めは、エルフィン様は陛下に騙されている、お助けせねばと言ってはいたが、全てを話し終わるころには正確に理解していた。自分の恋心はともかく、申し込んだのは愚の極みであったと悟ったよ」
コーディアルの真面目さは父親譲りだ。彼は真面目な父親が嘘を言うとは微塵も思っていない。
「息子がエルフィン様の年頃に、もっと語り合っておけばよかった。私が変えようとしている、醜い大人の世界を見せたくなくて、使用人に任せきりで⋯⋯。結果、親の知らないところで悪習に毒されて⋯⋯」
「それは⋯⋯ディンチ伯爵、陛下と私がスニャータに留学中、あなたは度々訪ねておいででした。真面目な表情で厳しく『困ったことはありませんか?』と聞くあなたは、親元を離れて他国に暮らす陛下と私の、心の支えでありましたよ」
手のかからない真面目で出来のいい息子は、次代のエスターク国王に父との時間を奪われたのだ。
宰相閣下の瞳が揺れた。彼はようやく、自分たちがコーディアルから父親を奪っていたことに思い至った。無論、子供であった彼等に非はない。
「支えであったと言ってくれるか」
ならば息子も報われる⋯⋯と、口の中で呟いて。
黙って話を聞いていたランバートの目からついに涙がこぼれた。何度か口を開けてなにかを言おうとして、結局はくはくと息を継いで唇を噛みしめる。
「コーディが今朝、家を出る前に私の部屋に来てね。『母上は歌が上手なのに、どうして私は父上に似たんだろうね』と言うんだよ」
歌のほかにエルフィン様を喜ばせてあげられることと言ったら、陛下の役に立つことしかないみたいですね、なんて真面目な表情で言って⋯⋯。
「⋯⋯伯爵、もういいです。私はこれ以上聞きたくありません!」
ランバートはついに不敬も顧みずに叫んだ。宰相補佐官としても子爵家の息子としても、褒められたことではない。けれど誰も咎めなかった。
伯爵は咎めない代わりにランバートの訴えを無視した。淡々と固い口調で続きを語る。
「コーディは私に頭を下げたよ。『家を潰すことになるかもしれませんがお許しください。陛下を貶めた阿呆として派手に罰して貰えれば、国を正しく導いて、未来の后子様のお役にも立てますでしょう』と」
確かにコーディアル・ディンチ個人の犯罪なら、連座でディンチ伯爵家だけが責任を取ればいい。外務大臣を務める議会の重臣が、王を貶めた息子と連座で罰を受けるとなれば、見せしめにはもってこいだった。
「こんな⋯⋯糸切り歯の代わりにもならない短剣なんて、鍛えた陛下にかすり傷ひとつ負わせることなんて出来ないじゃないですか!」
ランバートが泣きながら、腰のベルトに下げていた装飾品と言って過言でない短剣を放り投げた。ここにいる宰相閣下をはじめとした、文官全員が腰から下げているお飾りだ。
「そうだ、お猫様! お猫様に全部話しましょう! 今は新年の休暇中で、城にはあんまり人がいないです。夜会のことはともかく、今日のことはまだ広まっていません! 不敬罪と叛逆罪では、重さが違います!」
「陛下はともかく、エルフィン様にはなにも言わないでいただきたい。知ればあの方は、酷く嘆かれるのだろう? 私は直接は知らぬが、ザカリー伯爵がそのようなお人柄だと言っておった」
陛下のご婚約者を孫のように可愛がっている禿頭の内務大臣は、外務大臣に正確なエルフィン像を話して聞かせているようだ。
「ひとまず箝口令を布いて、明朝、陛下にご相談申し上げよう。今宵はエルフィン様から陛下をお離しするのは良くない」
今すぐにでも陛下と情報を共有したいところだが、人の命が儚いものだと知っているお猫様の恐怖を思えば、一晩くらいは仕方がない。
「ディンチ伯爵、くれぐれも早まらないでください」
「そうです! 自死とか絶対ダメですからね!」
ランバートが霊切るように言った。悲痛な声音を聞いた宰相閣下は、ディンチ伯爵に向き直って静かに言った。
「自傷行為を防ぐために、四肢を拘束いたします。ご理解ください」
「死ぬ前に、見せしめになりそうな罪状を二つ三つ上乗せしてくれてもいいのだが」
それは冗談のつもりだったのか⋯⋯。ギルバートは手元の紙に書き残すべきなのか悩んだ。そして宰相閣下は辛そうに眉根を寄せ、ランバートは止まらない涙を袖口でぐしぐしと拭ったのだった。
「育て方を間違った⋯⋯いや、手がかからないとほったらかして、育てていなかったと言うべきかな」
長い話になりそうだった。
宰相閣下は外務大臣にソファーを勧めて、自分も向かいに腰を落ち着けた。ランバートはちょっとだけ悩んでから、意を決してお茶を淹れた。大臣を捕縛するかどうかはこれから決める。まだ彼は罪人ではない。
書記官のギルバートが入室してきて、準備が整った。
「ディンチ伯爵、あなたの息子は見逃すことはできませんよ」
「馬鹿なことを言う。私がそれを望んでいるとでも思うか」
宰相閣下が念を押すように言う。
こんな状況でも身なりはきちんと整えて、背中を真っ直ぐ伸ばしたディンチ伯爵は、硬い口調で言った。
「息子を、うまく使ってやってくれ。真面目で頑固で阿呆な息子だが、馬鹿ではない。陛下の権威を取り戻すには、ちょうどいい贄になるだろう」
沈黙が執務室を支配した。
ランバートは衝撃を受けて伯爵を見つめる。
この方は、なんと言ったのだろうか?
「ザカリー伯爵と長く働きかけてはきたが、結局前王陛下の御代にはどうにも出来なかった。元元老院のあの方々は、公にはされなかったが既に墓の下なのだろう? 大々的に処罰すれば、爵位持ちが三分の一、いなくなるだろう。諸外国にエスタークの城は砂上の楼閣だとバレてしまう。陛下は賢王の才をお持ちだが、まだお若い」
「⋯⋯ディンチ伯爵家は、見せしめになろうと言うのですか?」
「ふふ、どうかな」
宰相閣下がかすれた声で問うと、伯爵は口元を緩めた。不思議と凪いだ瞳は、枯れた芝に伏したコーディアルとよく似ている。ランバートはありえないことに思い至って、大きく喘いだ。
「コーディアル殿は⋯⋯まさか」
閣下も同じ考えにたどり着いたのか、白い面貌をさらに白くして、わずかに目を開いた。
「昨夜、息子と酒を酌み交わしたのだよ。信じられるか? なんと四年ぶりだ。珍しくコーディが相談があると言うのでな。⋯⋯畏れ多くも陛下のご婚約者に秘密の恋人になりたいと申し込んだというではないか」
ランバートはそれを聞いて変に安心した。初めからすべて、伯爵が仕組んだのかと恐ろしくなっていたが、横恋慕は息子が勝手に募らせたものだった。⋯⋯安心していいものでもないが。
「息子はエルフィン様に言われて、かの方が心から陛下を慕っていらっしゃることは理解したらしい。だが、どこで吹き込まれたか陛下のことを酷く貶めるのでな⋯⋯」
どこでって、最初に勤めた財務府だろう。あそこの二代前の大臣は墓の下のナナシ元子爵だ。成人したばかりのコーディアルは反スニャータ派に流されないまでも、その思想を身近に生活していたはずだ。
外務官になってからも真面目な気質が優って、色々疑問を持ちながらも仕事は仕事として、律儀に王太后陛下とスニャータの間を取り持ったのだろう。
宰相閣下は白い面貌で宙を見据え、補佐官は俯いて拳を握った。書記官の手は度々止まり、その手が動き出したとき、筆圧は常よりも強かった。
「若い世代にはあまり知らされていない、前々王陛下の御代からのあらましを聞かせてやったよ」
あぁ、真面目な彼は。
「初めは、エルフィン様は陛下に騙されている、お助けせねばと言ってはいたが、全てを話し終わるころには正確に理解していた。自分の恋心はともかく、申し込んだのは愚の極みであったと悟ったよ」
コーディアルの真面目さは父親譲りだ。彼は真面目な父親が嘘を言うとは微塵も思っていない。
「息子がエルフィン様の年頃に、もっと語り合っておけばよかった。私が変えようとしている、醜い大人の世界を見せたくなくて、使用人に任せきりで⋯⋯。結果、親の知らないところで悪習に毒されて⋯⋯」
「それは⋯⋯ディンチ伯爵、陛下と私がスニャータに留学中、あなたは度々訪ねておいででした。真面目な表情で厳しく『困ったことはありませんか?』と聞くあなたは、親元を離れて他国に暮らす陛下と私の、心の支えでありましたよ」
手のかからない真面目で出来のいい息子は、次代のエスターク国王に父との時間を奪われたのだ。
宰相閣下の瞳が揺れた。彼はようやく、自分たちがコーディアルから父親を奪っていたことに思い至った。無論、子供であった彼等に非はない。
「支えであったと言ってくれるか」
ならば息子も報われる⋯⋯と、口の中で呟いて。
黙って話を聞いていたランバートの目からついに涙がこぼれた。何度か口を開けてなにかを言おうとして、結局はくはくと息を継いで唇を噛みしめる。
「コーディが今朝、家を出る前に私の部屋に来てね。『母上は歌が上手なのに、どうして私は父上に似たんだろうね』と言うんだよ」
歌のほかにエルフィン様を喜ばせてあげられることと言ったら、陛下の役に立つことしかないみたいですね、なんて真面目な表情で言って⋯⋯。
「⋯⋯伯爵、もういいです。私はこれ以上聞きたくありません!」
ランバートはついに不敬も顧みずに叫んだ。宰相補佐官としても子爵家の息子としても、褒められたことではない。けれど誰も咎めなかった。
伯爵は咎めない代わりにランバートの訴えを無視した。淡々と固い口調で続きを語る。
「コーディは私に頭を下げたよ。『家を潰すことになるかもしれませんがお許しください。陛下を貶めた阿呆として派手に罰して貰えれば、国を正しく導いて、未来の后子様のお役にも立てますでしょう』と」
確かにコーディアル・ディンチ個人の犯罪なら、連座でディンチ伯爵家だけが責任を取ればいい。外務大臣を務める議会の重臣が、王を貶めた息子と連座で罰を受けるとなれば、見せしめにはもってこいだった。
「こんな⋯⋯糸切り歯の代わりにもならない短剣なんて、鍛えた陛下にかすり傷ひとつ負わせることなんて出来ないじゃないですか!」
ランバートが泣きながら、腰のベルトに下げていた装飾品と言って過言でない短剣を放り投げた。ここにいる宰相閣下をはじめとした、文官全員が腰から下げているお飾りだ。
「そうだ、お猫様! お猫様に全部話しましょう! 今は新年の休暇中で、城にはあんまり人がいないです。夜会のことはともかく、今日のことはまだ広まっていません! 不敬罪と叛逆罪では、重さが違います!」
「陛下はともかく、エルフィン様にはなにも言わないでいただきたい。知ればあの方は、酷く嘆かれるのだろう? 私は直接は知らぬが、ザカリー伯爵がそのようなお人柄だと言っておった」
陛下のご婚約者を孫のように可愛がっている禿頭の内務大臣は、外務大臣に正確なエルフィン像を話して聞かせているようだ。
「ひとまず箝口令を布いて、明朝、陛下にご相談申し上げよう。今宵はエルフィン様から陛下をお離しするのは良くない」
今すぐにでも陛下と情報を共有したいところだが、人の命が儚いものだと知っているお猫様の恐怖を思えば、一晩くらいは仕方がない。
「ディンチ伯爵、くれぐれも早まらないでください」
「そうです! 自死とか絶対ダメですからね!」
ランバートが霊切るように言った。悲痛な声音を聞いた宰相閣下は、ディンチ伯爵に向き直って静かに言った。
「自傷行為を防ぐために、四肢を拘束いたします。ご理解ください」
「死ぬ前に、見せしめになりそうな罪状を二つ三つ上乗せしてくれてもいいのだが」
それは冗談のつもりだったのか⋯⋯。ギルバートは手元の紙に書き残すべきなのか悩んだ。そして宰相閣下は辛そうに眉根を寄せ、ランバートは止まらない涙を袖口でぐしぐしと拭ったのだった。
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