神の末裔は褥に微睡む。

織緒こん

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番外編

黄泉の階(きざはし)

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ハイマンの独言


 エーレイエン王国の旧王都は、観光の街だ。崩れた王城の瓦礫を撤去して祭壇を作り、そこに歌舞音曲を奉納して祭りを開催し、多くの観光客を集めるのだ。なんと商家は一年分の収入を一ヶ月で稼ぐ。

 賑やかな祭りは名前を授けられなかった昏き神に捧げられる。今から五十年ほど前に、旧王朝の最後の王が自らの血肉を昏き神の封印のひつぎにし、新王朝の王が封印を成し遂げたと伝わっているのだ。

 この年の祭りが終わって、奉納舞を舞った未成年王族も王都に帰り、街は静けさを取り戻した。祭りの後の物悲しい雰囲気はない。昏き神は、悲しい気持ちを糧として成長すると伝えられているから。

 祭壇の奥の霊廟に日々詣でる老人がいる。齢七十は超えているだろうか。灰色の混じる長い白髪を清潔に纏めて、首から下は一切外気に触れさせぬようなローブを身につけている。

 神殿からやってくる通いの掃除婦が、老人を見つけて丁寧に頭を下げた。

「おはようございます、ハイマン様。今日はお顔の色もよろしくて、安心いたしました」

「ただの風邪ですよ。ありがとうございます。心配してくださったのですね。⋯⋯いけませんね、年寄りは。少しの発熱が大事おおごとになってしまいます」

 ハイマンは穏やかに微笑んで、掃除婦に会釈した。それからゆったりと霊廟に向かって歩みを進めると、空っぽの柩の前に腰を下ろした。

 崩れた城の瓦礫を使って建立された霊廟と祭壇は、荘厳ではあったが剥き出しの石畳が冷え冷えと老人の体温を奪っていく。掃除婦は病み上がりの老人が石畳の上で凍えるのを、心配そうに見つめていた。

 ハイマンは旧王朝最後の王、クシュナの乳兄弟であったという。民に広く知られる逸話として、クシュナ王に殉じて生命を絶とうとしたのを、新王朝の慈愛の賢妃、アリスレアに殉死を固く禁じられたのだそうだ。

 亡き王を偲んで塚を守り、静かに天に召されるときを待っている。ハイマンの忠義は旧王都に住まう人々は、誰でも知っている。

 表向きの美しい、滅びた王朝の物語は、新王朝によって作られたものだ。

 ハイマンは五十年前に自分を断罪した、美しい王妃を思い出して、苦く笑った。昏き神を鎮めるための祭りに、彼の人は幾度となく訪れている。近年も変わらぬ若さと美しさを保っているが、思い出すのは怒りを湛えた五十年前の姿ばかりだ。

 五十年前、ハイマンは愛しいクシュナの後を追うつもりであった。アリスレアはそれを留めて、怒りもあらわに贖罪を求めた。

『クシュナ王の後を追うなんて、アンタにとっちゃご褒美だろう。誰が簡単に死なせるか、ボケ。アンタには仕事をしてもらう。女神エレイアに愛された国を護るため、昏き神を身のうちに取り込んで封印した、悲劇の王様を祀る霊廟の墓守だ』

 幼い日に、城の地下に封じられていた昏き神を身のうちに宿し、苦痛と意識の混濁の中で王位に就いた若きクシュナ王。身のうちに留め切れなくなると、最愛の王妃を信頼できる将軍に預けて、自分ごと屠らせた。

 真実と嘘を綯い交ぜにして紡がれる、美しい悲劇の英雄譚。

 霊廟に訪れる観光客にせがまれて、幾度となく繰り返す。真実と嘘のどちらの部分を語っても、心はどくどくと血を流す。

 なぜ、と問うた。真実だけを発表して、堂々と新王朝を興せば良いのにと。

『安直だな。そんなことしたら、反発が出るに決まってるじゃないか。長くエーレイエンを守ってきた王族が、突然なんて、信じたくない人は大勢いるさ。そんな人々は発表を信じない。それどころか、こっちが嘘吐きで、王位簒奪の悪人扱いだよ。これ幸いと近隣諸国も乗り出してくるだろうね』

 自分の知っているアリスレアは、クシュナ王の閨に従順に侍り、いつも怯えてなにも喋らない少年だった。ハイマンは驚いて新王朝の王妃となった彼を見つめた。

『それがあなたの本当の姿ですか?』

 我ながら間の抜けた問いかけだった。断罪の最中に些細な問題だったかも知れない。けれど驚愕せずにはいられない。真っ直ぐに意思を持った瞳に射抜かれては。

『⋯⋯アンタの知ってる百番目のアリスレアは消えたよ。俺は同じ魂を磨く、九十九番目だ』

 吐き捨てるようにいう姿は、なるほど別の人格だった。可憐な中に少年の乱雑さが見て取れて、生き生きと生命力に溢れている。

『とにかくさ、前王朝を篤く遇する新王朝は成功するんだよ。残党が満足してたら反乱は起きないからな。俺個人としちゃ、クシュナ王が英雄だなんてクソ喰らえだけど、高度に政治的な配慮ってヤツだよ。ジェムが前王の妃を掠奪して凌辱してるなんて、世間様に誤解されちゃ困るんだ』

 クシュナ王とアリスレアの婚姻はないものとされたが、人々の記憶から王妃であった彼を消すことはできない。それ故の最後の王の英雄譚なのだ。

 無論、新たな王家と墓守には、真実は語り継がれるだろう。

 ハイマンは、クシュナ王が亡くなるまでの数ヶ月を、恋人のように過ごした。うつらうつらと昏き神から解放される束の間だけ、胸に秘めつづけた想いを伝えた。幼い日で心の成長を止めたクシュナ王は、無邪気に笑うばかりだった。

 初めて身体を繋げたのは、昏き神が贄が足りぬと言い出したときだ。内側に神を受け入れた肉体は、激しく損傷する。それを神は補いつつ寄生していると言う。昏き神の力が不足するということは、その憑座たるクシュナ王の肉体を保つことができないということだ。

 昏き神は嬉々として、奔放にハイマンの雄から精気を啜り、後孔で受け入れた。昏き神はクシュナ王の肉体をしちにとったのだ。

 お前が注がねば、罪人の押し込められた牢で足を開いてこようかと、ニヤニヤ笑って問われて、絶望のうちに、昏き神の意識が表に出たクシュナ王の初めてを奪った。幸せなど微塵も感じなかった。

 クシュナ王のしたいことは全て叶えてきたけれど、あれらは本当に、自分の愛する陛下の望みだったのだろうか? 昏き神の、暗い欲望を満たす片棒を担いだだけだったのではないのか?

 素裸で無邪気な寝顔を見せるクシュナ王を、王の私室の寝台で抱きしめて自問した。

 一番の罪人は、自分だ。

 ハイマンは結論づけた。

 叶わぬ恋情を暗く燻らせて、昏き神を呼び寄せたのは自分なのだから。

 あれから五十年余りが過ぎた。

 シュトレーゼンから聖水を運んできた小さな王子とその学友たちが、昏き神の淋しさを払うためと銘打って、可愛らしい舞を披露したのは塚が建てられて三年目のことだ。最初はお遊戯の域を出ない微笑ましいものだったのに、成長とともに勇壮で華麗な演舞に進化した。見物人も増え、屋台が出て、歌自慢踊り自慢がそこかしこで腕前を披露するようになった。

 そうして今では、大陸中から観光客が訪れる大きな祭りになった。

 昏き神を封じた塚はクシュナ王の霊廟として、多くの人に敬われている。ハイマンの愛しい人は髪の毛の一筋も残さなかったから、柩の中は空っぽだ。

 空の柩を護って五十年。アリスレアがハイマンに与えた罰は、永く、辛く、甘美であった。直ぐにクシュナ王の後を追っていれば、この苦しみはなかっただろう。

 けれどそろそろ、この生も終わりそうだ。老いがひたひたと追いかけてくる。

 霊廟に採光窓から差し込んだ陽光が降り注ぎ、ハイマンを招く黄泉の国へのきざはしのようだった。
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