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胸の痛み。
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胸が熱くて痛くて、ガチガチに固まって、めちゃくちゃ苦しい。シュリが氷嚢を用意してくれて、ひたすら冷やす。自分でも引くくらいの高熱が出て、朦朧とした意識の中、シュリが額の汗を拭いてくれた。
「若様に帰ってきていただきましょうか?」
「だめ⋯⋯仕事の邪魔。シュリがいてくれるから大丈夫」
「サルーン殿に頼めばすぐですよ」
心配げにシュリが言う。いくらサルーンの筋肉でも、エゾヒグマなジェムを抱えて空を飛ぶのは重かろう。遠慮しておく。
炎症止めの薬湯をティシューが用意してくれた。⋯⋯内務卿の領地への疎開を勧めたけど、有事の際は医者が必要だと残ってくれた。
「古い母乳を出してよく冷やしたら治ってくれるはずだけれど、繰り返すでしょうね。炎症止めは少し強いから母乳が駄目になってしまうけど、このままでは乳の中で膿んでしまうから頑張って飲みましょうね」
ユーリィに乳をあげなくなったから、詰まって炎症を起こしてしまったんだって。朦朧とした意識の中で、ティシューの説明を聞いた。しばらく授乳しなくてもいらない母乳を捨ててきちんとマッサージすれば、ユーリィに再会できるまで枯らさずにおけるかもしれない。でも自然治癒を待つには熱が高すぎた。
最悪切開して膿を出さなきゃいけなくなるし、これ以上高熱が続くと脳がやられるかもしれないって。
ティシューは誤魔化さないで、全部きちんと説明してくれた。
「イェン神に授けていただいた神の甘露だけど、あれは本来、人間の世にあってはならぬものよ。薬湯が効かなかったら最後の手段として服用しましょうね」
いつもキビキビしたティシューが柔らかく言った。患者に寄り添う良いお医者さんだ。
クッションを背に当てても起き上がれないので、横になったままシュリに吸飲みで飲ませてもらう。発熱のせいで味覚がおかしくなっているのか、味が全くしなかったのは幸いだった。甘い水菓子が口直しに用意されているってことは、相当な不味さのはずだから。
長い時間をかけて飲み終わると、これ以上目を開けていられなかった。とろとろと微睡んで、目が覚めたらジェムがいた。
「おかえりなさい」
小さな声しか出ない。
「ただいま帰った。熱は少しさがったな」
軍務卿と城下町の見回りに出かけていたジェムは、いつの間に帰宅したんだろう。レースのカーテンから差し込む光は、長い影を映してオレンジ色をしている。もう夕方か?
肌蹴られた夜着の胸元に手巾が広げられて、その上に氷嚢が載っている。結構間抜けな姿だなって、自虐する余裕が出てきた。
「疎開は順調?」
「ああ、もともと王城の上の黒雲を気味悪く思っていたところへの神託だ。機を見るのに長けた商人はとっくに逃げ出す算段をしていて、領地持ちの貴族は跡取りを領地に疎開させたよ。議員や役所勤めの者は王都に残っているがね。大司祭殿と巫子長殿が領地を持たず疎開先のない小貴族や、行き場のない弱者を教会と神殿に迎え入れてくれているよ」
よかった。教会も神殿も、一応神域というか聖域だから、暗黒神も食指を伸ばしにくいらしい。あと銀の君に頼んで湖の水を樽で教会と神殿に運び込んでいる。⋯⋯妖精の君をこんなにこき使うなんて、さすがイェンだな。只人には恐れ多くてそこまで頼めない。
「ねぇ、城は? 今どうなってるのかわかる?」
「⋯⋯城の外壁まで、瘴気が染み出しているよ。真っ黒い蔦に覆われて、元の白い姿は見る影もない」
⋯⋯王都の人たち、神託が出るまでよく我慢したな。それともイェンとユレが活発に活動してるから、刺激されてんだろうか。
「この間、中にいるのは王族と影の一族だけって言ってたけど、生きてるのかな⋯⋯」
城の警備に当たってた騎士団所属の門兵も、軍務卿が引きあげさせたって聞いた。そんな不気味な城に入り込もうとする賊もいないだろうけどさ。
気になるのは影の一族。結構人数いるんだよ。彼らの食糧、どうなってる? 商人が王都から出て行ったってことは、食糧も日用品も納入されてないはずだろ?
イェンは神剣を鍛えるのに一月くらいかかるって言ってた。鍛えるってもタタラ場みたいに鋼を叩くわけじゃなくて、ユレと二柱で神気を練り上げるんだそうだ。
その一月の間に人々の疎開を済ませて、羊の腸で小袋を作る。中に湖の水をつめて鳥に持たせるためだ。作業は神殿の巫子たちに頼んだ。ユレが頼んだら、涙を流しながら引き受けてくれたらしい。
着々と準備は進んでいるけれど、ジェムが神剣を賜るころ、城に残った影の一族は餓死とかしてないだろうな⋯⋯。彼らにいい感情はなにもないけど、それでも顔見知りも大勢いる。居丈高なあいつとか、嫌味笑いのそいつとか⋯⋯いや、個人をディスるのはやめとこう。とにかく知った顔の奴の生命が危ぶまれているのなら、早いとこなんとかしたい。
「ホールには、人間の気配はなかったな」
「まさか、中に入ったの?」
城下町の見回りついでに、お城の中まで様子を見に行ったんじゃないだろうな。
「⋯⋯軍務卿が」
俺のジト目に視線を逸らして、ジェムはつぶやいた。あのハイイログマめ、レントがいないと途端に無茶なことしでかすんだから!
「レントがユーリィを見ててくれるから、俺は軍務卿を見張っておこうかな」
「その前に、しっかり養生してくれ。私がいない間はシュリが控えてくれるから、なんでも言うように。あなたはすぐに自分でやろうとするから」
⋯⋯喉が乾いて水差しを取ろうとして、眩暈でベッドから落ちちゃったんだよな。
「継母上も領地に帰ったし、アントーニア嬢もマスクスの屋敷に避難した。話し相手がいなくて退屈だろうけど大事にしてくれ」
お義母様はジェムの弟を連れて領地に帰った。もともとお義父さまはジェムに家督を譲るつもりでいたから、ちょっと手続きに王都に来ただけだったのに、俺が侯爵家に嫁に来たり、なにかと物騒になってしまった。王都の寄宿学校の寮にいた弟くんを呼び寄せるのも微妙だし⋯⋯で、初めましての挨拶が、王都を離れる別れの挨拶だった。
なんて言うか、外見も中身もお義母様そっくりだった。
それからトーニャのリヴラ男爵家は、領地を持たない。そもそも没落貴族なので疎開先のツテがない。俺のそばにいても実家に帰っても危険で、どうしたものかと思っていたら、外務卿がトーニャの家族ごと滞在を勧めてくれた。
あれで意外と常識人で紳士だし、マッティとベリーが一緒だから、安心だ。最近はトーニャの態度も軟化している。と言うか、ベリーに振り回される外務卿を労っている。なかなかいい雰囲気だと思う。
「心配なことは、なんでも言うのだよ。ひとつずつ解決していこう」
「うん」
発熱の気怠さはあるけれど、少しだけ穏やかな時間だった。ユーリィのいない寂しさを胸の隅に追いやって、ジェムの手のひらに頬をすり路寄せた。
「若様に帰ってきていただきましょうか?」
「だめ⋯⋯仕事の邪魔。シュリがいてくれるから大丈夫」
「サルーン殿に頼めばすぐですよ」
心配げにシュリが言う。いくらサルーンの筋肉でも、エゾヒグマなジェムを抱えて空を飛ぶのは重かろう。遠慮しておく。
炎症止めの薬湯をティシューが用意してくれた。⋯⋯内務卿の領地への疎開を勧めたけど、有事の際は医者が必要だと残ってくれた。
「古い母乳を出してよく冷やしたら治ってくれるはずだけれど、繰り返すでしょうね。炎症止めは少し強いから母乳が駄目になってしまうけど、このままでは乳の中で膿んでしまうから頑張って飲みましょうね」
ユーリィに乳をあげなくなったから、詰まって炎症を起こしてしまったんだって。朦朧とした意識の中で、ティシューの説明を聞いた。しばらく授乳しなくてもいらない母乳を捨ててきちんとマッサージすれば、ユーリィに再会できるまで枯らさずにおけるかもしれない。でも自然治癒を待つには熱が高すぎた。
最悪切開して膿を出さなきゃいけなくなるし、これ以上高熱が続くと脳がやられるかもしれないって。
ティシューは誤魔化さないで、全部きちんと説明してくれた。
「イェン神に授けていただいた神の甘露だけど、あれは本来、人間の世にあってはならぬものよ。薬湯が効かなかったら最後の手段として服用しましょうね」
いつもキビキビしたティシューが柔らかく言った。患者に寄り添う良いお医者さんだ。
クッションを背に当てても起き上がれないので、横になったままシュリに吸飲みで飲ませてもらう。発熱のせいで味覚がおかしくなっているのか、味が全くしなかったのは幸いだった。甘い水菓子が口直しに用意されているってことは、相当な不味さのはずだから。
長い時間をかけて飲み終わると、これ以上目を開けていられなかった。とろとろと微睡んで、目が覚めたらジェムがいた。
「おかえりなさい」
小さな声しか出ない。
「ただいま帰った。熱は少しさがったな」
軍務卿と城下町の見回りに出かけていたジェムは、いつの間に帰宅したんだろう。レースのカーテンから差し込む光は、長い影を映してオレンジ色をしている。もう夕方か?
肌蹴られた夜着の胸元に手巾が広げられて、その上に氷嚢が載っている。結構間抜けな姿だなって、自虐する余裕が出てきた。
「疎開は順調?」
「ああ、もともと王城の上の黒雲を気味悪く思っていたところへの神託だ。機を見るのに長けた商人はとっくに逃げ出す算段をしていて、領地持ちの貴族は跡取りを領地に疎開させたよ。議員や役所勤めの者は王都に残っているがね。大司祭殿と巫子長殿が領地を持たず疎開先のない小貴族や、行き場のない弱者を教会と神殿に迎え入れてくれているよ」
よかった。教会も神殿も、一応神域というか聖域だから、暗黒神も食指を伸ばしにくいらしい。あと銀の君に頼んで湖の水を樽で教会と神殿に運び込んでいる。⋯⋯妖精の君をこんなにこき使うなんて、さすがイェンだな。只人には恐れ多くてそこまで頼めない。
「ねぇ、城は? 今どうなってるのかわかる?」
「⋯⋯城の外壁まで、瘴気が染み出しているよ。真っ黒い蔦に覆われて、元の白い姿は見る影もない」
⋯⋯王都の人たち、神託が出るまでよく我慢したな。それともイェンとユレが活発に活動してるから、刺激されてんだろうか。
「この間、中にいるのは王族と影の一族だけって言ってたけど、生きてるのかな⋯⋯」
城の警備に当たってた騎士団所属の門兵も、軍務卿が引きあげさせたって聞いた。そんな不気味な城に入り込もうとする賊もいないだろうけどさ。
気になるのは影の一族。結構人数いるんだよ。彼らの食糧、どうなってる? 商人が王都から出て行ったってことは、食糧も日用品も納入されてないはずだろ?
イェンは神剣を鍛えるのに一月くらいかかるって言ってた。鍛えるってもタタラ場みたいに鋼を叩くわけじゃなくて、ユレと二柱で神気を練り上げるんだそうだ。
その一月の間に人々の疎開を済ませて、羊の腸で小袋を作る。中に湖の水をつめて鳥に持たせるためだ。作業は神殿の巫子たちに頼んだ。ユレが頼んだら、涙を流しながら引き受けてくれたらしい。
着々と準備は進んでいるけれど、ジェムが神剣を賜るころ、城に残った影の一族は餓死とかしてないだろうな⋯⋯。彼らにいい感情はなにもないけど、それでも顔見知りも大勢いる。居丈高なあいつとか、嫌味笑いのそいつとか⋯⋯いや、個人をディスるのはやめとこう。とにかく知った顔の奴の生命が危ぶまれているのなら、早いとこなんとかしたい。
「ホールには、人間の気配はなかったな」
「まさか、中に入ったの?」
城下町の見回りついでに、お城の中まで様子を見に行ったんじゃないだろうな。
「⋯⋯軍務卿が」
俺のジト目に視線を逸らして、ジェムはつぶやいた。あのハイイログマめ、レントがいないと途端に無茶なことしでかすんだから!
「レントがユーリィを見ててくれるから、俺は軍務卿を見張っておこうかな」
「その前に、しっかり養生してくれ。私がいない間はシュリが控えてくれるから、なんでも言うように。あなたはすぐに自分でやろうとするから」
⋯⋯喉が乾いて水差しを取ろうとして、眩暈でベッドから落ちちゃったんだよな。
「継母上も領地に帰ったし、アントーニア嬢もマスクスの屋敷に避難した。話し相手がいなくて退屈だろうけど大事にしてくれ」
お義母様はジェムの弟を連れて領地に帰った。もともとお義父さまはジェムに家督を譲るつもりでいたから、ちょっと手続きに王都に来ただけだったのに、俺が侯爵家に嫁に来たり、なにかと物騒になってしまった。王都の寄宿学校の寮にいた弟くんを呼び寄せるのも微妙だし⋯⋯で、初めましての挨拶が、王都を離れる別れの挨拶だった。
なんて言うか、外見も中身もお義母様そっくりだった。
それからトーニャのリヴラ男爵家は、領地を持たない。そもそも没落貴族なので疎開先のツテがない。俺のそばにいても実家に帰っても危険で、どうしたものかと思っていたら、外務卿がトーニャの家族ごと滞在を勧めてくれた。
あれで意外と常識人で紳士だし、マッティとベリーが一緒だから、安心だ。最近はトーニャの態度も軟化している。と言うか、ベリーに振り回される外務卿を労っている。なかなかいい雰囲気だと思う。
「心配なことは、なんでも言うのだよ。ひとつずつ解決していこう」
「うん」
発熱の気怠さはあるけれど、少しだけ穏やかな時間だった。ユーリィのいない寂しさを胸の隅に追いやって、ジェムの手のひらに頬をすり路寄せた。
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