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姉神の顕現。
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湖は朝靄に煙って、ひどく神秘的だった。ひんやりした大気を遮るようにジェムの腕に囲われて、湖の真ん中に浮かぶ小さな浮き島の社に、太陽が今日最初の光を届けるのを見守った。
昨夜は寝室の大きなベッドで、ジェムの腕に包まれて眠った。目が覚めてから、爺やに別の部屋を用意するように頼むのを忘れたことを、ぼんやりと思い出した。
食事の時間もその後の父上とジェムの会談も、どこか覚束なくジェムにエスコートされた。父上に夢の内容を話したのはジェムで、俺の顔色がよほど悪かったのか、父上もそれを咎めなかった。
「我が領には姉神イェンの逸話は多くあれど、女神エレイアについてはほとんどありません。イェン様がユレ様の住まう地を加護するように母神に願ったことしか、記述にはないのです」
父上はソファーにぐったりと凭れるように腰を下ろして、顔を覆った。やっと帰ってきた息子がなにか大きな禍に巻き込まれそうなのを知らされて、取り乱さないように努めている。
「こうなれば、アリスがあなたの元に嫁いだのは、女神のお導きやもしれません。⋯⋯女神の名を戴くエーレィエン王国で、もっとも強い方に守っていただけるのなら、父として、こんなに安心できることはありません」
昨夜、父上が言ったことを思い返す。そうだ、この腕の中は安心できる。
ユレが感じている恐怖に引きずられて、どうしようもなく身がすくんでいる今、この腕に縋ってようやく立っている有り様だ。離れるのが大変なんだ。昨夜は眠るまでも大変だったんだよ。
風呂場でパニックを起こしたんだ。背中が気になって何度も後ろを振り返って、浴槽の中で足を滑らせて大騒ぎだった。シュトレーゼン家の女中とヴィッツ家の侍従に助け出されて、髪の毛べちょべちょのまんま、ジェムにしがみついた。
マジでこの恐怖をなんとかしなくちゃ、生活に支障がありありなんだけど!
「ごめんな、迷惑かけて」
「心配はしているが、迷惑はしていない。寧ろお父上ではなく私に縋ってくれるのは、嬉しいものだ」
ジェムの腕に力が籠った。
「マッティ、マッティ。アリスがデレデレだよぅ。やっぱり昨日、お泊まりして恋バナするべきだったのよぅ」
「いや、ベリーが邪魔をしたら、今頃こんなに人目を憚らずにイチャイチャしてないぞ」
「⋯⋯あなた方も、人目を気にしていないようですけれどね」
幼馴染みカップルとひとりあぶれた外務卿がコソコソ煩い。ベリー、デレデレなんかしてない。マッティ、イチャイチャもしてない。外務卿、ふたりのそれはデフォルトだ、諦めろ。
「それで、どうすればイェン神は顕現してくださるのですか?」
外務卿が本題に触れた。
朝食も摂らずに日の出前にここまで来たのは、イェンに会うためだ。ベリーとマッティには昨夜のうちに話してあった。うんと小さな頃、三人でイェンと遊んだから、この面子なら確実にイェンが現れると思う。
部外者と言うよりシュトレーゼンの一領民であるふたりを立ち合わせることに、外務卿は難色を示したけど、このふたりもイェンのお気に入りの範疇に入るし、マッティは獣の王を祖に持つ狼の民の次期様だ。つまり、一族の王子様ってことだな。コイツの理解があれば、狼の民は完全に味方になる。
ベリー? 下手に放置すると後が大変だから、マッティに首根っこを押さえさせておくに限る。好奇心で勝手にうろつかれるよりマシだ。
「アリス、なにか準備はあるか?」
「別になにも。ただ呼ぶだけ」
本当にそれだけ。
「イーェーンーッ、あ~そ~ぼ~ッ!」
田舎の子どもなら必ずやる、独特の節回しの誘い言葉を唇に乗せる。
「そんな馬鹿な⋯⋯」
外務卿が思わずというように呟いた。ほとんど呻き声だ。おっさんもそう思うよ。神様を呼ぶのに、なんて出鱈目な。神殿や教会では準備も時間もかけてすごい儀式を行っているんだろうな。でもアリスはこれだけでイェンを呼んでたんだ。
次の瞬間、ドーンッとまるで落雷のように光の柱が浮き島を直撃した。衝撃で人間たちは弾き飛ばされて、後ろの方からアッとかウワッとか呻き声がした。離れて控えていたヴィッツ家の警護たちも巻き添えだ。
「アリスレア! いけない子! ちょっと目を離した隙にわたくしから姿を隠すなんて、なにをしていたの⁉︎ 探したわ‼︎」
「うひゃぁっ! イェン、近い近い‼︎ 落ち着いて!」
虹色に輝く銀の髪が重力を無視して舞い上がる。感情によって色を変える瞳は怒りを湛えて真っ赤だ。スレンダーな肢体を宙に浮かせた美しい女神は圧倒的な存在感を放って顕現し、俺に向かってずいっと身を乗り出した。
イェンが興奮すると、天変地異みたいな現象が起こるんだよ! 湖は水面に波が立ち、木々は風に煽られて緑の葉っぱを巻き上げ、あたりで光がパチパチと弾けている。これじゃあ、恐怖の大王が降ってくる前に、シュトレーゼンが壊滅しちゃうじゃん!
「イェンこそどこに行ってたの? 父上たちが、この三年あなたを探していたんだよ!」
質問返しで落ち着かせよう!
「お前を探してたんじゃない! 大陸中を探して見つからないから、海を越えて向こうの大陸まで行ったわ!」
パチパチと激しく光が弾けた。駄目だ、余計に興奮させてもうた!
イェンがジェムの腕から俺を引き剥がす。全身をふわりとかき混ぜられるような感覚がしたと思ったら、風が止んだ。水面の波も治り⋯⋯いや、鏡のように真っ平らに凍りつき、光だけが激しく明滅する。
ジェムの手が背中に添えられるのを感じる。相手が神様だから、取り返すのを躊躇ってるんだろう。
冴え冴えとした硬質な威圧が周辺を支配している。
「可愛いアリスレア。百番目のわたくしの弟。九十九番目の可愛いあの子が前面に出ているのは何故? お前の身体が毒に蝕まれているのは何故? わたくしがお前を見失っていた間に、なにがあったと言うの⁈」
さっきのアレ、全身スキャンっすか⁈
お気に入りを害されて、姉神イェンが激おこしてる⁈ マジで女神エレイアの加護が消えるより先に、イェンが国を滅ぼしそうだ! て言うか、九十九番目ってなに⁈
昨夜は寝室の大きなベッドで、ジェムの腕に包まれて眠った。目が覚めてから、爺やに別の部屋を用意するように頼むのを忘れたことを、ぼんやりと思い出した。
食事の時間もその後の父上とジェムの会談も、どこか覚束なくジェムにエスコートされた。父上に夢の内容を話したのはジェムで、俺の顔色がよほど悪かったのか、父上もそれを咎めなかった。
「我が領には姉神イェンの逸話は多くあれど、女神エレイアについてはほとんどありません。イェン様がユレ様の住まう地を加護するように母神に願ったことしか、記述にはないのです」
父上はソファーにぐったりと凭れるように腰を下ろして、顔を覆った。やっと帰ってきた息子がなにか大きな禍に巻き込まれそうなのを知らされて、取り乱さないように努めている。
「こうなれば、アリスがあなたの元に嫁いだのは、女神のお導きやもしれません。⋯⋯女神の名を戴くエーレィエン王国で、もっとも強い方に守っていただけるのなら、父として、こんなに安心できることはありません」
昨夜、父上が言ったことを思い返す。そうだ、この腕の中は安心できる。
ユレが感じている恐怖に引きずられて、どうしようもなく身がすくんでいる今、この腕に縋ってようやく立っている有り様だ。離れるのが大変なんだ。昨夜は眠るまでも大変だったんだよ。
風呂場でパニックを起こしたんだ。背中が気になって何度も後ろを振り返って、浴槽の中で足を滑らせて大騒ぎだった。シュトレーゼン家の女中とヴィッツ家の侍従に助け出されて、髪の毛べちょべちょのまんま、ジェムにしがみついた。
マジでこの恐怖をなんとかしなくちゃ、生活に支障がありありなんだけど!
「ごめんな、迷惑かけて」
「心配はしているが、迷惑はしていない。寧ろお父上ではなく私に縋ってくれるのは、嬉しいものだ」
ジェムの腕に力が籠った。
「マッティ、マッティ。アリスがデレデレだよぅ。やっぱり昨日、お泊まりして恋バナするべきだったのよぅ」
「いや、ベリーが邪魔をしたら、今頃こんなに人目を憚らずにイチャイチャしてないぞ」
「⋯⋯あなた方も、人目を気にしていないようですけれどね」
幼馴染みカップルとひとりあぶれた外務卿がコソコソ煩い。ベリー、デレデレなんかしてない。マッティ、イチャイチャもしてない。外務卿、ふたりのそれはデフォルトだ、諦めろ。
「それで、どうすればイェン神は顕現してくださるのですか?」
外務卿が本題に触れた。
朝食も摂らずに日の出前にここまで来たのは、イェンに会うためだ。ベリーとマッティには昨夜のうちに話してあった。うんと小さな頃、三人でイェンと遊んだから、この面子なら確実にイェンが現れると思う。
部外者と言うよりシュトレーゼンの一領民であるふたりを立ち合わせることに、外務卿は難色を示したけど、このふたりもイェンのお気に入りの範疇に入るし、マッティは獣の王を祖に持つ狼の民の次期様だ。つまり、一族の王子様ってことだな。コイツの理解があれば、狼の民は完全に味方になる。
ベリー? 下手に放置すると後が大変だから、マッティに首根っこを押さえさせておくに限る。好奇心で勝手にうろつかれるよりマシだ。
「アリス、なにか準備はあるか?」
「別になにも。ただ呼ぶだけ」
本当にそれだけ。
「イーェーンーッ、あ~そ~ぼ~ッ!」
田舎の子どもなら必ずやる、独特の節回しの誘い言葉を唇に乗せる。
「そんな馬鹿な⋯⋯」
外務卿が思わずというように呟いた。ほとんど呻き声だ。おっさんもそう思うよ。神様を呼ぶのに、なんて出鱈目な。神殿や教会では準備も時間もかけてすごい儀式を行っているんだろうな。でもアリスはこれだけでイェンを呼んでたんだ。
次の瞬間、ドーンッとまるで落雷のように光の柱が浮き島を直撃した。衝撃で人間たちは弾き飛ばされて、後ろの方からアッとかウワッとか呻き声がした。離れて控えていたヴィッツ家の警護たちも巻き添えだ。
「アリスレア! いけない子! ちょっと目を離した隙にわたくしから姿を隠すなんて、なにをしていたの⁉︎ 探したわ‼︎」
「うひゃぁっ! イェン、近い近い‼︎ 落ち着いて!」
虹色に輝く銀の髪が重力を無視して舞い上がる。感情によって色を変える瞳は怒りを湛えて真っ赤だ。スレンダーな肢体を宙に浮かせた美しい女神は圧倒的な存在感を放って顕現し、俺に向かってずいっと身を乗り出した。
イェンが興奮すると、天変地異みたいな現象が起こるんだよ! 湖は水面に波が立ち、木々は風に煽られて緑の葉っぱを巻き上げ、あたりで光がパチパチと弾けている。これじゃあ、恐怖の大王が降ってくる前に、シュトレーゼンが壊滅しちゃうじゃん!
「イェンこそどこに行ってたの? 父上たちが、この三年あなたを探していたんだよ!」
質問返しで落ち着かせよう!
「お前を探してたんじゃない! 大陸中を探して見つからないから、海を越えて向こうの大陸まで行ったわ!」
パチパチと激しく光が弾けた。駄目だ、余計に興奮させてもうた!
イェンがジェムの腕から俺を引き剥がす。全身をふわりとかき混ぜられるような感覚がしたと思ったら、風が止んだ。水面の波も治り⋯⋯いや、鏡のように真っ平らに凍りつき、光だけが激しく明滅する。
ジェムの手が背中に添えられるのを感じる。相手が神様だから、取り返すのを躊躇ってるんだろう。
冴え冴えとした硬質な威圧が周辺を支配している。
「可愛いアリスレア。百番目のわたくしの弟。九十九番目の可愛いあの子が前面に出ているのは何故? お前の身体が毒に蝕まれているのは何故? わたくしがお前を見失っていた間に、なにがあったと言うの⁈」
さっきのアレ、全身スキャンっすか⁈
お気に入りを害されて、姉神イェンが激おこしてる⁈ マジで女神エレイアの加護が消えるより先に、イェンが国を滅ぼしそうだ! て言うか、九十九番目ってなに⁈
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