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将軍、妻を賜る。
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「アリスレア・シュトレーゼンを妻にやろう。お互い独身なのだから、ちょうど良い縁組である。遠征の間に証書に署名はしておいてやる」
まるで犬猫でも放るように、王は言った。
ジェレマイア・ハインツ・ヴィッツが国境の魔獣被害を収めに行くための出陣式に臨んでいた時である。王は唇に浮かぶ嘲りを隠そうともせず、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている。
出陣式の場はざわめいた。王が言ったアリスレア・シュトレーゼンは王妃の名である。しかし、王妃が独身とはどういうことか。
「あれは孕まん。故に教会に婚姻無効を取り付けた。ああ、あそこの具合はいいぞ。搾り取られる。帰還したら好きに楽しめ」
妻であった人を並み居る家臣の前で辱め、王は満足そうに息をついた。ジェレマイアは王のあまりの下衆さに目の前が真っ赤になって、表情を消すのに苦労した。
高位貴族の花嫁は、男であれ女であれ処女性が重要視される。再婚以外の縁組では純潔であることが大前提で、婚姻無効の場合前の結婚が無かったことになるので、婚前交渉の末の傷物扱いになる。しかしそこは暗黙の了解で、花嫁は純潔であるものとして話が進められるものだ。
であるのに、王はかつての王妃、いや、たった今まで王妃であった人を辱めた。王である前に、人として男として最低な行いである。王はさらに言い募った。
「跡取りは、一番下の弟を養子にすれば良い。これでヴィッツ侯爵家は安泰だ」
言うだけ言って謁見の間を出て行く王の後を、小姓が慌てて追いかける。出陣式はまだ終わっていないが、勝手なものだ。これから任務につく兵士を鼓舞することもなく、場を徒らに混乱させて行ってしまった。
魔獣退治は命の危険を伴う危険な任務である。兵士の命を軽んじた行為にもはらわたが煮えくり返った。多くの兵が同じことを思ったようで、謁見の間はしばらくざわついていた。最後は軍務卿が檄を飛ばして立て直した。
ジェレマイアは式が終了した直後、怒りに震える手で結婚証明の証書にサインをした。王を追いかけて行った小姓が証書を手に戻ってきたのだ。可哀想な小姓はジェレマイアの発する怒りの気に触れ、真っ白な顔で震えていた。
軍務卿は側で見ていて、「お互い震えているのに、よくもまあ、綺麗な字が書けるもんだ」と場違いなことを考えた。王の非道、非常識ぶりに阿呆な事でも考えていないと、腰につけた剣を抜いて王の私室に駆け込みそうだったからだ。
既に証書には王と元王妃の署名がなされていた。ジェレマイアが名を連ねて、完成してしまった。ここでごねても元王妃の名誉を益々損ねるだけであるし、ここにいるほとんどの家臣が、彼に同情していたのを知っている。そして、ジェレマイア本人もそうだったのである。
元王妃アリスレア・シュトレーゼンは現在十七歳。金髪に翠の瞳、白い肌の美しい少年である。神の加護を受けたこの国では稀に、孕み胎を宿して生まれてくる男子がいる。そういう子どもは神子返りとして大切に育てられるならわしになっている。
そして、その神子返りとして生まれたアリスレアは、十四歳で王妃になってから孤児院や施療院など、福祉における分野で活躍していた。彼が名誉院長の名の下に行った施策は、専門家の助言を受けていたとは言え素晴らしい功績だった。民衆の支持も厚い。ただ、この民衆の支持の厚さが、王の癇に障ったのであろう。
王は政の全てを家臣に丸投げして、する事と言ったら気に入らない人間の首を切る事だけである。家臣は家臣ですっかり王から心は離れ、可憐な王妃を盛り立てて次代に期待していた。子が生まれればすぐにでも譲位させて、幼い赤子を王位につけたかった。どうせ何もしないなら、勝手に首切りする阿呆な男より赤子の方がマシである。
しかし婚姻から三年、未だ子は生まれていない。せめて一度でも懐妊していたならば、此度の茶番は回避出来たのだろうか。⋯⋯そうではあるまい。本当のところは王が王妃に飽きたとか、そんな仕様もない理由が真実であろう。
アリスレアは不幸な少年だった。人が十人いたら、余程のひねくれ者でない限り、十人ともその意見に反対しないだろう。
シュトレーゼンは地方に領地を賜る伯爵家である。祖先が立てた何某かの功績によって受け継がれた、爵位と領地と領民をまっとうに守ってきた。決して広くはない領地だが、建国から続く古い家だった。
地方伯爵家の掌中の珠、それがアリスレアであった。彼には六歳年上の婚約者がいた。隣の伯爵領の跡取りで、王都で文官をしていた。大体の領主は若いうちは王都で仕事をし、結婚して跡取りを設け、妻子を伴って領地を継ぐ。アリスレアの婚約者もそうした若者のひとりだった。
神子返りは夫にも妻にもなれるが、多くは妻となる。建国神話の神の子が男の子の身で子を育んだとされるからだ。生まれた子は長く一族を繁栄させると伝えられている。
アリスレアはその慣いに従って、妻となるべく大事に大事に育てられた。婚約者となった若者とも仲が良く、幸福を形にしたような少年であったのに。
ジェレマイアは、いつでも悲しげに微笑んでいたアリスレアを思い出して、掌に爪が食い込むほど拳を握りしめたのだった。
まるで犬猫でも放るように、王は言った。
ジェレマイア・ハインツ・ヴィッツが国境の魔獣被害を収めに行くための出陣式に臨んでいた時である。王は唇に浮かぶ嘲りを隠そうともせず、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている。
出陣式の場はざわめいた。王が言ったアリスレア・シュトレーゼンは王妃の名である。しかし、王妃が独身とはどういうことか。
「あれは孕まん。故に教会に婚姻無効を取り付けた。ああ、あそこの具合はいいぞ。搾り取られる。帰還したら好きに楽しめ」
妻であった人を並み居る家臣の前で辱め、王は満足そうに息をついた。ジェレマイアは王のあまりの下衆さに目の前が真っ赤になって、表情を消すのに苦労した。
高位貴族の花嫁は、男であれ女であれ処女性が重要視される。再婚以外の縁組では純潔であることが大前提で、婚姻無効の場合前の結婚が無かったことになるので、婚前交渉の末の傷物扱いになる。しかしそこは暗黙の了解で、花嫁は純潔であるものとして話が進められるものだ。
であるのに、王はかつての王妃、いや、たった今まで王妃であった人を辱めた。王である前に、人として男として最低な行いである。王はさらに言い募った。
「跡取りは、一番下の弟を養子にすれば良い。これでヴィッツ侯爵家は安泰だ」
言うだけ言って謁見の間を出て行く王の後を、小姓が慌てて追いかける。出陣式はまだ終わっていないが、勝手なものだ。これから任務につく兵士を鼓舞することもなく、場を徒らに混乱させて行ってしまった。
魔獣退治は命の危険を伴う危険な任務である。兵士の命を軽んじた行為にもはらわたが煮えくり返った。多くの兵が同じことを思ったようで、謁見の間はしばらくざわついていた。最後は軍務卿が檄を飛ばして立て直した。
ジェレマイアは式が終了した直後、怒りに震える手で結婚証明の証書にサインをした。王を追いかけて行った小姓が証書を手に戻ってきたのだ。可哀想な小姓はジェレマイアの発する怒りの気に触れ、真っ白な顔で震えていた。
軍務卿は側で見ていて、「お互い震えているのに、よくもまあ、綺麗な字が書けるもんだ」と場違いなことを考えた。王の非道、非常識ぶりに阿呆な事でも考えていないと、腰につけた剣を抜いて王の私室に駆け込みそうだったからだ。
既に証書には王と元王妃の署名がなされていた。ジェレマイアが名を連ねて、完成してしまった。ここでごねても元王妃の名誉を益々損ねるだけであるし、ここにいるほとんどの家臣が、彼に同情していたのを知っている。そして、ジェレマイア本人もそうだったのである。
元王妃アリスレア・シュトレーゼンは現在十七歳。金髪に翠の瞳、白い肌の美しい少年である。神の加護を受けたこの国では稀に、孕み胎を宿して生まれてくる男子がいる。そういう子どもは神子返りとして大切に育てられるならわしになっている。
そして、その神子返りとして生まれたアリスレアは、十四歳で王妃になってから孤児院や施療院など、福祉における分野で活躍していた。彼が名誉院長の名の下に行った施策は、専門家の助言を受けていたとは言え素晴らしい功績だった。民衆の支持も厚い。ただ、この民衆の支持の厚さが、王の癇に障ったのであろう。
王は政の全てを家臣に丸投げして、する事と言ったら気に入らない人間の首を切る事だけである。家臣は家臣ですっかり王から心は離れ、可憐な王妃を盛り立てて次代に期待していた。子が生まれればすぐにでも譲位させて、幼い赤子を王位につけたかった。どうせ何もしないなら、勝手に首切りする阿呆な男より赤子の方がマシである。
しかし婚姻から三年、未だ子は生まれていない。せめて一度でも懐妊していたならば、此度の茶番は回避出来たのだろうか。⋯⋯そうではあるまい。本当のところは王が王妃に飽きたとか、そんな仕様もない理由が真実であろう。
アリスレアは不幸な少年だった。人が十人いたら、余程のひねくれ者でない限り、十人ともその意見に反対しないだろう。
シュトレーゼンは地方に領地を賜る伯爵家である。祖先が立てた何某かの功績によって受け継がれた、爵位と領地と領民をまっとうに守ってきた。決して広くはない領地だが、建国から続く古い家だった。
地方伯爵家の掌中の珠、それがアリスレアであった。彼には六歳年上の婚約者がいた。隣の伯爵領の跡取りで、王都で文官をしていた。大体の領主は若いうちは王都で仕事をし、結婚して跡取りを設け、妻子を伴って領地を継ぐ。アリスレアの婚約者もそうした若者のひとりだった。
神子返りは夫にも妻にもなれるが、多くは妻となる。建国神話の神の子が男の子の身で子を育んだとされるからだ。生まれた子は長く一族を繁栄させると伝えられている。
アリスレアはその慣いに従って、妻となるべく大事に大事に育てられた。婚約者となった若者とも仲が良く、幸福を形にしたような少年であったのに。
ジェレマイアは、いつでも悲しげに微笑んでいたアリスレアを思い出して、掌に爪が食い込むほど拳を握りしめたのだった。
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