蛍の夢と君の一歩。

織緒こん

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 真っ暗な自宅の前に保の軽自動車があって、上代家の縁側が明るい。保が茶の間からの明かりを背中に受けて、ぼんやりと空を見上げているのが見えた。

 昼間の暑さが嘘のような涼しさは、山からそよいでくる風のおかげだろう。本当なら昨夜だって、山からの風の恩恵を受けたかった。

 シャクシャクと下草を踏んで歩くと、崇文の視線の先で保がびくりと身体を揺らした。恐がっているように見えて、崇文は自分が家族の誰かと勘違いされているのだと思った。

「ただいま」

 努めて明るい声をかけると、いからせていた保の肩が落ちた。

「崇文さん」

 ひどく頼りない声音が崇文の名を呼んだ。

「保、今夜もうちで寝る?」
「お父さんやつが帰ってきたとき、家におらんと面倒臭いことになぁけん」
「まぁ、そうだろうな」

 腹の内で燻る熾火のような熱に、彼は戸惑いもせず従った。縁側に腰掛ける保の肩に両手をついて長身を折り曲げる。月明かりよりも強い茶の間の蛍光灯のせいで、保の表情はよく見えない。けれど訝しがる様子もなく崇文を見上げてくる。

 触れた唇は柔らかかった。

「崇……」
「連れ出す準備はあるよ」

 囁いてキスを繰り返す。音もなく触れて離れるだけの行為を重ねながら崇文は思う。保は男女のことも経験がないのだろうな、と。抵抗もなく受け入れる従順な態度が、好意の表れなのか意思の放棄なのか不安になる。

「順番が逆になったけど……好きだよ」

 至近距離で頼りなく揺れる瞳を覗き込む。崇文は保の肩に置いていた手で、頬を包んだ。もう一度、キスをする。それでも保は逃げなかった。

「僕は女の子じゃないけん」
「わかっているさ」

 出会ったころ保の家庭的な面を見て『女の子だったら』と思ったことがある。だが、『だったら』と思った時点で惹かれていたのだ。そして、性別が女性だからといって好もしい為人ひととなりだとは限らない。つまるところ崇文は保という人間に恋に落ちたのだ。

「考えておいて」

 崇文はもう一度キスをして、保から離れた。

「……僕も」

 小さな声がさっきまで重ねていた唇から漏れる。

「僕も、何? 最後まで言って?」

 羞恥ゆえか濁された言葉を崇文が強請ると保の唇が震えた。

 声もなく。

『好き』と紡がれる。

 崇文はそれで満足した。家族に時間と若さを搾取され続けて、すっかり萎縮している青年にとって精一杯の告白だろう。

 抱きしめると骨張った薄い身体がピクリと震えた。夏の薄着は保の少年じみた肢体をダイレクトに感じさせる。崇文は理性を試されて、名残惜しく腕を解いた。

「このままだと突き進んじゃいそうだから、帰るよ。玄関も縁側も開けておくから、親父さんたちから逃げたくなったらいつでも来てよ」
「迷惑んならん?」
「ならない。むしろ俺に何かされるかもよ?」
「……ッ!」

 崇文は最後に保の額にキスをして、通り過ぎて来た自宅に帰った。保の家族がいる盆の期間は、何もできない。おそらく彼らが次に現れるのは正月だろう。それまでに保を受け入れる準備を整えよう。そう決意して崇文はスマートフォンの着信履歴を眺めた。

 側道から上代じょうだい家の木戸までは、崇文の借家の前を通り過ぎなければならない。酒に酔った保の父親を母親と長男が宥めすかしながら帰ってきた。崇文は保に宣言していた通り縁側を開け放っていた。そのためドヤドヤとうるさくしているのが丸聞こえだった。既に就寝のために消灯しているので、上代一家は崇文のことなど気に留めていなかった。

「保にくらわかしてやらんといけん! 自分が役立たずなんを放りほうた投げて、川上のおっつぁんに、なんぞごとか告げ口しょったわ!」
「お父さん、なんぼ山ん中でも静かにすぅだわ」
「やかましが! なんで俺たちおらいつがおっつぁんに、あげなこと言われんならん! 次男は黙って手伝いてごすぅもんだら」
「はいはい、お父さんの言う通りだわね。わかっとぉけん、静かにしてごすだわ」

 崇文が聞き耳を立てずとも、静かな山間の夜は酔っ払ってがなり立てられる大声を響き渡らせている。父親は納涼会の席で保の扱いについて責められたのか、ひどく激昂していた。母親はうんざりした様子で息子を庇う様子もなく、夫を肯定している。彼女は何年もこうやって、自分に矛先が向かないようにやり過ごしてきたのだろう。その結果、保は家族の中で一番の下っ端として蔑ろにされてきたのだ。

 三人が自宅に辿り着いたのを見計らって、崇文は彼らを追った。玄関の引き戸が開かれて明かりが庭に広がる。父親は三和土たたきに乗り上げるなり大声で何事かをがなった。声が割れていて崇文には何を言っているのか聞き取れない。しばらく怒鳴り声が聞こえて、それに返答するか細い声もする。崇文にはそれがすぐに保の声だとわかった。

 あまりのことに止めに入ろうとした矢先、ガツンと音がして人間がまろび出て来た。……いや投げ出されて来たのか。

「保!」

 家族の前だからと取り繕う余裕もなく、崇文は保を呼び捨てにして抱き起こした。

「あだん、松澤さん」

 母親の焦った声がして長男が「父さん、ストップ!」とようやく父親を押しとどめた。他人の目……世間体がなければ止めもしなかっただろう。崇文は弟を暴力的な父親から守りもしない長男を軽蔑した。

「ばんじまして。どげされました?」

 震えてものも言わない保の背をさすりながら、取り繕って挨拶をする母親を一瞥する。それで誤魔化せるつもりなのだろうか。

 崇文はほんの数時間前に想いが通じたばかりの相手を、ひとりにしてしまったことを悔いた。盆の数日をやり過ごして、鬼の居ぬ間に攫ってしまうつもりだったのが裏目に出てしまった。

「ご主人が大きな声を出しておられたので、心配になって来てしまいました。……随分とお酔いですね? 今夜は保君も落ち着かないでしょうから、私の家で預かります」

 返事を待たずに保を支えて家に戻る。昨夜と同じように玄関に鍵をかけ、縁側の雨戸を閉めると、立て付けの悪い木板の戸がガタピシと音を立てた。うっかりしていたが彼は裸足のままだった。崇文は風呂場で足の裏を丁寧に洗ってやって、怪我をしていないか確認した。その間ずっと、保はぼんやりとして何も言わなかった。

 クーラーの電源を入れると、崇文は保の腕を掴んで畳に敷いてあった布団にひき倒した。タオルケットで包んで抱きしめる。

「よく頑張った。泣いていいよ」

 クーラーの冷気はまだ充分に行き渡っていないので、部屋の中は蒸し暑い。それなのに腕の中の痩せた身体は小さく震えている。グスグスと鼻を啜る音がした。崇文は辛抱強く保の応えを待つ。

 過ごしやすい室温に落ち着くころに、彼はようやくタオルケットから顔を出し小さな声で呟いた。

「慣れとったに……。崇文さんとふたりでおるのが当たぁ前んなって、お父さんやつと一緒におうのが辛くてきびしてならん」
「そっか、俺といるのが当たり前か。それなら、これからずっと、そうしよう」
「もう、怖がるのもおぞがるのも疲れたくたぁべた
「それは、初めて聞いた単語だな」

 崇文はわざと茶化すように言って、保の額にキスをした。負の感情を乗せた言葉だろうと思う

「崇文さんにこぎゃんよくしてもらう、理由がねよ」

 崇文が繰り返すキスを恥ずかしげに避けて、保が言った。ようやく恥ずかしがる余裕が出てきたようだ。

「彼氏と一緒にいるために頑張るのはおかしいことじゃないよ」
「か、彼氏⁈」
「違うの? じゃあ、恋人って言おうか?」
「こ、こ、こ」
「うん、恋人。好きって言ったし言ってもらったし、間違っていないと思うよ」

 常夜灯の柔らかな薄明かりの下では、保の頬が染まったのは見えない。それでもウロウロと彷徨わせる視線が彼の動揺を教えてくれる。

「恋人だって自覚してほしいなぁ」

 崇文は保の身体からタオルケットを剥ぎ取った。Tシャツの丸い衿を引っ張って現れた鎖骨を甘噛みする。

「な、何すぅかね⁈」
「恋人のすること」

 言いながら甘噛みの痕をぺろりと舐められて、保の肩が揺れた。

「ダメ?」
「……ダメじゃ、ない」

 彼の手がゆっくりと背中に回されて、崇文は恋人の証明のために俄然張り切ったのだった。 

 ◇ ◇ ◇

 スマートフォンがうるさく振動する。崇文は舌打ちをしながら画面に浮かぶ相手を確認して、無視できない相手だと理解した。通話ボタンをタップすると間髪入れず「今何時だと思っているの!」と怒鳴られた。耳からスマートフォンを外して時間を確認すると、正午を過ぎている。雨戸を閉め切っているから気付かなかった。

 疲れ切って眠ったままの保を起こさないように、そっと布団を抜け出す。

「あぁ、ごめん。昨夜ちょっと例の一家がやらかして」

 寝室にしている六畳間から出て保の眠りを妨げない場所を探す。家の中をうろつきながら小声で話していると、電話の向こうから「いいから玄関を開けなさい!」と怒鳴られた。すでに玄関近くにいた崇文の耳には、声が二重に届いた。鍵を開けて引き戸を引くと、長身の女性が夏の日差しを浴びて仁王立ちしていた。

 鍔の広い麦わら帽子、大きなサングラス、腕を出したワンピースに足元は上げ底のコルクサンダル。崇文はどこのリゾート地にバカンスに来た有閑マダムだと突っ込みたくなった。女性の後ろでタクシーが去っていくのが見える。

「朝イチの飛行機に乗ってきてやったわよ! 素敵な従姉に感謝しなさい‼︎」
「……爺様、よりによって華江はなえ姉さんを寄越すとは」

 とは言え、マツザワの創始者たる祖父の一番お気に入りの孫娘は、就職一年目の自分よりよっぽど社内で顔が利く。親戚とマメに連絡を取っていたおかげで、保を連れ出すことは難しくなさそうだった。

「はい、辞令。あんた盆明けから関西支社に出向ね。さすがに本社に戻すのは早すぎるから」
 突き出された封書を受け取って、崇文は華江に頭を下げた。

 ◇ ◇ ◇

「電気はきてるで。あとは自分でしぃや」

 社宅まで案内してくれた関西支社の職員は、そう言ってさっさと帰っていった。それを見送った後、崇文はクスリと笑う。

「どげした?」
「いや、保ん家のとなりに引っ越したとき、自治会長さんが同じことを言ったけど、関西弁の方がわかりやすいんだなぁと思ったら笑えてきた」

 関西支社の借り上げ社宅は、マンションの一室だった。創始者の孫ということもあって融通を効かせてくれたため、ファミリー向けの物件だ。

 崇文に辞令を突きつけた彼の従姉は、マツザワ社内の人事は元より保が勤める総合病院にまで話を付けた。どうしてそんなことができるのか不思議だったがなんのことはない、保の家族の非常識さは町中の知るところであったというだけだ。皆が保を不憫に思っていたから、町を出る伝手つてがあるならと送り出された形だ。

 保はほぼ着の身着のままでやって来た。都会で着られるような小綺麗な衣服の持ち合わせはないし、上代の家から何かを持ち出して後で難癖をつけられたくもなかったからだ。

「ホントによかっただらか」
「何が?」
「崇文さんに迷惑かけとう」

 創業者一族だからと言って、入社一年目の崇文が自己都合で異動するなど非常識だろう。それなりに権力を持つ従姉に手筈を整えてもらわねば、何もできなかったはずだ。これから彼女には頭が上がらないに違いない。事実彼女は保の目の前で崇文に言い放ったのだ。

『ペーペーのあんたに出来ることなんか、たかが知れてるでしょ。先行投資してあげるわ。出世払い、よろしくね』

 華江がにんまりと笑ったのを思い出しながら、崇文は保を背後から抱き締めた。

「これから迷惑をかけるのは俺じゃないかな。保が俺に着いて来てくれたってことは、これから何度転勤してもそうしてくれるって、期待していいんだよな?」

 転勤族の奥さんは大変だろうなぁと保の耳に吹き込んでやると、腕の中の細い身体がピクリと揺れた。

「ずっと傍にいてほしい」
「それは僕の台詞だけん」

 崇文は保の身体をひっくり返してキスをしようとして、段ボールの角に足の小指をぶつけた。痛みに息を詰めていると保がぷっと噴き出した。

「大丈夫?」

 可愛らしく笑いながら保が問いかける。実に数日ぶりの笑顔が崇文に向けられた。

「……保は俺の腕の中で笑ってて」
「うん」

 そうしてふたりは、時間も忘れてキスをした。



〈おしまい〉


 
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