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そうして迎えた盂蘭盆は、崇文にとってつまらないものだった。宣言通り保はシフトを入れていて、崇文はゲーム三昧だ。自治会の老人たちも盆仕事で忙しく野良仕事の手伝いはない。
崇文が夏休みに入って三日目の夕方に、上代家の庭にセダンタイプの乗用車が一台やってきた。梅雨前に保がニコニコして眺めていた紫蘭の葉茎と迎え火を焚いた藁の燃え残りを、黒いタイヤが轢いていく。ガヤガヤと三人の男女が下車して、壮年の男が家の中に向かって大声で叫んでいる。保の軽自動車がないのだから、不在なのはわかるだろうに。崇文は縁側からその様子を見て地味にイラついた。
それから二時間ほど経って、保の軽自動車のエンジン音がした。今日のシフトは夕食後の食器洗いまでが業務だったのだろう。毎日聞くエンジン音に、崇文は敏感に気づいた。崇文の家の前で音が止んだのを訝しく思ったが、夕方に乗り込んできたセダンが庭にあるので、いつもの場所に駐車できないのだと気づいた。
「おかえり」
努めてさりげなさを装って縁側から声をかけると、疲れた声で「たでゃーま」と帰ってくる。仕事で疲れたときの声ではない。もっと憂いを帯びた投げやりな声音だった。
「保……大丈夫か?」
気付かないふりを貫き通せなくて、崇文は沓脱石の上のサンダルを突っかけて縁側から直接庭に出た。両手に食材が詰まったエコバッグを提げて立つ保の頬が、月の光に照らされて青白く浮かび上がった。いつかの蛍の光に照らされた笑顔とあまりに違う虚ろな表情に、崇文は胸を突かれた。
「ん、崇文さん。ちょっと帰ぇたくないけど、帰らんといけんのがつらい」
「それは、家族と会いたくないってことか?」
「僕が弱いなだけ」
「そんなわけあるか」
崇文は保の手から、エコバッグを取り上げた。大人四人分の食材はそれなりに重い。
「今夜、俺ん家に泊まる?」
「ダメだよ。お父さんやつのご飯をせないけん」
「お母さんらしき人もいたぞ?」
「盆休みの間くらい、楽したいんだとね」
思い切って誘った崇文だったがすぐに断られた。保の都合ではない。彼の家に居座る家族の都合で。こんな遅い時間に仕事を終えて帰ってきた次男に食事の支度をさせるような家族なのかと、崇文は見知らぬ彼らを嫌悪した。保は盆の予定を立てるとき、彼の家に行っていいかと聞いた。あれは一種の現実逃避だったのかもしれない。
そのとき保のスマートフォンが音を立てた。ジーンズの尻ポケットからそれを取り出した保は、画面に浮かぶ相手の名前を確認すると、一呼吸置いてから応答ボタンをタップする。
「はい、保です」
『何やっとうかや、今何時だと思っとう!』
となりに立つ崇文にも聞こえるほどの怒鳴り声が聞こえた。保は反射的にスマートフォンを耳から離す。その手が小さく震えていた。
『腹が減っているって、メッセ入れたろうが。早く帰ってこい!』
「ごめんなさい、お兄さん」
『謝っとう間にえのうだが!』
そこで通話は途切れた。一方的で威圧的なやり取りだった。保の家族に対する好感度は崇文の中で地べたを這っていたが、土中にまでめり込んでしまった。
保が何も言わずに崇文の手からエコバッグを取り返そうとするので、彼はそれが成功する前に田舎道を保の家に向かって歩き出した。夏草に覆われた田舎道の轍は、二本並んだ獣道のように見える。月明かりが物寂しげだ。
「崇文さん」
「俺も行く。他人がいたら、保の扱いがちょっと変わらない?」
「……でも」
「いいから」
保は父親をお父さん、兄をお兄さんと呼んだ。父親はともかく実兄をお兄さんと丁寧に呼ぶ若者がどれほどいることだろう。怒りに任せて崇文は先に立って歩いた。それを保が追った。歩きながら、何度か伸ばされた手が崇文に触れるギリギリで下される。
ついに崇文が玄関の引き戸を開けると奥からドタドタと足音が響いて、姿を現す前から怒声が飛んできた。
「いつまで待たせぇかや⁉︎ この、馬鹿が! 何、玄関から入っちょうか? お前は裏口だが⁉︎」
崇文の背後で保がビクッと身体を震わせる気配がした。崇文は苛つきを隠して爽やかに微笑むと「こんばんは」と言った。ちょうど顔を覗かせた、崇文と変わらぬ年頃の男が一瞬怯む。
「春にとなりに越してきた松澤です。保君にはお世話になっています」
「……あ、う? 松澤……? あぁマツザワの⁈」
田舎町では人の噂などすぐに広まる。崇文が自治体に大きな金を落とす大企業の創業者一族の出だというのは、この男の耳にも入っているらしい。
「上がってください。晩は済ませなった?」
「えぇ、軽く」
「ほんなら、ビールでも召し上がってください」
保の兄と思しき男は崇文に向かって、保よりもわかりやすい言葉を話した。県庁所在地にある大学の学生ということだから、彼が三月まで付き合いのあった人々と同じような訛り具合だ。
崇文が招き入れられたのは勝手知ったる茶の間ではなく、床の間と仏壇が並ぶ表の間に通される。自然に仏壇の前でお鈴を鳴らして手を合わせ、それを済ませると座卓の一番上座に座らされた。
すぐに両親と思しき男女も現れて席につき、挨拶もそこそこに長男賛辞を始めた。保はといえば一言も口を開かずに台所に引っ込み、すぐにビールとグラスを持って現れた。
大皿に盛り直した刺身が出され、盆中らしく鉢盛りの煮しめも運ばれる。箸休めの酢の物はひとり分ずつ小鉢で供されたが、それを運んでくる保は無言だ。台所と何度も往復して平盆に乗せた料理を表の間に運び込み、下座に腰を落ち着けた母親がにっこり笑って「遠慮せんで」と言いながら崇文の前にそれを並べた。
買ってきたのは保だし料理をしたのも保だ。
父母の長男自慢に崇文が適当に相槌を打っているうちに、保の兄は大学の後輩だとわかった。現在四年生で就職活動中だと言う。誕生日の話題で崇文のひとつ下だと聞いたから、浪人なり留年なりしているということだ。崇文は大学院を卒業しているので、ストレートで学生ならば院の二年生のはずだ。
大学まで進んだ長男は出来が良く社交的で、高卒の次男は田舎の病院で皿洗い。そんな言い方で保を蔑める。長男、偉い。長男、凄い。長男、長男、長男。なるほど時代錯誤の長男贔屓か。
「それでねぇ、松澤さん。うちのお兄ちゃん、マツザワで雇ってもらえんだらか?」
「母さん、急にそんなこと言ったてていけのわ」
母親がはしゃいだように言い出して、父親が嗜めの言葉を放つ。しかしこちらも満面の笑みだ。注がれるビールは崇文が好きな銘柄である。それはそうだ。自分で飲むつもりで保に冷やしてもらっていたものだった。崇文は一瞬でこの銘柄が嫌いになった。
のらりくらりと雇用問題について明確な返事を避けつつ晩酌を終えると、崇文は保の家族に断って彼を自宅に連れ帰った。
「保の家族を悪く言ってごめん。……クズだな」
「……東京の人には、わからん感覚かなぁ」
口答えさえしない。幼いころからそう躾けられてきたからだろう。戸惑う保の手首を掴んで引っ張ってきたのに、それを振り払うこともしない。崇文は掴んだ手をグイと引き寄せて、彼の頭を自分の胸に押し付けた。
「なぁ、東京に来ない? 多分俺、二年経ったら本社に転勤なんだわ。保は一生、ここにいる? 悪いけどさ、あの舅と姑じゃ、保の兄ちゃんには嫁の来てがないよ。いずれ全部の面倒ごとは保にのし掛かってくるんじゃないか?」
現在進行形であの家の面倒は保が引き受けている。自治会活動や助け合いは、大抵の家は家長が参加している。居を移しているとはいえ家長は父親のはずで、持ち回りの役員を次男に任せていることは自治会の人々の誹りを受けていた。それでなくても、最近の女の子の結婚観はシビアだ。ジジババ農作業付きの高圧的なモラハラ長男、彼女だって出来るのか怪しい。
「……逃げても、いいのかな?」
保がポツリと呟いた。
その晩、崇文はいつもは夜風を入れるために開けたままにしている雨戸を全部閉め、クーラーの電源を入れた。部屋の明かりすら外に漏らしたくなかった。……となりの家から保の家族が覗きに来るのが恐かったのだ。
自分の家の中を見られることなど気にしない。保が無防備な姿で眠るのを晒したくなかった。ひんやりした部屋の中でタオルケットに包〈くる〉まる細い身体を抱きしめて、崇文は明け方までスマートフォンを弄っていた。
◇ ◇ ◇
朝になって保は仕事へ出掛けていった。この日の夜は自治会の納涼祭のため、家族の夕食の支度はいらないのだと言う。穏やかな表情で出勤していく保を見送ってから、崇文は夕方まで一眠りすることにした。昨夜はほとんど眠っていないからだ。
納涼祭にはひとりで参加することにした。保が仕事で参加できないので出かけるつもりはなかったが、情報収集のためだ。納涼祭は神社の境内にある社務所を開放して宴会をするという、実に農村らしい催しだった。就職や結婚で地元を出て行った者たちも帰省して参加するらしい。崇文は保の同級生の話が聞けるかもしれないと期待したのだ。
夜の境内は裸電球が灯され、オレンジ色の光に照らされていた。甚兵衛姿の子どもたちが「明るすぎて線香花火が見えない」と文句を言い、缶ビールを片手に持ったオヤジが赤ら顔でゲラゲラ笑いながら「もっと隅へ行け」と追い払っている。
崇文は境内の端に、明らかに嫌々参加している若い集団を見つけた。彼らが手にしているのはノンアルコールの甘いカクテル缶やペットボトルのお茶だ。二十歳前後の年齢だとあたりをつけて話しかけた。年頃の彼らはやはり田舎の催しを恥ずかしくて面倒なものだと思っていた。社務所に並ぶ持ち寄りのご馳走が夕食だから、諦めて参加しているらしい。
その中の数人が保の小学校からの同級生で、現在は兄のほうと大学で同級生なのだと言った。
「たもっちゃんなぁ。良いように使われて可哀想だって、誰んもが思っとうわ」
もともと長男贔屓が激しい両親で、兄も小学生のころから保には横柄だったらしい。そんな兄が大学受験に失敗したとき悪い噂はすぐに広まった。尊大な態度で威張り散らしていた兄はあまり人に好かれていないため、あっという間だったとか。彼は噂から逃げるように町を出た。浪人生活を送るために大学近くに家を借り、雑事に惑わされず勉強に専念させるために母親も移り住んだ。程なく父親も、通勤に便利なそちらに生活を移したという。
「保君って、そのとき高校二年生でしょ?」
隣人を心配する気のいいお兄さんの表情で、崇文は保の同級生に訊ねた。
「まぁ、ばあちゃんがいたし」
「何言っとうかや。ばあちゃん足が悪くて、歩けんかったがや」
他の友人たちも口々に言い出した。
「大学受験の日だてて、前の日の夜中にばあちゃんが救急車に乗ったがね」
「そうで付き添いしとって受験がならんかったに、受験に受かった先輩やつ保のこと馬鹿だ阿呆だ言うけん、よっぽど殴り飛ばしてやろうと思ったわ」
「そげそげ!」
「知っとう? そうで、ばあちゃん寝たきりにならいて、三ヶ月ほどで死ないたが」
「知っとう知っとう。俺、大学の入学式の後、葬式いったがぁ。そんとき、おっつぁんがさぁ『ちゃんと面倒見らんかった保が悪い』『保が殺したようなもんだ』って言っとうの聞いて、コイツもうダメだわって思ったが」
同級生たちは崇文の存在を忘れて話し続けた。受験をすっぽかし、家にこもってたったひとりで祖母の介護をする保のことを、民生委員も気にして様子を見に来ていたらしい。田舎の世間体と閉鎖的な社会でなければ通報レベルだ。崇文は苛立ちを隠して青年たちに礼を言って、その場所を離れた。
開け放たれた社務所には折り畳み机が用意され、ご馳走が並んでいる。崇文は離れた場所からそれを眺めた。赤ら顔のおっさんたちが飲み食いしながら小学校の校歌らしきものを歌って、おそらく他所の土地から嫁に来てその歌に馴染みのないおばさんたちが苦笑している。その中に保の家族もいた。
崇文は空腹を感じなかった。苛立ちばかりが募る。目的は果たしたので引き上げよう。そう思って鳥居を潜ろうとしたとき、呼び止める声がした。振り向くと自治会長が立っている。夜だというのに農協のロゴの入ったキャップを被り、首からタオルを下げている。
「たもっちゃんを逃してやってくださいな。俺たちには仁義があって、口が出せらん」
逆光を背負って立つ自治会長の表情は見えない。けれど掠れた声には苦悩が感じられる。
「あげな時代錯誤な長男贔屓、今どき流行らんわ。親父の意識は今更どげんもならん。だったら、たもっちゃんが出ていくがいい」
保は今どき珍しい近所の野良仕事を手伝う若い衆だ。崇文が、困る年寄りが大勢いるのではないかと訊ねると会長は肩を揺らした。笑っているらしい。
「年寄りは年寄うなりにどぎゃんでもすぅわ。たもっちゃんは何ぞごと理由つけて外に出したらんと、家に閉ずこもって病気になぁけん」
「……そうですね」
崇文は相槌を打つと自治会長に頭を下げて、今度こそ鳥居を潜った。神社から自宅まではゆるゆる歩いて十五分ほどだ。実家の家族が盆休みに帰省しなかった崇文の様子を窺って連絡をしてきた。歩きながらスマートフォンの通話ボタンをタップする。会えない家族を心配する電話が当たり前にかかってくる自分と、ほったらかされた保の境遇の違いに苦しくなった。
崇文が夏休みに入って三日目の夕方に、上代家の庭にセダンタイプの乗用車が一台やってきた。梅雨前に保がニコニコして眺めていた紫蘭の葉茎と迎え火を焚いた藁の燃え残りを、黒いタイヤが轢いていく。ガヤガヤと三人の男女が下車して、壮年の男が家の中に向かって大声で叫んでいる。保の軽自動車がないのだから、不在なのはわかるだろうに。崇文は縁側からその様子を見て地味にイラついた。
それから二時間ほど経って、保の軽自動車のエンジン音がした。今日のシフトは夕食後の食器洗いまでが業務だったのだろう。毎日聞くエンジン音に、崇文は敏感に気づいた。崇文の家の前で音が止んだのを訝しく思ったが、夕方に乗り込んできたセダンが庭にあるので、いつもの場所に駐車できないのだと気づいた。
「おかえり」
努めてさりげなさを装って縁側から声をかけると、疲れた声で「たでゃーま」と帰ってくる。仕事で疲れたときの声ではない。もっと憂いを帯びた投げやりな声音だった。
「保……大丈夫か?」
気付かないふりを貫き通せなくて、崇文は沓脱石の上のサンダルを突っかけて縁側から直接庭に出た。両手に食材が詰まったエコバッグを提げて立つ保の頬が、月の光に照らされて青白く浮かび上がった。いつかの蛍の光に照らされた笑顔とあまりに違う虚ろな表情に、崇文は胸を突かれた。
「ん、崇文さん。ちょっと帰ぇたくないけど、帰らんといけんのがつらい」
「それは、家族と会いたくないってことか?」
「僕が弱いなだけ」
「そんなわけあるか」
崇文は保の手から、エコバッグを取り上げた。大人四人分の食材はそれなりに重い。
「今夜、俺ん家に泊まる?」
「ダメだよ。お父さんやつのご飯をせないけん」
「お母さんらしき人もいたぞ?」
「盆休みの間くらい、楽したいんだとね」
思い切って誘った崇文だったがすぐに断られた。保の都合ではない。彼の家に居座る家族の都合で。こんな遅い時間に仕事を終えて帰ってきた次男に食事の支度をさせるような家族なのかと、崇文は見知らぬ彼らを嫌悪した。保は盆の予定を立てるとき、彼の家に行っていいかと聞いた。あれは一種の現実逃避だったのかもしれない。
そのとき保のスマートフォンが音を立てた。ジーンズの尻ポケットからそれを取り出した保は、画面に浮かぶ相手の名前を確認すると、一呼吸置いてから応答ボタンをタップする。
「はい、保です」
『何やっとうかや、今何時だと思っとう!』
となりに立つ崇文にも聞こえるほどの怒鳴り声が聞こえた。保は反射的にスマートフォンを耳から離す。その手が小さく震えていた。
『腹が減っているって、メッセ入れたろうが。早く帰ってこい!』
「ごめんなさい、お兄さん」
『謝っとう間にえのうだが!』
そこで通話は途切れた。一方的で威圧的なやり取りだった。保の家族に対する好感度は崇文の中で地べたを這っていたが、土中にまでめり込んでしまった。
保が何も言わずに崇文の手からエコバッグを取り返そうとするので、彼はそれが成功する前に田舎道を保の家に向かって歩き出した。夏草に覆われた田舎道の轍は、二本並んだ獣道のように見える。月明かりが物寂しげだ。
「崇文さん」
「俺も行く。他人がいたら、保の扱いがちょっと変わらない?」
「……でも」
「いいから」
保は父親をお父さん、兄をお兄さんと呼んだ。父親はともかく実兄をお兄さんと丁寧に呼ぶ若者がどれほどいることだろう。怒りに任せて崇文は先に立って歩いた。それを保が追った。歩きながら、何度か伸ばされた手が崇文に触れるギリギリで下される。
ついに崇文が玄関の引き戸を開けると奥からドタドタと足音が響いて、姿を現す前から怒声が飛んできた。
「いつまで待たせぇかや⁉︎ この、馬鹿が! 何、玄関から入っちょうか? お前は裏口だが⁉︎」
崇文の背後で保がビクッと身体を震わせる気配がした。崇文は苛つきを隠して爽やかに微笑むと「こんばんは」と言った。ちょうど顔を覗かせた、崇文と変わらぬ年頃の男が一瞬怯む。
「春にとなりに越してきた松澤です。保君にはお世話になっています」
「……あ、う? 松澤……? あぁマツザワの⁈」
田舎町では人の噂などすぐに広まる。崇文が自治体に大きな金を落とす大企業の創業者一族の出だというのは、この男の耳にも入っているらしい。
「上がってください。晩は済ませなった?」
「えぇ、軽く」
「ほんなら、ビールでも召し上がってください」
保の兄と思しき男は崇文に向かって、保よりもわかりやすい言葉を話した。県庁所在地にある大学の学生ということだから、彼が三月まで付き合いのあった人々と同じような訛り具合だ。
崇文が招き入れられたのは勝手知ったる茶の間ではなく、床の間と仏壇が並ぶ表の間に通される。自然に仏壇の前でお鈴を鳴らして手を合わせ、それを済ませると座卓の一番上座に座らされた。
すぐに両親と思しき男女も現れて席につき、挨拶もそこそこに長男賛辞を始めた。保はといえば一言も口を開かずに台所に引っ込み、すぐにビールとグラスを持って現れた。
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買ってきたのは保だし料理をしたのも保だ。
父母の長男自慢に崇文が適当に相槌を打っているうちに、保の兄は大学の後輩だとわかった。現在四年生で就職活動中だと言う。誕生日の話題で崇文のひとつ下だと聞いたから、浪人なり留年なりしているということだ。崇文は大学院を卒業しているので、ストレートで学生ならば院の二年生のはずだ。
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「それでねぇ、松澤さん。うちのお兄ちゃん、マツザワで雇ってもらえんだらか?」
「母さん、急にそんなこと言ったてていけのわ」
母親がはしゃいだように言い出して、父親が嗜めの言葉を放つ。しかしこちらも満面の笑みだ。注がれるビールは崇文が好きな銘柄である。それはそうだ。自分で飲むつもりで保に冷やしてもらっていたものだった。崇文は一瞬でこの銘柄が嫌いになった。
のらりくらりと雇用問題について明確な返事を避けつつ晩酌を終えると、崇文は保の家族に断って彼を自宅に連れ帰った。
「保の家族を悪く言ってごめん。……クズだな」
「……東京の人には、わからん感覚かなぁ」
口答えさえしない。幼いころからそう躾けられてきたからだろう。戸惑う保の手首を掴んで引っ張ってきたのに、それを振り払うこともしない。崇文は掴んだ手をグイと引き寄せて、彼の頭を自分の胸に押し付けた。
「なぁ、東京に来ない? 多分俺、二年経ったら本社に転勤なんだわ。保は一生、ここにいる? 悪いけどさ、あの舅と姑じゃ、保の兄ちゃんには嫁の来てがないよ。いずれ全部の面倒ごとは保にのし掛かってくるんじゃないか?」
現在進行形であの家の面倒は保が引き受けている。自治会活動や助け合いは、大抵の家は家長が参加している。居を移しているとはいえ家長は父親のはずで、持ち回りの役員を次男に任せていることは自治会の人々の誹りを受けていた。それでなくても、最近の女の子の結婚観はシビアだ。ジジババ農作業付きの高圧的なモラハラ長男、彼女だって出来るのか怪しい。
「……逃げても、いいのかな?」
保がポツリと呟いた。
その晩、崇文はいつもは夜風を入れるために開けたままにしている雨戸を全部閉め、クーラーの電源を入れた。部屋の明かりすら外に漏らしたくなかった。……となりの家から保の家族が覗きに来るのが恐かったのだ。
自分の家の中を見られることなど気にしない。保が無防備な姿で眠るのを晒したくなかった。ひんやりした部屋の中でタオルケットに包〈くる〉まる細い身体を抱きしめて、崇文は明け方までスマートフォンを弄っていた。
◇ ◇ ◇
朝になって保は仕事へ出掛けていった。この日の夜は自治会の納涼祭のため、家族の夕食の支度はいらないのだと言う。穏やかな表情で出勤していく保を見送ってから、崇文は夕方まで一眠りすることにした。昨夜はほとんど眠っていないからだ。
納涼祭にはひとりで参加することにした。保が仕事で参加できないので出かけるつもりはなかったが、情報収集のためだ。納涼祭は神社の境内にある社務所を開放して宴会をするという、実に農村らしい催しだった。就職や結婚で地元を出て行った者たちも帰省して参加するらしい。崇文は保の同級生の話が聞けるかもしれないと期待したのだ。
夜の境内は裸電球が灯され、オレンジ色の光に照らされていた。甚兵衛姿の子どもたちが「明るすぎて線香花火が見えない」と文句を言い、缶ビールを片手に持ったオヤジが赤ら顔でゲラゲラ笑いながら「もっと隅へ行け」と追い払っている。
崇文は境内の端に、明らかに嫌々参加している若い集団を見つけた。彼らが手にしているのはノンアルコールの甘いカクテル缶やペットボトルのお茶だ。二十歳前後の年齢だとあたりをつけて話しかけた。年頃の彼らはやはり田舎の催しを恥ずかしくて面倒なものだと思っていた。社務所に並ぶ持ち寄りのご馳走が夕食だから、諦めて参加しているらしい。
その中の数人が保の小学校からの同級生で、現在は兄のほうと大学で同級生なのだと言った。
「たもっちゃんなぁ。良いように使われて可哀想だって、誰んもが思っとうわ」
もともと長男贔屓が激しい両親で、兄も小学生のころから保には横柄だったらしい。そんな兄が大学受験に失敗したとき悪い噂はすぐに広まった。尊大な態度で威張り散らしていた兄はあまり人に好かれていないため、あっという間だったとか。彼は噂から逃げるように町を出た。浪人生活を送るために大学近くに家を借り、雑事に惑わされず勉強に専念させるために母親も移り住んだ。程なく父親も、通勤に便利なそちらに生活を移したという。
「保君って、そのとき高校二年生でしょ?」
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「まぁ、ばあちゃんがいたし」
「何言っとうかや。ばあちゃん足が悪くて、歩けんかったがや」
他の友人たちも口々に言い出した。
「大学受験の日だてて、前の日の夜中にばあちゃんが救急車に乗ったがね」
「そうで付き添いしとって受験がならんかったに、受験に受かった先輩やつ保のこと馬鹿だ阿呆だ言うけん、よっぽど殴り飛ばしてやろうと思ったわ」
「そげそげ!」
「知っとう? そうで、ばあちゃん寝たきりにならいて、三ヶ月ほどで死ないたが」
「知っとう知っとう。俺、大学の入学式の後、葬式いったがぁ。そんとき、おっつぁんがさぁ『ちゃんと面倒見らんかった保が悪い』『保が殺したようなもんだ』って言っとうの聞いて、コイツもうダメだわって思ったが」
同級生たちは崇文の存在を忘れて話し続けた。受験をすっぽかし、家にこもってたったひとりで祖母の介護をする保のことを、民生委員も気にして様子を見に来ていたらしい。田舎の世間体と閉鎖的な社会でなければ通報レベルだ。崇文は苛立ちを隠して青年たちに礼を言って、その場所を離れた。
開け放たれた社務所には折り畳み机が用意され、ご馳走が並んでいる。崇文は離れた場所からそれを眺めた。赤ら顔のおっさんたちが飲み食いしながら小学校の校歌らしきものを歌って、おそらく他所の土地から嫁に来てその歌に馴染みのないおばさんたちが苦笑している。その中に保の家族もいた。
崇文は空腹を感じなかった。苛立ちばかりが募る。目的は果たしたので引き上げよう。そう思って鳥居を潜ろうとしたとき、呼び止める声がした。振り向くと自治会長が立っている。夜だというのに農協のロゴの入ったキャップを被り、首からタオルを下げている。
「たもっちゃんを逃してやってくださいな。俺たちには仁義があって、口が出せらん」
逆光を背負って立つ自治会長の表情は見えない。けれど掠れた声には苦悩が感じられる。
「あげな時代錯誤な長男贔屓、今どき流行らんわ。親父の意識は今更どげんもならん。だったら、たもっちゃんが出ていくがいい」
保は今どき珍しい近所の野良仕事を手伝う若い衆だ。崇文が、困る年寄りが大勢いるのではないかと訊ねると会長は肩を揺らした。笑っているらしい。
「年寄りは年寄うなりにどぎゃんでもすぅわ。たもっちゃんは何ぞごと理由つけて外に出したらんと、家に閉ずこもって病気になぁけん」
「……そうですね」
崇文は相槌を打つと自治会長に頭を下げて、今度こそ鳥居を潜った。神社から自宅まではゆるゆる歩いて十五分ほどだ。実家の家族が盆休みに帰省しなかった崇文の様子を窺って連絡をしてきた。歩きながらスマートフォンの通話ボタンをタップする。会えない家族を心配する電話が当たり前にかかってくる自分と、ほったらかされた保の境遇の違いに苦しくなった。
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