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しおりを挟む崇文が入社したマツザワは東京に本社があり、パソコン周辺機器、いわゆるアクセサリーを扱っている。新技術研究や商品開発、運営は本社で行われていたが、製造工場は地方に分散している。彼が配属されたのは西日本にあるとある県だった。大手メーカーを誘致したい町と広くて安い土地を探していたマツザワは利害の一致を見て、数年前に工場を建てて従業員を集めた。集まった彼らの半分が『上代』『原田』『石川』なのを、崇文は職場の玄関口に並ぶタイムカードで確認した。
出会った日に自動車を並べて帰ってきた崇文と保は、夕食を共にした。
「これも何かの縁だし、荷物も片付いとらんでしょ」
そう言われて崇文は遠慮なく誘いに乗った。これから暫く続くご近所付き合いだ。
保は一軒家にひとりで住んでいた。三年前、同居していた祖母が亡くなって、管理がてら住んでいるのだそうだ。ちなみに彼の家族は、崇文が三月まで住んでいた県庁所在地に住んでいるらしい。
その後も、保は度々食事に誘ってくれた。崇文が慣れない職場で疲れて帰宅すると、玄関に並んでいるお裾分けの野菜を見て途方に暮れることが数度あった。それを見兼ねてのことだ。保の職場は病院の調理室だ。入院患者の食事を用意する調理師で、それはつまり作る料理が抜群に美味いと言うことだ。お裾分けの野菜もあっという間に調理されて、崇文の家の冷蔵庫で朽ち果てる運命を免れた。
崇文はカレンダー通りの休みだが保の仕事はシフト制で、うまく休みが合う時は一緒に出かけたりするほど仲良くなった。お互い職場には同年代が少なく、自家用車通勤ともなれば仕事帰りに連れ立って飲み歩くこともない。となると真っ直ぐ帰宅するだけだ。
ゴールデンウィークも帰省はしなかった。東京での都会的な空気と高校時代の友人達と過ごす休暇も捨て難かったが、田舎の生活にも慣れたかった。度々届く新鮮な野菜のお裾分けの礼もしなければならない。大抵は物々交換らしいが崇文には返礼に使える自家製野菜がない。貰いっぱなしも気が引けて保に相談すると彼は困ったように笑った。
「そういうときは、身体で払うんだわ」
「身体で」
「そ、肉体労働」
年寄りの多い過疎地域のため若い労働力は大歓迎なのだそうだ。
「それを期待しとうねしょ。ある程度、てごしてあげぇといいわ」
「てご?」
「ごめん。手伝いのことだわ」
保の言うことは老人達のそれよりは理解できる。しかし、春まで通っていた大学周辺の人々はここまで方言が強くなかったように思う。
「気を悪くしたら、ごめん。ときどき何を言っているのかわからない」
「うん、僕もそう思う。でも標準語が喋れない訳じゃないんだ」
この辺りに住む人々だとて、普通に標準語は理解している。田舎のじいちゃんばあちゃんが大好きなMHKのアナウンサーは美しい標準語を話す。中高生もテレビや動画を見るし学校での会話はスマートだ。
「僕だって、高校まではこげじゃなかったわ。あんね、病院、役場、郵便局、あとはパープルか。お年寄り客が多い職場に就職すぅと、こうなぁけん」
小児科の看護師は若い母親と乳幼児の相手が多いからか比較的訛りがない。反対に整形外科は足腰の痛い老人が多いため若い看護師でも強めのずうずう弁なんだと、保は肩をすくめた。
それはさておき、お裾分けのお返しである。
「気負わんでもいいよ。僕も自分で食べぇ分しか畑はしとらんけん、返すもんがないもん。一緒に草刈りでも」
「助かる、師匠!」
「師匠ってなんかね。崇文さんのが歳が上だがね」
こうしてゴールデンウィークは実家のある東京には帰らずに、保と一緒に自治会の老人宅で汗を流した。収穫しそびれて育ちすぎた筍を潰したり夏に向かってぐんぐん伸びる雑草を刈ったりと、年寄りだけでは大変な作業はたくさんあった。農具の使い方はへっぴり腰の崇文だが単純な力仕事では大いに活躍した。お裾分けのお礼のつもりで手伝ったのに作業の礼と言ってお菓子や果物を押し付けられる。崇文が困ってオタオタしていると保がニコニコして「貰っとくだわ」と言った。彼の手にもちゃっかりバナナが持たされている。
保は病院の給食室で働いているせいかとても優しい空気感を持っている。年寄り達も彼を頼りにしているようで仕事帰りにパープルでお使いをするなんてのはよくあることだ。額に汗を滲ませて優しく笑う保が可愛く見えて、崇文は突然の感情に戸惑った。
◇ ◇ ◇
ゴールデンウィークが明けて日常が戻ってくる。農村の兼業農家はその期間は田植えシーズンのため、特に旅行に行く者もいないようだ。学生のころ研究室に土産の菓子が並んだような光景はない。農作業で疲れた中高年が気持ちを切り替えて職務に励むのみだ。
崇文と言えばゴールデンウィークの期間中、保と一緒に過ごした。朝から山や畑で作業して、保の家で昼食を食べて昼寝する。五月に入ったばかりでも日中は夏の日差しだ。一番暑い時間は作業しない。若い崇文と保はともかく、手伝いを必要としている老人達にそれを徹底させるのは保だ。まめまめしく働こうとするばあちゃんを家に押し込むのは結構骨が折れる。そうして太陽が傾き始めると再び作業を続けるのだ。
ご飯は美味いし保の持つ柔らかい雰囲気は、傍にいてとても寛げる。ゴールデンウィークが終わるころには、すっかり保の家に馴染んでしまった。保が作ったご飯を食べたあと、ふたり並んで皿を洗い、のんびり冷茶を飲みながら話し込むまでがルーティンだ。たまに酒も飲むようになった。しこたま飲んでも互いの家が見える距離だから、安心して飲める。保はまだ二十一歳で独り暮らしとあってか酒はほとんど飲んだことがなかったようだ。甘い缶チューハイを舐めるように飲んで赤くなる様子は不思議と可愛らしくて、崇文の心臓は変なふうに鼓動を刻んだ。多分アルコールのせいだ。
平日でも崇文は家に帰ると、となりの家に明かりがついているのかを確認するようになった。保も保で自動車のエンジン音がすると縁側から顔を出すものだから、歓迎されているように思えてくる。
やがて訪れた鬱陶しい梅雨の間、用がなくても互いの家を行き来した。崇文が保の家に入るときは、自然と表の間に向かって仏壇の前に座るようになった。保がいつもそうするからだ。何も供えずとも、お鈴を鳴らして手を合わせる。それから茶の間で他愛もない会話をする。
崇文が引っ越してきて二ヶ月余り、まだまだ土地のことはわからない。この辺りは源氏蛍の生息地で、シーズンにはバスツアーが組まれるほどらしい。それを聞いたら、是非とも見たくなるというものだ。
六月下旬の金曜日、一年で最も昼が長くなる。定時で帰宅してもまだ明るい時間だ。相変わらず空は雲に覆われているものの、雨は小休止している。崇文が自動車のエンジンを止めると、保が縁側のガラス戸を開けて手を振るのが見えた。今日も待っていてくれたようなタイミングに心が浮き立つ。けれどすぐに保は窓を閉めて奥に引っ込んだ。いつもなら崇文が自動車を降りて家に入るまで縁側にいるのにと少し不満に思っていると、今度は玄関が開いて保が出てきた。
「蛍を見にいかや」
見ればTシャツの上にカーディガンを羽織った姿だ。虫除け対策に違いない。酒を飲みながらのたわいもない話を覚えていてくれたのか。自分が帰宅するのを待っていたのだと気づいて、崇文の心臓の音が騒がしくなり始めた。
沢の下草は昼ごろまで降っていた雨のせいで濡れている。保に言われて汚れても問題ない服に着替えると、彼に案内されて家の脇の細い道を行く。獣道のように見えたが山仕事をするひとが繰り返し歩いた跡なのだそうだ。クマザサをシャクシャクと踏み分けて奥に入る。頭上は山木に覆われて夜の気配が強くなった。あっという間に視界が悪くなる。保は慣れたもので、吊り下げ式の懐中電灯で足元を照らした。
「もうすぐだよ」
「おう」
夜の山に入ったのは初めてで、保の後ろにピッタリくっついて歩く。大した距離もなく山間の沢に出た。そこでふたりは足を止めて懐中電灯を消す。
「静かにしとってごす?」
保に耳の近くで囁くように言われて、崇文は無言で頷いた。声が近くて心臓が跳ねる。
どれほど待っただろうか。
ふよっ
ふよっ
蛍光グリーンの小さな発光体が、ひとつ、またひとつと舞い上がった。ふよふよと不規則に飛びながら生命の光を明滅させている。求愛の光だ。その数はどんどん増えて、ふたりの身体にまとわりつくほどになる。
ひとつずつの光はとても小さいのに、数があまりに多い。夜闇の中に保の姿がほんのりと浮かび上がった。その姿はひどく幻想的で性の匂いを感じさせない、一種の神々しさをまとっている。
どれくらいそうしていたのか。崇文は蛍を驚かさないように息を潜めながら、全身で保の気配を探っていた。年寄りに頼りにされる田舎の純朴な青年が、なぜかとても愛おしく思えた。
やがて蛍の光は少しずつ消えて行き、いよいよ最後の一匹までどこかへ行ってしまった。そのかわりにフィーフィーと軽やかな河鹿の鳴き声が静寂を破る。崇文は息苦しくなって、深いため息を漏らした。
「すごかった……。本物の蛍って、こんなにすごいんだ」
「来年は見れぇかわからんもん。崇文さんは本社さんだら? 来年は、東京に戻っとらいかもしぇん」
「知ってたんだ」
それはそうだろう。崇文の姓は松澤だ。パソコンアクセサリーメーカー、マツザワの創業者一族だなんてすぐに想像が付く。事実崇文は、マツザワの会長の孫だった。本社に入る前に田舎町の工場で数年修行するようにと、祖父に言われたのだ。
「帰らや」
蛍の見頃は太陽が沈んだ直後。夜闇が深くなりすぎると隠れてしまう。保が懐中電灯を点けると、蛍の名残りはすっかり消えた。ふたりは言葉少なに元来た道を戻った。
◇ ◇ ◇
蛍を見た日から、崇文は保が気になって仕方がない。相変わらず、彼の家に入り浸って食事を共にしている。お裾分けで貰える野菜以外の食材は、崇文がパープルで購入して来る。他にもインターネット通販で取り寄せたちょっと良い肉などを手土産にする。食費を受け取ってもらえないので現物支給だ。
「崇文さん、お盆さんはどげしなぁ? 僕、シフトがフルで入っとぅけん、ご飯の支度がならんわ」
パープルで崇文が購入してきたブリの刺身を食べながら、保が言った。日本海に面したこの県では、東京よりも魚介類が安価だ。特に『本日のお買い得品』というシールが貼られた刺身のパックは、ふたりで食べるには量も多い。
保は地元総合病院で入院患者の食事を作る仕事をしている。職場の同僚は主婦が多いため、夏休みをお盆に合わせて取りたがる。皆、仕事のほうがよっぽど楽だと愚痴を言いながらの盆休みだ。孫を連れて息子夫婦が帰省してくる、今年は新盆でお寺さんを呼ぶ。主婦たちのそんな事情はよくわかっているため、保はお盆期間の出勤を引き受けたのだ。
「うちも、お父さんたちが来ぅけん、顔を見ぃも出来ないかもせん」
「そっか。家でゲームでもしておくよ」
崇文は実家に帰るための、足の手配をしなかった。約束はしていなかったが、ゴールデンウィークのようにふたりで過ごすものと思い込んでいたのだ。考えてみれば保の家には仏壇がある。お盆にお迎えするご先祖様がいるし、県庁所在地に住んでいるという保の家族だって線香を上げに帰省してくるだろう。
綺麗な食事の仕方をする保を眺めながら、崇文は麦茶を流し込んだ。生物を食べた口をリセットして、ほうれん草の酢味噌和えを攻略する。そうしながら脳裏は保のことでいっぱいだった。
いくら就職しているからと、高校を卒業したばかりの息子をひとりでこんな田舎に置いておくだろうか。この町から県庁所在地までは自家用車で四十五分ほど。通勤するのに不便ではない。実際に町のほとんどの若者が、県庁所在地までマイカー通勤をしている。祖母の遺した家の管理とても、月に一度でも様子を見に来れば良い。それなのにもう三年も、保はここで独り暮らしをしているようだ。家族が様子を見に訪れたのを見たことがない。特に母親は、あれこれと世話を焼きたがるものじゃないのだろうか。
崇文は散々入り浸っておきながら、今頃になってそれに気付いた自分に呆れた。自分の母親はしょっちゅう荷物を送ってくる。最近では保の家で食事をしていることを知らせたためか、お洒落コーヒー雑貨店の調味料を、これでもか、と詰め込んでくる。崇文の料理の腕では使いこなせないものばかりなので、保に使ってもらうためなのは一目瞭然だ。
「お盆さんの最中、そっちに顔出していい?」
「もちろん。俺も保の家族さんに挨拶くらいはするけど、上がり込むのは気後れするからな。俺ん家に来てくれると嬉しい」
「ありがとう」
保の肩がわずかに下がるのが見てとれた。崇文は彼の身体から力を抜ける瞬間を垣間見て、やはり家族とうまく行っていないのだろうと確信した。
「ほんなら、崇文さんとこでご飯していい? 台所、他人が入ぃのダメかな?」
「俺の飯の心配はいいよ。一応六年間、独り暮らしをしていたからな」
崇文は自信たっぷりに宣言したものの、実際はコンビニとスーパーの惣菜コーナーが彼の専属調理人だ。とりあえず無洗米は炊飯器が炊いてくれる。
そんな会話をしてから盆までの間、ふたりで旧暦の七夕祭りに出かけたり上代家の墓掃除を手伝ったりしながら過ごした。この辺りの墓は広い墓土地に夫婦ごとの墓石が並んでいて、保は「これが初代さん、こっちが二代さん」と取り留めなく崇文に説明しながら丁寧に掃き清めていた。先祖を敬う作業が保ひとりに押し付けられているのを見て、崇文は益々彼のことが気になった。
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