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「電気は通っているから、あとは自分でしてください」
トラックから下ろした引越し荷物が積み上がった縁側で、崇文は自治会長の暇の挨拶を聞いた。……暇のはずだ。言っている意味はわからないが、農協のマークの入ったキャップを被ったおじさんは腰をトントン叩きながら崇文の新居から去っていくので、間違いない。
「あの、会長さん。待ってください。これ、持っていってください。お世話になりました」
崇文は慌てて一番上に積んでおいた段ボールからガムテープを剥がすと、あらかじめ用意してあった東京銘菓を引っ張り出して自治会長に渡した。田舎の町で新参者が礼儀を欠いてはろくなことにならない。
「うやぁ、けなこつすてもらぁても、こまぁだわ」
「……いえ、ご挨拶とお礼を兼ねていますので、ぜひお持ちください」
どことなく余所者を警戒する雰囲気を出していた壮年の男は、途端に破顔して黄色い歯を見せて笑った。
「ほんなぁ、ありがたく貰っちょうわ。そげだ、くらんなぁ前にパープルとゆうぶんこくと病院ほだ見とくだわ」
「ありがとうございます。早速確認しに行きます」
にこやかに礼を言って自治会長を見送る。彼がこの場を離れるのを合図にして荷物を運んできた引越し業者も作業の終わりを告げた。書類にサインをして業者のトラックも見送ると、崇文は笑顔のまま首を傾げる。
「はて、病院はともかく、パープルとはなんだ? ゆうぶんこくは郵便局でいいんだよな?」
ひとまず助言に従って町へ出ることにした。まだ昼を過ぎたばかりの時間だが夕食の心配を本気でしなければならない。崇文は引越しのトラックと町会長の軽トラを追って自分で自動車を運転してここまで来たが、コンビニエンスストアは一軒も見なかった。家の周りは畑と里山に囲まれていて農道を逸れると道路は無舗装だ。コンビニが見当たらなくても驚かないほどの田舎だ。
◇ ◇ ◇
桜三月。大学院を卒業して就職を機に引っ越してきたわけだが、会社が借り上げた社宅と言う名の一軒家は彼の予想を超えた古さだった。持ち主が去って数年空き家だったのを、町が都会からの移住者のために手入れしたものだ。リフォームはご自由にということだから、最低限のことしかしていないようだ。
庭は広い。さっきまで引越しのトラックと町会長の軽トラも駐車してあったが、まだ余裕がある。風に吹かれて散る桜が美しい。だがこれからひとりで住むことを考えると、庭の掃除は手間がかかりそうだ。
近隣の住宅はここから見える範囲では一軒しかない。畑と石垣と植栽の向こうにひっそりと佇んでいる。あちらの家の庭にも見事な桜の木が植わっていて、薄紅色に染まっていた。
それにしてもひとけがない。
崇文はしっかり戸締りをして自動車に乗り込んだ。側道から農道に出て、道なりに町の中心部へ向かう。山沿いの河川と田んぼ、少しずつ増えていく民家を通りすぎて二十分ほど走らせる。町の端まで辿り着くと、ようやく最初の信号が見えた。黄色の点滅信号なんて実物を見るのは初めてだ。横断歩道は当然押しボタン式である。それからさらに十五分ほど走って小さなガソリンスタンドを過ぎると、道の左側に赤い郵便局のマークが見えた。
口座を作っておかねば初任給が振り込まれない。銀行の口座なら持っているが、隣の町まで行かなければ金融機関そのものがない。しかも銀行ではなく地元の信用金庫なので、東京にある本社の経理に嫌がられた。これから先の転勤を考えても郵便局で口座を作っておくほうが賢い。なにしろ日本全国にある。
面倒ごとは先に済ませてしまおうと思ったが、あいにく印鑑を自宅に置いてきてしまった。諦めて病院を探す。崇文は幼いころから風邪ひとつひいたことがない。病院の世話になる予定は一切ないが、場所だけは確認しておくべきだと考えている。
病院はかなり大きかった。すぐそばにある駅は無人の小さな駅舎がポツンとあるだけなのだが、病院は鉄筋四階建てで三棟あり、一番手前の建物の玄関には、『南原総合病院』と掲げてあった。案内板に従って病院の裏手にある駐車場に自動車を停める。ほとんどの人が自家用車で移動しているのだろう。駐車場はとても広かった。
駐車場から正面玄関まで、結構な距離がある。体調を崩したときに歩くのは辛そうだ。もっとも崇文が患う体調不良は二日酔いが主だ。運転が許される状態ではないし、治療に来ることはないだろう。味噌汁を飲んで寝ていれば治る。
ぐるりと外周を回って様子を見たら次はスーパーだ。自治会長が言っていた謎の『パープル』はスーパーだと予想して、自動車を走らせながら探す。しかしそれらしい建物は見つからなかった。バイパス道路が新しく建設されたせいでカーナビが役に立たない。
誰かに聞くのが一番早そうだが人に出会わない。どうしたものかと思ったちょうどその時、崇文の視線の先にある自動ドアが開いて、水色のポリバケツを台車で運んでいる若い男が出てきた。男は清潔な白いエプロンをして不織布の帽子で頭髪を隠し、マスクをつけていた。足元は白い長靴だ。格好から察するに病院の調理師なのだろう。
「すみません」
崇文はなるべく朗らかに見えるよう、笑みを浮かべながら声をかけた。ニョキニョキと背が伸びた高校生ごろから、級友たちに『デカくて威圧感が半端ない』と言われまくったため、努めて穏やかに微笑むようにしている。
「はい」
呼び止められた青年……いや、少年か。傍に寄るととても小さい。随分と若そうだから、アルバイトなのかもしれない。
「お仕事中すみません。越してきたばかりなのでスーパーを探しています。町の皆さんは、食品や生活必需品を、どこで購入されているんですか?」
「え、この辺ねすか? どこもなんも、パープルしかないねすわ」
またパープルだ。
「すみません。その、パープルとは?」
「ショッピングセンター・パープルタウンっていうんです。郵便局の斜向かいになかったねすか? けっこう大きな建物なんねすけど」
青年がなんとなく申し訳なさそうにしながら言った。崇文は自動車で流し見して来た道を思い出すように、視線を宙に泳がせた。
「そう言えば、錆びた看板があったな」
「それねす、それねす」
「あぁ、あれがショッピングセンター……?」
「看板落ちかかっとって、壁のペンキも剥げとうけど、食品と日用消耗品とギフトと衣料品が入っとうけん、毎日の買い物はなんとかなぁますわ」
お洒落な服はネットショッピングか、休日に県庁所在地まで自家用車で出かけるらしい。
「ほんなぁ、仕事にもどぅますけん」
「そうでした。呼び止めてしまって申し訳ない。助かりました。ありがとう」
礼を言って別れるとすぐに自動車に乗り込んで、ショッピングセンター・パープルタウンに向かう。三分ほどで目的地の駐車場に着く。なるほど、道路側から見えるのは店の裏側だったようだ。駐車場から見える正面玄関はちゃんと商業施設だった。正面玄関の前に謎のスウェットや割烹着がハンガーラックで陳列されている。
「なかなか味があるな」
大学進学のために東京から地方に引っ越してきて六年。大学院を卒業するまで住んでいた県庁所在地は田舎の都会だった。しかしこの町は田舎の田舎だ。ショッピングセンターの佇まいに妙な感動を覚えて、崇文は思わず呟いた。
店内はそれなりに広かった。入り口すぐに小さな飲食コーナーがあって、飲料とホットスナックの年季が入った自動販売機が設置してある。向かって左側のエリアは衣料品や雑貨のコーナーで、奥に『ギフト』と記された案内板があった。ギフトショップがなんなのかと思えば、品揃えは中元歳暮進物、線香に熨斗袋。なるほどギフトだ。
気を取り直して食品のコーナーに向かう。こちらは崇文が想像するところのスーパーマーケットだった。知らないメーカーの品も多いが、値段は少々お高めだ。競合相手がいないから値下げをしなくても売れるのだろう。ありがたいことに小分けされた惣菜は充実している。おそらく独居老人が多いためだ。
カゴを持って店内をぶらつく。調味料は今朝まで住んでいた家から持ってきたし、米も同様だ。今日は面倒だから惣菜で済ませよう。そう思ってパックをいくつかカゴに突っ込んでいると、世間話をしながらやってきたふたり連れの女性が、崇文の傍らで立ち止まった。
「あらぁ、井出の若い人かね?」
「ちがぁわね。井出のわけしより、男前だわね」
「そげなか。ほんなら、あんた、どこの人だ?」
崇文は突然話を振られて、目を白黒させる。大学があった県庁所在地の周りは、県外から進学してきた若者が標準語で会話していたし、地元の人々も訛りはあるものの、聞き取れないほどではなかった。世代の違いもあるのかもしれない。よくわからないが、見知らぬ男に対する好奇心を向けられているようだ。
「あらぁ、そげな惣菜ばっかで、栄養がかたようよ。嫁ごさんはなぬしとらいかね。ちゃんとご飯を準備してもらわんといけんよ」
ときどきわかる言葉があるが、後半はほとんどわからない。崇文は困って曖昧に微笑んだ。
「あらあらあら、まぁ。美男子見ちょうとこっつも美人になぁ気がすぅわ」
おばさん、否、お姉さんたちはふたりで盛り上がった。自分から意識が逸れたのを感じて、崇文は静かに一歩後退る。だが、その気配を察したのか、ふたりがグルンとこちらを向いた。
「そぅで、あんた、どこんしだ?」
圧がすごい。そして、相変わらず何を言っているのかわからない。母音が曖昧で『し』と『す』がごちゃ混ぜなくらいなら辛うじて聞き取れるが、単語そのものが標準語とかけ離れているのかもしれない。就職試験の面接よりも進退極まる心持ちでゴクリと唾を飲み込んだところで、背後から思わぬ救世主が現れた。
「坂中のおばさん、はやこと帰らんとまたおっつぁんが昼間から一杯始めらいよ。田の中のおばあちゃん、あっちのベンチでおじいちゃんが船こいどらいたよ」
若い男性の声。振り向くとカットソーのフーディにデニムパンツの青年が、買い物カゴを持って立っていた。スーパーマーケットの店内だから、カゴを持っていてもおかしくない。
「あだん、たもっちゃん。しぇな時間かいね」
「いけないわ、お父さんのこと、忘れちょった」
「ほんなぁ、またね」
「じぁね」
嵐のように去っていくお姉さんふたりをポカンと見送る崇文に、青年がクスクス笑いながら話しかけてきた。
「さっきぶりねすね」
「え? ああ、病院の」
ついさっき病院の裏手でスーパーの場所を訪ねた少年だった。マスクを外した顔は想像より大人っぽかったが、それでも二十歳そこそこだろう。認識を少年から青年に修正する。
「不躾ですけぃど、もしかして松澤さん?」
「なんで知っているんですか?」
おとなしげだが人好きのする笑みで、青年は言葉を続けた。
「となりの上代です。古畑のばあちゃん家、マツザワが社宅に借り上げたって聞いとぉます。松澤さんのことも、自治会長に聞ぃとぉました」
「古畑? 持ち主は原田さんって聞いてます」
「古畑は屋号です。この辺、同じ苗字ばっかだけん、屋号じゃないと訳がわからなくて」
「上代さん? の、お名前は?」
「僕の苗字が上代ねす。屋号は新屋敷。三十五年前に新築したときに付いた屋号だけん、あんな古家ねも新屋敷なんねす」
青年が上代保と名乗ったので、崇文も松澤崇文だと名乗った。
「さっきのおばちゃんたちも、新屋敷のたもっちゃんって呼んどうけん、松澤さんも下の名前ね呼んでごすだわ。ちなみにあそこのレジの人とさっきの田の中のおばあちゃんも、上代さんだけんね」
「はあ」
そう言えば、大学にも上代という苗字の学生がいた。珍しい名前だと思っていたが、一部地域に集中しているのだろう。崇文はぽかんとするよりなかったが四月に入って仕事を始めると、保の言うことが大袈裟でなかったことを知った。
トラックから下ろした引越し荷物が積み上がった縁側で、崇文は自治会長の暇の挨拶を聞いた。……暇のはずだ。言っている意味はわからないが、農協のマークの入ったキャップを被ったおじさんは腰をトントン叩きながら崇文の新居から去っていくので、間違いない。
「あの、会長さん。待ってください。これ、持っていってください。お世話になりました」
崇文は慌てて一番上に積んでおいた段ボールからガムテープを剥がすと、あらかじめ用意してあった東京銘菓を引っ張り出して自治会長に渡した。田舎の町で新参者が礼儀を欠いてはろくなことにならない。
「うやぁ、けなこつすてもらぁても、こまぁだわ」
「……いえ、ご挨拶とお礼を兼ねていますので、ぜひお持ちください」
どことなく余所者を警戒する雰囲気を出していた壮年の男は、途端に破顔して黄色い歯を見せて笑った。
「ほんなぁ、ありがたく貰っちょうわ。そげだ、くらんなぁ前にパープルとゆうぶんこくと病院ほだ見とくだわ」
「ありがとうございます。早速確認しに行きます」
にこやかに礼を言って自治会長を見送る。彼がこの場を離れるのを合図にして荷物を運んできた引越し業者も作業の終わりを告げた。書類にサインをして業者のトラックも見送ると、崇文は笑顔のまま首を傾げる。
「はて、病院はともかく、パープルとはなんだ? ゆうぶんこくは郵便局でいいんだよな?」
ひとまず助言に従って町へ出ることにした。まだ昼を過ぎたばかりの時間だが夕食の心配を本気でしなければならない。崇文は引越しのトラックと町会長の軽トラを追って自分で自動車を運転してここまで来たが、コンビニエンスストアは一軒も見なかった。家の周りは畑と里山に囲まれていて農道を逸れると道路は無舗装だ。コンビニが見当たらなくても驚かないほどの田舎だ。
◇ ◇ ◇
桜三月。大学院を卒業して就職を機に引っ越してきたわけだが、会社が借り上げた社宅と言う名の一軒家は彼の予想を超えた古さだった。持ち主が去って数年空き家だったのを、町が都会からの移住者のために手入れしたものだ。リフォームはご自由にということだから、最低限のことしかしていないようだ。
庭は広い。さっきまで引越しのトラックと町会長の軽トラも駐車してあったが、まだ余裕がある。風に吹かれて散る桜が美しい。だがこれからひとりで住むことを考えると、庭の掃除は手間がかかりそうだ。
近隣の住宅はここから見える範囲では一軒しかない。畑と石垣と植栽の向こうにひっそりと佇んでいる。あちらの家の庭にも見事な桜の木が植わっていて、薄紅色に染まっていた。
それにしてもひとけがない。
崇文はしっかり戸締りをして自動車に乗り込んだ。側道から農道に出て、道なりに町の中心部へ向かう。山沿いの河川と田んぼ、少しずつ増えていく民家を通りすぎて二十分ほど走らせる。町の端まで辿り着くと、ようやく最初の信号が見えた。黄色の点滅信号なんて実物を見るのは初めてだ。横断歩道は当然押しボタン式である。それからさらに十五分ほど走って小さなガソリンスタンドを過ぎると、道の左側に赤い郵便局のマークが見えた。
口座を作っておかねば初任給が振り込まれない。銀行の口座なら持っているが、隣の町まで行かなければ金融機関そのものがない。しかも銀行ではなく地元の信用金庫なので、東京にある本社の経理に嫌がられた。これから先の転勤を考えても郵便局で口座を作っておくほうが賢い。なにしろ日本全国にある。
面倒ごとは先に済ませてしまおうと思ったが、あいにく印鑑を自宅に置いてきてしまった。諦めて病院を探す。崇文は幼いころから風邪ひとつひいたことがない。病院の世話になる予定は一切ないが、場所だけは確認しておくべきだと考えている。
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駐車場から正面玄関まで、結構な距離がある。体調を崩したときに歩くのは辛そうだ。もっとも崇文が患う体調不良は二日酔いが主だ。運転が許される状態ではないし、治療に来ることはないだろう。味噌汁を飲んで寝ていれば治る。
ぐるりと外周を回って様子を見たら次はスーパーだ。自治会長が言っていた謎の『パープル』はスーパーだと予想して、自動車を走らせながら探す。しかしそれらしい建物は見つからなかった。バイパス道路が新しく建設されたせいでカーナビが役に立たない。
誰かに聞くのが一番早そうだが人に出会わない。どうしたものかと思ったちょうどその時、崇文の視線の先にある自動ドアが開いて、水色のポリバケツを台車で運んでいる若い男が出てきた。男は清潔な白いエプロンをして不織布の帽子で頭髪を隠し、マスクをつけていた。足元は白い長靴だ。格好から察するに病院の調理師なのだろう。
「すみません」
崇文はなるべく朗らかに見えるよう、笑みを浮かべながら声をかけた。ニョキニョキと背が伸びた高校生ごろから、級友たちに『デカくて威圧感が半端ない』と言われまくったため、努めて穏やかに微笑むようにしている。
「はい」
呼び止められた青年……いや、少年か。傍に寄るととても小さい。随分と若そうだから、アルバイトなのかもしれない。
「お仕事中すみません。越してきたばかりなのでスーパーを探しています。町の皆さんは、食品や生活必需品を、どこで購入されているんですか?」
「え、この辺ねすか? どこもなんも、パープルしかないねすわ」
またパープルだ。
「すみません。その、パープルとは?」
「ショッピングセンター・パープルタウンっていうんです。郵便局の斜向かいになかったねすか? けっこう大きな建物なんねすけど」
青年がなんとなく申し訳なさそうにしながら言った。崇文は自動車で流し見して来た道を思い出すように、視線を宙に泳がせた。
「そう言えば、錆びた看板があったな」
「それねす、それねす」
「あぁ、あれがショッピングセンター……?」
「看板落ちかかっとって、壁のペンキも剥げとうけど、食品と日用消耗品とギフトと衣料品が入っとうけん、毎日の買い物はなんとかなぁますわ」
お洒落な服はネットショッピングか、休日に県庁所在地まで自家用車で出かけるらしい。
「ほんなぁ、仕事にもどぅますけん」
「そうでした。呼び止めてしまって申し訳ない。助かりました。ありがとう」
礼を言って別れるとすぐに自動車に乗り込んで、ショッピングセンター・パープルタウンに向かう。三分ほどで目的地の駐車場に着く。なるほど、道路側から見えるのは店の裏側だったようだ。駐車場から見える正面玄関はちゃんと商業施設だった。正面玄関の前に謎のスウェットや割烹着がハンガーラックで陳列されている。
「なかなか味があるな」
大学進学のために東京から地方に引っ越してきて六年。大学院を卒業するまで住んでいた県庁所在地は田舎の都会だった。しかしこの町は田舎の田舎だ。ショッピングセンターの佇まいに妙な感動を覚えて、崇文は思わず呟いた。
店内はそれなりに広かった。入り口すぐに小さな飲食コーナーがあって、飲料とホットスナックの年季が入った自動販売機が設置してある。向かって左側のエリアは衣料品や雑貨のコーナーで、奥に『ギフト』と記された案内板があった。ギフトショップがなんなのかと思えば、品揃えは中元歳暮進物、線香に熨斗袋。なるほどギフトだ。
気を取り直して食品のコーナーに向かう。こちらは崇文が想像するところのスーパーマーケットだった。知らないメーカーの品も多いが、値段は少々お高めだ。競合相手がいないから値下げをしなくても売れるのだろう。ありがたいことに小分けされた惣菜は充実している。おそらく独居老人が多いためだ。
カゴを持って店内をぶらつく。調味料は今朝まで住んでいた家から持ってきたし、米も同様だ。今日は面倒だから惣菜で済ませよう。そう思ってパックをいくつかカゴに突っ込んでいると、世間話をしながらやってきたふたり連れの女性が、崇文の傍らで立ち止まった。
「あらぁ、井出の若い人かね?」
「ちがぁわね。井出のわけしより、男前だわね」
「そげなか。ほんなら、あんた、どこの人だ?」
崇文は突然話を振られて、目を白黒させる。大学があった県庁所在地の周りは、県外から進学してきた若者が標準語で会話していたし、地元の人々も訛りはあるものの、聞き取れないほどではなかった。世代の違いもあるのかもしれない。よくわからないが、見知らぬ男に対する好奇心を向けられているようだ。
「あらぁ、そげな惣菜ばっかで、栄養がかたようよ。嫁ごさんはなぬしとらいかね。ちゃんとご飯を準備してもらわんといけんよ」
ときどきわかる言葉があるが、後半はほとんどわからない。崇文は困って曖昧に微笑んだ。
「あらあらあら、まぁ。美男子見ちょうとこっつも美人になぁ気がすぅわ」
おばさん、否、お姉さんたちはふたりで盛り上がった。自分から意識が逸れたのを感じて、崇文は静かに一歩後退る。だが、その気配を察したのか、ふたりがグルンとこちらを向いた。
「そぅで、あんた、どこんしだ?」
圧がすごい。そして、相変わらず何を言っているのかわからない。母音が曖昧で『し』と『す』がごちゃ混ぜなくらいなら辛うじて聞き取れるが、単語そのものが標準語とかけ離れているのかもしれない。就職試験の面接よりも進退極まる心持ちでゴクリと唾を飲み込んだところで、背後から思わぬ救世主が現れた。
「坂中のおばさん、はやこと帰らんとまたおっつぁんが昼間から一杯始めらいよ。田の中のおばあちゃん、あっちのベンチでおじいちゃんが船こいどらいたよ」
若い男性の声。振り向くとカットソーのフーディにデニムパンツの青年が、買い物カゴを持って立っていた。スーパーマーケットの店内だから、カゴを持っていてもおかしくない。
「あだん、たもっちゃん。しぇな時間かいね」
「いけないわ、お父さんのこと、忘れちょった」
「ほんなぁ、またね」
「じぁね」
嵐のように去っていくお姉さんふたりをポカンと見送る崇文に、青年がクスクス笑いながら話しかけてきた。
「さっきぶりねすね」
「え? ああ、病院の」
ついさっき病院の裏手でスーパーの場所を訪ねた少年だった。マスクを外した顔は想像より大人っぽかったが、それでも二十歳そこそこだろう。認識を少年から青年に修正する。
「不躾ですけぃど、もしかして松澤さん?」
「なんで知っているんですか?」
おとなしげだが人好きのする笑みで、青年は言葉を続けた。
「となりの上代です。古畑のばあちゃん家、マツザワが社宅に借り上げたって聞いとぉます。松澤さんのことも、自治会長に聞ぃとぉました」
「古畑? 持ち主は原田さんって聞いてます」
「古畑は屋号です。この辺、同じ苗字ばっかだけん、屋号じゃないと訳がわからなくて」
「上代さん? の、お名前は?」
「僕の苗字が上代ねす。屋号は新屋敷。三十五年前に新築したときに付いた屋号だけん、あんな古家ねも新屋敷なんねす」
青年が上代保と名乗ったので、崇文も松澤崇文だと名乗った。
「さっきのおばちゃんたちも、新屋敷のたもっちゃんって呼んどうけん、松澤さんも下の名前ね呼んでごすだわ。ちなみにあそこのレジの人とさっきの田の中のおばあちゃんも、上代さんだけんね」
「はあ」
そう言えば、大学にも上代という苗字の学生がいた。珍しい名前だと思っていたが、一部地域に集中しているのだろう。崇文はぽかんとするよりなかったが四月に入って仕事を始めると、保の言うことが大袈裟でなかったことを知った。
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