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私の名を呼ぶ見えないもの ヒロイン視点
しおりを挟む梁にあったはずの草鞋が無くなっている。
一瞬で血の気が引いた。
どこかへ落ちてしまったのではないかと必死に辺りや物の裏側まで探したが無い。
他の物も動かされた跡はあるが、中のものが無くなってはいなかった。
草鞋だけが無くなっている。
あれはこの家にとって何よりも大切なもの。
ずっと「あれにだけは容易く触れるな」とおじいちゃんとおばあちゃんには言われていたのに。
先生と北林君が帰ってから三時間も経ってない。
他の調度品はちゃんとあるべき場所にある。
二人の帰りを見送ってから私はずっと家にいた。
誰かが入ってきて草鞋だけを盗むのは考えにくい。
慌てて二人に電話したけれど、通じたのは先生だけで北林君には通じない。
メッセージに連絡を入れてひたすら返信を待った。
心を落ち着けて、一階の他の物もなくなっていないか確認している時だった。
ガンガンと玄関の方から戸を叩く音がする。
知り合いや宅配の人なら、いつも呼び鈴を鳴らすのに。
外は強い雨が降っていて、日も暮れて暗い。
いったい誰だろう。
返事をするのをためらっていると扉越しに「ここを開けてくれ」と声がした。
この声は北林君の声だ。
着信に気がついて来てくれたのだろうか。
「北林君?今開けるから待ってて」
玄関を開ければ、傘も持たずに雨に濡れた彼が立っていた。
髪も服も、水気を含んで滴るほどに濡れているのに、なぜかにこにこと笑っている。
「えっ!なんで、そんな濡れて…!と、取り敢えずはやく中に入って。今タオル持って来るから」
慌てる私に反して、彼はただにこにこと笑って頷いた。
居間に彼を通して脱衣所からタオルを持って来て、黙って座っている彼に渡す。
「これ、使って?」
春を迎えたとはいえまだ朝晩は冷える。
それに今日は雨も降っている。
あたたかなお茶を淹れて、北林君に差し出した。
彼はバスタオルを受け取った時と同じように何もも言わずにいる。
こんな彼を見るのは初めてだ。
数時間前に会っていたのに、今の彼は何か違う気がする。
彼は何も言わずにタオルを受け取るとばさりと頭にかぶった。
ただ、雨の音が居間に響く。
私は思い悩んでいた。
同じ研究室の友人を疑いたくはない。
けれど、もしあの草鞋を取れるとしたら彼しか考えられない。
「北林君、覚えてたらで良いんだけど…二階の梁にあった草鞋のことで何か知っていることはないかな?…実は草鞋が梁からなくなっててね…」
あぁ、もっと他に言い方はないのだろうかと自分でも思う。
でも、これが精一杯だ。
もし、万が一彼が取ってしまっていたのだとしたら、返してもらえばそれで良い。
それに、彼ではなく本当に泥棒が入って盗られたのならすぐに警察に通報しなければならない。
「そんなに大事なものなのか?」
ずっと無言だった彼が一言そう言った。
「えっ?」
思いもしなかった問いに、反応できなかった。
「そんなに大事なものなのか、と聞いた」
再度確かめるように、北林君が問うた。
「だ、大事だよ。ずっとこの家にあって代々外さずにいたものだから」
「それが、この家の神を縛りつけている呪(のろい)のものだとしても?」
彼は問い続ける。
かぶっているタオルのせいで顔は見えないが、声色が変わった。
明るい彼から発せられるものとは思えないぐらい、無感情な声。
「…北林君どうしたの?なんだか今日変だよ。傘もささずに雨のなか家に来て」
「びっくりしたよ」と言う前に、彼の声に遮られ、「答えろ」とぴしゃりと言われる。
静かな怒りを含んだその声は、私を責めているように聞こえた。
「なんで、呪いだなんて言うの?神様を縛り付ける?そんなことしてるつもりなんてない。ずっと今まで大事にしてきたし神棚だって掃除してる」
神様は私なりにちゃんとお祀りしているつもりだ。
おじいちゃんとおばあちゃんに子供の時からずっと言われていたこと。
自分の中で大事にしてきた家族との約束。
それを否定された気になって、心がざわついた。
彼の言葉に苛立ちを覚え、つい語気が強くなる。
そんなこと言う人ではないはずなのに。
「ねぇ、北林君。もし草鞋を間違って持って帰ってしまったなら、お願いだから返してくれないかな?大事なものなの」
祈るような気持ちで彼に言えば、無言で彼のリュックのジッパーをあけた。
そして、そこ中から梁につけていた草鞋を取り出した。
草鞋があったことへの安堵感と、彼が泥棒まがいなことをしてしまったことへの悲しさが混じり会う。
彼は無言で私の方へ草鞋を差し出した。
よかった、返してもらえる。
そう思って手を伸ばした瞬間だった。
彼の空いてる方の手ががしりと私の手を掴んできた。
そのままの勢いで体が彼の方に引かれる。
「いっ…た!」
咄嗟にテーブルに手をついて、かろうじて倒れないような体勢になる。
「やっと、お前に触れることができる」
腕を掴んだまま彼はそう言った。
「ちょっ…北林君…!はなして…っ!」
痛みから逃げようと体を捻るが、彼は手をはなそうとしない。
テーブル越しなのに、ぎりぎりと力を込めてくる彼のその圧倒的な力に恐怖を感じてしまう。
「わたしを不躾なこの男と一緒にしてくれるな」
「わたしをその忌々しい男の名前で呼ぶな」と手を掴んだまま彼は言う。
明らかに様子がおかしい。
目が鋭くこちらを刺すように見てくる。
「な、何を言ってるの…?」
「あの男のお陰だとは思いたくもないが、こうして自由の身になり肉体まで手に入れることができた」
広角を吊り上げたように笑う彼の表情は見たこともないもので、声も出せず呆然とそれを見る。
「こうしてお前に触れることがようやく叶う」
掴んでいる手はそのままに、愛でるように私の手を撫でる。
ぞわりと寒気が全身に走っていく。
「毎日膳を供えてくれていただろう?わたしに「いってきます」と声を掛けてくれていたではないか」
にこりと笑う北林君に明らかな違和感を覚えた。
言葉遣いも、態度もいつもと全く違う。
それこそ、別人と言っても過言ではない。
しかも、彼が言っていた神様にしていることは誰にも言っていないから北林君が知るはずなどない。
なのに、なぜ彼それを知っているの…
理解できない状況に、ただひたすら身体が震える。
「この男は草鞋を盗んだ。お前にとって、この家にとって害となったのだ。当然の報いをしたまで」
北林君自身が、自分のことを「この男」と言う。
草鞋を取ったことを誤魔化すために、別人になりすましてやり過ごそうとしているようには到底見えない。
「な…なんのこと…?ねぇ、何を言っているかさっぱり分からないよ…取ったことはもういいから、こんなお芝居やめよう?」
理解できない。
いや、理解したくない。
彼の言葉が本当なら今ここにいる北林君は誰なのか、なぜ家のことを知っているのか分かってしまう。
「芝居などではない。食指はすすまなかったが、この身体を手に入れるためなら致し方あるまい」
「そんな…!ねぇ、嘘でしょう…?」
嘘だと言って。
誤魔化すためにしたことだと、お願いだから言ってほしい。
「わたしはお前に嘘をついたことなど一度たりともない。今日までずっとここでお前の傍にいたのだから」
分かってしまった。
確信してしまった。
この人は、神様なのだと。
神様はこの家にとって大事なもの。
それはこの家を害あるものからまもってくれるからだ。
確かに、家のものを盗んでしまった北林君は、神様にとっては悪いものなのかもしれない。
だから、彼に罰を与えるために姿を現し、ここに来たのかもしれない。
だけど、彼にこんなひどいことをするには度が過ぎている。
きっと彼は後でちゃんと草鞋を返してくれたはずだ。
「やめてください…」
こぼれた私の声は、雨音に溶ける。
静かに、横に振られる首。
「彼は悪人ではないはずです。こんなこと今すぐやめてください…!」
慌てて居ずまいを正し、畳に頭をつける。
「ご、ご無礼があったなら私も謝ります…お祀りが足りなかったのであれば、今後はおっしゃる通りにします…だからこれ以上は、や、めてください…っ!彼を、助けて下さい!」
怖くて怖くて声が震える。
歯の根があわず、言葉になっているかも分からない。
けれど、言わなければ。
北林君を、助けなければ。
けれど、返ってきたのは「この男を庇うのか?」という冷たい声だった。
「膳?酒?そんなものはもう不要だ。わたしにはこの身体がある。これからはお前と共にこの家で暮らそう」
「そんな…っ!北林君は…?」
「お前にとって、必要なのはわたしだけだ。人間なぞ、不要だ」
「その名を口にするなと言っているだろう」と地を這うような低い声が、身体の持ち主である北林君から発せられる。
聞いたこともないその声、徐々に北林くんの面影すらなくなってきていることを嫌でも感じてしまう。
目の前の男は、私の過去を語る。
父さんとお母さんの事故のことも、私がおばあちゃんに泣き縋ったこともその場にいた人しか分からない。
そして今や私しか覚えていないことなのに、それを見ていたかのように語る。
すまない、と詫びる目の前の男は、その後に宣う。
「だが、それもすべて今日からは私がすべて引き受けよう。そのために私はこうして此処にいる」
もはや目の色さえ変わってしまった男が、こちらに手を伸ばしてくる。
その眼にうつる自分を見て思う。
嫌だよ、嘘だと言って…
彼をかえしてよ。
「幾星霜経て人間であるお前とこうして言葉を交わし、触れることが叶った」
至極嬉しそうに私を見て笑う男は、本当に神様なの?
『神様は大事にしなさい』
おばあちゃんの声がする。
『神様はいつでも見守っているから』
おじいちゃんの声がする。
巡る記憶の中で笑うふたり。
ねぇ、教えて。
ふたりの言いつけ通り、大事にしてきたつもりだったよ。
感じたことはなかったけど、神様はいるんだと信じてきた。
でもこれがその報いなの?
私のせいで、なんの関係もない人の命まで奪ってしまうことになるなんて…
こんな未来になるならば、私もお父さんとお母さんと一緒にあの事故で死んでしまえばよかったと思った。
「これからは私がお前を護ろう。お前が息を引き取るその瞬間まで私が見守ると誓おう」
護られなくていい。
助からなくていい。
悔しくて、悲しくて、怖くて涙が溢れる。
ぼやける視界の中で男の顔ははっきり見えない。
頬につたう涙を、微かに震えた男の手が拭った。
「お前を愛しているのだ――――」
静かに私の名前が呼ばれる。
家族だけが呼ぶ私の名。
それを聞くのはひどく久しぶりのような気がした。
その手は雨に濡れていたせいか、それとも他の理由かわからないけれど雪のように白い。
そして告げる言葉は優しいのに、手はひどく冷たく、血の通った人のものとは思えなかった。
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