その声は誰の名を呼ぶか

しみずりつ

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ようやく、ようやく願いが叶う

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「素晴らしいな、このはりは…」

ごくりと生唾を飲んで「先生」と彼女から呼ばれた老いた男は梁を見上げた。
皺だらけの顔が微かに興奮で震えているのが分かる。


彼女が家を空けた時間は恒久とも感じられた。

痛哭するわたしの声を誰が聞くこともなく、数日後やっと帰って来た彼女を抱き締めることも叶わない。

気が触れるかと思うほどの苦痛が終わり、また二人だけの穏やかな日々が戻ってくると思った。


しかしその後、二度と来るなと吐き捨てたはずの男と共に先生と呼ばれる老人が突然この家にやってきた。


この年寄りは彼女が通う大学という場所の人間らしく、この家を見せてほしいと今日来たのだった。


「次から次へと…はやく立ち去れ」


悪態をついて言う。

どうせ奴らには聞こえないのだ、小言のひとつ言っても良いだろう。


この家はわたしと彼女の家だ。
他の者が立ち入るのは不愉快極まりない。


悪いものや害を及ぼすものであれば、寄せ付けることなく祓えるし、人間相手でも始末できるのに家主である彼女に招かれた以上奴らは客だ。

どうすることもできないのだからたちが悪い。


「おや、あれは草鞋かね…?」


「はい、願掛けの草鞋だそうです」


「ほぉ、とても珍しいな。棟上げの時にすげ付けたのだろうな」


「はい、そう聞いてます」


「え!じゃあ百年以上前の物ってことか?」


蛙のように大きな声を出して、男は言う。
何も知らぬ小僧め。お前のような者は立ち入るに値しないことに気がつかず、猿のようにはしゃぐな。


「なぁ、この草鞋ゼミ室に持って行ってもいいか?作られた時代とか、当時の素材についての研究に使えそうなんだけど」


「あ…それはごめん。やめてほしい。ずっとこの家のものとしてあった大事なもので家族からも触らないように言われてるから」


「頼むよ、そこをなんとか…!」


手を合わせ、まるで神頼みをするかの如く彼女に強請ねだる。


「やめなさい。こういうのは家に住む人にとっては大黒柱より大事なものだ。簡単に外すのは良くない」


ぴしゃりとたしなめるように、年老いた男は言った。


「申し訳ありません、先生」


すまなそうに、彼女が頭を下げる。


「いやいや、こうして珍しいものを見せてもらえるだけで十分ありがたい話だよ。もし、差し障りなければここも写真に撮らせてもらっても良いかね?」


「それはもちろん大丈夫です」


老いた男は白い光を放つものを手に持ち、部屋の中を隅々までゆっくりと歩いた。
その後、満足したようにため息を吐くと彼女に礼を言う。


「ありがとう。今日はとても良い体験ができた」

「お役に立てて何よりです。先生、お茶とお菓子があるのでどうぞ居間へ」


「せっかくだから頂こう。記録の整理もすこしさせてもらっても良いかな?」


「はい、もちろんです」


下に戻ろうとするふたりに、先程から黙っていた男が声をかけた。


「ごめん、俺も少し柱や梁の写真撮らせてもらってもいいかな?この前撮るの忘れちゃってて…」


「そうだね、じゃあ先生と先に居間にいるね。北林君の分も準備してるから」


そう言って彼女が年寄りの肩を支えるように触った。

「先生、階段が急なのでゆっくり行きましょう」と声を掛けて階段を降りていく。


それを見送った後、北林と名を呼ばれていた男は瞬く間に眼の色を変えた。


辺りを見回すようにしている。
何かを探しているのか。

あたりに置いてある足場になりそうなものを持って来て、それに上がると迷うことなく梁に手を掛ける。


「何をするつもりだ!」


怒声を上げるが声は聞こえない。

伝播した声はまた辺りをざわつかせ、磨りガラスが音をたてるが男は気にもとめない。
まるで、欲に取り憑かれたかのように目は草鞋だけを見ている。
男の手がすげ付けてあった草鞋に触れた。


その瞬間、ぞくりと背中に寒気が走る。


草鞋を取るつもりか…!


図々しくも家に上がり込み、主の許可なく家守のものに触れるとは。
なんと不躾で罰当たりな。

一瞬で沸く怒り。

草鞋を取った瞬間、その台から落ちて脳天を叩きつければよい。
この家にとって害となるものには、容赦はしない。


わたしはこの家の、彼女の守り神だ。


殺すつもりで男に手を掛けようとした瞬間だった。



待て。



男に触れる瞬間、ぴたりとわたしは手を止める。


もし、願掛けを宿した草鞋をこの男が家から持ち出せば、どうなる?

物が本来あるべき場所から失せれば、私はこの忌々しい呪いから解放されるのではないか?

この家の守り神ではなく、彼女の守り神として傍にいられるのではないか?


男の首に手を掛ける寸前で、それを思い付いた。
あの子が草鞋を取らないのであれば、別の人間にそれを取らせれば良いのだ。



そうだ、その草鞋を取れ!



先ほどまでの怒りは何処かへ飛び、男が草鞋を取るまでを固唾を飲んで見ていた。

そろりと草鞋に手を掛けた男は、瞬く間にそれを取り自分の鞄に仕舞い込む。

このまま彼女に知られることなく、草鞋がこの家の敷地の外に出た瞬間、わたしは自由の身になれるはず。



この男、役に立つな。



全身から沸き上がる黒い感情。それを笑いで耐えながらわたしは男の後をついて行った。







それから数刻後、わたしは家から出ていく招かれざる客たちを見つめていた。

毎日出て行く彼女を追い掛け、家から出ようと試みたのは一度や二度ではない。
しかし、それをしようものなら頭が割れるほどの痛みと、必ず天と地が返るような強い眩暈がわたしを襲う。
立っていられず、一歩も動けないわたしを置いて行ってしまう彼女の背を幾度となく見てきた。

すべては、あの草鞋に施された願掛けという名の呪いのせい。

しかし、その呪いももう無い。

それを証拠に、わたしは家の敷地からいとも容易く出ることが叶った。
なにか起こるのではと思っていたが、なんともあっけない。

しかし、わたしはもう呪いに縛られることはない。

彼女の傍にいて、彼女を脅かす者から守ることができる。


「くっ、ははっはははははっ!」


腹の底から笑いが出てくる。


あぁ、ついに。ついにわたしは自由になったのだ。



「すぐ帰るから、待っていておくれ」


ひとり家にいる彼女を見つめる。


「いってきます」


彼女が家を出る時にいつも言う言葉。
初めてわたしはその言葉を口にした。


それでも、彼女にわたしの声は届かない。


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