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甘いケーキとブラックコーヒー あの子視点

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持ち込みをしている出版社から、目標としていた漫画家の先生のアシスタントを募集していると連絡をもらったのは、前回漫画原稿の持ち込みをしてから半月ほどたった時だった。

思いもしなかった声掛けに、「はい、ぜひお願いします!」と即答した。

経験も積めるし、第一線で活躍している先生からアドバイスももらえる。
こんな幸運にはそうそう巡り会うことはないのだから、逃すわけにはいかない。

そうと決まれば、行動は早かった。
先生の仕事場でもあるマンションに近いアパートに引っ越そうと考え、引っ越し業者の見積りと、不動産サイトで新しい部屋を探した。

その数日後に、先生のマンションの近くにある一番安いアパートの内見をして、今住んでいるアパートの家賃が、どれだけ大家さんの厚意を反映しているかを痛感した。
でも、意を決して私は引っ越しをすることにした。

内見の帰りにお店に寄って、大家さんにアシスタントが決まったことや、引っ越しのことを話した。
応援してくれる人に、真っ先に報告したいと思った。

「そっか、それはよかったね。おめでとう」

そう言って大家さんはにこやかに笑ってくれた。





「ごめんね、綾子ちゃん」

目が覚めると、目の前には大家さんがいた。

ごめんとはどう意味なのだろう。
なぜ大家さんが謝るのだろう。
意味が分からない。

鉛のように体が重く、口を開くこともできない。

目だけ動かせば、私のアパートにはない高そうな家具や家電が一式そろっているの分かった。

見たことも入ったこともない誰かの家なのかもしれない。

ぼんやりとして、頭に霞がかかったかのような感覚。
くらくらとして、何も考えることができない。

ここはどこなのか。
どうして、手と足が縛られているのか。

異常なはずの今の状況を、おかしいとすら考えられなかった。

めまいのようなものを感じて顔をしかめると、心配そうに「大丈夫?無理させちゃったね」と優しい声の後に肩に触れられる。

この声は間違いなく大家さんのはず。

それなのに、なぜか別人のような不気味さを感じる。

いつもの人好きのするような笑顔ではない。ひんやりと、でも痛いほどの熱を感じるような目をしている。
目をつむって横になりたいのに、ソファに座らされたまま肩を両手で抱かれ、顔を突き合わされる。

「あのバカ、量の加減しなかったな…」

私の顔をじっと見て底冷えするような声でぼそりと言った。
聞いたこともないその声に、一瞬だけ意識が戻される。
目を見開いた私に、「大丈夫だよ」とふっと笑って大家さんは言葉をつづける。

「君に使ったのはただ眠くなるお薬。即効性がある分少し強いけど、怪しいものじゃないから心配しないで」

ね?と子供をあやすように、私の頭を撫でる。

その言葉に思わず頷けば「かわいいなぁ、こどもみたい」と笑われた。

「ごめんね、綾子ちゃん」と再度謝られる。

「君のこと、離してあげられなくなっちゃった」

その手は滑るように頬に触れ、何度か私の頬を撫でる。

硬くてひんやりとしたそれが、顔の熱を奪っていく。
そして、名残惜しそうに離れたかと思うと、大家さんはカウンターテーブルの上から何かを持ってきた。

目の前に掲げられたのは、私がこの前出版社に持って行った、漫画の原稿を入れていた封筒だった。
持参した日付と自分のペンネームを書いてあるから間違いない。

「君から俺のところに来てくれるのを待っていたけど、羽ばたいてどっかに行っちゃいそうだったからさ」

それは、「先生に見てもらいましょう」と出版社の人が預かってくれているもの。


なんで、それを大家さんが持っているの…?


ドクドクと心臓が早鐘のように鳴る。
何がなんだかわからない。


けれど。



「綺麗でもったいないけど、その羽とっちゃおうと思って」

笑った大家さんの顔を見た瞬間。
私は叫んでいた。

「やめてっ!!」

私の悲鳴が合図だとでもいうように、彼はそれを一片の躊躇もなく破いた。

ビリビリと紙が破れる音が室内に響く。

私には、それが漫画の最期の叫びに聞こえた。

縛られていることも忘れてそれに飛びつくが、あっと言う間に封筒ごと原稿が破り捨てられる。
縛られて自由の利かない手足では支えきることができずに、床にべたりと倒れる。

「漫画なんて嫌いだよ」

冷え冷えとした、その言葉が上から降ってくる。

「俺から君を奪うものなんて、何1ついらない」

「そうだよね、綾子ちゃん」と言う彼の声は、楽しそうで。

なぜ、楽しそうに、嬉しそうに笑っているのか。

紙切れ一枚。端から見れば私の漫画はそうなのだろう。

価値は自分以外の誰かによって決められる。
それはどの業界でもそうだ。
売れる売れないが数字で評価される。
評価されなければ、私がどれだけ心血を注いでも他者からは一枚の原稿用紙でしかない。

けれど、大家さんは知っていたはずだ。
私が、漫画をどれだけ好きで、どれだけ大事にしていたか。
その原稿に、私の未来が掛かっていることも。

打ち捨てられた原稿は見るに堪えないものになってしまった。
呆然とそれを見る。

受け入れがたい現実に頭が追い付かないのに、涙だけがぼろぼろとこぼれた。

「そんなにその紙切れが大事?」

優しい口調で、私の命を否定するこの男は誰?

私の知っている大家さんは屈託なく笑い、どんな時でも私の夢を後押ししてくれる人だった。

「あなた、だれ…?」

うわごとのような言葉しか発せられない。
男はくすりと笑った後、床に倒れたまま原稿から離れようとしない私を抱きかかえ、最初にいたソファに再度横たえる。

床にばらまかれた原稿が、ぐしゃりと踏まれる音がした。

やめてと声を上げる間もなく、間近でじっと顔を覗き込まれる。

庄司しょうじ 尚隆なおたか。君の優しい優しい愛人、かな?」

美しく微笑む男は、私の頬にまた触る。ぞわりと背筋が粟立つ。

「本当は君の恋人になりたいんだけどねぇ」

困ったように笑い、試すような目で見てくる。

「彼氏ヅラして、ずーっと君のこと縛ってるモノがあるからさ、君がソレを忘れるまでは優しい愛人でいるよ」

床に散らばる私の夢をさらに踏みつけ、男は言った。

「俺から君を奪うものはみんな失くなってしまえば良い。全部壊す自信はあるよ。綾子ちゃんといるためなら、俺何でもできちゃうからさ」

物騒なことを、けらけらと笑いながら宣う。


「だからはやく、俺を君の恋人にして?」


何かをねだるように近づいて来た男は、べろりと私の頬につたう涙を舐めた後、笑う。
熱の籠った男の目が弓型に彫られたように歪んだ。

じっとりとねばりつくようなそれから逃れるように、俯いて視線を逸らす。

はだけたシャツから、男の胸元が見える。
そこには全身を覆うように鱗まで鮮明に彫られた大蛇が、しっかりと私を見据えていた。

「逃げても良いよ、どこへでも。でも、覚えておいてね。必ず俺は君を見つける。そしてまた俺のところへ連れて帰るから」

男の体がさらに近づいて、和彫りの大蛇との距離が縮まる。

首にかかる熱く湿ったものを感じて、恐怖に身動きが取れない。


あぁ、このまま蛇に喰われるのだ、とどこか冷えた頭でそう思った。

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