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虫継の町
二話 患者
しおりを挟むカラカラと前輪が空回りする。
長いだけの通路でラウラが配膳車を押している。時刻は十二時を過ぎた頃、昼食の時間だ。
コンコン……。
「どうぞー」
ドアをノックすると女の声が帰ってきた。病院に入る前には必ずノックするよう言われていた。
「こんにちわ」
「あらこんにちは。もうご飯の時間かしら」
201号室の患者は五十四歳のおばあさんだ。ベットから腰を起こして座っている。ラウラが入ると老眼鏡を外し、読んでいた雑誌を隅に寄せた。
「初めて見る人ねぇ、新しい人?」
「今日からここで働かせて貰っています、瀬野と言います」
おばさんは目を細めた。
「あらまぁ、綺麗な子ね。中虫壁さんたらいつのまに見つけてきたのかしら」
「……募集があったので」
何を聞かれてもそう答えるように言われていた。もっと良いいい訳を考えてくれてもよかったのにと思う。
おばさんは「そうなの」と二回繰り返しなにやら納得した様子だった。
目立つからと藍一郎はコンタクトを用意した。感染予防というもっともな理由でマスクもつけている。この町では新人と言うだけで注目を浴びる。それがオランダ人クォーターならなおさらだ。
あまり興味を持たれても困るだけだ。ラウラは出来るだけ素顔は晒さないようにしていた。
「今日のご飯は何かしら?」
「パンみたいですね」
「それは良かったわ」
おばさんは右手を布団から出した。包帯が巻かれ、不自由そうにしている。
「ほら、私の手こんなじゃない? 両手を使う食べ物だったらどうしようかと思ったわ。パンなら齧ればいいもの」
「確か骨折でしたね」
「そうよ。それも手首だから動かせなくてね。私たら電球を変えようと思って転んじゃって、こんなことなら旦那に任せればよかったわ」
「災難でしたね」
患者のカルテは藍一郎から見せて貰ったが、全く理解できなかったので美和子から簡単な説明を聞いていた。
このおばさんは近くに住んでいる常連で、普通の患者だそうだ。
入院は今日からで手術が必要だが、明後日には退院する予定だ。
新人が珍しいのかおばさんは見舞いの品を振る舞おうとしたり、身の上話を面白おかしく聞かせたりと終始上機嫌だった。
或いはただ暇だったのからすぐ次の病室に移ろうとしたラウラを何度も引き止めては長話に花を咲かせた。
意外なことにおばさんの口から虫神の名前は出なかった。近所付き合いや家族の事を楽しそうに話した。
暇な時間であればいくらでも話に付き合いたい所だが、あいにく今はタイムリミットがある。
「もう行きますね……食べにくかったり、何かあれば遠慮なく呼んでください」
「そうするわ。ありがとうね」
いよいよ病室から出ようとする頃には黒飴を三つ、近所の友達から貰ったという栗饅頭を二つ受け取っていた。
……長話をしてしまった。
配膳車の中の料理が冷める前に次の病室へ行かなければならなかった。
自分で料理が食べれる患者から先にという事で先輩看護師、美和子から回る病室の指示をもらっている。
現在の入院患者は三人。病室は六部屋、全て個室だ。
入院していた一週間はほとんど寝たきりだった為、ラウラは他の患者と面識がなかった。
新しくやってきた診療所のバイトがつい先日まで206号室で寝ていた娘だとは夢にも思わないだろう。
それはラウラにとっても同じだ。
「簡単な作業だけって言ってましたけど、患者にこんなことさせてこの病院大丈夫なんですかね」
203号室。ドアをノックするも返事はない。
ノックは反応を見るためだ。
患者にとって入られたく無いタイミングは必ずある。
それ以外の場合、例えば反応がない時は声を出せない状況も想定される。入る許可を待つ必要は無い。
「入ります」
ラウラは配膳車をその場に止め、病院のドアを開いた。
「あっ……あっあっ……あんっ」
「……」
熟れた女の嬌声。
病院に入ると203号室の患者、牛崎睦は足を大きく開いてベットの上に座っていた。
パジャマのボタンを全て外し大きな乳房を露にしている。ぷっくりとした乳首を爪で弾いて刺激する。
押し殺した声で囁くような声で喘ぎながら両手を機械のように忙しなく動かしている。
「……」
ラウラは開いたドアをそっと閉じた。
やってしまった。ラウラは一人頭を抱えた。
よりによってこんな時に入ってしまうなんて……。
ラウラは憂いを帯びた目線をその患者に向けた。
配膳の前に既にラウラは彼女と顔を合わせていた。小学生に上がったばかりの一人息子がいると言う彼女。
牛崎は目を瞑って俯き、行為に集中しているせいか、ラウラの存在には気付かない。佳境に入っている。
「あっ! ああっ! あああん!」
本人は静かにしているつもりだが徐々に抑えが効かなくなっているようだ。
激しい水音はまるで隠せてなく、静かな病室にいやらしく響く。
小刻みに吹き出す潮でシーツにはシミが出来上がっていた。
これ以上は見てられないとラウラは目線を外した。
いっそのこと出直そうかとも考えたが、行動に移すには遅すぎた。
「あっあっあっ、イクっイクっ……ああっ?!」
いよいよ限界だ。牛崎が顔を上げた。カッと目が見開かれた。
視界に写った看護師の姿を見て、表情が一瞬固まる。
「あっあーっあぁっイクゥー?!」
そして絶頂した牛崎の目には涙が浮かんでいた。
「だめぇ……見ないでぇ」
ぐったりと項垂れる牛崎。快楽の波が治るまで待ってからラウラは口を開いた。
「ごめんなさい。ノックはしたのですが……」
「これは……自分では抑えられなくて!」
押し寄せて来る羞恥に牛崎は顔を真っ赤にして言う。
「大丈夫です。ちゃんと分かってますから」
そう、ラウラは説明を受けている。彼女の症状は聞かされていた。
中虫壁診療所の患者は大きな括りで二種類に分けられる。
一つは風邪や骨折などの怪我を治療しにくる普通の患者。
もう一つはこの町、特有の患者。病院内では虫神案件と呼ばれている。
慶香町には虫神と呼ばれる巨大な虫が存在している。虫神は人との性行為を好む。
虫神との性交による傷害、後遺症はこの町では日常的に発生する。中には通常の医学の常識から外れた症状が出ることがある。
中虫壁診療所はそんな虫神案件の治療を専門としていた。
「シーツ変えますね」
「はい」
びっしょりと濡れたシーツを剥いでカゴに仕舞う。替えのシーツはあらかじめ部屋に用意されていた。
ベットから降りた牛崎はその間に着替えている。羞恥に耳まで真っ赤になっているが、健康そのそのに見える。
もっともラウラは医者ではない。見た目で体調が分かるわけではなく事前に聞いていた話からそう思っただけだった。
牛崎の症状は毒によってもたらされた自制できない性的興奮。病室に一人でいる限り、それは自慰という形で発現する。
「何度もすみません」
申し訳なさそうに牛崎が言う。シーツを取り替えたのはこれが初めてではない。
「仕方がないですよ。虫神のせいなんですから」
「いえ、私が不注意だったんです」
「少しの辛抱なんですから頑張りましょう」
自分でも意外に思うほどラウラは牛崎に親身になって接していた。
どこか似た境遇を感じていたのかもしれない。
だが、違うのは……。
「もう夫も子供もいるのに葦高法師様を迎え入れてしまうなんて、はしたない」
違うのは虫神への嫌悪感の有無だろう。牛崎は自らの意思で虫神を迎え入れた。その結果、日常生活に支障をきたす毒を受けた。慶香町ではよくある事だ。
「また来ますね」
牛崎は食事を受け取らなかった。直接見られたのはショックが大きいようで塞ぎ込んでしまっている。
ラウラは後でもう一度来ると言って病室を出た。
「頑張ってるじゃん」
203号室を出ると見知った声で呼び止められた。看護師の上村美和子だ。
入院している間、ラウラの看病をしてくれたのが彼女だ。
口は荒っぽいがラウラの事を気遣い出来るだけ一人にならないように立ち回っていた。
「どう? もう慣れた?」
「ぼちぼちです」
「意外と平気そうね。次もやれる?」
次とは三人目の患者が居る207号室の事だ。
「キツイと思ったら変わるよ」
「大丈夫です。……あの子も私に懐いてくれてますから」
「そっ。アタシは今暇だから何かあったら呼びなよ」
ポンと肩を叩いて美和子はナースステーションに戻って行った。
「キツイなんて言ったら可哀想ですよ」
ラウラは口の中で呟いた。
こんこん……。
207号室の硬いドアを叩くと低い音が小さく鳴った。
「こんにちわ。入りますよー」
ネームプレートは無い。他の部屋とは違う分厚く大きな扉。一室だけ斜向かいであり、知らなければここが病室だと分からないだろう。
207号室は他の病室とは異なる点が多い。
室内に揃えられた機材はがらりと変わる。まず、ベットはマットレスを傾けることが出来る高機能なものだ。
患者の安静を目的とした一般の病室と違い治療の為の設備が揃っている。
人工呼吸器のマスクや心電図といった精密機械が並ぶ。
それらの機器には灰色のカバーがかけられていて、今は眠っている。
ラウラは配膳車を押して入るとベットを覗き込んだ。
「もうお昼ですよ。起きてください……緑さん」
すぅ。すぅ。
名前を呼ばれた少女、水城緑は小さな寝息を立てて眠っていた。
傍にはピンクの目覚まし時計が置いてある。既に鳴った後のようだ。緑は音から逃げるように布団を頭から被っている。
「朝食の時間ですよ」
「だれ?」
布団をめくるとアイマスクをつけた少女が顔を覗かせた。
「んー……新しい人?」
よたよたとおぼつかない様子でベットから這い出てくる。
「触らせて」
ラウラはマスクを外した。
緑が手を前に突き出してひらひらと動かす。その手を取るとラウラは自分の頬に触れさせた。
すりすりと手のひらでラウラの顔に触れる。
「えへへ。やっぱり新しい人だ」
そう言って緑がはにかんだ。アイマスク越しにめいっぱいの笑顔を見せる。
緑は重症患者だった。
去年の夏、彼女は大怪我を負った。輸血が必要なほどの大量出血、設備の少ないこの田舎町の病院で命が助かったのは奇跡だと言う。
聞けば昏睡状態からつい最近目が覚めたばかりで、まだ体力も戻っていない。
絶対安静が言い渡されている。
後遺症の影響も大きい。
怪我のショックで記憶喪失を伴っているせいか、実年齢に比べて振る舞いが幼く見える。
だが、それだけでは無い。
「いい匂い。今日のご飯は何?」
「コッペパンとじゃがいもポタージュ、あとはサラダがついてますよ」
「サラダは何が入ってるの?」
「千切りキャベツ、きゅうり、プチトマト。ドレッシングは青じそです」
「本当だ。しその匂いがする。美味しそう」
昼ごはんを前にしても緑はアイマスクを取らない。彼女は匂いと音で生活している。
その奥にあるものを想像しラウラは思わず身震いする。
「ご飯の前にお顔を洗いますね」
「うん」
朝、昼、晩。食事前にはケアが緑には必要だった。
ラウラの指先は震えている。
『キツイと思ったならやらなくてもいい』
美和子の言葉が頭の中で蘇る。
……だからそれだと可哀想でしょ?
緑の耳に指をかけてアイマスクを外した。
「……ッ」
ラウラが息を呑む。
アイマスクの下に隠された素顔に釘付けになった。
ウェーブのかかったセミロングの髪。髪質のおかげだろうか寝起きだと言うのに綺麗に纏っている。
果実のように瑞々しい肌。すっと伸びた鼻筋の下に形のいい薄桃色の唇がある。
少女の大人びた美貌があどけない笑顔を浮かべている。
大きな眼窩が彼女の美しい眼差しの名残だった。二つ空いた虚ろ穴。そこには黒曜石の如き輝きを持つ液晶体が収まっていたはずだ。
しかし代わりに穴を埋めるのはぐずぐずになった肉片だ。ヒダ状のうねる肉が口を窄めて疼き奥へ奥へ暗い闇が続いていた。
「………」
後遺症は怪我だけでは無い。彼女もまた虫神案件だった。
目隠亜蔵と呼ばれるらしい。
その虫神は性行為……蟲継の際に特殊な行動を取る。虫神の中には性的趣向が生態にデザインされた種が少なくない。
目隠阿蔵の場合は眼孔姦だった。目をつぶすのだ。
虫神は緑から光を奪い去った。それどころかその両目を虫神の肉壺に変えてしまった。
緑は被害者だ。記憶をなくし両親さえ碌に見前に来ない可哀想な少女だ。これ以上、傷つけられていい筈がない。
「拭いていきますね」
だからラウラは臆するわけにいかなかった。その眼窩の奥がどうなっているかなんて考える必要はない。
濡れたタオルで緑の顔を優しく撫でる。顔全体から徐々に範囲を狭めていき、最後には穴の周りを丁寧に拭き取っていく。
「んんっ……」
「痛かったですか?」
「ううん。くすぐったいだけ」
眼窩の穴は敏感だった。ヒダについた小さなつぶつぶの全てに神経が通っている。
少し触れただけで赤く充血し、一斉に咲く桜のように広がっていく。
ラウラがケアできるのは入り口までだった。
アイマスクを付け直す。
「もう終わり?」
「えぇ」
少し物足りなさそうな顔をしていたが、ラウラが配膳車から料理を取り出すとすぐに気を取り倒した。
「それじゃぁポタージュから食べさせて」
これだけ時間が経っても料理からは湯気が立ち上がっていた。配膳車の保温性は意外と高いようだ。
「ポタージュ好きなの?」
「分かんないけど、多分好き」
あーんと大きな口を開ける緑。ラウラはスプーンでポタージュを掬った。
「おいしい?」
「うん。私これ好きみたい。もっと頂戴」
ラウラはこぼさないよう一口一口、丁寧にスープを緑の口に運んだ。
たっぷりと時間をかけた食事は終わる頃には二時を過ぎていた。
病室を出ると廊下では美和子が待っていた。
「だから無理すんなって言ったじゃない」
ラウラの疲れきった表情のラウラを見てため息をついた。
「あの子の所為じゃない。あの子をあんなにした虫神が怖いんでしょ? それでいいのよ」
美和子はラウラの肩を抱いてぽんぽんと頭を撫でた。
「ありがとう」
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