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黙諾の花嫁
五話 六つ揃えて吟
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活気のあった市場を離れると、みるみる内に人気が無くなった。
特にその通りに入った時、ラウラは違和感を肌で感じた。建物は古く家と呼べるか定かではないような簡素な建築物が立ち並ぶ。まるで人が住む事を最初から想定していないハリボテの家。そしてそれらは異様な密度で密集していた。
「こんな所通るんですか?」
「近道なんですよ」
涼しげに言う湖桃だが、ラウラには不気味で仕方かなった。
「ここ人住んでます? 何も音聞こえませんけど」
「うーん。誰も住んでないかもです」
窓の無い倉庫の群れ。シャッターで閉ざされた建物の間には暗闇が口を開けていた。まだ昼間だと言うのにそこから先には光が通っていない。この先は危険だと本能的が訴えている。
建物の隙間としか言い表せない。人が通る事を想定されておらず、とてもじゃないが道とは呼べなかった。
「これ道じゃない。流石にここを通るのは危険だと……」
「そんな事無いですよ。慣れれば簡単なんですから」
隙間の入り口には大きな蜘蛛の巣が張っていた。足元には底が割れた花壇。見てる範囲に幾つもの投げ捨てられたゴミが転がっている。
そんな隘路へと湖桃はのれんを潜るような気軽さで入り込んだ。鼻歌でも歌いそうな軽やかな足取りで湖桃は奥に進んでいく。
「簡単って……」
がっくしと項垂れラウラは瑚桃の後へ続いた。幸いにも巣の主は留守のようだった。
大通りから外れた路地というのは町の特色を色濃く反映する。
慶香町の路地は迷路のように入り組んだ特異なものだった。幾つかの地区を巻き込んで成長したそれはあまりにも広大だ。
それに建物が多すぎる。建物同士の密度が異常に高い。実用性のない家屋を建てるだけ建てて放置しているようにしか見えない。
ラウラは途中幾つも死んだ通りを見た。
窓もないような形だけの箱だ。壁に意味のない階段がついた家や、入り口すら見当たらない不気味な家が何軒もあった。
誰かが住んでいる気配、生活感は一切感じられなかった。
人は住んで居ないと湖桃は答えたがなおさら意味不明だ。
一体、誰のために建てられた家なのか。
静かな路地を二人だけで歩いていく。
ラウラは異世界に迷い込んでしまったような心細さを覚えた。
この町を知るのは湖桃だけだ。はぐれてしまえばもう二度と帰れないような気さえする。
どんな狭い道へ身を捩じ込もうが、ついていくしかなかった。
「あ、間違えた」
ふいに、瑚桃の口からそんな言葉が溢れた。枯れた水路がある三叉路を通りかかった時だった。
チラチラと後ろを伺い気まずそうに笑っている。
「あれー? こっちじゃないのかな」
「本当に大丈夫です?」
ちゃんと目的地に着くのか。ラウラは本当に不安だった。
「大丈夫、大丈夫。なんとかなります」
そのうち少し開けた空間にたどり着いた。
偶然出来た隙間か、昔建物があって取り壊されたのか、建物に囲まれた路地の中に四角いスペースが出来ていた。
誰かが頻繁に訪れているようで足元にはゴミが散乱していた。
潰れた空き缶や悪臭を放つビニール袋に、出来損ないのアロマキャンドルを思わせる白い蝋で出来た塊という用途不明の物まである。
特に蝋の塊は幾つも転がっていて謎だった。
空気が悪く不衛生だった。がらの悪い輩が集まって悪さをする為の場所のように思えた。
壁にはペンキで落書きがしてあり、「十七番」と読み取れる。何度か塗り直された形跡が見て取れ何か意味のある記号なのだろうか。
ラウラにはさっぱりだったが瑚桃はその数字をじっと見てうんうんと腕を組んで考えている。
「あっちに進めば大通りに出られます」
瑚桃が西を指さした。そして次に東を指さした。
「こっちが近道です」
「戻った方がいいんじゃないですか?」
「大丈夫です。ここは賽の目みたいな道だから同じ方向に進めば出られるって月花ちゃんが言ってました」
「不安しか無い」
心配そうに見つめるラウラをよそに湖桃はなおも自信いっぱいの表情だ。
曰くもうすぐ着くと。
長いこと歩かされている気がしたがスマートフォンの時計を見るとまだ十五分ほどしか経っていなかった。
また別れ道だ。
三方向に細い道が別れてる。
「こっちは大通り?」
ラウラは西に伸びる道を指さして訪ねた。
「えーとっ。うん、大通りです」
西に行けば出れる。それだけ覚えておけばよさそうだ。
願わくば一刻も早くこんな場所から出たかった。
ぶぅぅうん。
その時だった。
聞き覚えのある音が聞こえてきた。記憶に新しい音だ。
ラウラを恐怖に染め上げたその音が再び降ってきたのだ。
「きゃっ」
突然凄まじい風圧を全身で感じだ。ラウラは咄嗟に身を屈めて膝をついた。
鎌鼬を思わせる鋭く痛い、引き裂くような風だった。
腕で顔を庇うのが遅れ、舞い上がった土埃が目に入る。
「何なのよ、もうっ」
厭な予感。平然を装うとその声量は必要以上に大きくなった。
風は一瞬で通り過ぎた。目を傷つけないように指の腹でやさしく拭う。涙に霞む視界に瑚桃は居ない。
「……湖桃?」
呼びかけても返事は返ってこない。
ラウラはキョロキョロと周りを見渡した。
狭い路地に隠れられるような場所は無かった。何処にも、瑚桃の姿は無い。
消えた……?!
悪戯、いや違う。
拉致。
誘拐。
神隠し。
物騒な単語が脳裏に浮かぶ。ラウラは空を仰いだ。太陽の眩しさは感じられなかった。青々とした空も見えない。
巨体が影を落とし、ラウラはその中にいる。
「…………ッ?!」
巨体が降り立つ。
まず見えたのが黒い体毛だ。全身に短い毛が生えている。黒といったがその色はまだらで油が浮いたように汚かった。
外骨格は太くマッシブな重機のような力強さを感じた。
丸っこい身体に細長い腕が付いている。全部で六本。その内二本の前脚を拝むように合わせて擦っている。いやらしく卑屈で、見る者の嫌悪感を引き立てる動作だ。
一対の羽は塵色で得体の知れない滑りのある液体が纏わりついていた。町中のゴミを集めて一つの鍋で煮込んだような色だ。
どんな罰をうけたらこんな不快感極まる姿に生れてくるのか。この世のものとは思えない、地獄の使者と呼ぶに相応しい冒涜的な造形。
しかしその姿は幾度と無く目にするものだった。ごく小さいものであればラウラも何度も見ている。
そいつは蠅だった。
巨大な蠅の形をした化け物だ。
頭上で威圧する存在感。物質的なサイズはラウラより大きいと思われる。
人間代の昆虫。
絶対的にこの場を支配するその蠅は、路地の壁に張り付いてラウラを見下ろしている。
ガスマスクのような特徴的な顔面。ボーリング球ぐらいの大きさのダークレッドの瞳。その全てが異質な生命体だった。
よく見ると羽は一対の大きなもの他に二対小さな羽が付いていた。
三対六枚の羽。揃いも揃って汚物のように汚い。
そもそも蠅ですらないのではなかろうか。
六枚羽の蠅型巨大昆虫。オカルト番組が紹介するUMAだってもう少しマシな姿をしている。信じられぬものを映す己の眼を今日ほど疑った事は無い。
しかしその名をラウラは知っていた。
開いた口が、震える唇が微かに動き、その名を呟いた。
「虫神」
曰く、その名を持つ異形の神がこの町では信仰されている。
悲鳴を上げることも逃げ出す事もラウラには出来なかった。
蛇に睨まれたカエルがそうであるように巨大な怪物と遭遇したラウラの思考は真っ白に漂白されていた。
生きながらに意思を殺された。
このまま気を失えたらどれだけ楽だろうか。あまりのプレッシャーに自分が生きているのか、死んでいるのかさえ分らなくなる。
これが悪夢で今にも目を覚ます事をラウラは心の底から祈っていた。
蠅は首をカクカクと動かして様々な角度からラウラを眺める。
機械的に動く無機質な虫の目には感情と呼べる物は無かった。
しゃっしゃっしゃっ。
蠅が前脚を擦る音だ。
その行動の意味をラウラは聞いた事があった。汚れを落として体を清潔に保つ以外にも味覚をはっきりさせる作用がある。蠅は味覚を感じる細胞を足に持っているのだ。
つまり、この行為は人間で言う舌舐めずりに近いのでは無いだろうか。
不気味な蠅の顔には漏斗のような先細った口が備わってある。
その裏地にどんな鋭い牙を隠しているのか外からは分からない。
最悪の事態が脳裏をよぎる。
次の瞬間には頭を齧られている。そんな自分の姿を想像した。
その妄想はもうすぐそこまで現実に迫っているような気がした。
ぶぅぅぅん。
目にも止まらぬ高速で羽が振動した。風を巻き上げて蠅が真上へ浮上する。巨大な蠅の姿はあっという間に視界から消えた。
巨体の影がゆっくりと遠ざかっていく。
「ははっ」
膝から崩れるように地面に倒れた。ぞわぞわと全身に悪寒が走る。
ラウラはゆっくりと息を吸った。
「おぇええ」
吐いた。
胃をきりきりと締め上げながら酸っぱい内溶液を路地にぶちまけた。
震えは一向に収まらなかった。
「……なんで」
ラウラの喉から出た声は蚊の鳴くような小さな声だった。
「なんで本当にいるの」
ラウラは思い出す。
家電が鳴くような低い音。蠅の羽音は山道で聞いた音と同じだった。
もはや、幻や勘違いなどと思い込むのは不可能だった。
山でラウラを襲ったのは蠅の化け物に間違いなかった。
「瑚桃は? どこに?」
蠅は去った。しかし、湖桃は帰ってこない。
その問いにラウラが出せる答えは一つしか無かった。
連れ去られた。
あの巨体にかかれば人一人攫うのなど容易い事だろう。
たった今、間近でその恐怖を味わったラウラだ。その様子はありありと想像できた。
ユーフォーキャッチャーの景品のように宙ぶらりんになって運ばれる湖桃の姿を思い浮かべまた吐き気が込み上げてきた。
人間をなんだと思っているのか。恐怖を通り越して怒りさえ感じ始めてきた。
ラウラは蠅が飛び去っていった方向を見た。今さっき、歩いてきた方向だった。
「うぐぅ……あぁあああああああ!!」
ラウラは雄叫びを上げた。
心を奮い立たせようと必死になって声を張り上げた。
しかし、ラウラの足は根が生えたように動かなかった。地面にぺたりと座り込んだままぴくりともしない。
「助けに行かないと。湖桃が……早く」
うわごとのように呟くラウラ。両目からは涙が流れていた。
行って、どうすると言うのか。
あの恐ろしい蠅の化け物の前に、自分から姿を晒すなど出来るはずもなかった。
頬を濡らす感触を意識するとそれは次第に強くなった。
決壊したダムのように止めどなく流れる。
「なんでっ?!」
パチンパチンと音を鳴らしてラウラが自分の足を叩いた。パニックに陥りかけていた。
「うっ……あぁっ」
歯の隙間から声が洩れた。
「あああああっ……ああああっ」
つまみをまわすようにボリュームが上がり、大声で泣き出した。
昂って抑えの効かない感情が堰を切って溢れた。
「ああああああああああああっっ!!」
感情を爆発させたラウラの嘆き。このまま力尽きるまで泣き続ける勢いだ。
しかしそれは意外にもすぐに治まる事となった。
「あ………」
ぴたりと涙が止り、一緒に呼吸も止った。
ラウラはどこからか視線を感じた。
いつからなのか、ラウラは突然そのことに気付いた。
周囲には誰も、何も居ない。それなのにねっとりと絡みつくような視線を感じる。
気のせいだとは思った。恐怖心のあまりそう錯覚しているに違いない。
しかし自分の目が届かない所で何かに見られている幻想を拭い去る事は今のラウラには出来なかった。
ぎろり。
視線がキツく絞られた。
「ひぃ」
空気が抜けるような音がラウラの喉から漏れた。それは本能から出た悲鳴だった。
反射的にラウラは立ち上がる。あんなに叫んでも言う事を聞かなかった足が無意識の内に動いていた。
東に歩けば出られる。
この路地だけで出来た奇妙な区各はその構造のため、進む方向さえ間違えなければ見た目よりもずっと簡単だ。
ラウラが歩む通路の先には僅かに光が見える。
ずいぶんと長い間、暗闇の中にいた気分だった。きっと、あそこまで行けば安全なのだろう。誰かに助けを求める事が出来る。
人が歩く音、喋る音が聞こえてくる。大通りだ。
ラウラは陽だまりに希望のようなものを見いだした。
ふと浮かんだのは水筒を持った少女の笑顔だ。親切な瑚桃。もしあの時、山道での出来事を話していたらこんな事にはならなかったはずだ。
「ごめん」
自然と、殆ど無意識で口から出た言葉。
だからだろうか。ラウラはその謝罪が誰に向けられたものなのか直ぐには分らなかった。
ラウラは歩いて来た道を引き返した。陽だまりが遠ざかる。
路地裏の仄暗い空気がラウラを包み込み、逃げ出さないようその姿を隠した。
「やっぱり逃げません」
蠅が何処へ飛んだのかラウラには知るよしもない。
だが直感と言うべきか、他に選択肢が無かったためか、ラウラは一直線にある場所を目指していた。西へ西へと変わらない風景を己の方向感覚だけで進んでいく。
幸か不幸かラウラの目星は当たっていた。
それに近づくと、巨大な存在感を嫌でも感じ取ることができた。
「もう少し……もう少しだ」
路地を吹き抜ける風に乗って、重い振動がラウラの耳に伝わる。
嫌な音、恐い音、気色の悪いその音。
「大丈夫」
ラウラは自分に言い聞かせた。
瑚桃の手を引いて路地を駆ける自分を想像した。
襲われなかったのには理由がある。
巨大虫は大人を持ち上げられない。
吹かれれば飛ぶような藁の持論にすがりつき、立ち止まらぬよう両足を動かした。
あぁ………羽音が聞こえる。
そうだ。もう随分と近い。
すぐ目の前の角を曲がった先、「十七番」と落書きされていたあの広場だ。居るならばそこしか無いと思った。根拠は何一つ無いが、それが一番らしいとラウラは納得していた。無意味なスペースも奇妙な落書きも何か意味があるものだと、そう思わずにはいられなかった。
ラウラの直感は鋭く的中していた。しかしそれはラウラにとって不幸な事であった。いや、それ以前にラウラは選択を間違えたのだ。逃げるべきだったのだ。
「あんっ…あああっ!」
聞こえてきたその声にラウラは足を止めた。止めざるを得なかった。
「んっ、ああっ……いいよぉ……もう一回」
それは間違えなく人の声だった。女の子の瑞々しい声。それでいてけして軽々しく人前で出せるようなものではなく。例えば恋人同士での営みだとかそういう時に出る声だ。
何をしているかラウラには検討がついた。しかし理解は及ばなかった。
なざなら重く悍ましい羽音は直ぐそこから聞こえてくるのだ。同時に女の子の声も同じ場所から聞こえる。
あの蠅は何をしている?
もう目の前だ。角から顔を覗かせるだけで一つの真実が得られる。ここまで恐怖に耐えて来たのだ。目的を果たさなければならない。
だが今なって、いや引き返した時からずっと感じていた後悔の念がより重みを持ってラウラにのしかかっていた。湧き上がる疑問と感情にラウラはもう潰れてしまいそうだった。
ラウラは……。
女の子の声と羽音が共鳴して聞こえる。この二つは同時に動いている。
「んんっ……あっ」
ぶぅぅぅん。
「きたあああっ! すごっ……ああんっ!!」
ぶぅぅぅぅん。
「あああっ! ああああっ!」
ぶうぅぅぅぅぅん。
「はっあぁああっ! もっ……まっ! ああああんっ!」
羽音が大きく鳴れば、その度に嬌声は激しさを増していく。
甲高い女の子の声と重低音が交互に繰り返された。
ぶうううぅぅぅん。
ぶううぅぅぅん。
ぶうぅぅぅん。
ぶぅううん。
「………」
一つ角を曲がった先、そこで行われている招待をラウラが確かめる事はできなかった。ラウラの中でヒビだらけだったものがついに砕けた。
よそよそしい態度で、まるで何ごとも無かったようにラウラは歩き出した。
蒼白に染まった表情が胸の内を物語っていた。
そしてラウラは心の中で繰り返し呟く。
……私は何も見てない。
特にその通りに入った時、ラウラは違和感を肌で感じた。建物は古く家と呼べるか定かではないような簡素な建築物が立ち並ぶ。まるで人が住む事を最初から想定していないハリボテの家。そしてそれらは異様な密度で密集していた。
「こんな所通るんですか?」
「近道なんですよ」
涼しげに言う湖桃だが、ラウラには不気味で仕方かなった。
「ここ人住んでます? 何も音聞こえませんけど」
「うーん。誰も住んでないかもです」
窓の無い倉庫の群れ。シャッターで閉ざされた建物の間には暗闇が口を開けていた。まだ昼間だと言うのにそこから先には光が通っていない。この先は危険だと本能的が訴えている。
建物の隙間としか言い表せない。人が通る事を想定されておらず、とてもじゃないが道とは呼べなかった。
「これ道じゃない。流石にここを通るのは危険だと……」
「そんな事無いですよ。慣れれば簡単なんですから」
隙間の入り口には大きな蜘蛛の巣が張っていた。足元には底が割れた花壇。見てる範囲に幾つもの投げ捨てられたゴミが転がっている。
そんな隘路へと湖桃はのれんを潜るような気軽さで入り込んだ。鼻歌でも歌いそうな軽やかな足取りで湖桃は奥に進んでいく。
「簡単って……」
がっくしと項垂れラウラは瑚桃の後へ続いた。幸いにも巣の主は留守のようだった。
大通りから外れた路地というのは町の特色を色濃く反映する。
慶香町の路地は迷路のように入り組んだ特異なものだった。幾つかの地区を巻き込んで成長したそれはあまりにも広大だ。
それに建物が多すぎる。建物同士の密度が異常に高い。実用性のない家屋を建てるだけ建てて放置しているようにしか見えない。
ラウラは途中幾つも死んだ通りを見た。
窓もないような形だけの箱だ。壁に意味のない階段がついた家や、入り口すら見当たらない不気味な家が何軒もあった。
誰かが住んでいる気配、生活感は一切感じられなかった。
人は住んで居ないと湖桃は答えたがなおさら意味不明だ。
一体、誰のために建てられた家なのか。
静かな路地を二人だけで歩いていく。
ラウラは異世界に迷い込んでしまったような心細さを覚えた。
この町を知るのは湖桃だけだ。はぐれてしまえばもう二度と帰れないような気さえする。
どんな狭い道へ身を捩じ込もうが、ついていくしかなかった。
「あ、間違えた」
ふいに、瑚桃の口からそんな言葉が溢れた。枯れた水路がある三叉路を通りかかった時だった。
チラチラと後ろを伺い気まずそうに笑っている。
「あれー? こっちじゃないのかな」
「本当に大丈夫です?」
ちゃんと目的地に着くのか。ラウラは本当に不安だった。
「大丈夫、大丈夫。なんとかなります」
そのうち少し開けた空間にたどり着いた。
偶然出来た隙間か、昔建物があって取り壊されたのか、建物に囲まれた路地の中に四角いスペースが出来ていた。
誰かが頻繁に訪れているようで足元にはゴミが散乱していた。
潰れた空き缶や悪臭を放つビニール袋に、出来損ないのアロマキャンドルを思わせる白い蝋で出来た塊という用途不明の物まである。
特に蝋の塊は幾つも転がっていて謎だった。
空気が悪く不衛生だった。がらの悪い輩が集まって悪さをする為の場所のように思えた。
壁にはペンキで落書きがしてあり、「十七番」と読み取れる。何度か塗り直された形跡が見て取れ何か意味のある記号なのだろうか。
ラウラにはさっぱりだったが瑚桃はその数字をじっと見てうんうんと腕を組んで考えている。
「あっちに進めば大通りに出られます」
瑚桃が西を指さした。そして次に東を指さした。
「こっちが近道です」
「戻った方がいいんじゃないですか?」
「大丈夫です。ここは賽の目みたいな道だから同じ方向に進めば出られるって月花ちゃんが言ってました」
「不安しか無い」
心配そうに見つめるラウラをよそに湖桃はなおも自信いっぱいの表情だ。
曰くもうすぐ着くと。
長いこと歩かされている気がしたがスマートフォンの時計を見るとまだ十五分ほどしか経っていなかった。
また別れ道だ。
三方向に細い道が別れてる。
「こっちは大通り?」
ラウラは西に伸びる道を指さして訪ねた。
「えーとっ。うん、大通りです」
西に行けば出れる。それだけ覚えておけばよさそうだ。
願わくば一刻も早くこんな場所から出たかった。
ぶぅぅうん。
その時だった。
聞き覚えのある音が聞こえてきた。記憶に新しい音だ。
ラウラを恐怖に染め上げたその音が再び降ってきたのだ。
「きゃっ」
突然凄まじい風圧を全身で感じだ。ラウラは咄嗟に身を屈めて膝をついた。
鎌鼬を思わせる鋭く痛い、引き裂くような風だった。
腕で顔を庇うのが遅れ、舞い上がった土埃が目に入る。
「何なのよ、もうっ」
厭な予感。平然を装うとその声量は必要以上に大きくなった。
風は一瞬で通り過ぎた。目を傷つけないように指の腹でやさしく拭う。涙に霞む視界に瑚桃は居ない。
「……湖桃?」
呼びかけても返事は返ってこない。
ラウラはキョロキョロと周りを見渡した。
狭い路地に隠れられるような場所は無かった。何処にも、瑚桃の姿は無い。
消えた……?!
悪戯、いや違う。
拉致。
誘拐。
神隠し。
物騒な単語が脳裏に浮かぶ。ラウラは空を仰いだ。太陽の眩しさは感じられなかった。青々とした空も見えない。
巨体が影を落とし、ラウラはその中にいる。
「…………ッ?!」
巨体が降り立つ。
まず見えたのが黒い体毛だ。全身に短い毛が生えている。黒といったがその色はまだらで油が浮いたように汚かった。
外骨格は太くマッシブな重機のような力強さを感じた。
丸っこい身体に細長い腕が付いている。全部で六本。その内二本の前脚を拝むように合わせて擦っている。いやらしく卑屈で、見る者の嫌悪感を引き立てる動作だ。
一対の羽は塵色で得体の知れない滑りのある液体が纏わりついていた。町中のゴミを集めて一つの鍋で煮込んだような色だ。
どんな罰をうけたらこんな不快感極まる姿に生れてくるのか。この世のものとは思えない、地獄の使者と呼ぶに相応しい冒涜的な造形。
しかしその姿は幾度と無く目にするものだった。ごく小さいものであればラウラも何度も見ている。
そいつは蠅だった。
巨大な蠅の形をした化け物だ。
頭上で威圧する存在感。物質的なサイズはラウラより大きいと思われる。
人間代の昆虫。
絶対的にこの場を支配するその蠅は、路地の壁に張り付いてラウラを見下ろしている。
ガスマスクのような特徴的な顔面。ボーリング球ぐらいの大きさのダークレッドの瞳。その全てが異質な生命体だった。
よく見ると羽は一対の大きなもの他に二対小さな羽が付いていた。
三対六枚の羽。揃いも揃って汚物のように汚い。
そもそも蠅ですらないのではなかろうか。
六枚羽の蠅型巨大昆虫。オカルト番組が紹介するUMAだってもう少しマシな姿をしている。信じられぬものを映す己の眼を今日ほど疑った事は無い。
しかしその名をラウラは知っていた。
開いた口が、震える唇が微かに動き、その名を呟いた。
「虫神」
曰く、その名を持つ異形の神がこの町では信仰されている。
悲鳴を上げることも逃げ出す事もラウラには出来なかった。
蛇に睨まれたカエルがそうであるように巨大な怪物と遭遇したラウラの思考は真っ白に漂白されていた。
生きながらに意思を殺された。
このまま気を失えたらどれだけ楽だろうか。あまりのプレッシャーに自分が生きているのか、死んでいるのかさえ分らなくなる。
これが悪夢で今にも目を覚ます事をラウラは心の底から祈っていた。
蠅は首をカクカクと動かして様々な角度からラウラを眺める。
機械的に動く無機質な虫の目には感情と呼べる物は無かった。
しゃっしゃっしゃっ。
蠅が前脚を擦る音だ。
その行動の意味をラウラは聞いた事があった。汚れを落として体を清潔に保つ以外にも味覚をはっきりさせる作用がある。蠅は味覚を感じる細胞を足に持っているのだ。
つまり、この行為は人間で言う舌舐めずりに近いのでは無いだろうか。
不気味な蠅の顔には漏斗のような先細った口が備わってある。
その裏地にどんな鋭い牙を隠しているのか外からは分からない。
最悪の事態が脳裏をよぎる。
次の瞬間には頭を齧られている。そんな自分の姿を想像した。
その妄想はもうすぐそこまで現実に迫っているような気がした。
ぶぅぅぅん。
目にも止まらぬ高速で羽が振動した。風を巻き上げて蠅が真上へ浮上する。巨大な蠅の姿はあっという間に視界から消えた。
巨体の影がゆっくりと遠ざかっていく。
「ははっ」
膝から崩れるように地面に倒れた。ぞわぞわと全身に悪寒が走る。
ラウラはゆっくりと息を吸った。
「おぇええ」
吐いた。
胃をきりきりと締め上げながら酸っぱい内溶液を路地にぶちまけた。
震えは一向に収まらなかった。
「……なんで」
ラウラの喉から出た声は蚊の鳴くような小さな声だった。
「なんで本当にいるの」
ラウラは思い出す。
家電が鳴くような低い音。蠅の羽音は山道で聞いた音と同じだった。
もはや、幻や勘違いなどと思い込むのは不可能だった。
山でラウラを襲ったのは蠅の化け物に間違いなかった。
「瑚桃は? どこに?」
蠅は去った。しかし、湖桃は帰ってこない。
その問いにラウラが出せる答えは一つしか無かった。
連れ去られた。
あの巨体にかかれば人一人攫うのなど容易い事だろう。
たった今、間近でその恐怖を味わったラウラだ。その様子はありありと想像できた。
ユーフォーキャッチャーの景品のように宙ぶらりんになって運ばれる湖桃の姿を思い浮かべまた吐き気が込み上げてきた。
人間をなんだと思っているのか。恐怖を通り越して怒りさえ感じ始めてきた。
ラウラは蠅が飛び去っていった方向を見た。今さっき、歩いてきた方向だった。
「うぐぅ……あぁあああああああ!!」
ラウラは雄叫びを上げた。
心を奮い立たせようと必死になって声を張り上げた。
しかし、ラウラの足は根が生えたように動かなかった。地面にぺたりと座り込んだままぴくりともしない。
「助けに行かないと。湖桃が……早く」
うわごとのように呟くラウラ。両目からは涙が流れていた。
行って、どうすると言うのか。
あの恐ろしい蠅の化け物の前に、自分から姿を晒すなど出来るはずもなかった。
頬を濡らす感触を意識するとそれは次第に強くなった。
決壊したダムのように止めどなく流れる。
「なんでっ?!」
パチンパチンと音を鳴らしてラウラが自分の足を叩いた。パニックに陥りかけていた。
「うっ……あぁっ」
歯の隙間から声が洩れた。
「あああああっ……ああああっ」
つまみをまわすようにボリュームが上がり、大声で泣き出した。
昂って抑えの効かない感情が堰を切って溢れた。
「ああああああああああああっっ!!」
感情を爆発させたラウラの嘆き。このまま力尽きるまで泣き続ける勢いだ。
しかしそれは意外にもすぐに治まる事となった。
「あ………」
ぴたりと涙が止り、一緒に呼吸も止った。
ラウラはどこからか視線を感じた。
いつからなのか、ラウラは突然そのことに気付いた。
周囲には誰も、何も居ない。それなのにねっとりと絡みつくような視線を感じる。
気のせいだとは思った。恐怖心のあまりそう錯覚しているに違いない。
しかし自分の目が届かない所で何かに見られている幻想を拭い去る事は今のラウラには出来なかった。
ぎろり。
視線がキツく絞られた。
「ひぃ」
空気が抜けるような音がラウラの喉から漏れた。それは本能から出た悲鳴だった。
反射的にラウラは立ち上がる。あんなに叫んでも言う事を聞かなかった足が無意識の内に動いていた。
東に歩けば出られる。
この路地だけで出来た奇妙な区各はその構造のため、進む方向さえ間違えなければ見た目よりもずっと簡単だ。
ラウラが歩む通路の先には僅かに光が見える。
ずいぶんと長い間、暗闇の中にいた気分だった。きっと、あそこまで行けば安全なのだろう。誰かに助けを求める事が出来る。
人が歩く音、喋る音が聞こえてくる。大通りだ。
ラウラは陽だまりに希望のようなものを見いだした。
ふと浮かんだのは水筒を持った少女の笑顔だ。親切な瑚桃。もしあの時、山道での出来事を話していたらこんな事にはならなかったはずだ。
「ごめん」
自然と、殆ど無意識で口から出た言葉。
だからだろうか。ラウラはその謝罪が誰に向けられたものなのか直ぐには分らなかった。
ラウラは歩いて来た道を引き返した。陽だまりが遠ざかる。
路地裏の仄暗い空気がラウラを包み込み、逃げ出さないようその姿を隠した。
「やっぱり逃げません」
蠅が何処へ飛んだのかラウラには知るよしもない。
だが直感と言うべきか、他に選択肢が無かったためか、ラウラは一直線にある場所を目指していた。西へ西へと変わらない風景を己の方向感覚だけで進んでいく。
幸か不幸かラウラの目星は当たっていた。
それに近づくと、巨大な存在感を嫌でも感じ取ることができた。
「もう少し……もう少しだ」
路地を吹き抜ける風に乗って、重い振動がラウラの耳に伝わる。
嫌な音、恐い音、気色の悪いその音。
「大丈夫」
ラウラは自分に言い聞かせた。
瑚桃の手を引いて路地を駆ける自分を想像した。
襲われなかったのには理由がある。
巨大虫は大人を持ち上げられない。
吹かれれば飛ぶような藁の持論にすがりつき、立ち止まらぬよう両足を動かした。
あぁ………羽音が聞こえる。
そうだ。もう随分と近い。
すぐ目の前の角を曲がった先、「十七番」と落書きされていたあの広場だ。居るならばそこしか無いと思った。根拠は何一つ無いが、それが一番らしいとラウラは納得していた。無意味なスペースも奇妙な落書きも何か意味があるものだと、そう思わずにはいられなかった。
ラウラの直感は鋭く的中していた。しかしそれはラウラにとって不幸な事であった。いや、それ以前にラウラは選択を間違えたのだ。逃げるべきだったのだ。
「あんっ…あああっ!」
聞こえてきたその声にラウラは足を止めた。止めざるを得なかった。
「んっ、ああっ……いいよぉ……もう一回」
それは間違えなく人の声だった。女の子の瑞々しい声。それでいてけして軽々しく人前で出せるようなものではなく。例えば恋人同士での営みだとかそういう時に出る声だ。
何をしているかラウラには検討がついた。しかし理解は及ばなかった。
なざなら重く悍ましい羽音は直ぐそこから聞こえてくるのだ。同時に女の子の声も同じ場所から聞こえる。
あの蠅は何をしている?
もう目の前だ。角から顔を覗かせるだけで一つの真実が得られる。ここまで恐怖に耐えて来たのだ。目的を果たさなければならない。
だが今なって、いや引き返した時からずっと感じていた後悔の念がより重みを持ってラウラにのしかかっていた。湧き上がる疑問と感情にラウラはもう潰れてしまいそうだった。
ラウラは……。
女の子の声と羽音が共鳴して聞こえる。この二つは同時に動いている。
「んんっ……あっ」
ぶぅぅぅん。
「きたあああっ! すごっ……ああんっ!!」
ぶぅぅぅぅん。
「あああっ! ああああっ!」
ぶうぅぅぅぅぅん。
「はっあぁああっ! もっ……まっ! ああああんっ!」
羽音が大きく鳴れば、その度に嬌声は激しさを増していく。
甲高い女の子の声と重低音が交互に繰り返された。
ぶうううぅぅぅん。
ぶううぅぅぅん。
ぶうぅぅぅん。
ぶぅううん。
「………」
一つ角を曲がった先、そこで行われている招待をラウラが確かめる事はできなかった。ラウラの中でヒビだらけだったものがついに砕けた。
よそよそしい態度で、まるで何ごとも無かったようにラウラは歩き出した。
蒼白に染まった表情が胸の内を物語っていた。
そしてラウラは心の中で繰り返し呟く。
……私は何も見てない。
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