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黙諾の花嫁
一話 羽音
しおりを挟む私は秋が好きだ。
夏の湿気から解放されて、空気は澄み渡る。強すぎる日差しも成りを潜める。
秋にしか見られない動植物も魅力的だ。冬を迎える前の秋は全ての生物にとって重要な時期だ。
天高く馬肥ゆる秋という言葉があるが、秋を表す良い言葉だと思う。
最も特徴的なのは紅葉だろう。赤、黄、茶。それぞれの色へと一斉に染め上がる様は見惚れるほど美しく、葉の落ちるまでの一時の間しか見ることが出来ない儚さ相まって他では得られない感動を私達に与えてくれる。
日本の四季の中でも最も美しいのは秋だと思う。
だから私はこの旅に秋を選んだ。
これは一人の娘の独白。
車が使えたのは山の麓までだった。バスは通っていない。道は自分で探す必要があった。
何年も整備されていないでこぼこの道は生い茂る木々に侵食され随分と狭くなっていて、その終点には深い沼が待ち構えていた。沼は濃い緑色の藻類に覆われていて一見すると地面が続いているように見えた。
沼の前には乗り捨てられた古い車がバリケードのように並んでいる。年代はバラバラに思えたが、どれももう一目で動かないと分かる廃車だった。
この車の持ち主たちはどこへ行ったのだろうか。
人が載っている内は雨の中を平気で走る車も野ざらしで放置された今、無惨にも錆びつき、フロントガラスは割れて中では背の低い蔦のような植物が育っている。
そんな車の墓場へ新たに一台の車が加った。ブルーカラーが愛らしい小型車。
廃車の群れの中で鮮やかな青は目を引くだろう。青の車は群れの最後尾へと停車した。
ぼうぼうに生い茂った野生の草を真新しいランニングシューズが踏みつけた。
忘れられた僻地に足を踏み入れたのは若い娘だった。
タンクトップの上にはデニムのジャケット。
短く跳ねたショートマッシュ。頭の輪郭へ沿ってボリュームを抑えた髪型は彼女のスリムな印象をより強調していた。
中性的な美貌と相まってボーイッシュな彼女のスタイルは可愛いよりかっこいいと評される事の方が多い。
マロンブラウンの髪色は染めたものではなく生まれつきだ。
両目の色もそうだ。
アッシュグレーの瞳は白い肌や髪色と同じく母親から受け継いだものだ。彼女の名前は瀬野ラウラ。彼女にはベルギー人の血が四分の一入っている。日本人離れした美貌は祖母の遺伝だ。
『これより禁足地、立ち入るべからず』
沼に浮かぶ古びた看板を一瞥するとラウラは山の中へと足を踏み入れた。
山道は決して道なき道では無かった。
歩きやすいやうな整備こそされていないが、獣道のように自然に出来ただけの道ではなかった。
足元には半分に切った丸太が埋められていて、山の傾斜に沿って階段のように続いていた。
草木に隠れて見辛いものの踏んで歩いていると確かにそこにあると分かる。
ガイドの居ない山の中で丸太の階段は唯一の道標でもあった。
次第に道は厳しくより深い山へとラウラを誘う。階段は途切れることなく続いていたが真っ直ぐではない。
むしろ山を迂回するように続いていた。
狭く険しい道を進むと最後には崖道となった。
剥き出しの土が崩れて出来た肌色をした急斜面。その下には葉が落ちて痩せ細った落葉樹が槍のように待ち構えている。
一歩足を踏み外すだけで怪我ではすまない大惨事だ。地面に埋め込まれた丸太も掘れて抜けかかっている。
ひやりとする危険な道。
崖道はぐるりと急カーブを描いていた。
だから道の先は死角になっていて、曲り切るまでその景色をラウラは想像すらしていなかった。
階段を渡り終えたラウラを待っていたのは一面の秋景色だった。
茶色い岩肌の視界が、チャンネルを変えたようにオレンジに包まれた。
疲れも不安も消し飛ぶような、絶景に思わず息を呑んだ。
楓だ。
階段の先には石畳で舗装された山道が続いていた。
何年も放置されているのか、隙間から草が生え茂っている。
山道の脇には鮮やかな橙を灯した楓が立ち並ぶ。
人工的に植えられているようで街路樹のごとく山道に沿って規則正しく並んでいる。
道に沿って続く紅葉のトンネルは美しく見えるものの少し浮いていた。
木々の間がお互いの枝が絡みつくように接触してしまっている程狭く、その隙間を埋めるように、後列にも木が並んでいる。
人が通り抜けるのは難しいとすら思える程、密度が狭い。
植林なら普通はもっと感覚を開けるものだろう。これではアーチというより壁だ。
そんな状態であっても楓達は立派に枝を伸ばし葉を美しく染め上げている。
ラウラが違和感のように感じたものはただの節介な杞憂なのかもしれない。
石畳を踏みしめたラウラの足を何かが絡め取った。
驚いて視線を下に移すと、白い紐のようなものを踏んでいた。
一瞬、蛇かと思い肝を冷やしたがよくよく見るとその正体が分った。
白い布で編まれた縄だ。
それは注連縄と呼ばれる物で、所謂結界のような役割を持つ道具で、神聖な区域とその外とを分かつ力があるらしい。
この国の神社などで見られるものだ。
ゆっくりと足をのける。
山の中にあるには不自然な程、綺麗な白色の注連縄だった。踏んだ場所には靴の汚れがはっきりと残っていた。
一度踏んだだけだが、これまでの道のりですっかり靴も汚れていた。注連縄の汚れを拭ったところで滲むだけだろう。
やってしまった。
ラウラはバツの悪い気まずさのような感覚を覚えた。
それは罪悪感にはまだ遠く、言わば買ったばかりのアイスクリームを落としてしまった時のような喪失感に近かった。
何でこんなところに注連縄がしてあるのかと、ラウラは心中でぼやきを入れる。
しかしやがら、目の前に広がる楓の絶景さが注連縄という神秘的な存在の効力を増しているような気がする。
それに泥をつけたとなるとやはり自負の念を覚えてしまう。
いや、だから何だと言うのか。
胸の所まで込み上がっている気怠い後悔を飲み込み、大股で注連縄を跨いだ。
少し歩くと山道の中は驚くほど暗くなった。密集している楓の葉が幾重にも重なり日の光を遮断しているのだ。
外から見れば趣のある紅葉のトンネルであったが、中からだと本当のトンネルのように暗い。時より風に揺られ落ちる葉も暗がり巨大な手のように見え不気味であった。
ここの楓は葉が嘘みたいに大きかった。本当に掌ほどの大きさはある。
だから陽の光は碌に通らず、落ちてくる葉が視界を掠める度に驚いてしまう。
早く抜けてしまおう。
丸太の階段を抜ければ、後は三十分もかからない筈だ。
ラウラは鞄の中にある地図の存在を意識した。
それは市販の物では無く、手書きで作られた地図ではあるが、ラウラはそれを強く信頼していた。
この地図がなければそもそもこの山道まで来る事は出来なかっただろう。祖父が残したものだ。ここにくるまでの道のり全てが祖父の手記にあったものだ。
自然と歩く速度が速くなるのを感じる。ゴールは近い筈なのに出口は中々見えなかった。
ぶぅん。
突然聞こえた音に、ラウラは思わず足を止めてしまった。
冷蔵庫が鳴らすような重く響いた音。いや、もっと生理的に厭な感じのする音だった。
何の音だろか。
その出どころを警戒し、周囲を見渡しながら考える。
こんな所に家電なんてあるわけはないし、木々の隙間の先には建物なんて見えない。
聞いたことがある音である事は確かだった。
音の正体をラウラは直ぐに知ることとなる。
ぶぅん。
耳元を小さな虫が通り過ぎた。
蠅。
そう、蠅の羽音だ。挑発するように円の軌道を描きながらそれはラウラの耳元へ纏わりつき、やがて離れていった。
なんだ、ただの虫じゃないか。
ラウラは必要以上に怯えていた自分を自笑し、また歩き始めた。
ただ虫が近くを通っただけ。
虫は嫌いだが、近寄られただけできゃーきゃー叫ぶほどラウラは乙女でも無い。ゴキブリとかの一部は勿論は別だが。
どうやら自分が思っている以上に神経質になっているのだとラウラはため息をついた。
足場の悪い山道を一人で居るのは想像以上にストレスだったようだ。
友達の一人でも連れてくれば良かったと思う。これが楽しい小旅行ならきっとそうしただろう。
ぶぅぅうん。
また聞こえた。
ここは山の中だ。虫が出ない方がおかしい。今度は気にせず歩き続ける。
ぶぅぅうん。
でも変だ。
この音は耳元から聞こえて来ていない。
ぶぅぅうん。
ぶぅぅぅううん。
音が大きくなる。
それは歩くラウラの背後を追いかけてきている。
冷蔵庫が鳴らすような重く響いた音。私は最初にそう連想した。その音は耳元で聞こえてた訳じゃ無い。
これは小さな虫の出せる音量じゃない。それは遠く、背後から聞こえていた。
何か大きな物が近づいて来ている。
それに気付いた時、ラウラは走り出していた。
ぶぅぅぅん。ぶぅぅぅん。
呼応するかのように音が連続的なものへと変わった。逃げ出したラウラを追いかけてきている。
ぶぅぅぅぅぅぅん。
ラウラの走る速さよりこの音の正体の方が早い。
それはもう、直ぐ後ろまで迫っているように思えた。
一陣の風がラウラを捕まえた。
「きゃっ」
突然、目の前が真っ暗になった。
ラウラは自分が転んでしまった事に気付くのに少し時間が掛かった。
顔から地面にぶつけてしまったらしく、鼻が痛んだ。
「痛い……あっ!」
ラウラは慌てて起き上がろうとしたが、それは叶わなかった。
あの音はもう聞こえない。代わりに感じたのは重く巨大な存在感。うつ伏せ倒れるラウラに何者かが覆い被さっていた。
生き物なのだろうか。それは腕のようなものを動かして、ラウラの四肢を押さえつけていた。
機械のような硬い感触。肌へ触れているにも関わらず体温は全く感じとれない。
正体は分からないが、自分が窮地に陥っている事だけは嫌と言うほど理解できた。
ラウラは体を動かそうと全身に力を込めたが、背中のそれをどかすことはできなかった。それどころかギチギチと金属が軋むような音を立ててよりキツく拘束を強めた。まるで堅牢な拘束具を着させられているかのような圧迫感だ。
抵抗は無駄だった。ラウラは目を固く瞑った。
ぐにゅり。
背中に何か柔らかいものが当たる。
感覚としてはこんにゃくが近い。それでいて芯のある棒状の突起だ。
ねっちょりとした粘液のようなものを纏っているように感じた。粘液は生温くラウラの背中に厭な感触を残した。
「ひぃぃぃぃ」
ぞわぞわと鳥肌が立つのが分る。自分でも驚くような金切り声が喉の奥から絞り出された。
その突起物はラウラの背中を撫で回すように動き、粘膜を擦りつけていく。
もう限界だった。
「いやぁああああああ! いやぁあああああああ!」
力の限りラウラは叫んだ。
しかしその悲鳴は木々のざわめきと合わさり消えていった。
「誰かっ! 助けて! 助けてえええええ!」
ごつん。
ラウラは顔を地面にぶつけた。背中に居るそれがラウラの頭を押したのだ。
山の湿っぽい土が口の中に入る。
「んんーっ!!!」
顔を押されて呼吸が出来ない。ラウラはなんとか頭をずらせないかと試みた。しかし腕も足も動かせないのに首の力だけで敵うわけがなかった。
だんだんと息苦しくなる。ラウラには分かっていた。自分の背中に乗るそいつは、ラウラの窒息を狙っているのだ。
得体の知れないその存在は確かな知性を持っていた。
その時だった。
ごぉおおおん。ごぁおおおおん。
どこからか鐘の音が聞こえた。ひび割れた低い和音が長い余韻を持って響き渡る。
突然、ラウラを押さえつけていた重りが消えた。
ぶぅぅん。
名残惜しそうに羽音を立て、それは何処かへ飛び立った。
背中に感じていた重量も身体を拘束する力もあっさりと消えてしまった。
ラウラはしばらく動けなかった。うつ伏せに倒れたまま、顔を起こす事すらしなかった。
やがてゆっくりと顔を起こすと、その場に座り身体や服に付いた土を払い落とした。
「今のは・・・・・・まさかあれが?」
震える膝を躾ける等に抑えてつけてラウラは立ち上がる。
ラウラを襲った存在は跡形も無く姿を消していた。
正体はまるで分からず、実体は掴めない。ただ生命の危機だけを感じた。
「行かないと」
ラウラは自分に言い聞かせるように呟いた。
頭の中でガンガンと音が鳴っている。それは本能が鳴らす警鐘か、頭を打った影響か。
ラウラは後をちらりと見た。どこからか吹き込んだ風が落ち葉を攫っていた。生き物の気配は無い。
そしてラウラは前を見た。出口は見えない。石畳の道はまだまだ続いていた。
「大丈夫……大丈夫・・・・・・私はお母さんに会うんだ」
よろよろとふらつく足でラウラは歩き出した。その歩みが走りに変わるまで時間は掛からなかった。
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