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六話 ドクダミの中のクローバー
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それからどうなったのか緑は覚えていない。気がつけば田んぼの畦道でわんわんと泣いていた。
何度も転んだようで制服は泥だらけになっている。
足も擦りむいて血が滲んでいる。
夕焼けは山の麓へ沈みつつあり夜が迫っていた。もう帰らなければ。しかし、緑は立ち上がる気力も残っていなかった。
「ねぇ君、大丈夫?」
声をかけてきたのは緑と同じ制服を来た少女だ。自転車を止めて降りると泣きじゃれる緑の背中をそっと摩った。
幼さの残るその面影に緑は覚えがった。
「……蛍原先輩?」
「月花でいいよ。緑ちゃん」
出会った時とは逆に座り込んでいる緑へ月花が目線を合わせる。
「どうしたのそんなに泥んこで。何かあったの?」
怪我をした子供をあやす母親のような口調で月花が言う。
「あ、あの、きょ……巨大な虫が」
巨大な虫が、友達を犯した。そう言おうとした緑だが続く言葉は出なかった。果たしてこれは言っても良いのだろうか。
愛はあの虫を受け入れていた。さも当然のように……。
なら、もしかして、この町は、この町の住民は。
最悪の予想が緑の脳裏に浮かんでいた。皮肉にもその予想は実の所的中していた。この町では虫は当たり前のように存在する日常だ。
だか、今はそれを知る必要はなかった。
月花は緑の不安を払拭するように微笑む。
「もう大丈夫だよ」
そう言うと月花はそれ以上何も言わずに緑を抱きしめた。
香水だろうか。優しくも甘いバニラの香りがふわりと舞う。
「もう大丈夫」その言葉を聞いた途端、緑はなんだか安心してしまった。今日は散々走って泣いた。疲れ果てた緑の瞼がゆっくりと閉じていく。
眠りに落ちる時、緑は月花の囁き声を聞いた。
「これからよろしくね緑ちゃん」
こちらこそ。
緑は夢の中で答えた。
目が覚めた時、辺りはもう暗くなっていた。虫とも鳥ともつかない鳴き声が遠くの方から聞こえる。
柔らかい感触が頭に触れて動いている。見上げると女の子の小さな手が緑の髪を撫でていた。
「先輩の手って小さいんですね」
「あれ? 結構平気?」
指の隙間から月花は白い歯を見せて笑うと、ぼぅとしてまだ寝ぼけている緑へ悪戯っぽい笑みを向けた。同じ笑みでもその性質が違う。
「寝心地はどーでしたかー」
「寝心地……?」
頬に感じる温もりが心地良い。柔らかなぬいぐるみのようないつまでも抱いていたいと思う触感。緑は無意識の内にそこへほっぺたをピッタリと付けていた。
目線を動かせばもちもちとした吸い付くような白い肌が見えた。
緑は月花の膝に頭を乗せていた。
「うわっえー! えっー!」
慌てて飛び起きた緑を月花はやはり笑った。
「あれ? 夜だ。なんで? えーと……?」
「慌てすぎだよ。もぅ」
「あの私? えっ?!」
緑が居るのは夜の公園で時計の針は七時を回っていた。どうやら緑は今の今までベンチで今まで寝ていたようだ。
月花の膝の上で。
カッーと音を立てて顔が熱くなるのが分かる。思わず顔を手で覆いたくなる。
「私なんでこんな事になってるんですか」
「緑ちゃんが急に寝ちゃうからだよ。そんなボロボロになった女の子放置できるわけ無いじゃん」
自分の身体を見回す。確かに泥だらけだ。身体中に擦り傷があるし足も痛かった。
でもなんで?
「覚えてないの?」
月花がキョトンとした顔で緑を見る。その瞬間、緑は月花にクラスメイトの面影を重ねた。
思い出したくも無い光景が怒涛の高波となってフラッシュバックする。
「私は……? 何を……見て?!」
路地裏。クラスメイトの愛。羽音。塵色の翅。巨大な蠅。交わる一人と一匹。喘ぐ愛。嬌声。肉の蠢く音。溢れる水音。あぁグロテスク。
緑は青ざめた。次々に思い浮かぶ記憶に頭を叩きつけられた。血の気が無くなるような思いに意識が遠ざかる。
目尻が熱を帯びて涙が溢れた。
「嫌……ッ!」
「大丈夫だよ緑ちゃん」
今にも叫び声を上げ、飛び上がろうとした緑を月花が抱きしめベンチに押し倒した。
「うわっ……えぇ?」
ぐっと月花の顔が近づいきた。
鼻と鼻が触れ合いそうな程近く、お互いの吐く息がかかる。
月花は緑の腰の上にちょこんと座り込んだ。そして依然として震えの止まらない緑の両手のそれぞれを握った。
月花の行動の意図を緑には良く分からなかった。何はともあれ緑が落ち着きを取り戻す事が出来たのは確かだ。
何より緑と月花の距離は数センチの隙間も無い。動けばぶつかってしまいそうで緑は黙るしかなかった。
「ここに虫神は居ない。だから大丈夫」
「虫神?」
月花は子供をあやしつけるような静かさで囁く。
「あいつらの事だよ。この町の土地神みたいなものかな」
「……神? 先輩はあれが何か知って?」
「うーん。まぁなんでもいいよ。あいつらの事なんて」
「え?」
「怖い思いしたよね緑ちゃん。初めて出逢っちゃんだよね」
月花の手が緑から離れて緑の頬をそっと撫でる。
「この町は緑ちゃんにとって怖いものが沢山ある。だから……」
そこで月花は言葉を止めた。
「違うな、これじゃなくて……」
「先輩?」
うーん。と月花が難しい顔をして唸る。
「ねぇ緑ちゃん。私と……」
私と。そう言いかけて月花は再び口を閉ざした。月花の時が止まっていた。
月花の顔が真っ赤に染まっている。熟れたリンゴよりも赤い林檎飴の色。
「先輩?」
「あぁっと。ごめんごめん、押し倒したままだったよ」
月花が慌てて緑の上から退くとベンチから降りた。ぽんぽんと服の埃を払うような仕草をした。
仕切り直して月花は緑へ向き直る。
「ねぇ緑ちゃん」
「はい」
「私と一緒に部活やろうよ。この町のこと教えてあげる」
そう言って月花は緑へ手を差し伸べた。
何度も転んだようで制服は泥だらけになっている。
足も擦りむいて血が滲んでいる。
夕焼けは山の麓へ沈みつつあり夜が迫っていた。もう帰らなければ。しかし、緑は立ち上がる気力も残っていなかった。
「ねぇ君、大丈夫?」
声をかけてきたのは緑と同じ制服を来た少女だ。自転車を止めて降りると泣きじゃれる緑の背中をそっと摩った。
幼さの残るその面影に緑は覚えがった。
「……蛍原先輩?」
「月花でいいよ。緑ちゃん」
出会った時とは逆に座り込んでいる緑へ月花が目線を合わせる。
「どうしたのそんなに泥んこで。何かあったの?」
怪我をした子供をあやす母親のような口調で月花が言う。
「あ、あの、きょ……巨大な虫が」
巨大な虫が、友達を犯した。そう言おうとした緑だが続く言葉は出なかった。果たしてこれは言っても良いのだろうか。
愛はあの虫を受け入れていた。さも当然のように……。
なら、もしかして、この町は、この町の住民は。
最悪の予想が緑の脳裏に浮かんでいた。皮肉にもその予想は実の所的中していた。この町では虫は当たり前のように存在する日常だ。
だか、今はそれを知る必要はなかった。
月花は緑の不安を払拭するように微笑む。
「もう大丈夫だよ」
そう言うと月花はそれ以上何も言わずに緑を抱きしめた。
香水だろうか。優しくも甘いバニラの香りがふわりと舞う。
「もう大丈夫」その言葉を聞いた途端、緑はなんだか安心してしまった。今日は散々走って泣いた。疲れ果てた緑の瞼がゆっくりと閉じていく。
眠りに落ちる時、緑は月花の囁き声を聞いた。
「これからよろしくね緑ちゃん」
こちらこそ。
緑は夢の中で答えた。
目が覚めた時、辺りはもう暗くなっていた。虫とも鳥ともつかない鳴き声が遠くの方から聞こえる。
柔らかい感触が頭に触れて動いている。見上げると女の子の小さな手が緑の髪を撫でていた。
「先輩の手って小さいんですね」
「あれ? 結構平気?」
指の隙間から月花は白い歯を見せて笑うと、ぼぅとしてまだ寝ぼけている緑へ悪戯っぽい笑みを向けた。同じ笑みでもその性質が違う。
「寝心地はどーでしたかー」
「寝心地……?」
頬に感じる温もりが心地良い。柔らかなぬいぐるみのようないつまでも抱いていたいと思う触感。緑は無意識の内にそこへほっぺたをピッタリと付けていた。
目線を動かせばもちもちとした吸い付くような白い肌が見えた。
緑は月花の膝に頭を乗せていた。
「うわっえー! えっー!」
慌てて飛び起きた緑を月花はやはり笑った。
「あれ? 夜だ。なんで? えーと……?」
「慌てすぎだよ。もぅ」
「あの私? えっ?!」
緑が居るのは夜の公園で時計の針は七時を回っていた。どうやら緑は今の今までベンチで今まで寝ていたようだ。
月花の膝の上で。
カッーと音を立てて顔が熱くなるのが分かる。思わず顔を手で覆いたくなる。
「私なんでこんな事になってるんですか」
「緑ちゃんが急に寝ちゃうからだよ。そんなボロボロになった女の子放置できるわけ無いじゃん」
自分の身体を見回す。確かに泥だらけだ。身体中に擦り傷があるし足も痛かった。
でもなんで?
「覚えてないの?」
月花がキョトンとした顔で緑を見る。その瞬間、緑は月花にクラスメイトの面影を重ねた。
思い出したくも無い光景が怒涛の高波となってフラッシュバックする。
「私は……? 何を……見て?!」
路地裏。クラスメイトの愛。羽音。塵色の翅。巨大な蠅。交わる一人と一匹。喘ぐ愛。嬌声。肉の蠢く音。溢れる水音。あぁグロテスク。
緑は青ざめた。次々に思い浮かぶ記憶に頭を叩きつけられた。血の気が無くなるような思いに意識が遠ざかる。
目尻が熱を帯びて涙が溢れた。
「嫌……ッ!」
「大丈夫だよ緑ちゃん」
今にも叫び声を上げ、飛び上がろうとした緑を月花が抱きしめベンチに押し倒した。
「うわっ……えぇ?」
ぐっと月花の顔が近づいきた。
鼻と鼻が触れ合いそうな程近く、お互いの吐く息がかかる。
月花は緑の腰の上にちょこんと座り込んだ。そして依然として震えの止まらない緑の両手のそれぞれを握った。
月花の行動の意図を緑には良く分からなかった。何はともあれ緑が落ち着きを取り戻す事が出来たのは確かだ。
何より緑と月花の距離は数センチの隙間も無い。動けばぶつかってしまいそうで緑は黙るしかなかった。
「ここに虫神は居ない。だから大丈夫」
「虫神?」
月花は子供をあやしつけるような静かさで囁く。
「あいつらの事だよ。この町の土地神みたいなものかな」
「……神? 先輩はあれが何か知って?」
「うーん。まぁなんでもいいよ。あいつらの事なんて」
「え?」
「怖い思いしたよね緑ちゃん。初めて出逢っちゃんだよね」
月花の手が緑から離れて緑の頬をそっと撫でる。
「この町は緑ちゃんにとって怖いものが沢山ある。だから……」
そこで月花は言葉を止めた。
「違うな、これじゃなくて……」
「先輩?」
うーん。と月花が難しい顔をして唸る。
「ねぇ緑ちゃん。私と……」
私と。そう言いかけて月花は再び口を閉ざした。月花の時が止まっていた。
月花の顔が真っ赤に染まっている。熟れたリンゴよりも赤い林檎飴の色。
「先輩?」
「あぁっと。ごめんごめん、押し倒したままだったよ」
月花が慌てて緑の上から退くとベンチから降りた。ぽんぽんと服の埃を払うような仕草をした。
仕切り直して月花は緑へ向き直る。
「ねぇ緑ちゃん」
「はい」
「私と一緒に部活やろうよ。この町のこと教えてあげる」
そう言って月花は緑へ手を差し伸べた。
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