百合蜜ヲ啜ル。

黄金稚魚

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八話 中虫壁診療所

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 月花が目的の場所に辿り着いた頃には六時を過ぎていた。

 中虫壁診療所。

 ここは医者が一人と看護師が二人居るだけの小さな診療所で、町に二つある病院の一つだ。
 中虫壁診療所は二階建てのこじんまりとした診療所だが内科、外科それぞれに幅広く対応でき、町では重宝されている。
 しかし大抵の場合は町にある大きい方、つまり町立の病院の方が勝手がいい。
 それでもこの診療所が重宝されている理由は診療所が持つ別の側面が大きく影響している。

 
 診療所の二階には部屋数こそ少ないものの、入院用のベッドがある。スタッフの少なさもあり、面会時間は五時半までとなっている。
 つまり月花が来た時にはもう面会時間は過ぎていた。
 
 月花は手続きもせずに忍び込むように二階へと上がった。
 
 
「あ……」
「こんにちわ」

 階段の踊り場で月花はばったりと出くわした。
 月花と同じ制服を着ていてスカーフの色から二年生だと分かる。その少女は黒髪のポニーテイルを陽気に揺らしお辞儀した。

「確か……間藤さんだったよね。緑ちゃんのクラスメイトの」
「はい間藤愛です」
「奇遇だね、こんな所で」

 あははと愛想笑いで応じる月花。愛は俯き気味で、窓から差し込む夕日を受けても尚、その表示は暗い。

 一つ下の学年の生徒。それだけで月花と愛の接点は殆どない。だが普段の愛を知らない月花でも機嫌が宜しくない事は分かった。
 なんだか嫌な予感がした緑はそそくさと立ち去ろうとした。


「蛍原先輩ですよね。緑の事隠してたのは」

 すれ違う月花に愛はそう言って呼び止めた。顔を上げた愛が責めるような目で月花を見ている。

「ははは、バレてるか」
「クラスから連絡あって、今日初めて知りました。夏休み中ずっとですか?」
「うん。まぁでもね。しょうがないんだよ緑ちゃん、人に会える状態じゃなかったし」
「でも、私達は友達ですよ……」
「ごめん」

 二人の間に沈黙が流れる。愛は罰が悪そうに頬を掻いた。

「すみません。失礼な事言っちゃいましたね」
「そうでもないよ。悪いのは私だよ」
「それに、蛍原先輩が危惧してたように私が行くのは逆効果だったかもしれないです」
「緑ちゃんどうだった?何か話した?」
「………」

 愛が目を伏せた。言葉に詰まっている。

「あんまり良くない感じ?」
「いえ。でも怖がられちゃいました」

 月花は緑を通して愛の事を聞いていた。

 間藤愛。彼女は緑が初めて虫神を目撃した直接の原因。緑のトラウマという訳だが、その日からは数ヶ月の月日が経過している。
 緑の口からは無事和解出来たと月花は聞いていた。嘘や強がりでは無いだろう。
 直接の面識は殆ど無かったが、こうして少し話してみても悪意を持って近づいてくるような性格では無いのだろう月花は思った。

 和解後の緑と愛の関係は良好なものだったのだろう。
 しかし、今の緑には……。
 

「ところでだけど、お見舞いは間藤さんだけ?他の子達は?」
「私だけです。急な話ですし学校終わってからだと間に合わないので後日改めてという事になりました。私は偶々診察の予定があったで先に会わせて貰いました」

 そう言って愛は自分お腹をいとおしそうに撫でた。
 そうする事で愛の暗い表情が薄れ、口元には笑みが浮かぶ。

 制服の上からでは分かりにくいが良く見ると愛のお腹は少し膨らんでいる。そこでは小さな生命がはぐくまれていた。
 人間のものではないのだろうが……。


 中虫壁診療所の最も主な側面の一つは産婦人科だ。
 人間の、では無い。虫神と人の間に出来た子供もまた虫神となる。
 虫神の出産にはそれ相応の設備と手順が必要だ。
 出産だけでは無い。通常の病院では対処不能な虫神との虫継によって発生するありとあらゆる症状、疾患に対応する事が出来る。
 この中虫壁診療所は虫神に纏わる事象の駆け込み寺のような存在であった。


「診察かぁ……確か間藤さん二度目なんだっけ?」
「そうですよ」
「全然話し変わるしお節介かもだけどいいかな?」

 月花は自分でも余計な事と分かっていてもつい口に出してしまった。

「なんでしょうか?」
「個人の勝手だとは思うけど、ペースが速すぎると思うよ。幾らの場合よりかは負担が軽いとはいえ、全然平気って訳じゃない。私もだけど……まだ中学生なんだしさ身体は大事にした方がいいよ」

 かなり個人の領分に踏み込んだ話だ。
 お節介だと分かっている以上、喋っている最中に愛の顔を見るのはなんだが気まずく月花は喋り終わってからちらりと愛の方を見た。

 肝心の愛は呆気に取られたような顔をしていた。
 まずかったのかまずくないのか。月花は判断に困った。

「蛍原先輩……」
「あぁごめん。これは私の勝手な意見だから。間藤さんの好きなようにやればいいと思うよ」
「いえ、ありがとうございます。……でも蛍原先輩にそう言われるとは思わなかったので、少し驚きました」
「そう?」
「私も頭では理解しているんですが、どうしても欲しくなっちゃうんですよ」

 愛はもう一度ぺこりと頭を下げて階段を一歩降りた。

「そろそろ時間なので私は行きますね」
「帰るの?」
「いえ。これから診察なんです」
「ならさ、ついでにちょっとお願いしていい?」
「はい。なんでしょうか」
「私さこれからいちゃいちゃする予定だから、ね?」

 そう言って月花は愛にウィンクする。

「時間稼ぎよろしくね」



 

 愛と別れた後、面会時間を過ぎた二階の廊下は静まり返っていた。
 ここが病院だと言う事を差し置いてもあまりにも静かで人の気配を感じられない。果たして患者は居るのだろうかと、そう思ってしまう程にだ。

 チクタクと壁に掛けられた時計の針の進む音が響いて聞こえる。

 一番奥の病室の前に立つ。
 ネームプレートには『水城緑』と書かれている。
 月花は深呼吸するように一呼吸置いてから病室の扉を開けた。

 病室は個室だ。白いベットの上には上半身を起こして座る緑の姿があった。緑は何をするでもなくただ俯いている。
 ただ、片方の手で顔の左半分を覆うように触れていた。
 

「緑ちゃん」

 小さく呟いた月花の言葉は果たして緑に届いたのだろうか。
 頭をゆらりと揺らして緑は気だるげに此方へ向いた。その目には果たして月花を見ているのだろうか。扉が開くその音に反応しただけのように思えた。

 右の眼窩に納められた失ったビー玉みたいな瞳が月花の姿を写した。
 そんなに目をくすませて、何が見えるのだろうか。

 洞。
 まさにその表情は底なしの闇を連想させる洞だ。

 目だけでは無い、表情筋は緩みだらしなく口が半開きになっている。それは大型犬のような凜々しくも愛らしかった緑には似ても似つかぬ表情だ。
 
 起きていても尚、朦朧とする意識の現れ。
 

 ーーーあぁ痛ましい。

 左目に触れていた緑の手が力なく降ろされ、それが露わになる。
 鉄仕掛けの眼帯が緑の左目を覆っていた。
 その下に穿たれた孔を隠すために。



 一ヶ月前、水城緑は目隠亜蔵に襲われた。
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