37 / 42
赤子
遭遇
しおりを挟む『赤子を産んだ。私の私だけの赤ちゃん。今だけは』
それが最後の記述だった。暫くパラパラページを捲ったが残りは全て白紙だ。
その文だけ筆跡はやけに整っている。日記全体を見ても浮いていた。
何かを伝えようとする意思を感じる。
『緑の赤子を見た』から始まるこの日記は全体的に要領を得ないものだった。
精神的に不安定になりつつあった彼女は正気の内に何かを残そうとしたようだ。
しかし結果的に言えば、この日記に記された情報はマトモな思考をした者なら信じるに値しないような非現実的なものだった。
誇大妄想と言ってもいい。
「これは本物だ」
独りごちに呟き、私は日記帳を閉じた。
とある田舎の長屋。足の短いテーブルが置かれた形だけの客間。
私はここにもう一週間も通っている。もちろん取材のためだ。
異常姦見聞録。今回のエピソードは『緑の赤子』と評される怪異に取り憑かれた女の悲劇譚だ。
女の名前は樋口成美。ごく普通のOLであったが、ある日から『緑の赤子』を目にするようになったという。
自分だけにしか見えない不吉な赤子。『緑の赤子』が現れるたびに周囲の人間が死ぬ。
初めて聞く怪異だった。
「ご理解頂けましたでしょうか」
「えぇ。不明瞭な点が多いですが、記事に使うには十分すぎるほどです」
私の目の前では一人の老婦人が座っている。樋口成美の実母だ。
「日記はこれで全てですか?」
私が尋ねると老婦人は申し訳なさそうに頷いた。目の下に濃く刻まれた隈。心労を重ねてきたのだと窺い知れる。
「すぐに火事が起きてしまいまして、あの子のものは殆ど燃えてしまいました」
「そうでしたか」
「いいんですよ。私には何も出来ないんです。貴方に知っていただく方があの子の為になると思います。だからどんなことでもお応えします」
「………」
樋口成美の実母は私の取材に協力的だった。
私は取材の前に誤解を与えぬよう私の肩書きや掲載する雑誌の特色を包み隠さず伝えている。
雑誌が雑誌なのだから当然だが、多くの場合、軽蔑近い眼差しが私に向けられる。
女性の場合は特にだ。
だがこの老婦人は私が名乗り、用件を伝えた途端、私の事を歓迎し自分から話し始めてくれた。
娘に起きた不条理な災い。娘から直接聞いたという事だが、老婦人はことの始まりから顛末までを詳細に語ってみせた。
そして娘の残したこの日記帳。唯一の物証と言えるだろう代物だ。私はこれを自由に閲覧でき、質問があればその場で聞くことができた。
私は時間をかけてその中身を解読した。
成果は十分だった。
だが、順調すぎるというのもどこか落ち着かないものだ。何か漠然とした違和感のようなものが思考の奥に引っかかっている。
日記帳の解読に勤めている間もそれは消えず、むしろ不安となって私の中に積み重なっていった。
だからというべきか、日記帳を読み終えた今日。私は取材をここで切り上げることとした。取材に必要な資料はそれはもう十分集まっていた。それこそ日記帳など無くとも老婦人の証言だけで記事になる程にだ。
潮時だろう。
私が老婦人に礼を言うと老婦人は私を引き止めようとした。娘の事を話せる人間が他にいないとかそんな理由だった。
私はそれを出来るだけ柔らかい言葉で断り、速やかに玄関へと足を運んだ。
「そう言えば一つ言いそびれた事があるんです」
別れ際に老婦人は突然そう切り出した。
「あの子は精神病院に通わせていたのですがつい先日、抜け出してしまったようなんです」
「抜け出した?」
他人事のように老婦人は言う。
精神病院にいる事は聞いていた。場所の調べもついていたが、面会は許可されなかった。場所は遠く県を跨いだ先にあり、厳重で大きな病院だった。
少なくとも患者の脱走を容易く許すような場所ではない。
「いつからですか?」
「つい一週間前です」
昼間は取材で長屋に通っていた。この一週間、病院関係の来客どころか電話が鳴ることすらなかった。
「家には戻っていないんですね」
「はい」
「そうですか………」
老婦人は柔かに微笑んでいた。
背筋にゾッとするものを感じた私はそれ以上、深入りしないよう話を切り上げた。
私がいよいよ帰ろうとすると、老婦人は少し間を置いてからペコリと頭を下げた。
「もしあの子と会ったら、その時はお願いしますね」
「申し訳ないですが、私には何も出来ませんよ」
私は最後にもう一度、老婦人に礼を言って長屋を後にした。
取材を終えた私はその足で事務所のある街へと戻ってきた。これからレポートをまとめなければならない。
初夏の日差しと蒸すような湿気は日本中のどこにいても変わらない。
交差点の信号を待ちながら、タクシーを使わなかった事に私は後悔を覚えていた。
今回の取材はタクシーもなければ飲食店の一つもない田舎だった。それも一週間と私の取材としては長期の部類だ。
そのせいか交差点の人混みがやけに多く感じた。のどかな田舎で過ごした弊害だろう。行き交う人々の喧騒な雑音はどこか急かされているような気さえ感じた。
「ねぇそこの君、ちょっと見てくれない?」
急に声をかけられ、私は思わずそちらを振り向いてしまった。
振り向いてからふと、私は違和感を覚えた。この町のど真ん中で自分が呼ばれたとなぜ分かったのだろうか。
私を呼んだのは知らない女だった。
白いワンピースに麦わら帽子と都会の風景からは浮いて見える。
呼ばれた事が私の勘違いでないことを証明するように女は私の方をまっすぐと向いていた。
しかし女の顔は見えない。麦わら帽子に隠されている。不気味な女だ。
女はベビーカーを押して私の元へ歩み寄ってきた。
「ねぇ? どう? 気になるでしょ?」
女の異様な迫力に押され、私は逃げる事が出来なかった。
交差点の先には車が絶えず流れている。信号は赤のままだ。
「ねぇ、私の……」
女が私の目の前で止まる。
「君もきっと気にいると思うの」
キュルキュルと金切声を出してベビーカーが押され私の膝に当たる。
女の病的細い手がベビーカーの日焼けを捲り上げた。
私は咄嗟に目を逸らした。見てはならない。直感だがそう感じだ。
ベビーカーの中からはきゃっちゃっと言う赤子が笑う声が消える。
目を逸らした先、背後に並ぶ服屋のショーウィンドウ。
ガラスに女の横顔が浮かんで見えた。
口元の両端があり得ないほど釣り上がっている。
笑っているのだろうか、それは狂気に満ちた不自然な表情で見るものを恐怖に竦ませるだけの威力があった。
だが、この顔に私は見覚えがあった。酷くやつれ人相が変わっているが、それでも分かる。
老婦人から何枚も拝見した写真を脳が記憶している。
この女は樋口成美だ。精神病院を抜け出し、私の前に現れた。
なんのために?
そこで私は思い出した。日記帳に書かれていた『事の発端』。緑の赤子は、街中で突然声をかけてきた二人組に見せられたのだ。
なら、このベビーカーに乗っているものは。
「あなたは………」
その時、悲鳴のような猛々しい音が耳元すぐ近くで響いた。
道路を走っていた一台のバイクが突如横転し、女とベビーカーを巻き込んで後ろのショーケースに突っ込んだのだ。
割れたガラスと土煙に人々の悲鳴。
悲劇の現場となった交差点。
気がつけば信号は青に変わっていた。私は逃げるようにその場を後にした。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
72
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる