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プロローグ

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 山を二つ越えた。
 あと、一つ山を越えれば、あの方の屋敷のある国についてしまう。

「もう少しですぞ、やえ殿」

 振り返った龍之介は私を励ましてきた。けれど、そなたの顔を見てしまったせいで元から重かった足取りがさらに重くなってきて、やがて動かなくなってしまった。龍之介は私の足音が付いてこなくなったのに気づき、再び振り返り、三間くらい広がった距離を小走りで一瞬で縮める。

「どうなさいました? もしや、足を痛めて・・・・・・」
「違います」
「では、お疲れか?」

 私を心配してくれる龍之介。
 けれど、違うでしょ。そなたが心配すべきことは。
 私は龍之介の胸に身体を預ける。

「なっ・・・・・・」

 動揺する龍之介。
 こうされたのが、初めてではないでしょうに。龍之介は両手を大きく広げて、いつしかの日のように私を抱きしめてはくれなかった。

「お戯れを・・・・・・」

 私の気持ちは知っているくせに。私はいけずな龍之介の言葉に返事をせずに、顔を彼の胸に埋める。着物からは彼の匂いがした。私が好きな彼の匂い。私が黙っていると、龍之介はようやく私の肩を掴んだ。

「おやめ・・・ください」

 私を優しく引きはがした龍之介の顔はとても困った顔をしていた。でも、そんな優しさでは私の気持ちは変わりませぬ。私は再度彼の胸に飛び込む。

「姫っ、姫様。これを右衛門様に近しい方に見られでもしたら、一大事ですぞっ」
「じゃあ、無理にでも引きはがせばいいでしょう」
「それは、無理な相談で」
「なら、私も無理な相談よ」

 彼が一歩下がれば、私は一歩半彼に近づき、彼が二歩下がれば、私は三歩彼の元へと進む。龍之介がどんなに私から逃げようと、私はそれ以上に龍之介へ近づく。そなたが武士として大事にしている忠義よりも、私のそなたへの愛の方が勝っているのだから。

「やえ・・・・・・姫様は、もう貴女様だけのお身体ではございませぬ。高坂家の右衛門様のお身体でもございます・・・」

 ひどいひと。 
 私は心臓を抉られたように胸が痛んだ。私の目からは涙が流れ、そんなひどいことを言う龍之介の胸を叩いた。けれど、龍之介も謝りも、言葉を発しもしなかったので、もう一度叩くが龍之介はされるがままになっていた。

「本当にひどいひと」
「・・・・・・」

 私は泣きじゃくった。
 龍之介を叩けば叩くほど、私自身の非力さを痛感した。

 私の家がもっと力があれば―――
 私にもっと力があれば―――

「あの日、外になどしなければ、良かった―――」

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